ばいばいロックンロールスター
随分昔の話で、京王線沿いのとあるライブハウスにはよく熊が出た。
これはどこかの田舎でよくある熊出没注意的なハプニングではなくて、彼(熊は雄のツキノワグマだった)はきちんと演者としてステージでギターを弾いた。
傍からみれば、それはコミカルな狂気を隠しようもなく孕んでいるのだけれど、何故だか彼も客も、誰一人として彼が熊であることを大して深刻に考えている人はいなかったように思う。
一つの要因として、彼の演奏はそれほど魅力的だった。種族間を黙らせるだけの確かな技術が彼にはあって、象が鼻で絵を描いたり、猿が太鼓を叩く微笑ましい興行とは明らかに一線を画していた。
指なんて無いようにみえる彼のゴワゴワとした掌は、それでもローズウッドの指板を丁寧に滑りながらきちんと音を当てて、なんだかウィルコ・ジョンソンを思わせる。
そして何より、彼は人の言葉で淑やかに歌を歌った。つまるところ彼は僕らと同じ言葉を操れた。パディントンみたいに。
ライブハウスのみんなはそれで充分みたいだった。誰も彼より巧くギターを弾ける人間はいなかったし、人と話す彼はウィルコがそうであったように実に紳士的なギタリストだったから。
ただ誰も彼の種族を気にしないと言っても、勿論惜しむ声もあった。彼が熊じゃなければどれ程のスターになれたろうなんてのは、彼が演奏する度に誰かしらが必ず口にした。
そうした声が出ると、彼は決まってOasisのRock'n'Roll Starを歌った。
輝くスターになるための人生だけど
外野は相応に生きろと言う
頭が足りないとも言われるが
そんなの寝てるのとおんなじさ
車に乗って遠くに行って
誰の意見も気に掛けない
夢を現実に持ってきて
みんな俺を気に掛ける
今夜、俺はロックンロールスター
今夜、俺はロックンロールスターさ
その歌を歌うとき、彼は間違いなくこの世界のどのギタリストよりも輝いていたと思う。
たいした技術を要求されるような曲じゃないし、歌だって例の兄弟が聴いたら中指を立てるかもしれないけれど、それでもその瞬間のライブハウスはみんな揃って手をあげて、彼を惜しまず称賛した。
そして、僕もかつてその波のひとつだった。
僕は一度、彼と食事をしたことがある。
食事と言ってもたいしたものではなくて、僕らはつつじヶ丘駅のミスタードーナツでいくつか選んで、それを近くの公園でふたりで座って食べた。
どうしてそんなことになったのか、昔の話だから詳しく思い出せないけれど、当時僕はそこらに住んでいたから、彼を見かけて思い切って声をかけてみたとか、きっとそんな瑣末なことだったと思う。
僕らはちっぽけな東屋の下で、ベンチにふたり並んで黙々とドーナツを食べながら、いくつかポツポツと、ささやかなお話をした。
「どうしてギターを弾いてみようと思ったの?」僕はそんな当たり障りのない話題を振ったような気がする。
「やっぱり熊がギターを弾くのは変かな?」
「まあ、そりゃあ……普通ではないような」
僕はココナッツチョコレートを食べて、彼はベーコンのパイを食べていた。
彼は大きな口でパイをチビチビ食べながらすこし考えて言った。「ねえ、犬や猫は人の言葉を理解しているってほんのすこしでも思ったことはない?」
僕は家にいる語り掛けると笑って尻尾を振る無邪気な白いダックスフンドを少し思い出して、彼が言っていることが少しわかった気がした。
「動物はみんな本当はあんたみたいに振る舞えるってこと?」
知ってはいけないことを知った気になって、変な寒気に近い恐ろしさを感じた。けれど彼は優しく「さあね」と僕の恐怖を一言で吹いて払った。
「ただね、俺は生まれたときからわかってた。なんていうか、役割とか、熊としてするべき態度みたいなものを。他の熊だとか犬とか猫とか彼ら彼女らがどう考えてるかは知らないよ。俺が今君がなに考えてるか知らないみたいに、脳みその共有は誰にもできないから。ただ生まれ持った自分の脳みそのことはよくわかってる」
「……それはなにか難しい話?」僕は彼の言っている意味がよくわからなくて首を傾げた。
「いや、簡単なことだよ。人だってそう。こう歳を重ねていくとさ、自分の振る舞いの結果とかがだんだん予測出来るようになっていく。ここでキレたら後が面倒だなとか、ここはヘラヘラしておこうとか、男らしさとか女らしさとか、そんな下らないこと。そんなことを俺は生まれたときから知ってたってことだよ。言うなら熊らしい生活と、そのやり方というか、あり方みたいなこと。けど俺はそれが出来なかった。動物みんなが出来てるその種族らしさみたいなことを全部無視してギターを弾いてる」
「つまり空気が読めないってこと?」
自分で言ってバカみたいだと思った。けれど彼がそんな僕の言葉に少し吹き出して、口を拭いながら笑ってくれたから、なんだか少し安心した。
「端的だね。けど言っちゃえば本当にそうで、俺は本来長野あたりの山奥でグーグー鳴きながら木の実や虫でも喰ってるべきなんだ。そうするべきってのを生まれたときからわかってるけど、ギターを弾かずにはいられないってこと。全部ミック・グリーンが悪いんだ。彼の演奏を聴いて弾きたくなっちゃったんだから。理由なんてそんなもんだよ」彼はまたヘラヘラと笑って「けど、自分を異分子って自覚しながら、それでも声を出してギターを鳴らしてるんだから、それって凄いロックだろ?」
「ロックだね」僕は言った。「この世の生物で一番ロックだよ」
それから僕らは笑いあって、公園を後にした。
彼はそうして、ライブハウスによく現れては公園で僕に語ったように自らを表現し続けた。所謂熊としての空気の読めなさを。
彼がギタリストとして研ぎ澄まされていけばいく程、熊らしさは失われていったけれど、そんな彼に僕らは沸いて歓声を浴びせる。
今夜、俺はロックンロールスター
今夜、俺はロックンロールスターさ
誰もその言葉を疑ってなかった。
そしてそんな彼の演奏を、当時の僕らはいつまでも変わらず聴いていけると思い込んでいた。彼が何者であるかなんて見た目からしてわかっているはずなのに、僕らは彼の空気の読めなさを温かく受容していたから。
僕らの別れは突然やって来た。思えば当然なのかもしれない。ブライアン・ジョーンズやシドヴィシャスがそうだったみたいに、輝かしいスターの終わりは途轍もなく早くやって来るものだから。
別に彼はドラッグやアルコールみたいな、そんな下らないことで損なわれはしなかったけれど、ただ僕らが手放しで認めていた、彼がロックンロールスターである所以を、世間は別に誰も許してなかったって話だ。
簡単な話、彼は区の保健所に捕まって、無機質な固い檻に入ったまま誰にも知らされずひっそりと殺処分された。
当然、初めはみんな憤慨して保健所に詰め寄った。建物の中で泣き崩れる人もいた。
けれど職員は決まって「通報がありましたので」や「区の法令に則って対処しました」と同じことをいつまでも繰り返して、僕らなんてまるで相手にしなかった。
「彼は最期になにか言ってませんでしたか」僕はメガネをかけた細身の女性の職員に一度だけ訊ねたことがある。
彼女はあからさまに困った顔して「すみませんなにぶん熊ですから、ただ少し鳴いていたくらいで何を言ってるかは……」と口ごもった。
そうして、僕らの訴えや嘆きなんてものは、結局誰にも受け入れられずに(世間は歌ってギターを弾く熊の存在を頑なに認めなかった)簡単に月日は流れて、この話がただのイカれた昔話になった。
今こうしてそんなふざけた昔話を思い出すのは、僕が今、投げ出すには抱え込みすぎた下らない人らしい日々を送っていることに気がついたからだ。
別に彼の言っていたことや生き方が正しいとは限らない。彼は結局ギタリストとしてではなく、そこらの熊と同じように呆気なく死んでしまったから。そこに明るい教訓はなにもない。
どこかで折り合いはつけなきゃいけない。夢と現実とか、良いこと悪いこと、自由と責任みたいなものを。あの保健所の職員の彼女はたまたまその分水嶺だっただけだ。
ただ、例えば朝早い仕事のために目覚ましをセットしているときや、満員の電車に揺られているとき。財布と通帳を交互に眺めているときや、好きでもない相手と顔を会わせて食事をしなければならないみたいな、どうしようもない下らない現実と顔を会わせないといけないときに、ふと彼のギターの音色と歌声が、ちっぽけな頭の中でリフレインする。
今夜、俺はロックンロールスター
今夜、俺はロックンロールスターさ
けれど、だからといってどうすることもない。僕は今に妥協しながら、彼をそっと過去のものにして生きていくんだろうと思う。
彼が輝いていたのは、やっぱり昔の話だから。
ばいばいロックンロールスター