ついのすみか Ⅰ
投稿済みの10話までを1部にまとめました。
1 炊いたらごはんと言う
最近の若い子は、ごはんのことを『コメ』と言う。仕事場の二十歳のO君。素直で優しいが、
「コメ、よそって」
何度も気になっていた。ずっと黙っていたが、ついに言ってしまった。
「炊いたらごはんという」
隣のユニットの、30代の子供のいる男性さえ、焼肉屋に皆でいくと聞くそうだ。
「最後にコメ食べる?」
これは、ネットで調べたら結構あった。ごはんとは、食事のことを指す……とか。
昨日はイチイさんの食が進まなかった。確かにおいしくはないだろうが……
ごはんはユニットで炊く。コメを炊く、か。10人分。それを若い子は中高に盛る、ということを知らない。不味そうに盛る。
前にいた女性の職員は、30代でバツイチだとふれ回っていたが……茶碗も汁椀も箸もおかずも、右も左も前後もおかまいなし。たかだか短時間のパートの私はなるべく黙っていようと思い、黙り通した。
配られた認知症の年配者は無意識にだろうが位置を直す。
イチイさんは最初5階にいた。そこでは話せる相手もいないので、よかれと思ってうちのユニットに変更したのだ。ここには元気な口達者な、しっかりしたコデマリさんがいる。コデマリさんならイチイさんの話し相手になれるだろう。
それが間違いだったのだ。
間違いだった。イチイさんはコデマリさんがいるからと、リビングに出て来なくなった。食事も自分の部屋で取る。私はふたりの入浴の担当だ。このふたりは相手への不満をこの私にぶちまける。
が、ついのすみかをそうそう変えられはしない。
イチイさんは80歳前で、部屋にはいろいろな本がある。頭の体操、呆けないためのパズルの本、新聞も取っている。置いてある写真は何年か前の品の良い夫婦。豊かな生活をしていたのだろう。
「ジャンピングさせた紅茶が飲みたい」
テレビでやっていたらしいがここでは無理だ。ここではティーバックのぬるい紅茶。プラスチックの味気ないカップで。イチイさんは不満を言う。
「ごはんが柔らかすぎる」
(10人分炊くからね。ほとんどの人が義歯だから硬いのはダメなのだ)
「おかずが歯応えがない」
(茹ですぎだ。ほうれん草、ブロッコリー。トマトまでさっと湯通しし、皮をむいてある)
しまいには、
「バナナちょうだい」
預かり金で買ってあるバナナ。ごはんとおかずは残菜に。
イチイさんは花が好きだ。祭りの時に買ってきたシクラメンを2年目も咲かせた。黒いポット植えのままの、百円足らずで買った小さなシクラメン。肥料ももらえず水だけで、それは健気な花を咲かせた。イチイさんが手入れしたからではない。イチイさんの部屋は東向き。ガラス戸越しの窓辺の花にはちょうど良い条件だったのだ。イチイさんは喜んだ。その花に気づいた者がいただろうか? 万年人手不足で仕事に追われている職場で。
イチイさんはますますかたくなに。人と接しないから認知が進む。扱いにくいと思われる。プライドが高いと……。
コデマリさんは聞こえるように言う。
「お高い奥様。愛想のない人」
職員は陰口を言う。別の施設に移ればいい。もっと金のかかるところに入れてやればいい。
歳を取ればひとりでは生きられない。イチイさんはひとりで立ちあがろうとし、膝折れしうずくまった。職員は慌てた。バイタルチェックをしナースに報告する。
「自分が弱ってるのを自覚してほしい」
職員は嘆く。残り9人の食事はあとまわしに。
イチイさんの部屋には新聞紙の山が。自分で片付けるから、できるから、と強情だから山が増えて崩れる。車椅子の下に新聞紙が。
娘さんが送ってくれた花が枯れる。初めは素晴らしかったが枯れて臭気を放つ。
プライドを傷つけないように入浴させる。私は園芸が好きだから話が合う。イチイさんは詳しい。話が弾む。携帯の寄せ植えの写真を見せると褒めてくれる。
「いいわねえ、私もベランダで……」
と長話になる。褒めればいいのに。褒めれば暮らしやすくなるのに、苦手だとおっしゃる。
イチイさんはテレビでクラシックの番組を観るのが楽しみだ。娘さんがピアノを習っていた。私も観ている。ベートーベンのベストテンの話をした。1位はやっぱり、あれよね……。でも……私は、携帯で聴かせた。イチイさんが好きなブラームス。
イチイさんは、母の日に素敵なパープルのカーネーションを送ってきた娘さんに、不平は言えないだろう。心配させないように、耐えているのだ。娘のために。
この施設に入るまでに娘はどれほど苦労しただろう? 大勢の者が順番を待っている。ようやく入居できたのだ。ホッとしているはずだ。よそを探してくれ、とは言えない。イチイさんの1番の願いは、いくつになっても娘の幸せなのだ。娘に金輪際迷惑をかけることはできない。
学生時代ならばクラス替えもある。これから学生時代以上の年月が……
いや、コデマリさんはイチイさんより10歳上だった。
2 スカトロジー
スカトロってなに?
20代か30代、結婚して子供もいたけど無知な私。パソコンはなかった。
40代、ブティックで一緒に働いていた女性から漂ってきたにおいが、父のにおいに似ていた。まさか? 介護している父のにおいが鼻についているせいだ。
帰ってから調べた。パソコンは恥ずかしいことでも調べられる。
同様の意見はあった。香水なのか? 香水には○○○に含まれる成分のスカトールが使用されている。香水には○○○の成分を微量入れるんだ。嘘嘘。
入ったばかりの、専門の学校を出た女性が、においに耐えられず1日で辞めたそうだ。
隣のユニットの若いお嬢さんは慌てて洗面台に走った。
「アーン、唾が付いた」
このお嬢さんも辞めていった。
私は最初、周辺業務で入った。朝、7時から10時までの3時間。それを週3日。配膳、片付け、洗濯、掃除、シーツ交換。フロアの見守り。
朝食のあと、順番に排泄介助をする。早番の職員さんがひとりで10人を。私はその間見守る。なにもできないが。
「おねえさん、うん○」
男性は叫んだ。私には無理だ。
職員はひとりの部屋に入ったきりだ。この間も、別の女性に
「おねえさん、オシッコ」
と言われ、伝えにいったが、
「次の次の次です」
と言われ無視した。車椅子の女性をどうすることもできなかった。今回の男性は歩ける。支えれば。
「おねえさん。もっちゃう」
この方が豹変した。こんなばあさんを手招きした。そばへ行くと卑猥な言葉。手を取り持っていこうとする。若いお嬢さんは、いやだろうな。
入浴介助していた女性はキッパリ言った。
「そういう仕事ではありません」
この方には、お嬢さんと親戚が4人でよく面会にいらした。私は茶を出した。言わなくていいことは言わない。知らされたら辛いだろう。長寿は残酷だ。
クスノキさんがトイレを汚した。杖をついて自分でトイレへ行けるが、90歳を過ぎている。この方は食事を摂らない。食べるのは息子さんが買ってくるコーヒー牛乳と甘い煎餅。食べたい時間に部屋から出てきて杖で床を叩く。
私はコーヒー牛乳と煎餅を2枚出す。食べると杖をついて部屋に戻りベッドに横になる。朝食のパンはジャムをたくさん塗ると、ほんの少し召しあがるときもあった。おかずと味噌汁は手をつけない。それでいて悪いところはなかった。
入居者はほとんど便秘だ。2日、3日、4日、はい、薬をなん滴。はい、浣腸……。
そのときのトイレはホラー映画のようだった。職員はクスノキさんの着替えを。私はトイレ掃除を頼まれた。床と壁の3面に散らばっている……。どうすればこんな惨状になるのだ? ホラー映画のようなトイレの汚れは恐ろしい血ではないが。
時間をかけて掃除をした。最低賃金より少しばかり高い時給。この労働の対価は?
介護現場は過酷だ。じきに私は勤務時間を増やした。施設では資格がなくても身体介護ができる。私は周辺業務から介護職になった。
当時私が排泄介助、入浴介助していたのは立位が取れる人たちだった。その方たちもやがて進行しリフト浴に。亡くなった方も少なくない。
明るくて褒め上手な方がいた。仕事なのに、その方の介助は楽しかった。私のことを褒めた。
「ピンクが似合うね」
「足がきれいだね」
入浴の時は短パンにTシャツ。そんな私を褒めてくれる。
「若い、若い」
(あなたに比べればね)
ここに勤めて最初に教わったサイボーズの見方、iPadの記録の仕方。教えてくれた40代の男性は私の方を1度も見なかった。一緒に教わった若い女性の方ばかり見ていた。私は空気か? ばあさんは怒りはしない。そんなものだと思っていたが……。
夫には言った。そういうときは、ばあさんの方も向いて話さなきゃダメだよ、と。ばあさんはおだてればいくらでも働く。
入居者は私のことを『おねえさん』と呼ぶ。ときには『お嬢さん』
70歳前で半身不随のネコヤナギさん。言葉は不明瞭だが明るい。朝食後のトイレが間に合わなかった。わからなかった私は普段通り下着を下ろした。まだ、教わったばかり、不慣れな私のズボンに大きなそれが転がり、靴の上に落下した。
前述の若い娘とは違う。私は平静を装い、靴の上のそれを始末した。
「ごめんね、慣れてなくて。すぐきれいにするからね」
本来は敬語を使わなければならないのだが、ばあさんはつい出てしまうのだ。
「しょうもねえ」
そんな言葉をネコヤナギさんは言った。この方の言葉で理解できるのは、『バカヤロー、どいつもこいつも、そんなもんだ』
長い時間をかけきれいにし、着替えをさせ、ようやく私は自分のズボンと靴を履き替えた。次回からは要領よくやらなければ。
ヒイラギさんのシーツ交換に入ったとき、においがした。窓を全開して作業したが、数十分後まだ臭気が。ヒイラギさんはタンスの中に使用済みのパットを入れる。探したが見当たらなかった。私は布の袋を確認した。この方はいつも帰り支度をしている。袋の中には何着かの服、靴下、その下にビニール袋が。開けて、それを広げて私は廊下に走った。マスクをしていたが、なお時間の経ったその臭気はすさまじかった。
「どうしたんですか?」
O君が聞いた。
入浴介助のときに、湯船の中で出してしまう方もいる。私は一般浴担当なので滅多にない。1度だけあった。湯船の中で2回、3回。本人は気持ちよさそうだが、その方は浴槽から出るのが大変なのだ。私が湯船の中に片足を入れないと支えられないときも……。
隣のリフト浴ではよくあることだ。臭気が漂ってくる。そのたびに浴槽を洗い湯を入れ替える。大変だと思う。隣の担当もパート職員。資格はあるが時給はたいして変わらない。
そんな話をすると娘は怒る。
「おかあさん、その話ばかりだよ」
この娘は、将来介助してくれるだろうか? 飼っている犬や孫の排泄のあとは神経質なくらいきれいにしているが、果たしてやってくれるだろうか? いや、そうなる前には逝きたいものだ。
3 お迎え
少女マンガの素敵なセリフ。
「私だけを一生涯愛しぬくと誓うか?」
「千の誓いがいるのか? 万の誓いがほしいのか?」
(一生涯が長すぎて…………)
男性職員泣かせのカリンさん。慣れてくれるまでに時間がかかる。スキンヘッドのMさんはかわいそうだった。トイレで怒鳴られ靴を振り上げられた。それでも慣れてもらわなければ困る。高校を卒業してバイトで入ったO君はカリンさんの洗礼を受けずに済んだ。まだ少年だった。ピュアだった。できるのか? この子が? 仕事はさておき、O君は入居者にかわいがられた。偏屈なミモザさんまで、自分の甥と思い込み、坊や、坊や、と呼んだ。90歳過ぎた女性蔑視の男性には、若旦那と呼ばれた。
仕事は……、徐々に覚えていけばいい。が、遅刻はダメだ。ダメな遅刻をひと月に3回した。夜更かしに慣れている若い子が、朝7時前に来ていなければならない。皆、この子は続かないだろうと思った。教えていた若いリーダーはイライラしていたが、
「育てなきゃ、ね」
私の言葉をどう受け取っただろうか? そのリーダーは今はいない。
見込み違い、嬉しい見込み違い。正社員になり、半年するとO君は独り立ちした。他の人より少し時間がかかったが、見事に私の期待を裏切ってくれた。ばあさんは、O君が声を荒げるのを聞いたことがない。O君はユニットに馴染んでいた。
高校を卒業したばかりの男子が高齢とはいえ、女性の排泄介助をするのだ。陰部洗浄もするのだ。逆もあるが。うら若き乙女が……。便秘が続けばマッサージをして出してあげる。恐れ入る。
カリンさんのご主人が亡くなった。コロナ禍で面会もできなかった。それまでは毎日会いに来ていた。ご主人も相当なお年だろう。カリンさんの車椅子を補助車にして歩いてきた。寒い日も酷暑の日でも。歩いてたどり着けば疲れて奥様のベッドで横になる。奥様より先には逝けない、とおっしゃっていたのに。
カリンさんはもはや旦那様だとは思っていない。
「かわいそうなおじいさんに部屋を貸してるの」
長寿は残酷だ。共に生きた連れ合いを看取ることもできず、知らされもせず。なお生きる。妄想が悩ます。泥棒が全部持っていった。焼夷弾が足に刺さった。頭に塩酸をかけられた……。
同じユニットの男性を旦那様と思い込み怒られる。部屋に入ろうとして怒鳴られる。バカヤロー、と。
負けてはいない。100歳近いが口は達者だ。
「バカって言ったほうがバカなんだ」
おっしゃるとおり。
この方は適当に誤魔化せない。じっと目を覗き込んでくる。話を聞くと泣く。
「世話になるばかりで何もできない」
声を出して泣く。感情失禁。寝ない。寝てくれない。廊下のずっと向こうに踏ん張り、てこでも動かない。死んでもいいの! と叫ぶ。
カリンさん次第だ。その日の仕事がたいへんかどうかは。朝、出勤すると廊下に出ている。
「警察署、行かなきゃ」
「学校、行かなきゃ」
「おかあさんが、死にそうなの」
四六時中トイレへ行く。忙しい時にトイレに行く。出やしないのに。お年なのに自分で車椅子から移動しようとする。何度も尻餅をついている。だからトイレは苦心して工夫して、ナースコールが鳴るようにしてある。が、それをはずしてしまう。
パートが休みの日、職員は10人をひとりでみているのだ。夜勤は20人を。なにかあっても、時の不運……、では済まないが。
時々、『保護されるべきものではない』と思ってしまう。不謹慎だが、口には出さないが。
「カリンさん、どうしましたか?」
O君は優しい。なぜ、いやな顔をしない? O君がここに来てから2年、担当だったリーダーは辞めた。助言してくれていたMさんも、次のリーダーも辞めていった。Uさんも今月いっぱい。
残ったのはこの私だけだ。このばあさんは疑問に思う。
カリンさんたちに、年間どれほどの介護保険が使われるのだろう? ばあさんのパートの収入よりもはるかに多い。O君の年収よりもね。莫大な金額が使われていく。それを何年? すでに5年。さらに……
「お迎えが来ない」
と嘆く。私も共に祈ろう。はやく迎えに来てあげて、と。決して口には出さないが。
一生涯が長すぎて……。
4 身内
子供の幼い寝顔を見ながら、思ったものだ。
「絶対に死ねない」
やがて思うのだろうか?
「早く死んであげなきゃ」
若い女性の職員は言う。
「結婚しませんから。年金、当てにしてませんから。貯金してますから」
夏休みも正月休みもない。パートは休むから余計大変だ。超勤あたりまえの職員の年収は女性にしては多い。いつか気が変わるような男性が現れるだろうか?
働き始めて5年が過ぎた。私も歳をとった。週に20時間働いている。立ち仕事だ。座るのは食事介助の十数分。あとはiPadに記録する数分だけ。忙しいとトイレに行く暇もない。かつてこんなに働いたことはない。
入居者の5年は激変だ。ユニット10人のうち7人が亡くなった。ハマナスさんは看取り状態と言われてから長い。高栄養のプリンのような食事と、水分代わりのゼリー。口から食べているのが奇跡と言われて数ヵ月。日に3度起こし皆と一緒に食事させる。
ハマナスさんは裕次郎が好きで、もう長くないだろうからと、私は裕ちゃんのCDと使っていないプレイヤーを寄付した。しかし、家族は部屋の、月、数百円かかる電気代を、入居のときに契約しなかった。だから電気は使えない。CDはかけてはいけない。部屋では電池を入れたラジオを流している。
ツゲさんは、胃瘻にするために入院中だ。入居のときは胃瘻は拒否していたが……いざ、口から食べることができなくなると、家族はそのまま逝かせることを選ばない。
食べられないから死ぬのか?
死ぬから食べなくなるのか?
ツゲさんがもう少し元気なときのことだ。ツゲさんは髪の量が多い。羨ましいくらいだ。前髪が伸びる。目に掛かる。目をふさぐ。素直な髪は分けても戻る。気になってしょうがない。職員に言えば、
「家族になにか持ってきてもらいましょうか」
悠長に構えている。実行されない。家族は理美容も申し込まない。
私は家にあったプラスチックの髪留めを持っていき、食事の時だけ前髪を分けて留めた。
普段は食事さえ人任せ、手を動かすこともないツゲさんが、翌日髪飾りを食べた。ガリガリと。ツゲさんには自歯がある。職員が手袋をして、取れるだけ取ったが、見事に粉々に噛み砕かれていた。しばらくは便の観察だ。
休み明けに知らされて驚いた。謝った。勝手に持ってきたことを。お咎めはなかったが。職員は家族にも電話を入れてくれ、ツゲさんの髪はカットされた。
2度と、2度と余計なことはすまい。たとえ目が塞がろうが、なにがどうしようが……
若い女性の職員はいう。
「口から食べられなくなったら胃瘻は拒否する。ゼリー食さえいやだ、と。ましてや、他人に尻を……その前に死にたい、と」
しかし、私は90過ぎまで生きるような気がする。入居者は95歳があたりまえになってきた。死ぬのも怖いが、死なないのも怖い。
家族はいろいろだ。個人のタンスの中身を見るとわかる。シーズンごとに新しい衣類を買ってくる、サカキさんの娘さん。昨年のも、まだきれいなのに。入りきらないのに。ときどきは娘や孫が来てタンスを整理していく。
比べてモクレンさんは入居して5年、靴下は劣化。カチカチだ。車椅子の高齢者は足が浮腫む。パンパンだ。その足に……この小さいカチカチに硬くなった靴下を履かせるのは至難の業だ。時間もかかる。裏糸が出ていれば爪に引っかかる。爪は脆いのだ。
夏に入居したヒイラギさん。この方にはいつでも年末だ。
「もう今年も終わりだね。あっという間だね。今年もお世話になりました」
が口癖だ。
冷暖房完備の施設で半袖を着る高齢者はほとんどいない。カーディガンもない。きれいな半袖はきれいなままだ。数枚の長袖はボロボロだ。電話で姪御さんに知らせる。送られてきたのは……デザインの凝った襟ぐりの開いたもの。素敵ですね。でもね、ヒイラギさんは痩せています。とてもとても細いの。鎖骨に水がたっぷり溜まる。細い首から下着が見える。
モクレンさんの息子さんの場合。買ってきたのは流行なのか、後ろの裾が長い。流行りましたね。私も着た。お尻が隠れるから。でも、それはトイレが大変なのよ。考えてほしい。長い裾をめくり上げ、ズボンを降ろす。素直な素材はストンと落ちる。長い裾をめくり上げ座らせる。邪魔だ。切ってしまいたい。
そして、言いたい。イメージしてよ。頭のてっぺんから足の先まで。なぜ靴下を買ってこないの? あなたのおかあさんなのよ。カチカチの靴下。そしてスタッフはなぜ言ってくれないの? 靴下も劣化していると。5年も履いているのだと。
モクレンさんは息子さんが面会に来ても、なにも喋らない。息子さんは携帯をいじっている。ものの10分もいないが。
「じゃあ、帰るよ」
と息子の言葉に、
「気をつけて帰んなよ」
それだけは毎回言うのだ。
中には親孝行の息子もいる。ツルマサキさんの息子さんは日に3度いらっしゃる。朝に昼に夕に。仕事の合間に作業着で。嫁や孫を見たことはないが。
この息子は恐れられていた。モンスターだ。クレイマーだ。トイレ介助をじっと見ている。重箱の隅をつつくように文句を言う。ツルマサキさんは入居当時は車椅子から立ち上がり、何度か転倒した。それでもベルトをすると拘束になる。だから立ち上がり転ぶ人は多い。
しかし、いかにモンスターといえども、スタッフは変わる。めまぐるしく変わる。あなたが大声で怒鳴ったリーダーもスタッフも何人辞めていったことか?
「なんでコロコロ変わるんだ?」
それぞれ事情が……あなたも一因かも……だから、この息子さんは、いっときほど文句を言わなくなった。それに今はコロナ禍でユニットには来られない。電話はくるが。忙しい時間に電話がくる。長い。うるさい人だから丁寧に接する。仕事が遅れる。入居者は放っておかれる。
ツルマサキさんの部屋には保湿クリームが何個ある? 体はひとつなのに。次々に買ってくる。乾燥肌だから。ちゃんと塗ってやってくれ、と。リップクリームが何本も。朝飲ませてくれ、とヤクルトが。ツルマサキさんはソフト食。高栄養の飲み物に牛乳にお茶。水分を摂らせるのは大変なのだ。そしてカップの中身を床に投げる。ぶちまけるならお茶にして。
ああ、だけど、母親思いだ。うらやましい。我が息子は……来ないだろうな。月に1度も。責めはすまい。私も親思いではなかった。
5 暴言・妄言
5年前、ネコヤナギさんはまだ70歳前だった。ばあさんとは5年の付き合いになる。認知はない。私が出勤すると待ち構えてティッシュを数枚くれる。皆にではない。配れるものはティッシュくらいしかないのだ。
言葉が不明瞭だ。30代で脳梗塞。半身麻痺。わかる言葉は少ない。
「バカヤロー、はやくしてくれよ。どいつもこいつも、そんなもんだ」
5年の付き合いだから情が湧く。しかし次々変わるスタッフには評判がよくない。以前にもいた。
「ネコヤナギさんがいやだから辞めます」
という主婦が。人手不足なのだ。彼女は別のユニットに移動になった。
最近のスタッフは厳しい。バカヤローと言われ黙ってはいない。食事を配るのも最後にされる。リビングのテレビのチャンネルも自由にできなくなった。
「あなただけのテレビじゃないです。お部屋で見てください」
「朝から、なにブツブツ言ってんの? 男のくせに。うるさいっ!」
ばあさんは、かわいそうだと思ってしまう。
ネコヤナギさんも人を見る。敵わない相手に無茶は言わない。
この間、ばあさんが朝出勤すると、いきなり、バカヤローときた。
「どうしたの? 朝から」
「いいよ、もう、バカヤロー」
なお宥めようとすると、
「もう帰れ。バカヤロー」
さすがのばあさんも頭にきた。
「わ・か・り・ま・し・た。もう話しません」
それからは無視した。無言で配膳。片付け。ネコヤナギさんの言葉は変換して聞こうと思っていたが……バカヤローはアリガトーに。それでもダメなときは、人には言えないが、ブタがブヒブヒうなっている……そう思う。怒りも湧かず……結局、感情をなくすことが長く働く秘訣だ。怒り、同情は水に流す。自分が平常心でいるために。
しばらくするとネコヤナギさんはティッシュを持ってきた。
「ほらっ」
最近ではネコヤナギさん、セクハラが問題になっている。若いスタッフ、50歳くらいのスタッフも胸を触られそうになったとか……風呂の担当は男性になった。
ばあさんには誰も聞かなかった。
もっとすごい暴言を吐く人もいる。90過ぎたヤドリギさん。奥さんとも相当の暴力沙汰で警察のご厄介にもなったという。入居前、ファイルを見て極力関わりたくないと思った。麦茶を出したら怒った。馬が飲むものだと。茶碗や箸をテーブルに置いたら汚い、と怒った。ヤドリギさんにはトレイを購入した。トレイのままお出しする。箸は汚いと言うので割り箸だ。メニューを説明するのだが、耳が遠い。腹の底から声を張り上げなければならない。
パートの若い女性が、ヤドリギさんと大喧嘩をした。些細なことから、死ね、と言われ引き下がらなかった。当人はケロッとして忘れただろう。パートの女性は少しして辞めた。そのせいかはわからないが。
「ありがとう」と暴言が、交互に出る隣のユニットのナツメさん。秋の空のように変わる。ばあさんはナツメさんの足を洗う。浴室に行くまでは機嫌がいい。湯をかけると怒り出す。凄まじく。かつてこれほど罵られたことはない。条件反射で言い返したら、もっとひどくなった。そして、ころっと変わる。
「サンキュ」
そのナツメさんを風呂に入れろ、だって? やれと言うならやりますが……最初は男性のリーダーがついていてくれたが……ダメだった。頭を洗えない。拒否と暴言……暴れられ、そうそうに終えた。ナツメさんを風呂に入れなければ、と思うと憂鬱になった。愚痴った。それでも担当になっていた。訴えた。
「男性の職員さんが入れてください」
口には出さないが、
「この時給ではできません」
今ではその方の症状はもっと進み、リフト浴になった。隣の浴槽で怒鳴っていたのもつかの間。ナツメさんは自分の体を傷つける。出血するまで。薬を飲むようになり、大人しくなった。別人のようだ。
コーヒー牛乳と甘い煎餅だけで生きてきたクスノキさんも、看取り介護になった。様子を見にいくとお水を求められた。職員に、ボトルの水を持っていくように言われたので、コップに入れて渡した。看取りなのにしっかりしていて、ご自分で飲んだ。そして怒り出した。これじゃない、と。ひどい暴言を吐かれた。
「水、わからないのか?」
クスノキさんが話すのを聞いたのは
「煎餅、ちょうだい」
それだけだった。一方的に怒鳴った。看取り介護の男性が暴言の嵐。
「わからないのか、いい歳してッ?」
わかりません。なにを怒っていらっしゃるのか……
「水だろ、それは」
とは、さすがに死にゆく人には言い返さなかったが。
クスノキさんが欲したのはボトルの水ではなかったのか。イオンやカルシウム強化の水では……
妄言も怖い。聞く方は、またか、とうんざりだが、本人は真剣だ。
カリンさんの部屋に最近出るのは動物だ。夜中にベッドに入ってくる。1匹ではない。ウサギや犬や馬まで。掛け布団を奪うそうだ。
「寒くて眠れないのー!」
シーツ交換の時に注意された。
「鳥がいるから気をつけて」
「……ありがとう。気をつけます」
「犬が、嫌いなの。誰か好きな人に飼ってもらえれば……」
「探してみるね……」
本人は本気だ。
なぜ、もっといい妄想をしないのだろう? いい男が4人も……とか。嫌いなものしか現れない。
ミモザさんは入居してきたときは怖いくらいの方だった。お世辞を言うと、
「おべっか、言ってんじゃねーよ」
今では1日の長さが変わってきた。朝も昼も夜も寝ている。リビングに連れてきて食事をさせるが、スプーンを持ったまま眠っている。次の日は夜中も起きている。よく喋っている。浴室にいても聞こえる。ミモザさんの大声。目がいいのだろう。テレビを相手に喋っている。笑っている。
鏡に言う。
「ちょっと、そこの人」
ばあさんのうしろに、話しかける。
「坊や……」
夜勤さんは怖いらしい。
「そこに、○○が……」
施設で亡くなった方は多い。夜勤さんは感じるそうだ。ばあさんに霊感はない。週に1日だけ夕食時も働いている。帰るのは19時半。ひとりでエレベーターを降りる。真っ暗な洗濯場を通る。ばあさんは怖くはない。会いたい人がいる。笑顔が忘れられない人がいる。
6 介護士と看護師
いろいろな職員がいる。仕事の速い人、遅い人。時間前に来て、サイボーズと日誌をチェックして、もう動いている人。ギリギリに来て、それから始める人。別に後者でいいのだ。時間前に来い、というのはパワ・ハラになるそうだ。
私は初め、必死で覚えた。10人分の食事形態。紙にテーブルの絵を書いて。入居者の名前、配置、ご飯か粥か、はたまた混ぜ合わせた軟飯か、またはパンか、おかずはそのままか刻みか、ソフト食か、汁物にとろみ剤が○ミリリットル、茶碗は大、中、メラミンか、箸かスプーンか……
頭の中にイメージできていないとスムーズに動けない。
しかし、新人に家で覚えてこい、とは言えないそうだ。だから、いつになったら覚えるのやら? パートのいないときはすべて自分でやるのだよ。ネコヤナギさんが怒り出す。
「はやくしてくれよ。バカヤロー。ぺーぺーか」
焦らないで。焦ればろくなことはない。茶碗割ったり牛乳ぶちまけたり……ソフト食の人に刻み食を出したら大変。ソフト食の人は、むせたら大変。ナースを呼んで吸引。しょっちゅう吸引。ナースは言う。30分かけて食べさせろ、と。
速い人は速いなり……夜、部屋のカーテンが閉まっていない。入居者に注意される。工程を省けるように、汚れたパットを入れるバケツの蓋は開けっ放し。それをしまっておくドアも開けっ放し。
サカキさんは、取るよ。汚れたグローブを。サカキさんはゴミ箱からも取るし、残菜も食べてしまうから徹底しないと。
パジャマの上に服を着てる。入居者が自分で着たのだ。それをそのままリビングに連れてくる。サイボーズに注意が。
「あなた、その格好で人前に出ますか?」
食事の前に入れ歯をはめていないことに気づいた。さてどうする? 職員は早足で部屋に行き、入れ歯を持ってきてはめる。ダメです。皆の前で入れ歯をはめてはいけません。
「あなたもそうされたらいやでしょう? 部屋に連れていってはめてください」
前のリーダーならそう言っただろう。車椅子押していってらっしゃい……几帳面だった。
引き出しを開ければ牛乳パックで細かく仕切ってある。他の場所にはぜったい置くな! というように。薬もひとりひとり牛乳パックを切った箱に。マーキングテープを棚に貼って定位置に。他のところには置けません。
カリンさんがまたトイレ。私は言ってしまった。
「カリンさん、オシッコ? トイレ行く?」
前の前のリーダーは飛んできた。
「今のはダメです」
「は?」
今は注意する人がいない。
「カリンさん、○○コ出る?」
私より大声で……
「あなた、人前で言われたいですか?」
「あのー、今のはいけません。私は注意されましたよ」
ゴキブリが出た。入居者の部屋には、個々で食べる菓子の食べこぼしが……キッチンにも出た。スタッフはきゃあきゃあ騒ぐ。男のリーダーまでが。ようやくスプレーをかけ、弱まって動かなくったのにつかめない。男のくせに情けない。私が処理した。
「さすが」
申し送りの時に職員が見当たらなかった。ナースを待たせては悪いと思い、私は代わりに伝えようとした。何度かある。ファイルを見て10人の便秘が何日目、変わったことがないかを伝えるだけだ。
ところが、入ったばかりの派遣のナース、ユニット中に響き渡る大声で言った。
「あなたァ、身体介護、できるんですかァー?」
微妙。立位の取れる人ならね。
体格のいいナースは、ヤドリギさんに『百貫デブ』と言われていた。気の毒だと思っていたのだ。ドアを塞ぐほどの幅広さ。
声に圧倒されて、私は答えなかった。職員が来て離れた。
ナースは介護士より上だという意識がある。ましてや、私は短時間のパート。小声で言ってくれたならこちらの態度も変わっていたが。その言い方はないだろう? 2度と申し送りはしません。
この派遣のナースは契約更新をしなかった。古株のナースはあなたより怖いだろう……
この間も廊下を歩きながら電話していた。
「あなたァ、何年やってるのォ? 誰が……しろって言ったァ?」
ネチネチ、ネチネチ…………
ナースの入れ替わりも激しい。
7 恋と無関心
隣のユニットのトネリコさん。5年経っても馴染めない。怖い。孤高の人だ。他と交わらない。コデマリさん達が喋っていれば、
「うるさいッ!」
そのひとことの重み。テレビの前に立てば、
「見えないよッ!」
ひとことの怖いこと。
おはようございます、と挨拶すれば、
「ごきげん、よう」
5年経つと、ときどきはニコッとする。その笑顔の素敵なこと。
「素敵ですね。トネリコさんの笑顔」
「そんなこと言われたことないよ」
「素敵ですよ。100万ドルの笑顔。もっと笑ってくださいよ」
無言。周りがしらけた。
トネリコさんに異変が。最近入居して来たマンサクさん、男性、75歳。車椅子だがしっかりしている。髪もまあまあ、品のいいメガネ。まだまだ恋ができそうな……
マンサクさんが車椅子を自走してくる。離れたテーブルに着くと、トネリコさんは手を振る。
「トネリコよ」
マンサクさんが気が付かないと2回3回。
「トネリコよ〜」
男性の方は無関心だ。こちらは覇気がない。
「どうでもいいよ、なんでもいいよ、興味ないよ、早く死にたいよ、お迎え待ってるのッ!」
もったいないと思う。
振り返してあげて!
仲良くなられても問題だ。新しく入った男性は杖を付いて歩く。歩けなくなると困るからと、食前食後廊下を散歩していた。ソファーに座り足を上げたりストイックな方だ。部屋でCDを聴く。ムードのあるサックスかなにか。
カラオケのときにコデマリさんと気が合い、部屋にCDを聞きに来るよう誘った。ホイホイ訪れたが……しっかりした方だ。1度だけで行かなくなった。
ハイテンションなのは隣のユニットのサカキさん。90歳を過ぎているのにすごい体力だ。車椅子で自走する。嬌声をあげながら。
「はぁーーん、はぁーーん」
4ユニットと廊下を何度も何度も。ドアは開けるが閉めないで行く。疲れると、よそのユニットで居眠りしている。サカキさんの走行距離は相当なものだ。腕の力も並ではない。
私はサカキさんを風呂に入れる。気をつけないと……ズボンの裾を捲り上げた時に、バシッと腿を叩かれた。腕の力は並ではない。
「なにすんのよっ!」
つい、こちらも大声に。そうすれば、遊んでもらっていると思ってもっと手が出る。腕をつねる。手を口に持っていく。噛まれる前に振り払う。水をかけられる。メガネを壊されそうになる。
コデマリさんはサカキさんをバカにする。
「困ったバーさんだね。ああはなりたくない」
言われてもサカキさんは耳が遠い。しかし雰囲気でわかるのだろう。よそのユニットに行く。
うちのユニットのネコヤナギさんとカリンさんも意地悪をする。ネコヤナギさんは通れないように車椅子でふさぐ。
「まいにち、まいにち……なんかいも、なんかいも」
怒っても聞こえない。ときどきは足で蹴ろうとする。カリンさんは、
「あんた、自分とこへ帰んな」
サカキさんは聞こえないからうちのユニットで居眠りをする。
サカキさんは風呂場も開ける。脱衣中にガラッと。騒ぎはしないが、しょうがないバーさんだね、とコデマリさんは触れ回る。
この間は大変なことに。廊下の火災報知器を鳴らしてしまったのだ。押さないように椅子を置いて置くのだが、甘かったようだ。消防署に直結だ。アナウンスが流れる。延々と。そして消防車が……
スタッフは誤報です、と説明してもコデマリさんは納得しない。あのバーさんよ、と数日蒸し返す。
風呂の嫌いなヒイラギさん。拒否する。入れるのが大変だ。入ってしまえばいいのだが。だからヒイラギさんには、お風呂行きましょう、とは言ってはいけない。動きますよー、と車椅子を押す。
「なに、どこいくの?」
風呂場の暖簾を見て、
「なに? お風呂? いいよ。毎日うちで入ってるんだから」
「ヒイラギさん、腰痛いでしょ? 腰だけ温めましょ。もう用意してあるの。ヒイラギさんのために」
以前は拒否で入れないことが多かった。最近は素直だ、というより歳をとった。95歳だ。
「ああ、大変だ」
それでも自分で服を脱ぐ。しっかり立ち上がる。この頃は、よく居眠りしている。口癖だ。
「今年ももう終わりだね、お世話なりました」
トネリコさんが入院した。気にするのはコデマリさんくらいだ。
マンサクさんに聞いた。
「トネリコさん、いないと寂しいでしょ?」
「……」
「いつも手を振ってくれたでしょ」
「ああ、トネちゃんか」
8 ひとごとなのね
娘が小学校1年生くらいの時、出かけた帰り道。
「トイレ行きたくないんだ」
「どうして?」
「痛いんだもん」
「なんで早く言わないの?」
イチイさんが土曜の夜から腹痛を訴えた。かたくなだからスタッフは苦手だ。
日曜日、食欲がない。腹痛。トイレが近い。パットに血が。トイレに鮮血が……
スタッフはナースに申し送り。女ならわかるだろう? しかし、診てもらわないと薬は出せない。そして次のナースへ引き継ぐのを忘れたようだ。
「あら、知らないわ」
そう言われた、とイチイさんは火曜日の入浴介助の時に私に訴えた。
やりにくい方だ。プライドが高い。午前中に3人、風呂に入れなければならないのに、イチイさんはスムーズにいかない。入るまでが長い。入ってからも長い。私はその後、風呂掃除、服とパットの片付け、脱衣所の掃除。そして昼食の配膳をしなければならないのだ。
先日はホームランダービーを観ているから遅れた。いっそ午後にまわそうと思ったら終わってくれた。それから入浴。帰る時間が過ぎてしまった。
しかし、何がどうだろうと、膀胱炎を放っておくなんて……イチイさんは訴えても聞いてもらえず、家族に電話しようと思ったが、娘も仕事だし……ひたすら水を飲んで耐えたんだそう。
私も妊娠中にあった。漢方薬しか出してもらえず治らない。辛くて3日ゴロゴロしていると夫は言った。掃除しろ、と。これは……一生忘れない。一生恨んでやる。夫は覚えてはいないが。私も忘れていたが、病名を聞くと思い出す。恨みがよみがえる。
それほどの辛さを放っておかれた。ナースも人ごとなのね……くどくどくどくど言われた。若いO君には愚痴ったという。言いやすいのだ。しかし若い男性にはわからないだろう。あの辛さは。わかっている私は、娘をすぐに病院へ連れて行った。あの痛みを味合わせたくはない。
それを水を大量に飲んで耐えたという。さすがに、たかがパートのばあさんも黙ってはいられなかった。若い女性の職員は経験がないそうで辛さがわからない。男性のリーダーも。
これが、口うるさいコデマリさんだったら対応は違っただろう。コデマリさんはすぐ家族に電話をする。携帯を持っているから。家族は施設長に苦情を入れる。
コデマリさんは頭痛持ちで、職員は常用を心配し薬を出さない。コデマリさんは怒り心頭。それ以来、ラムネが提供される。痛いと言えばいつでもどうぞ。
コデマリさんは私に言う。
「昨日、頭が痛かったけど、薬飲んだら治ったわ」
働き始めた頃、上品な女性がいた。自分で歩き、食事も常食。ほとんど介助が必要ない。風呂に行くと、
「あら、ここ、初めてね」
と毎回言ったが。
控えめな人だった。食事を持っていくと、
「私はあとでいいから、あちらの方を先にしてあげて……」
しかし入院し、看取り介護になって戻ってきた。食事の時間にはリビングに連れてくるが、手を付けない。
「おなか、すいてないんですか?」
「ええ、今は」
当時は看取りというものがわからなかった。食べなければ死ぬ……必死で勧めたが……
穏やかな最後だった。最後まで敬語を崩さず面倒をかけず。誰にも看取られず……
仕方ない。夜勤はひとりで20人を見るのだ。付きっきりではいられない。逝く人がいるのに、かたや夜中にナースコールを何十回も鳴らす人がいる。入所してから5年間、ずっとだ。昼も夜も鳴らし続ける。職員が行くまで。
待っててください。わかりました、今行きます、は理解されない。遅いと、上に言いつけてやる。金、払っているんだから……
そう、あなたにいったいいくらの介護保険が使われていることか?
迎えが来るまで。
9 虐待防止研修
最近では幼稚園でも虐待の報道があり、幼児の孫がいるので気になっている。孫の様子が急におかしくなった。娘は原因が思い当たらないと言う。
5歳の子供がハンガーストライキ。食べない、飲まない、トイレに行かない。
「お化けがいる。食べると死ぬ。透明な人に、食べると死ぬと言われた」
果ては
「先生だって仕事なんです」
幼稚園でなにか言われた?
ばあさんは、入院して点滴か? とまで心配したが、いつまでも続くわけがない。
YouTubeでお化けの番組観てたからね。電話するとお化けが出るっていうのもあって、騒いでいた。しかし、狐に憑かれたか、はたまた本当に見えるのか?
原因が幼稚園だとするなら……大変だと思う。先生に同情します。言うこと聞かない子だから。右へ習い……の子ではないから。
施設では毎年虐待についての講習があるのだが、去年と今年はコロナ禍のため、テキストを読んでレポート提出のみ。
どこぞの施設で叩いた。殴った。怪我をさせた。鼻の骨を折った。ひと晩で40回以上殴る蹴る? 髪を掴む。ベッドから引きずり下ろす。寝ないから携帯電話で殴った。
なぜ? 毎年毎回。どこでも虐待防止の対策はしているだろうに。
高齢者はすぐにアザができる。見つけたら大騒ぎになる。さかのぼって原因を究明する。うちのユニットには声を荒げる職員さえいない。いい職場だ。虐待を疑いはしない。私がイライラすれば、深呼吸しなさい、と言ってくれる。
入居者は喋れない者もいるが、喋りすぎる者もいる。風呂に入れたとき、見えるところは丹念に見るが……
「お尻が痛いの。皮むけてないかしら?」
私は目が悪い。見なきゃダメ?
暴力は絶対に許されないが、介護士の精神状態のほうを心配してしまう。常習者は論外だし、気付かない周りもおかしいが、真面目な職員が起こしてしまうのを、気付いてやれないのは残念だ。職員も精神的にギリギリだったのだろう。特に夜勤ひとりの時は行き場がないのだろう。
夜勤だった若い男性職員。その日は発熱していた入居者もいたのでいつもより大変だった。別の女性に、
「眠れないから一緒に寝てほしい、手を握ってほしい」
と言われ、断ったら衣服にしがみつかれた。
「こんな年寄りをひとりにして、このろくでなし!」
平手打ちを1回。実直な性格で熱心に業務を行うが……虐待防止事例。問題点を考えてください。
尊厳? トイレに貼ってあります。私たちはいつ何時でも高齢者を人生の先輩と敬い……
暴言吐かれても、叩かれても、引っ掻かれても、髪の毛を引っ張られても、首絞められても、つば吐かれても、セクハラされても……とは書いてないが実際にいた。そういう時は、記録に残すのみ。
私もユニットの玄関を開ける前には、深呼吸をして唱える。バカヤローはありがとうに変換しよう、と。しかし、入っていった途端にバカヤローの洗礼を浴びる。言い返してはいけないが、無視してしまう。無視は心理的虐待になる。朝から豚がブヒブヒ……そう思わなければ続かないと思う。浴室で腿を叩かれた時も、思わず大声を出してしまった。手が出たらどうなっていただろう? 介護なんかに携わったことを後悔しただろう。楽しく働いた5年の月日を2度と思い出したくない……と。
私はパートで、必ず職員さんがいるので愚痴を言える。気軽に言えるが、そうでなければ積み重なっていくだろう。精神的に不安定になり、来なくなる職員が少なくない。
10 新しい入居者
私用で9月は休んだ。4週目は出勤しようと思い電話を入れたらリーダーに、9月いっぱい休んだらどうですか? と言われた。
もう、シフトを組んでしまったからか? いなくても、大丈夫ということか? 戦力になっていると思っていたのに。
ありがたく骨休み。しかし出勤した途端、目まぐるしく変わっていたユニットだった。
まず、ティッシュをくれるネコヤナギさんが、1ヶ月ぶりに会って、どんなに喜ぶかと思ったら、ブツブツ怒っていた。茶を持って行ったら、
「バカヤロー」
そうか、1ヶ月という単位さえわからないのか? すぐさま現実に戻された。しかし、私だと思わなかったらしい。しばらくして車椅子を自走して、キッチンまでカップを持ってきて笑っていた。素敵な笑顔だった。
看取り介護の長かったハマナスさんが亡くなっていた。隣のナツメさんも亡くなっていた。ナツメさんにはよく怒鳴られた。そして、すでに新しい方が入居していた。
うちのユニットにはアズサさん。こういう方は初めてだ。わめいている。わめき続ける。大きな、不明瞭な言葉で、延々と。声をかけると自分の頭を叩く。何回も。レインマンのように。テーブルを叩く。手が痛いだろうに。だから最初は刺激しないよう黙っていた。
隣にはオリーブさん。小綺麗にしている。服も髪も。しっかりして見えるが、隣の反応のないゲッケイジュさんにずっと話しかけていた。そして、歩けないのに立ち上がる。
職員も落ち着いた。常勤も定員数いる。パートも増えた。曜日によって多い日、私だけしかいない日があるが。
アズサさんには手こずっている。麻痺があり、言葉が不明瞭。わかってあげられないから余計わめく。リビングに連れて来ると皆に挨拶をする。
「おあおおおああああ」
たぶん、おはようござます、と言っているのだが、うちのユニットの入居者は反応がない。斜め前のモクレンさんは脳梗塞を起こしてからは、ただ座っている。お地蔵様のように。挨拶を返さないのが気に入らないらしく、アズサさんはずっとわめいている。手をテーブルに叩きつける。自分の頭を叩く。止めると私の手を叩く。
アズサさんを足浴させることになった。
「あああああ」
洗わない、と言ってるようだ。目を見てわからせようとしてもだめだった。靴下を脱がせると、足を冷たい固いタイルに打ちつけた。止めると私の手を足で打った。1度ではない。片足洗って断念。
職員の何人かは、家に帰ってもアズサさんのわめき声が耳に残る、と言っていた。アズサさんは、よそのユニットでは無理だろう。隣のユニットのコデマリさんはわめき声が聞こえると、
「また、始まった」
と、バカにする。以前はショートステイにいた。そこではもっとしっかりした方がいらしたので苦情が出た。アズサさんは部屋にこもり、食事も個室で取ったそうだ。自分は、何もできない、バカだバカだ……と頭を叩くらしい。
理解しようと思い、目を見て話す。しかし……うちの施設で看るような方なのか? 周りのものが参ってしまいそうだ。
ついのすみか Ⅰ