『ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』展


 アーティゾン美術館に収蔵されている名画と現在進行形で活躍している芸術家が交流する様子を創造の現場として体験する企画、ジャムセッションは過去に鴻池朋子さんの『ちゅうがえり』展や柴田敏雄さんと鈴木理策さんの『写真と絵画』展などが行われてきた。いずれの企画も各々の作品表現の良さや特徴が美術史に名を刻む絵画表現に呼応するようにして広がり、その発展というより揺るぎない表現行為の基本ないし素地を知らしめることで決して一直線に語り得ない表現行為ないし世界の内奥を経験できる素晴らしいものであった。
 現在開催中の『ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』展もその例に漏れないのだが、過去の企画内容と比較すると本展の場合は制作者の立場を前面に押し出した山口晃さんがその身をもって名画と向き合うという切り口のユニークさがあって、全体的に理屈っぽさが付き纏うも、そうしないと迫れない絵画の実相を詳らかにしていている点で他の展示会とはその趣を異にする。これがまた面白くて仕方なかった。
 例えば展示会のタイトルにある『サンサシオン』は感覚を意味するフランス語であるところ、かかるサンサシオンを手がかりに山口晃さんはセザンヌと雪舟の絵画表現を分析する。その内容は、確かに筆者を含めて絵画に関する知識又は経験を十分に持ち合わせていない人に向けられたものとはいえない。
 けれど、モーニング・ツーで『趣都』(現在、休載中)を連載するぐらいに漫画が描ける山口さんのイラスト入りで説かれるセザンヌの絵画は対象が描かれる過程を追体験するような工夫が施された表現であること、特に後期は対象自体を捏ねくり上げた結果として全体像が描かれていると評しても構わないぐらいの色面の作り方をしていて、それが奥行きある空間を生んでいる。また一方でセザンヌは永続的な色彩表現を実現するために視線移動を数多く行い、一点集中で色味がぼやけるのを積極的に回避した。その為に生まれる視差が後世に評価される画家特有の歪みを生んでいる、その証拠にかかる歪みは近景に多く発見できるなどといった微に入り細を穿つ見解が惜しげもなく披露されていて、不思議と頭に入ってくる。
 あるいは雪舟の水墨画について、前提として鑑賞体験一般を言葉、特に精神性に富んだ抽象的表現で語ることへの疑義を呈しながらもそう言わざるを得ない体験水準について興味深い箇条書きを並べる。
 山口さん曰く、筆舌に尽くし難い運筆のリズムに駆られて迫力ある風景にまで高められた「自然」の声は小さい。調墨の技法から始まる濃淡の世界は色彩を抑えた分だけ鑑賞者が感覚的な接近を試みなければならない。そのために水墨画の世界は外界を忠実に再現したもの、ではなく画面の向こうに在る独自の世界を表すものとして見えるように今までの意識を変える必要はある。その一線を無事に越えれば、想像をひっくり返した肌実感として空間は迫り来る。それはとても怖い経験。私(たち)の全てが変わる。
 余白の芸術とも耳にする水墨画の凄さは対象を描く線が力強く排除し又はその内側に宿す白線の程度ないし具合によるのでないか、と東京ステーションギャラリ―で『河鍋暁斎の底力』を鑑賞した時に当たりをつけたことがある。というのも、ある山水図を画面いっぱいに近付いて仔細に鑑賞した時に離れて見た全体像がとても生き生きとして目に飛び込んできたからだ。勿論、その実際は鑑賞する山水画の線描に目がすっかり慣れて全体像の明度が増したという物理的現象に過ぎないのだろうが、それでも目の前の一枚に覚えてしまう感動の度合いはまるで違った。余白がぐるんと蠢いて、生々しさすら想像できるぐらいに違ったのだ。
 かかる筆者の体験がプロの画家である山口晃さんのそれと同じだとは決して思わない。思わないけれど、単なる虚偽だと片付ける気はまるでない。なぜなら身体というツールを使って知れる人間の世界は、個々人の言語運動を通じて感覚的に広がり、感情的に記憶される。その真実性は個々それぞれのものであっていい。要は無闇にそれを盲信したり又は懐疑の無限後退に陥らないようにすること、それさえ守ることができたなら誰かの言葉に閃きを得てより一層面白い「世界」を楽しめる。その恐ろしさにも正しく言及できる。それが鑑賞体験の醍醐味、筆者は今もそう信じている。
 人の意味認識の大切さを山口晃さんが意識しているのは、本展でその原画を鑑賞できる前記『趣都』の日本橋の回を読んで見て分かる。日本橋の上に掛かった首都高に貼り付けられた景観破壊のレッテルを巡り展開される論は、ニーチェのパースペクティブな知見をも窺がわせて成程!っと膝を打つ結末を迎える。モーニング・ツーで掲載されていた電線についての回もそうだったが、画家ならではの視界が写し取る美的風景に意味認識の梃子が加わり、どんどんと情緒が溢れていく様は快感を伴って忘れられなくなる。「檻の中に閉じ込められた気分にさせるのも言葉なら、飛べないはずの場所にまで心羽ばたかせるのも言葉である」。そんな単純な事実に足を引っ掛けられるのが凄く堪らなくて、日頃の観察にも気合が入ってしまう。
 要は見るものであり、また知るものでもある絵画は人間の「世界」と無関係ではいられない。思い返せば、山口晃さんが描かれる洛中洛外図の如き飛躍を得て生き生きと広がる都市風景の細密画も丸みを帯びた私たち人間の視界で迫ったり又は眺めたりしてこそ、その生命力を直に感じ取れる。描かれたその世界で妥当する合理又は不合理の摩訶不思議な整合性が観る側の論理に忍び込み、その頭の中をひっ掻き回しては慣れ親しんだ風景の顔を見せ、各々の心象を豊かに騒がせる。本展に飾られた「善光寺御開帳遠景圖」の近くにあった「サンサシオン」の虚像も、また各展示スペースを区切るパーテーションの形や、不自然な場所に置かれた座り心地のいい椅子から眺められる不可思議な光景もセカイとして見ればとても了解できる。
 いや、そもそも最初っからそうだったのだ。本展を来場する私(たち)は頭でっかちの日常を揺さぶられて始まった。何のことはない、全ては山口晃という画家の手の平の上。なら何も恐れず、何も迷わずに何もかもを楽しめばいい。
 それをこそ創造と言わずして何と言う。この一文に最も相応しい山口晃の『ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』展を胸を張ってお勧めする。興味がある方は是非、アーティゾン美術館へ足を向けて欲しい。

『ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』展

『ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-09-23

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