さなぎ

1話-出会い

 僕の住む町は、何の変哲もない田舎町だと思う。ド田舎、というには少しばかり開発が進み過ぎているきらいはあるし、都会というには開発が足りない。要するに、中途半端。結構馬鹿にしてはいるけど、それでも僕は、この町が好きだ。なんだかんだで、生まれてからずっと住んでいるわけだし。
 きっと、僕も皆と同じように、普通に進学して、普通に地元で就職して、それで、誰かと結婚して……そんな風に人生を終えるんだとばかり思っていた。――彼女に出会うまでは。

 僕が彼女と出会ったのは、中学2年生に上がったばかりの春。4月8日の始業式の日、僕たちが着ている制服とは違う制服に身を包んだ彼女は、黒板の前に立ってみんなの注目を一身に集めていた。けれど彼女自身は、僕たちに興味がないようで、退屈そうに外を眺めていた。
 黒板に白いチョークで書かれた名前。深澤凛奈。丁寧に、右横にルビが振られている。それによると、名前の読みは、ふかざわりな。別に珍しい名前じゃない。なのに、なんでかすごく気になった。
 教室内はざわついている。サッカー部の奴らなんかは、あの子可愛くね? なんて話していて。確かに、この教室にいる誰よりも綺麗、な気がする。でも多分、それは見慣れない人だからだ。この町じゃ基本的に、小学校入学から中学卒業まで顔ぶれが変わらない。その中に突然、新顔が入ればそりゃ目新しくて気になるのが人のサガ、だろう。
「深澤凛奈です。東京から来ました。よろしくお願いします」
 彼女の声を聞いた初めの印象は、思ったより声が低いんだな、だった。よく響くアルト。決して声を張り上げているわけでもないのに、教室の隅々まで響いていた。
 とてもシンプルな自己紹介を終えた深澤さんは、指定された席に着いた。前から3番目、入り口から数えて4列目。僕の席からは少し遠くて、さっき彼女を可愛い、なんて言っていたサッカー部連中のど真ん中だ。
「深澤さん、東京のどのあたりから来たの?」
「池袋とか、そっちの方」
「えー、超都会じゃん。なんでこっちに」
「お祖父ちゃんが、危ないらしくて。お父さんの実家、こっちだし」
「そうなんだ~」
 早速深澤さんは前の席に座る野口に話しかけられていた。女子も結構、話しかけたそうにしている。だけどこの調子じゃしばらく無理だろうな。野口、多分深澤さんの事狙ってるだろうし。

 始業式が終わって、ホームルームも終わった。僕は深澤さんにそこまでの興味がないから帰ることにした。昼食がまだだから、お腹も空いている。荷物をまとめて立ち上がり、教室から出る。なんとなくちらっと、深澤さんの席の方を見ると、彼女はまだたくさんのクラスメイトに囲まれていた。
 学校から家までの道は、正直言って単調だ。田舎の、牧歌的風景といえば聞こえはいいけれど、所詮はただの田舎道。それも、田んぼやらあぜ道があるならまだしも、あるのは放置されて崩れかけの民家や、不法投棄されたバイクや自転車くらい。代り映えのない、なんてことのない、僕の日常。
「……ただいま」
「おかえり、悠太」
 帰宅して、荷物を置いた後リビングに向かう。3歳上の兄さんは、学校が始まっていないからまだ寝ているらしい。悪いけど起こしてきてくれない? と頼まれたから、気は進まないけど、2階の兄の部屋に向かう。
「兄さん、入るよ」
 ノックをしても返事がない。春休みの間ずっとそうだ。同じ家にいるのに、兄さんの姿を見るのは夕食の時くらいだ。そんなに部屋に籠って何をしているんだろう。画材を持って外でひたすら写生をしている僕にそんなこと言われたくはないかもしれないけど。
「兄さん」
「……ん、んあ……」
 部屋の電気をつけると、兄さんはごろん、と光から逃げるように寝返りを打った。何時に寝ているのかは知らないけど、さすがに寝すぎだろう。
「兄さん、起きなよ」
「…………、うあ、なんだ、悠太か……何の用?」
「昼ごはん。母さん待ってるから、早く降りなよ」
「飯? 別に、いらねえよ……」
「そうならそうと言えば? 僕もう降りるから」
「チッ」
 舌打ちしたいのは、僕の方だ。こんなぐうたらな兄を持って、不幸だ。昔は、休みの日なんて、早起きして外に遊びに行くような人だったのに、なんなら家で絵を描きたいっていう僕を無理やり引っ張り出してまで外に行ってたのに。一体何があったんだろう。でも、考えるだけ無駄か。思春期だか反抗期だか知らないし分からないけど、多分、そういう系列のものだろう。
 リビングでは、母さんが3人分の食事を用意していた。椅子に座ろうとすると、座面にミケが座っていた。ミケを退かすと、不服そうににゃあと僕を見て鳴いた。
「そんな声出すなよ」
「にゃあ」
「悠太。ミケと喧嘩しないの」
「うん……」
 ちょうど兄さんも降りてきた。ミケは兄さんが嫌いだから、すっとソファの方へ走って行った。これで昼食が食べられる。兄さんはさっき、飯なんていらない、なんて言ったくせにちゃっかり食べ始めた。
「いただきます」
「めしあがれ」
 確かこの後、母さんはパートに行くから、食器は僕が洗うことになるんだろうな。兄さんはきっとゲームをするか、漫画を読むか、寝るかしかしないから。思わずため息が漏れるけど、僕のことを気にする人なんていない。家事なんてさっさと切り上げて、絵を描こう。

 家事を終えて、濡れた手をタオルで拭く。今日は何の絵を描こうかな、なんて考えながら部屋に戻って、スケッチブックを開く。
 絵を描くのは、僕の唯一の趣味だ。きっかけは忘れたけど、描くのが好きで……誰かに見せたり、賞を取ろうだとかは思ったりしてない。ただ、趣味として、何となく描いていた。頭の中に浮かぶものをこうやって現実に映し出すのは嫌いじゃないから、将来はそういう仕事が出来たらいいな、なんて空想にふけることもあるけど、そういう仕事は都会の大学とか専門学校に行った人だけの特権だから、こんな中途半端な田舎で、家計を握る母さん直々に「うちはお金がないから大学なんて行かせられない」と言われている以上、不可能だろう。
 シャープペンシルを握る手に、不必要な力が籠る。ぱき、と軽い音を立てて、芯が折れた。集中できていないからだ。描きかけの、絵とはまだ呼べない線の集合体を見て、ため息をつく。僕は今、何を描こうとしていたんだっけ? 余計なことを考えていたからか、まったく思い出せない。
「……やめよう」
 シャープペンシルを置いて、スケッチブックを閉じる。窓を開ければ、爽やかな空気が流れ込んできた。見慣れたというよりは、いっそ見飽きた風景。多分、これからも、一生付き合っていかなくちゃいけない風景。
 別に、現状に不満があるわけじゃない。小心者の僕は、きっとこの町の規模がお似合いだし、都会になんて出て行ったらきっと、いろんな面倒なことに巻き込まれる。この町に面倒ごとがないわけじゃないけど、都会は人の量が文字通りけた違いだ。そうなれば、相対的に面倒ごとが増える。
「悠太ぁ」
 無遠慮にドアが開かれた。兄さんが入って来る。
「なに」
「買い物。行って来てくんない?」
「なんで。買い物くらい、自分で行けよ」
「……チッ」
 また舌打ち。舌打ちしたいのは、僕の方だ。高校に入ってから、急にいつも不機嫌そうになった兄さんを持て余しているんだから。兄さんのことは、父さんも母さんも気にしている。母さんなんかは、気を遣っているからか兄さんが昼まで寝てても何も言わない。
 僕が買い物を代行してやる意志がないと分かった兄さんは、乱暴にドアを閉めて出て行った。あんまり騒がしくすると、またミケが怯えて洗濯機の隙間とか、冷蔵庫の後ろに隠れて大変なことになるから、やめて欲しい。
「ミケ」
 名前を呼びながら、階段を下りる。どうやら今日のミケは、あんまり物音を気にしていなかったらしい。呑気にソファの上で丸まっていた。
「にゃあ」
「お前は呑気で良いな」
「にゃー」
「ホント、呑気だなお前」
 ミケはまたくるりと丸まって眠った。こういう時につつき回すと、十中八九手痛い反撃を受けるのは知っている。ミケをいじるのはこのくらいにしておいて、何しようか……。
 時計を見れば、もう15時を過ぎていた。母さんが帰ってくるまであと4時間くらい。家にいるのは嫌だけど、外に行く場所があるわけじゃない。
「…………」
 ふう、とまたため息が出た。立ち上がって、一度部屋に戻る。とりあえず財布だけを持って外に出る。爽やかな風が吹いてくるけど、気分はあまり晴れなかった。

2話-行雲

 代り映えのしない毎日はずっと続く。太陽が昇って沈み、月が昇りそして沈む。当たり前のように日々は過ぎて行って、気がつけば深澤さんが転入してから半年が経とうとしていた。僕が言うのもなんだけど、深澤さんはお世辞にも社交的とは言えない性格で、そのせいかクラスでも孤立がちだった。もっとも、彼女はそれを気にしていないようだ。
 僕も相変わらず、何をしているか分からない兄さんと、家事とパートで忙しい母さん、仕事ばかりであまり顔を合わせない父さんの間で過ごしていた。もうほとんど兄さんとは話さなくなっていたし、そもそも僕の活動時間とは被っていなかった。時々夜中にごそごそ何かをしているのは知っていたけど、僕には僕の生活があるし、兄さんが僕の話を聞くとも思えないから知らんふりをしていた。兄さんが日がな一日部屋から出なくなってくると、両親の喧嘩も増えて、家が居心地悪くなった。怒鳴り声にミケもすっかり怯えきって、屋根裏から戻ってこないことが増えた。
 そんな居心地の悪い家にいたくなかったから、僕はスケッチブックとシャープペンシル、色鉛筆やらを持って外に絵を描きに行くようになった。
 最近のお気に入りは、家から少し離れた場所にある河原。ここから見る夕焼けが好きで、それを描こうと思っている。けど、うまく表現できないままだ。
 今日も河原には誰もいない。いつもの場所に腰を下ろし、スケッチを始める。少し離れたところで、大きな水鳥が魚を食べている。僕はひたすら、目に映るものをスケッチブックに描き出していた。
 どのくらい時間が経っただろうか。ざ、とすぐ後ろに誰かが立ったのが分かった。ゆっくり振り向くと、そこにいたのは深澤さんだった。
「ふ、深澤さん……?」
「あ、やっぱり奥川くんだったんだ」
「やっぱりって、どういう……」
「2週間くらい前からかな、時々、見かけてたから」
 隣良い? と首を傾げられ、断る理由もないから頷く。学校での近寄りがたい雰囲気は、今はない。
「何してるの?」
「絵を描いてるんだ」
「へぇー、見て良い?」
「あ、どうぞ……」
 スケッチブックを手渡すと、深澤さんはゆっくりとページをめくり始めた。手持無沙汰になった僕は、ただぼんやりと、絵を眺める彼女の横顔を見ていた。
「これ、全部奥川くんが描いたの?」
「そうだよ」
「すごいじゃん」
 それは、称賛というにはあまりにも稚拙なものだった。けれどそれは僕にとっては非常に嬉しいものだった。理由は単純だ。ただ、僕が欲しかった言葉だったから。
「すごいよ、すごく……上手」
「お、お世辞は良いよ……」
「私、お世辞は言わない主義なの。こんなに絵が上手いなら、将来はそういう仕事に就くの?」
「え? いや、そんなの、無理だよ……。そういう仕事って、都会の大学とか、専門学校とかに行った人だけのものじゃない。僕の家、貧乏だから。きっと高校も、隣の市の公立高校に通って、それで……」
 僕の言葉を遮るように、深澤さんが声を上げた。
「そんなことで諦めたらもったいないよ」
「……でも、実際に……」
「方法なんて、たくさん、いくらでもあるんだから。やりもしないで諦めちゃダメ。
 私……奥川くんが描く絵、好きだしさ」
「ふ、深澤、さん……?」
 深澤さんは僕にスケッチブックを返すと、すっと顔を上げた。視線の先には、夕焼けが広がっている。
「やっぱり、夕焼けはキライ……」
「え?」
「でも、奥川くんの描いた夕焼けはなんか、好きだな」
 呆気に取られているうちに、彼女は自転車に乗ってどこかに行ってしまった。一体何だったんだろう、と思いながら、特に意味もなくスケッチブックのページをめくる。
 風景が中心の、何の変哲もない、ただの絵。建物や自然といった、目についたものをひたすらに描いているだけの、子供の遊び。ただの、趣味。
「……何がそんなに気に入ったんだろう……?」
 疑問には思うけれど、確かに深澤さんには僕にお世辞を言う必要はない。僕は彼女と仲が良いわけでも、悪いわけでもない。良くも悪くも、ただのクラスメイト。そんな関係にもかかわらず、わざわざ僕の絵を褒めた、ということは。
「少しくらい、夢見たって良いのかな……」
 こんな絵を世間に発表するなんて、普通じゃあり得ないかもしれない。けど、深澤さんと同じように、誰かの心に留まるかも。だとしたら少しくらい、夢を見たって良いんじゃないか?
 リュックに道具を入れて、背負う。彼女が言う通り、やりもしないで諦めるより、少しくらいはそういうことをしてから諦めた方が、良いかもしれない。だからまずは、どうしたらいいか考えてみよう。

 翌日の放課後、早速、学校の先生にいろいろ相談してみたら、絵を売るなんて簡単な事じゃないよ、と遠回しに諦めろと言われた。
「悪いことは言わない。趣味程度に留めておくのが、一番いいよ」
 僕の相談を聞いた美術の池田先生は、そう言って僕にスケッチブックを返した。池田先生は若い男の先生で、女子生徒からの人気が高い先生だ。
「先生は美術の先生なのに?」
「だからこそだよ。私は、それこそ君の言う通り、都会の美大でそういう勉強をして、教員免許も持っているから、こうして公立中学校の美術教師として働けている」
「つまり、美大卒業生の先生から見たら、僕の絵は魅力がないってことですか」
「そうとは言わない。私の好みじゃなくても売れるものはごまんとあるし、そもそも私の専門は彫刻で、風景画じゃない」
「じゃあ、なんで……」
「私の知り合いに、君と同じようにイラストを描くのが好きだから美大に行った人がいる。けれど彼女は、ドロップアウトした。ジャンルを問わず、彼女より技能が高い人はたくさんいて、悲しいことに私もその1人だった」
 先生はため息をつきながら、空になった自分のカップにコーヒーを注いだ。僕の手元にあるカップに入っていたコーヒーはもうすっかり冷めていて、苦い。
「私は、美術を志す人は多い方が良いと考えているよ、もちろんね。……けれど彼女のように、夢を叶えられずに学び舎を去る人が増えるのは、嫌なんだ。悲しいじゃないか、夢に破れてしまうのは」
「……で、でも、僕は……そうならないかも、しれないじゃないですか」
「みんなそう言うよ」
 池田先生はそう言って、ほんの少し辛そうに笑った。
「独学、なんだっけ」
「そうです」
「そうか……それを鑑みると、君には才能があるんだと思う。でも、やっぱりこういう芸術の世界はどこもすごく厳しい。やること自体は止めないけど、おすすめも出来ないよ」
「……そうですか。ありがとうございます」
 世の中の大多数の大人は、多分そう言うんだろうな。お礼を言って準備室を後にして、そう思った。
 不思議なことに、反対されたからこそやる気になっていた。別に、池田先生を見返してやろうとか、そういう気持ちが生まれたわけじゃない。けど、こんな狭い町でも、僕の絵を好きだと言ってくれる人がいるんだから、都会に行けばもう少しなるんじゃないか。そんな風に、今までの僕にしては珍しく、楽観的に考えていた。

 インターネットで、近くの町で開催されるフリーマーケットを検索してみた。隣の市では、大体2、3か月に1回くらいのペースでやっているみたいで、今からだと今年の冬か来年の春に開催される回に参加できそうだった。過去の出店なんかを見てみると、古着やCDなんかの他に、ビーズのアクセサリーや粘土細工なんかも売られていた。出展料の3000円はちょっと厳しいけど、ちょっと漫画を我慢すれば十分貯められる。
「よし……頑張ろう」
 頑張ろう。実にあいまいで、でも、そう言うしかない。中学生じゃ保護者の許可がいるらしいから、申し込み開始日が近づいたら母さんに聞いてみよう。
 目標が出来ると、何をやるべきか、が明確になる。今年の冬の回に出すなら、イラストは10点くらい欲しいな、なんて、今まででは考えた事のない「締め切り」という概念を意識した。現状、売ることが出来て、かつ、売れるだろうと思えるイラストは2点か3点しかない。ほとんどがスケッチブックに描いていて、色だって付けていたり、いなかったりする。仮にスケッチブックに描いたものを売るとして、そのまま置いたってきっと誰も手に取ろうとは思わない。だったら、何が必要か? 額縁に相当する何かが必要になるだろう。そういうのは、どこに行けば売っているだろうか? でもよく考えてみたら、額縁の絵を持って帰るのは難しいかもしれないから、紙が入る大きさのクリアファイルとかの方が良いかもしれない。分からないことだらけだけど、何故だかすごく楽しい。

 月日はあっという間に過ぎて行って、フリーマーケットの参加申込日の初日になった。母さんに聞いてみると、二つ返事で了承してくれた。全部僕のお金で済むからだろう。あと、「売れるの?」なんて聞いてきたけど、そんなのやっとみないと分からないよ、とだけ言っておいた。
 母さんのサイン入りの申請書を持って、隣の市の市役所まで向かう。参加申し込みは先着順だから、初日に行っておくのが良いだろう。そう考えた僕は、学校帰りにそのまま役所に向かった。フリーマーケット参加申し込みはこちらです、と書かれた案内に従って窓口に向かったら、案外ガラガラだった。
「こんにちは。フリーマーケットの参加申し込みで、お間違いありませんか?」
「は、はい……そうです」
「それでは、申請書と本人確認書類、参加費3,000円をご用意ください」
 言われた通りに必要書類と参加費を出す。本人確認の為に、生徒手帳とわざわざ保険証まで持ってきたんだ。大丈夫なはずだ。
 窓口の人がいったん奥に行き、おそらくはコピーを取っているのだろう。大きな白い機械に紙をセットしたりしている。その様子を何となく眺めながら、普段はあまり来ない市役所を見回していた。たくさんの人が忙しそうに働いている。そんな中でぼんやりと手続きが終わるのを待っている僕は、少しだけ場違いに感じられた。
 どのくらいの時間が経ったかは定かじゃないけど、そんなに待たされずに窓口に人が戻ってきた。
「奥川悠太さん、受付が完了いたしました。こちらが控えと、当日の入場券です。無くさないようにお気を付けください」
「ありがとうございます」
 入場券は、安っぽいラミネート加工された紙だった。少し汚れているから、多分使いまわしているんだろう。でもそんなことが気にならないくらいに高揚していた。あと3週間で、フリーマーケット当日だ。イラストはいろいろな種類のものを用意したつもりでいるけど、本当に売れるだろうか。不安と期待がまぜこぜになって、じっとしていられない。制服姿のままであることも忘れて、外に出るなり駆けだす。
 まだ何も上手くいっていないのに、こんなに楽しい気分になるなんて、久しぶりだ。

 そうこうしているうちに、フリーマーケット当日になった。僕は朝早くに目が覚めてしまって、前日の夜までに準備は済ませてあると分かっていながら、持ち物の確認をしたり、お客さんがいない間の暇つぶしに使うスケッチブックや鉛筆の準備をしていた。準備万端、何も問題ない。お釣りも、昼ご飯も、ちゃんと準備した。
「行って来ます」
「悠太、どっか行くの?」
「隣の市のフリーマーケット。出店するから」
「あー、そう。頑張れよ」
「……うん」
 珍しく兄さんが僕に頑張れなんて言ったな。なんて思いながら家を出る。電車に揺られて、会場である公園に向かう。まだ開始1時間半前で、出店者入場もまだ始まったばかりなのに、ひどい人だかりになっていた。出店者の多くは僕よりも年上のおばさんばかりで、僕と同年代の同性なんてまったく見当たらなかった。同年代はいたとしても女の人ばかりで、それも多分高校生だとか、もしかしたら大学生かもしれないな、という雰囲気の、同年代というには少し年上の人ばかりだった。
 隣のスペースの人は、ビーズやガラスで綺麗なアクセサリーを作っている女の人だった。ロングヘアの明るい茶髪をくるくる巻いてポニーテールにしている人で、活発で明るい人だな、と一目見て思った。
「はじめまして、私、宮野智子です。今日は隣同士、よろしくお願いします」
「あ、はじめまして。僕は奥川悠太です。……よろしくお願いします」
「あれ、見た目通り若い感じなのかな? 幾つ?」
「14です。中学2年で」
「えーっ、中学生? すごいな、こういうイベント初めて?」
「ええ、まあ……」
「あんまり緊張しなくて大丈夫だよ。もし何かあったら私も助けるからさっ」
「あ……ありがとうございます」
 宮野さん、良い人だな。僕が逆の立場なら、きっと話しかける事なんてできなかっただろうし。それにどうやら、彼女はこういうイベントにすごく慣れているみたいだ。僕を含めた両隣、あと向かいの人にも挨拶をしに行っている。そういえば、ネットで調べたイベントのマナーで、そんなことが書いてあったな。よし、僕もやってみよう。そう意気込んだのはいいものの、宮野さんとは反対側の隣のスペースは、空きスペースだった。仕方なく、設営中の向かいの人に挨拶をしてみる。
「あっ、あの、はじめまして。僕、向かいのスペースの奥川といいます。今日一日、よろしくお願いします」
 勇気を振り絞って声を出してみたら、向かいの人たちは手を止めて挨拶を返してくれた。
「はじめまして。私たち、創作サークル「かげろう」って言います。君、小説は好き? 良かったら買っていって!」
「もう、チカったら。ごめんね。本気にしなくても良いから……」
「そ、それじゃ、失礼します」
「またねー!」
 びっくりした。チカと呼ばれた人は、背が低くていかにも可愛い系って感じの人なのに、すごく声が大きかった。そのチカさんを窘めた人は、チカさんよりも少し背が高くて、髪の長い人。どうやら、僕は結構いい人たちに囲まれたみたいだ。これは幸先がいいかもしれない。
 公園のスピーカーから、ぶつぶつと音がする。なんだろう、と思って注意を向けると、運営からのアナウンスがあった。あと15分で開場します。という業務連絡で、そこで僕は設営が終わっていないことに気付いた。とはいえ、宮野さんのアクセサリーや、「かげろう」の人たちのような小説と違って、僕のイラストは全部1冊のスケッチブックにひとまとめになっている。適当なページを開いておけば、それだけで良い。
 どのページがいいかいろいろと考えていたら、いつの間にか開場時間を迎えていたらしい。人がたくさんやって来た。やっぱり来場者は来場者でお目当てのものがあるらしく、宮野さんのところも、「かげろう」のところもあっという間に人が集まってきた。すごいなぁ、なんて眺めていたら、背の高い男の人が僕のスペースの前に立っていた。
「こんにちは。君が、ここのスペースのオーナーかな?」
「は、はい、そうです!」
「何を取り扱っているのかな」
 その人は、風変わりな格好をしていた。黒い帽子に、黒いマント、黒いズボン、黒い靴、全身黒ずくめだった。右目にはモノクルをつけていて、まるで漫画か何かのキャラクターだ。
「僕が描いたイラストを、売っています。このスケッチブックに描いてあるやつで……」
 そう言いながら、スケッチブックを手渡す。その人は、うんうん、だとか、ふむ、だとかいろいろと言いながらぱらぱらとめくっていく。
「どうですか?」
「そうだねえ」
 僕が声をかけると、ぱたん、とスケッチブックを閉じた。
「正直なところ、技術はまだまだだ。だが、私は君の絵が好きだな」
「……! ありがとうございます!」
「だが気に入った。1枚いただこう。この、夕日の絵は幾らかな?
 男の人が指定したのは、深澤さんが褒めてくれた絵だった。僕には良さが分からなかったけど、深澤さんに次いで、この人もこれを、お金を払ってまで欲しいと言ってくれている。
「1000円です」
「おや、随分安いんだね」
「その絵ならこの値段で手放せるから……」
「ほう。ありがたいな。良い買い物をさせてもらったよ、少年」
 スケッチブックのページを切り取り、クリアファイルに入れて男の人に渡す。彼はそれを小脇に抱えてから、ズボンのポケットから小さな手帳とペンを取り出した。黒ずくめの中で唯一、手袋の色は白で、やけに目を惹いた。
「差し支えなければ、君の名を教えて欲しい」
「お、奥川、悠太です。漢字、分かりますか?」
「オクガワのかわの字は、三本線の方かい?」
「はい」
「ユウタ。この漢字は?」
「悠久の悠に、太いです」
「太く流るる悠久……うん、良い名前だ」
 何に納得しているのかは分からないけど、多分褒められたんだろう。褒め言葉として、受け取っておこう。
 男の人は、僕の名前をメモした後、手帳のページを何枚かめくった。小さな紙片を手に取ると、それを僕に差し出した。小さな紙片は名刺だった。
「私は藤宮。古物商をしている。良かったら遊びに来てくれたまえ」
 そう言って彼は、かかとを使ってくるりとターンした。マントがふわりとなびいて、視界が遮られる。本当に不思議な人だ。

 結局この日は、藤宮さんが買っていった1枚だけしか売れなかった。もしかしたら、何を売っているのか分かりづらかったのかもしれない。何人かは足を止めて見てくれたけど、買うまでには至らなかった。もしかして僕、やり方をもう少し何とかすれば、もっとどうにかなるんじゃないか、なんて思うくらいには、初めてにしてはいい結果だったと思う。
 片づけを終えて、挨拶も終えて、家に帰る。機嫌のいい僕を見て、母さんが成果を聞いてきたけど、成果そのものはそんなに良くないから適当に濁しておいた。
 部屋に戻って、藤宮さんが渡してくれた名刺を改めて見る。名刺に書かれている肩書は「ふうりん堂店主」。聞いたことがないお店だけど、古物商、って言っていたからには、骨董品店だろう。住所は、今日の会場だった公園から歩いてすぐのところだった。どうせなら行っておけばよかったかな、と後悔する。今度の休み、行ってみるかな。お金はないけど、この間は絵を買ってくださりありがとうざいました、なんてきちんとお礼を言うのは、悪くない事だと思う。
「さてと」
 名刺をしまって、荷解きをする。お客さんがあまり来なかったから、絵はたくさん描けたけど、そのほとんどがラフともいうべき、おおざっぱなものだ。これを基に描くにしろ、そうでないにしろ、これから先、スケッチブックの消費量は多くなっていくだろう。月に5,000円の小遣いしかもらえない僕には、決して安いものではないから、これから先、いろんなものを切り詰めていくことになりそうだ。
 荷解きをして、少し休憩を入れようと椅子に腰かけた時、何故か急に、頭の中に深澤さんの横顔が浮かんだ。うつむきがちで、何かを見ているのか、熱心な表情をしている。僕はこの顔に見覚えがある。一体どこで?
 思い出した、あの日の……彼女が、僕の絵を褒めてくれた時の表情だ。
 それに気づいた僕は、スケッチブックを開き、鉛筆を手に取っていた。頭の中に浮かんだ深澤さんを、そのままこの紙の上に描き出すために手を動かす。
 一心不乱に描いていた。日が落ちて、部屋が暗くなるのも構わずに、夕飯に呼ぶ母さんの声も聞こえないほどに。今までにないほどの集中力で描き上げたのは、深澤さんそのものと言っても良いような、綺麗な横顔だった。どこか寂しげで、でも、目元には力があって。満足どころじゃない、大満足の結果だった。
「……よし」
「よし、じゃないわよ悠太! 何回呼んだと思ってるの!」
「うわ、あ、母さん」
「夕飯! 女の子の絵描くのに夢中になるのも良いけど、電気くらいつけなさい。目が悪くなるわよ」
「あ、うん……」
机の上の小さなライトの他に、光源がない。それなのによくここまで綺麗な絵を描けたものだ。僕はそう思いながら立ち上がり、リビングへと向かった。

3話-歯車

 フリーマーケットに参加して以来、僕は一心不乱に絵を描き、それを売るという行為の楽しさに目覚めてしまった。どうせなら、より売れる絵が描きたい。そう思った僕は、イラスト集や画集、背景集なんかを買うようになり、独学ではあるものの、毎日20枚以上の絵を描くようになっていた。そんなんじゃ当然、家にあるチラシの裏やスケッチブックじゃ全然足りなくて、学校からプリントの余りだとか、あっても捨てるだけの裏紙を貰うようになっていた。
 そんな僕の様子を見て、池田先生は何かを察したらしい。僕のためにわざわざ大量の裏紙を用意してくれるだけじゃなく、個展や美術館の特別展の情報を教えてくれるようになった。先生が教えてくれるところにも、出来る限り行くようにしてたら、忙しくはなったけど充実した毎日を過ごせるようになった。
 初めて僕の絵を買ってくれた藤宮さんのところには、ちょくちょく顔を出す程度の仲にはなった。彼が経営するお店、ふうりん堂はいつも閑古鳥が鳴いていて、お客さんが入っているところなんかほとんど見たことがなかった。
「藤宮さん、ここ、どうして潰れないんですか?」
「道楽でやっている店だからねえ。この土地は私のものだし」
「藤宮さんって、お金持ちなんですか?」
「さて、どうだろうか」
 藤宮さんとの会話はいつもこんな調子で、どことなく距離を感じるけど、楽しいのも事実だった。
 そんなある日、いつものように藤宮さんとの会話を楽しんでいると、滅多に開かないふうりん堂の扉が開いた。ちりんちりんとドアベル代わりの風鈴が音を立て、僕も藤宮さんも入り口の方を見た。そこには、見覚えのある女の子がいた。
「イツキ、約束の品を、……って、なんで奥川くんが……」
「深澤さん!?」
 そう、そこにいたのは深澤さんだった。手には何か大きな包みを持っていて、「約束の品」なんて言ってるからには、多分藤宮さんに何らかのお礼をしに来たんだろう。でも、どういう関係なんだろう? 藤宮さんと深澤さんに共通点があるようには思えない。
「凛奈ちゃん、遅かったね。もう来ないかと思ったよ」
「約束は約束だからね。で、なんでここに奥川くんがいるの」
「知り合いかな? たまたま絵を売ってもらった仲さ」
「……あんたってホント、読めないわ」
「それはどうも」
 学校で見るのとは違う深澤さんの姿に、思わず面食らう。他人に、こんなにもずけずけと物を言っている姿は初めて見た。ああ、でも、どこか既視感がある。そうだ、あの夕焼けの日の、絵を褒めてくれた時の……。
「奥川くん」
「は、はいっ」
「こんなとこいても良いことないよ。帰った方が良いんじゃない?」
「え、あ、うん。……藤宮さん、また来ますね」
「いつでもおいで」
 深澤さんと一緒にふうりん堂を出る。このまま帰ろうかな、と思っていたのに、深澤さんに手を引かれ、否応なく彼女について行くことになった。
 彼女が向かったのは、昔ながらの喫茶店だった。僕ら世代がおいそれと入って良い雰囲気じゃないにも関わらず、深澤さんはずかずかと中に入って行く。慣れている、のだろうか。
「あれ、凛奈ちゃん珍しいね。彼氏?」
「違う。くだらない事言わないでよ、叔父さん」
 カウンターの中でグラスを拭いていた初老の男性が、にこりと微笑みかけてくる。漢字の良い人だ。おじさん、って事は、深澤さんの親戚なのか。東京から越してきた割に、随分この辺りに知り合いや親戚が多いんだなぁ、なんて感心する。
「この人はクラスメイトの奥川悠太くん。奥川くん、この人は私の叔父の深澤雅さん。ここの喫茶店のオーナー」
「は、はじめまして……奥川です」
「はじめまして。凛奈ちゃんは結構気が強いところがあるから、新しい学校で馴染めているか心配してたんだよ。でも、ちゃんとこうしてクラスメイトを連れてきてくれるってことは、友達も出来たんだね。良かった」
 その言い方はまるで、叔父というよりは父親のそれに似ていた。おかしいな、と思って深澤さんの方を見ると、彼女は張り詰めた表情をしていた。余計なことを言ってくれたな、と言いたげなようにも見える。
「あ、あの……深澤さん?」
「……ん、なに?」
 声をかけると、いつも通りの表情に戻った。いや、厳密に言うと、いつもより少し無理に笑っている。
「あ……ごめん、なんでもない」
「そう? 奥川くん、やっぱり面白いね」
 やっぱり面白いって、いったい何が何だろう……? 疑問に思うけど聞ける雰囲気じゃないから、飲み込んでおいた。

 不思議なことに、ふうりん堂で深澤さんに会い、一緒に喫茶店に行った日から、彼女との仲が少し進展したように感じられた。相変わらず他のクラスメイトには話しかけないけど、僕には話しかけてくれる。野口なんかはなんで奥川に、みたいなことを平気で僕の前で言っていたけど、そんなの僕が聞きたいくらいだ。
 話しているうちに分かったことがあるとすれば、彼女はすごく絵が好きだということくらいだった。人物画も風景画も、抽象画だって何でもいい、というのだから相当だ。特に好きなのは、青の色調のもの。なら有名どころにもいろいろあるからいいね、なんて言ったら、ありふれたものはキライなの、とどこかで聞いたような返事をもらった。
「深澤さんは」
「なに?」
「絵、描かないの?」
「うん、私、絵を見るのが好きなだけだから」
「そっか……」
「奥川くん、変わったよね。前よりもずっと生き生きしてる」
「うん、そうかも。深澤さんが、絵を褒めてくれなかったら、こうはならなかったと思う。ありがとう」
「あはは、別に大したことしてないし」
 深澤さんの笑顔は、僕に元気をくれる。その事実に気付いたのは、この時よりもずっと後。もっとも、そのせいで、彼女との関係が終わりを迎えることになるのだけど、この時の僕は全く知らなかった。

 季節は過ぎゆき、僕らは3年生になった。受験の勉強も始まり、未だに進むべき道が分からない人も含めて、学年全体が受験一色に染まる。その中でも深澤さんはあまり焦っていないように見えた。僕は他人の事を心配している暇なんてないくらいには、親と揉めていた。
「だから……! 僕は絵の勉強をしたいんだ。都会に行って、自分の絵がどのくらい通用するかを知りたい、それはいけない事なの!?」
「そんなこと言っても、うちには余裕がないのよ」
「別に今すぐ行こうってわけじゃない。高校は、公立のところに行くよ。でも、大学は……美術を専門に学べるところじゃないと嫌だ」
「でもそういうところは学費が高いんでしょう? 無理よ」
「奨学金を借りる」
「返す当てがあるの? あれは借金なんだから。それに、美術を専門に学んで、それでどうやって食べていくつもりなの? ちょっとフリーマーケットで売れたからって、都会に行けば悠太より上手な人は、きっとごまんといるのよ」
「そんなの……そんなの分かってるよ。でも、諦めたくないんだ、これだけは……。高校に行ったら、バイトする。それを貯めれば、少しはマシになるだろ」
「4年間でいくらかかるか分かってるの?」
「……それは」
「ともかく、ダメなものはダメ。大体、お兄ちゃんだって高校中退だし……」
 また始まった。兄さんが高校を中退したのは、兄さんのわがままじゃないか。それにどうして僕が巻き込まれるんだろう。
 むしゃくしゃした思いを抱えたまま、部屋に向かう。絵を描く気分にはなれない。けど、何かをしていないと当たり散らしてしまいそうだ。仕方なく勉強机に向かう。学校の勉強は退屈で、だからと言って受験勉強もしたくない。
 ノートの隅に、デフォルメした猫のイラストを描く。その上に「大変だニャー」と吹き出しをつけてやれば、むしゃくしゃした気分もどこかに飛んで行った。このまま黙っていて状況が変わるとは思えないけど、とりあえず公立高校に行けるだけの学力は持っておこう。もしも大学の学費を出せないと言われたら、強硬手段だ。都会に行けばいい。もし、仮に、僕の絵が都会でも通用するなら、また同じようにフリーマーケットに出店すれば、売れるはずだから。無理に親を説得しようなんて、考えない方が良いのかもしれない。

 進路についてああでもないこうでもないを繰り返しながらも、季節は移ろっていく。僕と深澤さんは、休日に2人で遊びに行くくらいには仲良くなれていた。異性とそんな感じになったら、やっぱり多少は恋人という関係を期待してしまうと思う。僕はそうだったから、中学校生活最後の文化祭の後夜祭で、告白をしてしまった。
「深澤さん。……僕、君が好きだ」
「……え? 何の冗談?」
「冗談なんかじゃないよ。僕、君が好きだったんだ。あの時、あの夕日の日に、絵を褒めてもらった時から……」
 僕の言葉に、深澤さんはすごく残念そうな顔をした。まさか、告白されるなんて。そう、顔に書いてある。
「……ごめん、奥川くん」
「…………っ」
「私、奥川くんの事……そういう風には、見れない」
「……そ、そっか。そうだよね、ごめん」
「ううん、私こそ。……これからも、友達でいよう?」
「うん、もちろんだよ」
 はっきりと拒否されて、僕の甘酸っぱい青春というものは一瞬でその花を散らせる結果となった。よくよく考えたら、受験前の大変な時期に告白なんて、馬鹿も良いところだ。僕が逆の立場だったとしても、きっと断る。多分、落ち着いてから、とかそんな理由をつけて。
 細かい事情はさておき、振られたことによって、僕は勉強に身を入れることが出来るようになっていった。勉強をして、絵を描いて、それの繰り返しで毎日が過ぎていく。そんなに熱心に勉強をする必要はなかったけど、やっぱり、都会の大学に行くにはそれなりの学力が必要だろうから、高校ではできるだけ良い成績を取れるよう、その準備のつもりだった。
 受験日当日、深澤さんの姿はなかった。もしかしたら、教室が違うのかもしれない。探すことなんかはせず、自分のやるべきことを粛々と行うことだけを考えていた。その甲斐もあってか、何の苦も無く受験は終わった。受験生の中でも割と上位の成績だったみたいで、入学直後はいろいろな先生に褒められた。……けど、そんな称賛に意味はなかった。
 受験の時に姿が見えなかったという時点で、何かを察するべきだったのだろう。深澤さんは、東京の高校に行ってしまった。それを知ったのは、高校の入学式の日。深澤さんはとっくに東京に行っていた。何も言えずに別れることになるなんて、信じたくなかった。
 胸にぽっかりと、穴が空いているみたいだった。それでも僕は、立ち止まってなんかいられないのだから、と、無理やり自分を奮い立たせて、普段の勉強と絵の勉強を頑張り続けていた。その姿をずっと見ていたのは、意外にも兄さんだった。
 高校2年の秋、僕は唐突に兄さんに呼ばれた。その時の兄さんは、アルバイトではあるけれど週に4回、8時間働いていて、その給料の一部を家に入れていた。フルタイムには少し足りないけれど、立派に働いていた。
「なあ、悠太。お前、東京の美大行きたいんだろ」
「そうだけど……。でも、お金ないから無理だよ」
「俺が母さんを説得する。学費の事なんか、気にすんな。俺もお前の絵、好きだからさ……。絶対に通用するよ、日本だけじゃなくて、世界にも」
 兄さんがこんなに何かを熱く語っているのを見るのは久しぶりだった。しかも、その話のネタは僕の絵。嬉しくないはずがない。けど、やっぱり気が引ける。
「でも、兄さんのお金は兄さんのものだろ」
「母さんの事だから、俺が高校中退だから、お前は大学行くなとか言ってんだろ? そんなの、馬鹿馬鹿しいよ。高校辞めたのは俺のワガママだ。そんなことで悠太の未来が縛られていいはずがない。
 父さんにはもう、話通してあるから。だから……行きたいんなら、そう言ってくれ」
「……兄さん……!」
 兄さんのおかげもあって、母さんは僕の進学を認めてくれた。家族に支えられているんだ。諦めるわけには、いかない。その一心で、受験に必要なことをひとつひとつ、確実に終わらせていった。
 実技に、書類に、面接。全部自信を持って臨むことが出来た。弱気になったら兄さんが応援してくれたし、どうしても行き詰ってしまった時には、ふうりん堂の藤宮さんのところに行けば、お茶を飲みながら話を聞いてもらえた。たくさんの人に支えられて、僕は無事、東京の美術大学に合格した。春からは一人暮らしね、と母さんに涙ぐまれて、少しだけ迷ったけど、それでも夢のためだと旅立って行った。

4話-そして時は流れ

 そうして、10年が経過した。
 大学在学中に、先生に勧められて応募したとあるコンテスト。風景画限定で、まあ送るだけならと、一番のお気に入りを提出したら、なんとそれが審査員特別賞を受賞した。そのうえ、審査員のうちの1人が、特に僕の絵を気に入ってくれたらしく、わざわざ大学まで訪ねて来てくれたのだ。
 その時の縁がもとで、僕はそこそこ有名な画家になることが出来た。初の個展を銀座の画廊で行うことになり、テレビの取材なんかも来た。とても忙しくて、充実した毎日だ。
「奥川さんは風景画が専門でしたよね」
「はい、そうです」
「けれどこの一点だけ、女性の……」
「そうです。僕がこの絵の道に進むきっかけをくれた人です」
「もしかして、恋人とか……?」
「あはは、だったら良かったんですけどねえ」
 個展には家族の他に、ふうりん堂の藤宮さんにもチケットを送付した。本当なら、深澤さんにもチケットを送りたかったけど、どうしても連絡先が分からなかったからできなかった。
 最終日の、もうあと10分で終わってしまう、という時。夕日の風景画の前で足を止めている女性がいた。
「その絵、お好きですか」
「えっ、ええ、まぁ……」
 綺麗な黒髪に、ゆるくウェーブをかけている人だ。僕は一目見ただけで、彼女が誰であるかが分かった。
「……お久しぶりです、深澤さん」
「……奥川くん、覚えててくれたんだね」
「そりゃもちろん。僕がこうなれたのは、君のおかげだから……」

さなぎ

さなぎ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-07-18

Copyrighted
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  1. 1話-出会い
  2. 2話-行雲
  3. 3話-歯車
  4. 4話-そして時は流れ