『マティス展』



 素焼きした器のフォルムを活かすようにして施される絵付けだから、意匠に富んだ完成品に覚える美しさは空間的に語られるべきである。しかしながら一方で素焼きのフォルムを平面的に変容させた絵画表現の良さを適切に評価しないのであれば、その交点に生まれる表現物としての価値は見過ごされる。
 故に鑑賞者として欲張ろうと思えば、絵付けが施されることで部分としても全体としても成り立つこととなった器物の空間美に迫れる視座を私たち鑑賞者が想像的に設定しなければならないし、また手に持って見るか否かというただそれだけで作品表現の顔つきは幾らでも変わるのだから、装飾に凝った意匠が器に齎す質感の変化を追うために設定した視座の放棄をその都度、躊躇わずに実行しなければならない。器物に添えられる副次的な表現としての絵付けに注目する時間から、絵付けを施す為のキャンバスとして存在する器の形状の面白さを知ろうとする時間を過ごすように。
 表現物としての主従の区別を維持しながら何度も行う、この評価の往復が繰り返される部分にこそ絵付けが施された器物の美しさはその姿を垣間見せる。と同時にその瞬間にこそ別個独立の表現行為に対する評価軸は絵付けが施された器物に関して起きる事態に触発されて、刷新される。その結果として生まれる自由と可能性を喜ばない表現者はきっといない。だから誰も彼もが臆せずに新たな表現に挑戦するし、未知の領域に足を踏み入れる。将来的にはその努力の果てで結実した革新がいつしか当たり前になり、鑑賞者の口の端に引っ掛からないぐらいに古びてしまうものだとしても、その手を動かすことを表現者は止めない。止められない。



 名声や金銭といったあらゆる名称を付すことが難しくないこの欲に、どこまでも純粋に向き合えるのが表現者としての何よりの才能だと筆者が思うのは、こと表現に関しては表現者の欲深さが世界を動かすと信じるからである。
 すなわち感動に覚える興奮という刺激は人間精神の開拓と嘯ける言葉の羅列を導き出し、私たちの周りに新たな言葉を溢れさせる。それらの言葉が伝える世界の肌理が以前と同じものにならないのは、それらの言葉がかつて覚えたことがなかった衝撃的な体験を和らげるために用意された理屈のクッションであるからで、それらの言葉を用いて以前と変わらない私に戻ろうと試みても、それは「前と同じ私」になろうとする歩みにしかならない。故に世界は変わる。嫌でも変わる。だから主観的に語れる「客観」的世界に穿つ穴の中から見えるものを表現者が作品表現を通じて追い求めるし、そこに覚える感動を鑑賞者が貪欲に求める。
 しかしながらここで交わされる熱情こそがアートの歴史を支えてきたのだし、それを目的にした市場の形成維持に間違いなく寄与してきた。作品表現に付加価値を与える社会的文脈による解説も、かかる感動のやり取りを基礎にして成り立つ営みである事に変わりはない。この事実は、これからも何度だって確認されていい。作品表現がなければ感動は生まれないし、かかる作品表現を生み出そうとするのは制作者の欲望だ。故に全ての事柄が表現者から始まっていると言っても過言ではなく、抑えきれない好奇心や苦しみを抱く意思主体の存在なくして語れる芸術とは決してならない。
 だからこの点にスポットを当てる展示会があるとすれば、そのコンセプトは表現を一から問い直す野心に燃えている。筆者にとって、東京都美術館で開催中の『マティス展』が正にそうだった。



 本展で鑑賞できる「豪奢、静寂、逸楽」は筆触分割に拠ったまごうことなき新印象派の一枚であり、レジャーを楽しむ一場面が上部に抜け感のある発色に彩られて画面全体が幻想的に仕上がった素晴らしい作品表現として手放しで称賛できる、あのアンリ・マティスの絵として見なければ。
 ここに続く言葉として「らしくない」以上に相応しいものはないが、それはアンリ・マティスが成し遂げた作品表現の数々を知っている私たちが、それこそ美術史の色眼鏡を掛けたまま鑑賞するからで当時のマティスになったつもりで想像すれば当該作品は師であるギュスターヴ・モローの死後、自由な画風の確立に挑む画家が技法としての可能性を検分する意味も含めて取り組んだ意欲作としてその重要な意味に気付ける。
 貪欲なマティスの探究心は新印象派の技法に止まらず、例えば「白とバラ色の頭部」ではモデルとなる長女のフォルムをキュビズム的な多面性で構成し、デザイン画を思わせる程の装飾を施す一枚として完成させていたり又はあのセザンヌを彷彿させる画面全体の特異な均衡が、歪な形状を保つモチーフ間のバランスにまで還元される「緑色の食器棚と静物」をも描いていたりと多岐に渡っていたのだが、いずれの技法もキャンバス内の空間構成に多大な影響を与えたものである。その意図は、マティスの「豪奢Ⅰ」を鑑賞すると痛いほど伝わる。
 ここで紹介したいマティスの「ラ・フランス」は筆者が大好きな一枚であるところ、その良さはフォルムのユニークな取扱いにある。
 かかる一枚でマティスはモデルとなる女性とその女性が腰掛ける椅子の形状をリズムよく重ねては、女性が身に付ける豪華な衣装の膨らみを壁紙のように簡素に扱い、豊かな発色が生きる平面を巧みに構成する。そのために必要なモチーフの等価性を、しかし「豪奢Ⅰ」では全く果たせていないと筆者は思った。モチーフのフォルムの柔らかさがマティスらしい分だけ人物と背景の異和が妙に際立って見える。それが「豪奢Ⅰ」の一枚に対して「豪奢、静寂、逸楽」と同じ不満を覚えさせる原因となっている。だからそれを解消する術を確立したことが、私たちが知るアンリ・マティスの絵画表現へと発展する契機となったはずである。それは何だったか。
 その答えを、筆者はマティスの大型彫刻作品である「背中Ⅰ」ないし「背中Ⅳ」に求めてみる。



 筋肉と骨から成る男の背中をNo.ⅠからNo.Ⅳに至る過程で抽象化していく「背中」シリーズは、確かに人の身体を幾何科学的に捉えることを画家に許した。つまり人物を図形として抽象化することで背景を構成するモチーフとの齟齬を解消することができる。「豪奢Ⅰ」でマティスが直面していると感じた異和の問題は、こうして解決されたと考えることは決して不可能ではない。
 しかしながら一方で、同じ会場で鑑賞できる女性の頭部の彫刻作品、「アンリエット」シリーズはⅠからⅢへと至る過程で複雑さを増す立体作品となっていた。特に多面的に仕上げられた「アンリエットⅢ」を隣に展示される「アンリエットⅡ」の滑らかな造形美と交互に眺めると、マティスの狙いがモチーフの抽象化にだけあったとは思えない。そもそもシリーズ作品に行われるナンバリングが鑑賞者に対する一方向の指示だとも限らないのだから、鑑賞者の方で番号を遡る自由を行使することに何の問題もない。
 そうして「背中」シリーズをNo.ⅣからNo.Ⅰに遡っていけば、「背中」の探究はマティスが作り上げる簡素なフォルムの内側に隠されていた立体の複雑さを表立って見せる過程として理解できるし、その上でもう一度「背中Ⅰ」から「背中Ⅳ」に至るまでの変化を追うと「背中」シリーズは相当複雑に作り上げたモチーフを表面的に滑らかにして空間化するのに必要なもの、例えば絵付けが施される前の素焼きの器物の様な、何かが描かれるべき空白と予定を備えるための準備期間ではなかったかと想像できる。つまり「背中」シリーズで試した表現をキャンバス上で行うことで、別個独立の空間と化した数個のモチーフがさらに上位の空間形成に向けて美的に整えられていく意味を持たせられる。ここに『マティス展』の第二部、「ラディカルな探究の時代」で夢中になって鑑賞した「金魚鉢のある室内」や「アトリエの画家」の特異な表現が素晴らしい空間構成によって成立していたことも思い出せば、アンリ・マティスの絵画表現に欠かせないのは飛び抜けてセンスのいい空間性にあったと発想するのは難しくない。しかもかかる空間性は、時間的に遡れば極めて精緻な写実的表現になっていたかもしれない複雑さを取り戻す可能に満ちていて、具体から抽象、抽象から具体へと行き来できる広がりを有する。故にどれだけ大胆な色彩表現を施しても見劣りすることのない存在感に溢れる。
 かかる観点から振り返れば前述した「ラ・フランス」もその絵画表現が写実になった姿を想像でき、また画中画を意識して「赤の大きな室内」の画面を縦軸と横軸で区切った後、テーブル上に並べられた無数の鉢植えが成し遂げている空間形成の妙を時間的に噛み砕く意味を見出せる。さらに後年の作品表現である「ジャズ」においても、用いられた切り絵が紙として別の紙に上から貼り付けられていくことで紙面上に空間と時間が交差する表現行為が生まれていると評価することができると共に、「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」については教会という建物の内部に差し込む光の角度やその量の変化を、ステンドグラスを介した色彩表現の違いとして取り込む事で空間変性を現実のものとした。そういう意味でかかる礼拝堂の仕事はかつてない規模の時空間を直に取り扱った作品表現になり、マティスはそれを一番の仕事として胸を張った。そう理解することができる。



 俗っぽい言い方をすれば、目が覚めるぐらいに仕上げられたマティスの装飾性は見ていてドキドキするし、広告でも多用されるデザインとの親近性に基づいてその視覚効果を論じるのもきっと面白い。けれどそれは、絵付けが施される器物のフォルムを忘れるのに似た一面的な評価に拘る勿体無さを生んではいないだろうか。
 野獣派と評された大胆な色使い以上に、アンリ・マティスが画面に施す空間の工夫に基づいてかの画家の画風を具に観察すれば、イラストめいた自画像にも途轍もない安定感を画面上に見つけられる。名作と言われる物語ほど冒頭に優れるのに似て、マティスの絵画は一目で全てを語るのだ。私たちはその分かりやすさに溺れてはならない。水面を目指して一所懸命にもがかなければならない。その機会を『マティス展』が用意してくれる。かの画家の苦しみと共に見せてくれる。他に類を見ない企画の切り口の鋭さがここにある。
 かの画家の作風の真骨頂に迫る一番近くて長い道のり。それを是非とも会場内で体験して欲しい。

『マティス展』

『マティス展』

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-07

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