「紫陽花の月と射干」
一
雨ノ町、凍月降らす氷雨の町、汝は何を言ふものぞ。明日の夕立待つ木陰の射干は、叢時雨が名残白い霧に何を魅入る、示し合わせた答え合わせなど奥の瞳には無いものを。然れども搖るがぬその瞳、太陽の降らす雨ではなく月のもたらす其を空に待つか、罅割れたビイ玉硝子の透明なことよ、鏡よりも性質の悪く恐ろしい。
それでもまあ、おもしろい。
うつくしい街を見た、うつくしい空を見た。心は如何してもくいくい惹かれ、紫陽花の神さまに雨を願った。どうかあの街を空の下、歩かせてくださいませ、夕立の時だけで勿体無い程の時間です、どうか一度歩かせてください。
輩共が羨ましいと?
輩だなどと仰有らないで。あの子達は優しすぎるだけなのです。
あれを優しさとなぞるか。
でなければ何だと言うのです?あの街をあの空を生むものが優しさでなければ何なのです?
雨音は小止み、霧が這い寄る。
ならば歩いてみたがいゝ。……おまえに傘はいらんだろう。
二
長く蒼白い総髪に、瞳はぱっちりと木の実の滴りのように潤みその輝きをふさふさと濃くこまやかな睫毛が覆うも、唇のうつくしさは誤魔化せない。涼しい眦はほの淡い両頬と蕩け恵みの雫も眩いばかり、こぼれる声は無いものゝ、歩くだけならば困りはせぬ、歌うことも出来まいが夕立の遠雷の中ではかき消えよう。
しとり、しとり。
人の隠れた街を歩くは射干だけで、白瑪瑙の潵も汚れぬ素足には心地いい。せっかくのうつくしい雨と街なのに、こういう時外へ出ないのは勿体無い、どうしてこの景色を望まないのであろう?ふむ、と首を傾げるは、マカロンを初めて見た乙女の其と変わらない、男にしては短く娘にしては長い丈のワンピイスも相俟って甘い幼さ不思議の瞳、それでもやっぱり歩いていく。
さて此を女と見るか男と見るか、それはならず者共のやくざな仕事である。見慣れぬ風貌のをとめ一人、傘も有らずに呑気にと下卑た舌舐めずりで企んだ、あの細腕捻ってしまえば懐の出刃をギラつかせれば柔順に言う事を聞くだろう…従わせよう、と不埒な下衆腹どもに殴りを入れた拳がある。
たちまち翻筋斗打ってほうぼうの体で逃げ去った。その騒ぎも空仰ぐ微笑みには届いているまい、下衆を追い払った妙齢の者は表情も無く射干を見つめる。
三
雨の日。その言葉は如何響くものであろう、何を震わせ叩くのだろう、この重みが何を抱かせてしまうと言うの。
人が人であるべきには、雨が降れば人は其を避けなくてはいけない。身体は脆く、一寸先を怖がるのも無理は無い。そして我が身を守ると次に表出するのは心である、少し、ゆとりが生まれるのだろう、将にその時、月が瞳を開く。
昔図書塔で読んだ物語がある。それは雨ふる日にしくしくと泣いて居た者の話であった。何故泣くの、と問いをかけてもその者は何も話さなかった。あゝ、心が置き去りにした肉体とは斯くも哀しいものなのか、物語とは何と切ないものだろうと、そう思ったのが丁度雨の日で。冷たい時雨に心はひとり歩きして、それで悲しくって人は泣いてしまうのだろう、否、人にのみ限らず、自然も、天体も、紫陽花の身としては雫をもたらすことなど造作も無いが、太陽が降らす雨みたいに出来はしない…。
射干よ、おまえは月になれない。月の心を知ることもない。その瞳は空を仰ぐ、たゞそれだけでいいのだから。
終
「紫陽花の月と射干」