コスモノート
空の先がいったいどんなところなのか、僕には全く想像できなかった。
想像ができないのは、実感のない大きな物理的な枠組みにそれといった関心もないからで、日々を生きることに必死だった僕は、夜の星空の下をどちらかといえば俯いて歩くほうが多かったと思う。
ただ物事の始まりは様々で、稀に自分の意思や興味や行動なんかとは関係無しに、偶然の濁流に飲まれるときがある。ヤってもないのに世界で最も偉大な母親にされたどっかの聖母みたいに。
僕の濁流はまさにその空の先だった。
ジャン・シベリウスが死んだ年の始めに、僕は何処からか連れられて、なにもない白壁の部屋の明るい照明の下にいた。
どうしてそんなことになってしまったのか全くわからないけれど、目の前に現れた天使みたいな人々は、僕をそこへ、言うなら宇宙へ連れていくと言って聞かなかった。
まだ誰も到達したことのない場所への大きな一歩を、彼らは仰々しく栄誉あることみたいに僕に譲った。いや、譲るなんて言い方は間違いかもしれない。だって僕に拒否権なんてものはなかったから。
人生において、その日の食事がきちんとあって、それからゆっくり眠れる場所があれば僕はそれで良かった。けれど身の丈に合わないレールを横から勝手に引かれて、要らない栄光の為に生きていくうえで何ら必要のない訓練をこれからしなければならない。
何故僕が選ばれたのかも、これから僕がどうするべきかも、なんの説明もなかった。ただ澄んだ夜空みたいな暗い星々の写真を少し見せられて「君は僕らより先にここに行くんだよ」と言われた。そして「それは偉大なことで、君の名前はずっと残るだろうね」と写真を持った男は続けた。
それってどうなんだろう? 幸せってなんだろうと、ポツリと考えてみる。
このまま宇宙へ行ったとして、僕の名誉が歴史に残っても、それはどこまでいっても迷惑なだけで、そこに感動もなにもないんじゃないかと思う。
大昔にフランスで戦った敬虔な農夫の娘は、名前が残ってあの世で喜んでいるだろうか? 彼女もただお告げ通りに動かされた人でしかないけれど。
幸せってのは本人の欲望の先にしかないものなんじゃないかなんて考えてみる。けれど僕に食事を持ってくる男は優しく「お前は幸せ者だね」と語りかけてくる。
「そうかな? そう見える?」なんて返してみると、男はただ人差し指を口の前に持ってきて僕を黙らせた。それから僕の問いかけに答えないまま何処かへ立ち去った。
そうして結局、何の答えも出ないまま否応なしに訓練が始まった。
訓練といっても、身動ぎもできないような部屋に閉じ込められて、ただそこに突っ立ってるだけだった。変な機械を弄ることも、難しい計算を覚えることもない。
「ねえ、これでいいのかな? ただ立ってるだけだけど」
僕がそう言うと、決まって喋るなと返された。そうして黙っていると、暫くして女の声が聞こえて「あなたはただ大人しくしてればいいわ、あとは私たちがやるから」と言った。
彼(彼女)らは、僕がなにか語りかけると喋るなと言うくせに、向こうから一方的に話しかけてくる。
勝手だなと思う。けれどまあ、ちゃんと訓練後に食事が出ればそれで良いとも思える。
自転も公転も衛星も彗星も、何かしら周期や摂理があって存在している。ただ僕にとってはそんなことはどうでもよくて、訓練後の食事の法則さえ崩れなければなにも問題はなかった。
そんな呑気なことを考えて、日々狭い部屋に突っ立ってるだけの訓練を重ねていると、ある日訓練室に一匹の雌の犬が入ってきた。
「どうも」彼女は言った。目鼻立ちの整った綺麗な犬だった。
僕は少し面食らって「あぁ」となんとも言えない息みたいな声が漏れた。
普段なら何処からか喋るなと声が聞こえてくるところだけれど、なんだか今日はそんなことはなかった。不思議なことに。
「ねえ」彼女は言った。「あなたも宇宙にいくの?」
「行くといくか……行かされるというか」そこまで言って口ごもると、彼女の言葉の違和感に気がついた。「あなたもって、君もいくの?」
「ええそうよ! そのために毎日大変な訓練しているんだもの」彼女は笑って赤い舌をチロチロ出した。
「そう……、僕が初めて行くって聞かされてたから」
少しの喪失感があった。大げさな言い方かも知れないけれど、他に言葉を知らないからそうとしか言えない。
勝手に連れてこられて仰々しく与えられた役割が、別に自分以外でも成り立つことを知ったとき、こんな気持ちになるんだと初めて気付いたから。
「気分悪くさせちゃった?」彼女は僕の顔を覗いて本当に申し訳なさそうに言った。
「いや、ちょっとびっくりしただけ。そもそも僕は別に宇宙になんて行きたくないんだ」
「行きたくないの?」
「大して空にも星にも興味がないから」
そうした返事が強がりに聞こえたのか知らないけれど、彼女は俯く僕に優しく語りかけてくれる。
「ねえ宇宙って言ってもね、別に空や星だけじゃないのよ」
「他になにがあるのさ」
「私はね、この空の先へ行けたらそこから地球を見たいの。別に宇宙は見上げるだけじゃなくてね、今私たちのいる場所を俯瞰でみれる場所でもあるのよ。ねえ、想像してみて。もし望遠鏡でお月様を覗くみたいに、傍からこの地球をみて、美しいと思えたらそれってとても素敵なことじゃない?」
僕はその話を聞いて、いつも俯いて眺めていた地面について少し考えてみる。地面は茶色だから宇宙から見た地球は茶色なんだろうか。けど森もあるから緑かもしれない。この建物の屋根の色は?
傍からみた地球なんて考えたこともなかった。けれど確かに、もし空を見上げるみたいに地球をみれたとして、それが美しかったらさぞかし気分はいいんだろうなと思う。だって自分がその美しさの一部って知れるんだから。
そう考えれば、実感のない大きな枠組みが、なんだか地球を眺める望遠鏡が置いてあるただの一室に思えて、ほんの少し宇宙を身近に感じた。
「それって凄い素敵だと思う」僕は彼女に心から同意した。「けど、もしなんだか薄汚れてたら? それは悲しくないかな。期待のぶん余計に」
「あなたって本当後ろ向きなのね。ねえ、だから私は一番に行って確かめたいの。人から地球が汚れてたなんてもっと聞きたくないじゃない。よく考えて、私達が一番に行って、そこで見た地球がもし汚れてたとしても、二人で黙って綺麗だったわなんて言えば皆素敵な気持ちになれるじゃない。そうして本当のことは私たち二人の秘密になるの。今度はそうした二人の秘密が、将来あの人達が実際に見たときどんな反応するかしらなんて、悪戯を帯びた明るい無邪気な思い出になるものよ」
彼女は屈託のない笑顔を僕に向けた。
暗い空の先で、笑う彼女と二人で地球を眺める姿を想像してみると、なんだかフワフワと浮いた気持ちになる。
「確かにね、そう思うと宇宙に行くのも悪くないかもしれない」
「そうでしょ? 私も楽しみが増えたわ。後ろ向きなあなたが地球を眺めて何て言うかしらって」
彼女の笑顔につられて僕も笑った。そうして暫くすると、いつもの女がやってきて、僕と彼女を黙らせた。
それから彼女はまた別の部屋へ連れられていくと、不思議なことに僕は訓練もせず部屋へ戻された。
結局、彼女と出会ってから僕は二度と訓練することはなかった。
後から知ったことだけれど、彼女は僕と宇宙飛行を共にする同士ではなく、訓練に消極的な不甲斐ない僕の代わりだったらしい。元から席は一席しかなかったわけだ。
別に落胆はなかった。彼女に役目が変わった理由通り、意欲は元から大してなかったから。
心残りがあるとすれば、彼女のあの笑顔だけで、彼女に僕の地球をみた感想を伝えられないことは少し物寂しく思う。
人々は暫くすると、役目を失った僕を元いた場所へ戻した。待ってくれている家族も友人も誰もいないから、別に喜びも悲しみもない。
そうしてまた日々生きることに必死になって、その日の食事と寝床を考える。そう思えばまだあの訓練室は食うには困らなかったから、良い場所だったと言えるかもしれない。ただ僕の発言を遮るあの女の声が無くなったことは何物にも代えられない至福でもあるから、結局のところどちらが良いとも言えない。
つまるところ数ヶ月のあの訓練は、僕の人生にとってなんの得にならないちっぽけな濁流だった。最後まで流れてしまえば、今頃僕は有名人だったのかもしれない。ただ何もかも中途半端に投げ出された僕は、結局何者にもなれずにまた俯いて日々を生きている。
けれどそれで良いとも思う。やっぱり幸せってのは本人の欲望の先にしかないものだと思うから。
その点、彼女は幸せだったんだろうと思う。宇宙へ行くことを心の底から楽しみにしていたようにみえたから。
彼女がどうなったか僕は知らない。僕が施設を出た数ヶ月後に彼女は暗い空の先へ打ち上げられたらしいけれど、僕の知っている情報はそれっきりだった。
彼女は地球を眺めることができただろうか? そうしてもし眺めることができたなら、彼女は僕を置いたこの星をなんて形容しただろう。
俯いて日々を過ごしながらも、たまに彼女が行った場所を眺めてみる。
暗い空の先を僕は想像することができない。ただひっそりとした宇宙で、僕のいるこの星を「綺麗ね」と言って笑う彼女を想うと、こうして空を眺めることもなんだか悪くない気分になれる。
コスモノート