海原(再掲)
2021年6月28日にアップした記事を加筆修正し、再掲したものです。
一
夜が明けるたびに光をもたらすあの太陽に対して、苦虫を噛んだような顔をする海原の男に悪気はない。晴天であればある程に照り返しはキツくなり、体力を奪われる状況が日がな一日続くのに対して講じられる策の少なさとその効果の低さ、また補給を見込めない水分の残量のやりくりを頭の片隅に置きながら、あの暑さに耐える時間を思えば誰であっても眉を顰めたくもなる。その男の歳を思えば同情心はより湧くだろう。加えて、男が命を預ける小型の船を走らせる動力部分から聞こえる不安定なリズム。海を知らない者でさえ怯えるそれを聴いて、海を知っている者なら男にこう尋ねざるを得ない。
「なんでわざわざそんなことをするんだ、あんたは?」
海原で航走機能をいつ失うか知れない船の上に身を預けるということは「そういうこと」だと海を知る男たちが口を揃えていう。そして、男から帰って来る答えが「そうなる」だろうと勝手に想像する。
海原を走る男も海のことを知っている。日に焼けた肌には皺の形をした厳しさが似合っているし、身に纏っている雰囲気もそうだ。それとも朝昼晩の三食に男が食べ尽くす立派なお頭付きの魚たちがどういう経緯で男に出会い、その柔い竿で見事に釣られることになったのか、それを逐一説明する方がいいだろうか。船上で行う必要な作業を必要な分、必要な時間をかけて終わらせるその姿にも一切の無駄がない。水面をじっと見て動かない姿だって様になっている。吸い尽くした煙草をそこにひょいっと捨てられないのは、また違った男のポリシーなのかも知れないが、男が海を知っていることに結び付けても失敗にはならないだろう。とどめとばかりに記せばオイル塗れになり、身を預ける船の動力部分を直す姿を離岸してからこれまでの間にもう、何度も見ている。
しかしながら、男たちの勝手な想像は的外れとも言えない。男が海とともに生き、海の上で終えようとする覚悟を決めているのは恐らく正しい。
男は、大事な別れを二つ済ませてきた。一つは愛に満ち溢れたもの。もう一つは主に憎しみと、再会してから仕方なく過ごした時間の中で蘇った愛がごちゃ混ぜになった別れだった。蘇った、のではなく、歳とともに身に付けた諦念と死を突き放したその姿への同情心から新たに抱いた愛のようなもの、と男は言うかもしれない。その言葉の数と理屈っぽい説明は、確かに幼さを失くした一人の男の心情だ。それでも、愛情のようなものを示す必要は無かった、そういう選択をあの時にできたのだということに男が気付いていない。何だったら、あの子のスケッチブックに、あんな心象を書く必要も無かった。なぜ書いた?こちらから訊きたいのはそこだ。
「始まりを大切にしよう。では、彼女との最後をあそこで過ごすと誰が決めたのか。男か、それとも男のことをよく知る彼女か。
後者だと想像する。下手な理由は省こう。ただし彼女が愛する男と、そこに居る、男にとって大切な存在である彼女のために最後の時をその島で過ごすと決めた、とまで思いもしない。男が彼女に何も話していない可能性があり、だとすれば、似たような境遇の人たちと最後の時を迎えようとして単純に同じ選択をしただけ、という推測が可能となる。
けれど、彼女の選択が「そういうこと」を招いてしまうこと、それを男がよく知っていたはずだ。現に男はそうして救われた。出会って半年後のことだ。彼女がそう言っていた。大切な存在である彼女に向かって、彼女がそう言っていたのだ。大切な人はいないのか、という話題が「そういうこと」を引き寄せる。人柄、というよりはそういう人なのだろう。半ば自覚的、半ば本能的に行う関係という名の磁力。あの笑顔はそういうものだ。
もっとも大切な存在との別れを済ませた、という気が男にないかもしれない。もとより、出会ってからずっと愛した彼女と死に別れるまでその小屋に留まると決めていた。それが済んだ。ただそれだけだ、と。
証拠だってある。たった一言、男は名前でなく、関係性で呼びかけた。それだけで断たれていたものが一気に進むほど話は簡単じゃない。元に戻る、そう期待できるだけの時間と記憶が男と、男にとって大切な存在である彼女の間にはない。なのに二人は繋がれた。愛した彼女が最後を迎えるまで、大切な存在である彼女と男と、あの子の時間を、あの島で新たな時間として過ごせた。
そこが不思議なんだ。」
二
『不老不死という夢は切ない。叶えば叶うほどにそう思う。誰かがそう口にすれば、誰かがそれを大いに嘲笑うだろう。生きる、という言葉にかける思いや考え方の違いがその原因となるだろうし、その結果として生まれるいざこざがその隔たりを広げ、深くしていく。こう想定することは難しくない。それが悲しい。寂しい。』
縋るようにして、付け焼き刃の様な理屈を振りかざせば社会という情報を解きほぐし、関係という最小単位を残して、その関係性をどう考えるか。あるいは。
『それを各人が自由に行い、その結果として生まれるフリクションを各人がそれぞれに擦り合わせる。その過程においてときに支障となるのが「人」の感情であり、それを知る大切な人が、その身体が朽ちる歩みごと止めた。そういう事かと思い当たる、その絶望があの踊りを、あのデモンストレーションをフラッシュバックさせる。もう会わないと固く誓ったあの時のままの姿で、一度も目にしたことがなかった笑みを浮かべて、白黒の街の中を走る存在。大切になってしまった命を捜して、汗を浮かべて、叫ぶ。叫ぶ。
叫ぶ。』
あるいは。
こんな風に、物語的に、どう記述しようと海原を行く男の耳に届くものはない。その日々を生きる為に、日々の出来事に即応しては休める時にしっかりと休み、時折り、遠くを眺めて画用紙の頁を捲る。積んだ荷物の中に紛れ込んだと男がその死に際に述懐する内容の、片隅に追いやられる様に整理される色鉛筆の本数を気にしながら描く、いや描こうとする時間。唯一の趣味、と彼女に語ることは無かったが、どうせ知られていた。何も言われなかった、幸せな日々に失くしてしまった色合いを思い出せる。最後の夜に、迎えた朝に、持っていかれたと悔やんで止まない沢山の物が詰まっていたから。
だから。
長い刻により、人としての網の目が小さくなれば物事に対する感動が薄れるのか。では、その網の目を大きくして取りこぼしてしまうものが増えれば人は様々な色味が差す、豊かな幸せを感じられるのか。そのために、人には終わりが必要なのか。
あくまで想像上の出来事として男に問えば、答えはこう返って来るだろう。
「あの人はもう分かっているようだった。そうでなければ、あんな風に彼女のことを呼べない。あんな風に、彼女のことを思いやることなど出来やしない。終わりを迎えても不思議でない時間をあの人が生きた。そして今も生きている。」
「その目で見てもいないくせに、なぜそう言える?」
意地悪く、そう追求する。それに対して想像上の男が笑った。そして答えた。今までにない直接的なその声。
例えば。
簡単だ。そう思うように創られた、与えられた自由だから、だ。だからこちらも否定しない、と。
三
男は直して動かした。
だから寂しさは、埋めるものではないのだろう。糊代のように残しておくべきものなのだ。
男がそう言ったのではない。また、船で離岸した後、男がどうなったのかを消極的に知っている、大切な存在である彼女が言ったことでもない。
男が居なくなった後の島の内側で、彼女を囲む愛に対して、彼女は神話を語った。古臭い、と純粋な言葉で評価された神話だった。選んで欲しくない、そう真摯に願った個人的なハルの声に対して真正面から反発する神話だった。
その神話を選んだという彼女が抱きしめ、彼女に抱きしめられる姿との間には異なる個体として生まれ持った寂しさが埋まっている。そこに流れる血潮をかき消す波の音が、どこまでも広がっていく。温かさはそうしてしか知れない。そういう人を容易く不幸とは言えない。
「私も人だ。」
逆説的にそう指摘できないか。そう投げかける、目の前に立つ、自転を終えた光を背負うがために逆光に塗り潰されてしまった顔の見えない姿で握る、力強い、そして痛みを知る少年として、そして、その存在を殴り飛ばすことをしなかった自律と抑制を確かに存在させた男がきっと何も言わない。これほど雄弁な肯定と続きを促す言葉はないだろう。
海原を行く、それだけでもう主役だった。もう一人の存在の、人生そのものだった
四
それは彼女が付けたものなのか、いや、彼女がした過去の選択からしてあり得ないと考える。
しかし、呼ばれた名前を構成する音色は耳に心地よく、なかなか離れない。命を与えられた存在の括りに天上から降り注ぎ、染み渡るように消えていった波紋はリヒトという音の縁にぶつかって、また戻って来る。
大切な存在として、彼女は共鳴したのか。いや分からない。その選択の重みを知れる程に私たちは生きていない。
死につつある、と書いても同じことだ。表も裏も兼ね備えた私たち人の身体は巡る自然の側に属している。それに対する顔つきを選ぶ、私たちの決意が問われている。
海原(再掲)