恋した瞬間、世界が終わる 第9部 竪琴のなかで
第9部 竪琴のなかで 編
第63話「オルフェウス、竪琴と共に」
GIの研究室の書庫に、また一冊の書物が持ち込まれたーー
「この古いパピルスを手に入れるのには少し苦労したよ」
パピルス文書とは、カヤツリグサ科の植物の1種、カミガヤツリの地上茎の内部組織から作られる、古代エジプトで使用された文字の筆記媒体のこと。パピルス紙とも呼ばれる。「紙」を意味する英語の「paper」やフランス語の「papier」などは、パピルスに由来する。
(ウィキペディアより)
黒い服の男はGIに、様々な伝承、古史古伝、文献を基に、(再)創造、(再)定義、(再)解釈、(再)利用された物語による“方法”の試みと膨大な時間の蓄積の因果を与える。
「修復は何処まで進んでいる?
まさか、また中途半端な襤褸布(ぼろぎれ)の状態で持ってきたのか?」
大きな世界地図を広げても余るほどのテーブル上、俎上に載せられていたのは、黒い服の男が運ぶ信憑性だった
「これに修復は必要ない
ジプシーの連中が大事に抱えてきたものだ」
「ジプシー?
お前たちの眼はウジャトの目とはほど遠いね
今さらジプシーに何を期待できる?
フラメンコ ギターの奏法でも習うのかい?」
GIは、その器用な左手でフラメンコ ギターのラスゲアード奏法の動きを真似て、パピルス文書の上っ面にある埃(ほこり)だけを払って見せた
「GI、君にはその方が良いだろう?
君は好きだろう?
あの実験室のカプセルの中にいる女
あれは、純血ではない移民の人種だろう?
スペインからアルゼンチンへと渡った移民の中に紛れていたのか
君は原初の物や血を好んでいるのに、どうして混血を守るのか?
ウジャトの目、いや、プロビデンスの目でも分からない」
「その日に成れば、分かることだ」
青い眼の男GIは、本当に青なのか、“青みがかった何か”なのか、黒い服の男は監視するように黒い眼で覗き込み、青の眼の縁や、奥にある陰を凝視した
「GI、君にだって欠点はある
それは、紙の上の出来事を信じ過ぎてしまうことだ
君自身が神託を聞こえるようにすれば
こんな襤褸切れはいらないのではないか?」
「(信)じるに、取り(憑)くモノが、信憑性だ
竪琴自体が欲しいわけではない」
黒い服の男は、GIの青い眼の瞳孔に、不思議な読み取れない色があることを認めた
「真実を探しているわけではないということかな?」
「心配するな、終になっても歴史はまた積んでゆく」
青い眼は、右手に視線を落とした
「目に見える竪琴か、目に見えない竪琴か
まあ、良いさ、いつか口伝や吟遊詩人でも探しに行ったら良い
君は“紙の上の物語”に頼りすぎている
それとも、誰かとの口約束でもあったのかい?」
GIは左手で、スピーカーのスイッチを入れた。
音量を上げていったーー外は、深々と、もう溢れさせんばかりの雨が降っていた。
誰かのグラスを一杯にして、容量をとっくに超えてしまっていた。
誰かの記憶のデバイス、許容できる量を。
研究室のスピーカーが伝える。
静かな震えをもって、Franz Liszの4番目の交響詩「Orpheus」。
「何だこれは?
自動生成された音楽は聴かないのかい?」
「僕は、その方法を信じていない」
「新しいものには、信憑性がないということかな?
まあ、君にもいつか聴こえるさ
老朽化した建物の跡地に、新たなバベルの塔が建設されるようにね」
ーーヒカリと、オトが走ったーー
雷だった
壁には黒い影が映り、近づいた影が人の眼に触れていた
「君の仕事を信じているよ」
そう言って、黒い服の男は壁の奥へと去っていた
「心配しなくていい、彼らは彼らだ」
ーーGIはつぶやく
「僕をこの、汚れた奥深くの底地へと誘ったあなた、いや、
あなたたちを忘れない
この幣、その幣を取り敢えず手向けた花の大祓いをする
私は根の国、其処で待つ
名を着せ、罪を着せ、裏を視た
それは、神のまにまにに
霞みがかった春が姿を現わすまで
迷えど迷えど心の置き処を求め定めんと
小鳥のさえずりの中に消える、メモリア
沈みがかった船の上で帽子を拭う」
GIは、黒い服の男が運んできたパピルス文書に目を通す気分になれなかった。
そこにある物語ではなく、自分の中の物語に気が向いてしまっていた。
脱構築? 二項同体? 方法によって歴史を組み直す気はないこと。
ただ、自分の中にある物語。
それを決着させる、あるいは、凱旋させる。
もう一度のために?
繰り返しには興味はない。やり直しにも興味はない。
なってしまったこと、起きてしまったこと、その先を考えている。
ーー過去を加速させること
改めた眼で、自分が居る場所を確認するように眺めた。
核心を探すより、縁にあるものを辿ることで知ろうとした。
この研究室は、ドロドロとした塊があちらこちらに転がって
まるで、足の踏み場もない独りっきりの掃き溜め
心の隙間に入ったみたい
その山を越えるのは、大変さ
足場を慣らして、退屈から抜け出さなければならない
きみも知っての通りにね。
この世の果ての望遠鏡
恐ろしいことに
心の中に、悪魔が映り忍び込んできた
行き止まり
踵を返すしかないのか
「荒れ果てよ」と、呟いた
最果てではない
硝子を割らない手つきを忘れたからに
神経痛に悩まされて
手の震えのままに
他 人に落ち着くことができない
「右手はもう、限界なのかもしれない」
この時、GIの青い眼には何かが通り過ぎ、目の前をちらつかせていた。
向こうからやって来る何かが点いたり、消えたりしていた。
それは、明るさと暗さの中で、まばらに、通り過ぎてゆき、そして。
心が震え、揺さぶられた。
研究室の一角に、忘れ去られた棚があることを思い出した。
青い眼を向けると、そこには光が落ちているようだった。
棚に置かれた一冊の本を取り出した。
震えている右手の上に載せ、左手で開いていった。
“once, at the place that I gave up”
詩集の3ページ目ーー
「Grace」
月が見ている気がして、落ち着かない
心の中まで透かす
窓から窓へ
空間から空間、奥の院(陰)まで
光線が伸びる
鳥だって、そこまでは羽ばたかない
隠れてしまった
雲の動きが早い日
隠し、現れ、隠す
眼を細めた
forget her
騙すな、忘れるな
月日が流れた
やがて、graceに変わる
みすぼらしさ
非凡さ
素朴さ
幼さ
無垢で
純粋な
複合的な人格・魂の集合で出来た私たち
人生が複雑に絡み合って、元の人生に干渉し合う
物語に付与し、月が移動する、速く
時間を取り戻したい
時間というものの、魅力を
「復元できないかもしれない、もう」
GIの記憶のデバイスは、漏れていったーー
第64話「古代ギリシャ、紀元前6世紀頃」
「君は何か、何処かに“秘密”を飼っていそうだね」
【私】が神官として、古代のエジプトで行く末を視ていたとき、古代ギリシャの地からやって来たのは、若い男性だった。野心家な面持ちというよりは、繊細さが際立ったフラジャイルな感性があるように見えた。
その時代、古代ギリシャの各地から、より歴史ある古代エジプトの地へと、智恵を求めて学びに来る習いのようなものがあった。
【私】がその時にエジプトの地に遣わされた理由もそれにあった。旧人類の教えを継ぐ理由があったのだ。
【私】が見た限り、フラジャイルな彼は世の中の物事について、“わきまえている”部分から来る「悲しみ」が眼についた。エジプトの地へと学びに来る“物”の中で、そのような精神的危機を抱えているのは初めてだった。
青白い炎で、消えかかってゆく危うさが、却って、神秘的な気を漂わせていた。
作られた物であるだろうに、その感性を持っているのは、珍しく思えた。
再生され、検証されている【物語】の中で、彼のような存在は、隔世遺伝のような“物”なのだろうか?
獲得された後天的な物ではないことは分かっている。
この時代、環境は荒んでいたし、“秘密”など認めることが出来ないほどに寓意的で神話が自然として原型があるだけだった。いや、亡骸のような状態だった。
紀元前6世紀頃、【私】は彼に出会ったーー
彼は、後のジプシーのように、自由さを、軽みを大切にする人だった
この【物語】には、“自然”が残されていた。
そう、奴らはそれを失念していたのかもしれない。隠しきれない何かが、例えば、砂漠に、地層の中に、地底に、氷河に、痕跡として遺ってしまうことを。
彼は、それを見つけたのか? いや、彼こそが地底に遺さていたのかもしれない。
先祖返りすることを望んでいるのかもしれない。
または、アップグレードされなかった、取り残された旧人類。
可能性だけは、大いにあった。
【私】は、くり抜かれた眼と血によって、何度目かのシュメールでの再現が物語としての軌道に乗せられた後、古代のエジプトの地を経て、古代ギリシャとなる時代のミレトスの地へと奴らの求めに応じて渡る予定だった(メソポタミアは奴らが複雑に泥沼を再現する場にしていた)。
奴隷の立場にはなかったから、奴らの微調整によって、自由な立場で動くことが出来たから、哲学の誕生と、広がりを肌で感じることの楽しみがあった。
しかし、エジプトでの彼との出会いは予期にあらず、タレスや、ヘラクレイトス、ピタゴラス、後のソクラテスや、プラトン、アリストテレス、マルクス・アウレリウスなどの人物を見知ることの前に、“隅にある誰か”を視ることで、これ程までに簡単に心が動いてゆくこと、それが神話に遺された掻き混ぜきれない寓意のようであったとして、畏れ敬うのだった。
【私】は決して、彼に、文字や過去、思想を教えることはなかった。彼はすでに持っていたし、彼自ら教えることが出来るほどの内実さえあった。
しかし、彼は彼自身のものをソフィスト達のような実践的な手段として考えていなかった。だが、懐疑主義的な側面があったわけではない。
その時代特有の、自然や神、原初を知ること、世界の成り立ちなどの自身の身体を含めた外側の体系的な理解に通じることの探究よりも、彼は、“彼自身”の訪れをただ待っていた。
彼は、その時代としては、“個人”に傾きすぎた、早すぎた人物だった。
速度を上げられた過去のように。
彼には、“彼の物語”があるようだった。
そんな【物】が、【私】以外にまだ残されているのだとしたら、本当に奇跡だったのであろう。円環の内に、まだ居ること自体が奇跡だった。
ーーきっと彼も、物語を繰り返すうちに
踊り、円の、四方の、四隅の、枠の中で
繰り返すうち、表現が深まってゆく
繰り返される音づれは次第に、不協和音が煙の束になる
繰り返すうちに、意味が掴めて来る
喧騒の中で踊り、踊るほどに、
物語を食えば、食うほどに、
彼の彼自身が、迫って来るのだろうーー
「あなたは、何をこの場所で学びたいのですか?」
その時代に必要な知恵を与える神官としての役目を思い出し、この問い掛けが意味をなさず、虚空に漂う様が見えながらも、彼の反応を待った
「いえ、学びに来たのではありません
答えのようなものを求めて来たわけでもありません
見に来たのではありません、おそらく、見せに来たのです
僕は、僕の持っているものの必要に応じて来たのです」
【私】は、普段、その時代の人物に何処までを与えて良いのかを考えながら話さなければならないのですが、ただ、彼にはその気遣いをする必要がないほどに、先の時代に居る人物に思えました
「それでは、あなたの持っているものが他人と分かち合えるものであるのか?
過去でもなく、未来でもなく、同じ時代に生きるものとして
神官としての立場を脇に置いて、エジプトの民として、一市民の目で
今から、あなたを視ることにします
今だけ、過去の私はいません、未来の私もいません
過去を視る眼を置いて、未来を視る眼も置きます
そうしてから、初めて判断をすることが出来ます
今の時代の私にあなたは何を見せることが出来ますか?
これは、“一回きり”という機会です
さあ、眼の前にいる私に、何を見せることが出来ますか?」
彼は、心拍数を挙げさせるような応じ方に尻込みすることなく、動くことを選びました
「君は何か、何処かに“秘密”を飼っていそうだね」
彼は、真剣な眼を向けた【私】の視線を逸らさずに合わせて視て、だからこそ、内奥にあるものに気付いたかのようでした
「分かったよ、これは、伝統的な舞踏ではないのだけれど
君に観て欲しいんだ
そう…これは、それを望んでいる
声にならない言葉の中で、待ち望まれる言葉の中で
たぶん、僕自身が取り払われ、取り残された場所がある
まだ言い表すことのできない形が、この時代にはあるんだよ」
彼は創作的な、創造的な舞踏を【私】に踊って、視せた。
本能のままに、自我の芽生のままに、剥き出しになった生の“自然さ”のままに。
でも、それと同時に、何かと一体になって、この場所にも視えるようだった。
左足から空間へと踏み入れる
まだ読まれていない物語のように
彼の内面が出過ぎている
苦悩が隠しきれずに、溢れて
後の、フラメンコ のように
重ねて、増幅されてゆく、声の音
でも、神楽を舞っている
真剣さを帯びて来る、神に迫って来る
箱の中で、踊り、踊り
箱の中に降ろされた物語と舞う、真剣さの中で
覚悟を定まる
【私】の物語を祓ってゆく
物語から、食(は)み出してはならない
都合よく出てったあいつみたいにーー
「ことめいこさん」
「記憶を持ち出したまま、あなたは居なくなった」
ーー瞬間、記憶が先取りして、再生された
困惑する【私】。時代は、古代ギリシャと呼ばれることになる場所。
イシスのヴェールが取り払われる間もない、哲学や科学が、物語に乗っかってゆく頃の時代。彼の内面を見ていたはずが、いつの間にか、遠くを視ている。
先の時代に何があるのか? 【私】がその時代にも居ることは間違いない。
だが、“彼”は、彼はこの時代で死ぬ。それが、惜しい。
奴らはどうするのか?
物語を喰って、つまみ食いして、いいところだけ
悪いところ残してって
いつの間にか、スカスカに、骨だけに
後始末に困る物語の断片だけ、残してって
いいところだけ、食われて
いいとこだけ、引き出しに終われてく
ーー ー ヒカリ と おとー ー ーー
眼前を走って行った。
ヒカリと、オト、それ以上の何かはわからなかった。
サンライト、あるいは、燐光
燐光(りんこう、phosphorescence)とは、かつては腐敗した生物などから生じた黄リン(白リン)が空気中で酸化する際の青白い光(発火点は約60度)を指した
(ウィキペディアより)
「勝手に、物語から出て行っては困るんだよ」
きっと、奴らは【私】にそう言うのだろう
第65話「燐光、悪魔の証明」
「“デルポイ”の地へと向かうのです
これも何かの導きか、私もそこへと赴く目的があり同行します
その地に行けば、あなたにも芽生えるものがきっとあるでしょう」
私たちは馬に乗り、“デルポイ”へと向かったーー
『悪魔の証明』
原告は自己が係争物を市民法の規定する方法で取得したことを証明しなければならないのみならず、更に、彼の前の持ち主が所有権者であったことを証明しなければならない。つまり原告は a non domino(=無権利者)から取得した者ではないことを証明しなければならない。これは理論的に言えば、前の持主から前の持主へと、最初の占有者まで遡ることを必要とする。これだから、後にこの証明は「悪魔の証明」と呼ばれることになったのだ!
悪魔の証明とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である。(ウィキペディアより)
この時代、何処までが旧人類の史実に基づいた内容であるのか文献の少なさから、改竄箇所を指摘することは困難だった。
彼らの発想は元々のものとは異なっているのかもしれない。
どれほど旧人類史という通低音の上に、装飾音で着飾っているのか?
しかしながら、奴らの再現性の手技の妙は、伏線回収に向いていた。
いや、辻褄合わせのために行った部分こそが目的だったのかもしれない。
旧人類の生き様を再現する為と、新人類の為の可能性にーー
「云うまでもないですが、あなたは人に道を譲ることが出来ますか?」
この古代でも整備された道はあり、馬に乗って並走することは可能だった。
私たちは、馬上での会話を景色と共に楽しみながら、デルポイへと向かうことが出来た。
“並走する”という同時間的な楽しみがあった。
「君は僕の人格を問題としているのかい?」
「いいえ、譲り合いの末に揉めてしまい、それで殺されてしまう話を聞いたことはありますか? そうなってしまうと、私としてもこの過程を進むことの目的を失って、時をやり過ごす楽しみが減ってしまい困りますから」
「“譲る”ということは、確かに大切なことだね
我々の…少なくともギリシャの神々、君のところのエジプトの神々たち
彼らに“譲る”という気持ちがあれば血は流れなかったのだろうか?
もし【国譲り】という行為があれば、英断になるのだろうか?
まあ、それが本当の物語であればの話だが
少なくとも、僕ら市民は市民同士で仲良くお互いの道を譲ることをしたい」
「いつか、生き方そのものを譲ることが必要になるかもしれませんよ」
「…誰に譲るというんだい? 後継ぎや、未来の誰かに?
それとも、盗人にかな?」
彼はまた、真剣なその眼を【私】の内奥に合わせて視ようとしていた
そんな彼の眼に【私】も逸らすことが出来ない何かを感じ、吸い込まれるように視ようとしてしまう
「君はまるで、カルダイオス(占星術師)のように、未来を予言した風で物語る
マゴスの祈願によって、再び生き返って物語っているようだ
君はダイモーン(人間と神の中間の存在で、後に悪魔とされる)であるのか?
いや、ひょっとすると、僕がダイモーンであるのか」
「あなたが詩を唄えば、おそらくそうなることでしょう」
「ほら、迎えから馬に乗った男がやって来るよ
詩やら花やらに気を取られていたら目の前の危機を回避できないね」
「譲りましょう」
「ところで、君のファラオへの挨拶はなくて良かったのかい?」
「心配には及びません、必要があれば向こうからやって来ます」
「…君は何者なんだい? 本当に神官なのかな?」
太陽が沈み始めたーー
その日は、道の途中の民家を宿とした。
この時代、客人の「もてなし」は当たり前の行為として根付いていた。
「あなた様は、どちらからお越しになられたのです?」
もてなしの料理が運ばれた
老齢の夫婦が、1名の女を家内奴隷として使役させていた。
終始、会話の合間を絡めとるように奴隷の足元の音が色付けた。
「エジプトからです」
そのエジプトという言葉を出すと老齢の夫婦は頭を下げた。
それは、その知恵に肖(あやか)ろうとする興味で会話を弾ませた。
床上の金属音が下手くそな装飾音で縺(もつ)れた。
女奴隷もエジプトの声に耳をそばだてているのが伝わった。
だが、足かせとなるものが居座り、その耳を引きずっていた。
「宿を求めて歩くさまは、まるでホメロスの伝承のようでした」
「あなた様が詩を唄えばそうなりますね」
「いえ、唄うのは【私】ではありません、彼が唄いますよ」
女奴隷の耳は彼の方にそばだち、動いた
視線を彼に移すと、彼の眼は奴隷の足に繋がれた足かせにあった。
表情に苦悩があり苛立っていた。
「…主人、彼女の年齢は?」
「年齢? さあ、あまり考えたことはありませんね
そうですねえ…失礼ながら、あなた様と同じ年頃でしょうか
何せ、戦利品ですから」
「きみ」
彼は、奴隷の女を呼び止めた
奴隷は立ち止まっていいものか、主人の顔色を恐る恐る伺い見た
主人は奴隷に目でもって許可を与えた
会話の合間にあった足かせの音は、床の上で腰を休めた
「きみの名前は?」
「…サッポー」
「サッポー? サッポー…」
彼は、喉の詰まりの言葉をようやく取り出した
「サッポー…きみも、
きみも、そう、きみもここで
みんなと、一緒に食べないか?」
そういうと、主人である老齢の夫婦は固まり驚いたまま表情を止めた。会話の中にあった全てが止まった。足かせの音、エジプトの声、所有権の証明、それぞれの立ち位置。歴史の中の一点に間が空いた。
あるはずの、あったはずの通低音の時間軸に
彼の言葉という、一音が逸音として付いた
言葉が、女奴隷に急な軽さを与えた。その足はステップを踏み、しかし、今度は椅子の脚が足かせとなって、女の足取りを躓かせた。奴隷の身体はバランスを失い、主人の目と彼の眼とを往復しながら、足に繋がれている足かせの重りと奴隷という立場と共に、重力に逆らって浮かび上がった。自身の眼が宙返りしているのを感じていた。床から離れた身体と心の着地点を探しながら、手すりになるものをとにかく掴もうとした。その眼は、主人の目か、彼の眼か、女の点は、人生の急激な傾きの中で、延長線上の向かうべき点を合わせようと、一瞬以上の無時間的なサヴァイヴ。止まった時間の息継ぎの果て、その眼がついに、彼の方に合わさった。息継ぎのタイミングに、光を視た。床ビターン!
しかし、先に着地点を見つけたのは主人の方だった
「その女が好みでしたか?
それなら、隣りに座らせましょう、もし必要なら夜も…」
彼が駆けつけて、救う間は、遮られた
「いや、いや…いいんだ、すまない、主人よ、気にしないでほしい」
彼は奴隷の手を取り、立ち上がらせた。女の手は青白く光った。その弱々しさとは別に、足元は地上に居座っていた。立ち上がらせたのは、彼か、女の意志か、地上に繋がれた鎖が、それを許すはずがなく、距離は距離のままで、経過音として何事もなく終わらせた。女の眼は、もう彼の物だった。
「あ、ええと、その女は性奴隷ですし、もし必要なら申し付けてください」
奴隷は主人の目でもって、再び家内奴隷の立場へと接着的に着地させられた
女の手は離れていった、合わせたはずの眼と共に
彼のテーブルの食事は手付かずのまま、何かに影響されまいと、肖ることから遠ざかり、腐敗することを避けているかのようだった
ーー寝床に着くと、彼は小窓から外を眺めた
【私】は眠れない彼に話しかけた
「船での航海が待っています
ナウクラティスの港から、1週間ほどでペイライエウスへ行けます
そこからは…」
「我が時代の人々は、歴史に残ることを求めすぎている
そう思わないか?」
彼は、眠れぬ夜に“ある”考えをまとめ上げようとしていた
「我が時代の人々は、勇敢さを第一としている
その勇敢さは、他人との比較を経て証明することだと思っている
でも、そうではない
奴隷にだって、物語がある
名を残すことができなかった人々にだって、穏やかだが美しい物語がある
サッポー…床に崩れゆく間の女にだって、助け出される物語があるはずだ
いや、残すことは恥なのではないかとも思う
死してもなお、自分の名が汚されるかもしれないのに
自然のようになるのが僕の第一であると思う
多くが、神の名を借りて、野蛮さを正当化している
【神】と呼ばれる物は、野蛮なのであろうか?
その野蛮さに、翻弄され
このような血で、地を洗い続けている
僕らは、仕える相手を間違っているのかもしれない
【神】という言い訳で、僕らは自らを繕っている
もし【神】が取りまとめる物であるなら
いつか、仲介者を僕らに送るであろう
しかし、その仲介者は天秤を傾けてしまわないだろうか?
皆が皆、その仲介者を認められるのか?
自らが作り上げた勝手な【神】の像は、その頃には酷く歪んで
別な【神】にすり替えているのではないのだろうか?
鏡は誰を映しているのか?
神官である君はどう思うのだろうか?」
眠れぬ夜の中に彼を置いてゆくことができないと思い、【私】は応えた
「もし、私たちが神と呼ぶものが、系譜であるなら
途絶えさせてはなりません
自然を守るように、神もまた、守ってゆく必要があるのです
それは、私たち人間が行うのです
【神】というものを承認している種族が、私たちだからです
私たち以外には誰も、何も、それを承認することは出来ません
もしそうであるなら、私たちがそれを辞めたとき
【神】は消滅します
自分と他人の間、または向こうには神がいる
自分と他人との比較をするのではなく、仲介となる神がいる
歴史の向こう側に、物語の向こう側にいる
私たちは、歴史の、同時間の中で生き続けていることを忘れてはなりません
それを遡ってゆく時、エジプトの神々が居るのか、または…
見ることができないものを、見ようとする
その問いが、過去も、今も、この先も、生きる理由になるのです
生きるを選び続けるのであれば」
小窓から、彼の眠れぬ夜、左に回転する気配があった
「いつか、死を選ぶ時代が来るとは思えないだろうか?
【神】にも、自分にも飽きてしまったら
痛みに耐えかねたら
何かの物語と切り離されてしまったら
そうするのもまた、自由であろうか?」
「その先と、その後を紡ぐことを忘れてはなりません」
「結局は、歴史という名を借り、歴史を残せというのか?
どうしろと?」
「愛し、子を産み、育てる
遺すということ
それが叶わぬなら、自らの行いの善を引き継ぐこと
種を撒くこと
それが、先と後を視ながら、紡ぐということです
語り継ぐ、語る、物語るということの中で、自然となってゆくこと
“譲る”のです」
夜の声、遠い祖先の風に乗って、含まれているのは忘却された物語の音
昔、遠い昔、誰かの音、誰かの記憶、届かなかった物事が、届く夜
「人はやがて、自然(神)から締め出しを喰らうだろう
人が住む場所に熊が降り、災害が降り重なる
自然(神)に近づくことが許されなくなるだろう
人々は、偽りの野菜と、偽りの肉を食べることになるだろう
しかし、今、この時代、僕らは自然について考えている
自然にヴェールをきちんと掛けている
自然を、自然から探究し、自然との共生を考えている
これは間違っていない
しかし…これは偏った考え方なのだろうか?
自然に喜びを見出すことは、却って、逆を産むことになるのだろうか?
太陽の当たる場所と、当たらぬ場所を作ることになるのだろうか?
僕は、考えれば考えるほどに、怖い
その度に、別な側面を産んでゆくようだ
僕らは、釣り合いを保つことが出来るだろうか?」
「方法はあります
あなた自身を読み物にして、遺すのです
口伝ではなく
そうすれば…」
「君は、口承を捨てろというのか?
ホメロスの物語は口承によって、形を留めようとする自然なヴェールがあった
お陰で、紡がれて生きてきた
書くということは、死ぬということだ
なんと言ったら良いのだろうか…
その道が正しいと示すための矢印ではない
移り変わる物に形を与えてはならない」
「(この時代にはない反証可能性か…)『悪魔の証明』という言葉があります
証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいいます
悪魔について考えるとき、神官である【私】としては
神を証明しなければなりません
おそらく、あなたは神と出会うために“デルポイ”へと向かっているのです」
小窓からは、青白い光が視えた
「夜光虫が飛んでいるね
あの時、女の手は青白く光っていた」
生物(おそらく物事)が腐敗するとき、青白い光を生じる
それを“燐光(りんこう)”という
第66話「琴鳴子」
わたしは、サッポーという名前で呼ばれている
この女の中に転生したのには、理由がある
第一に、後世への伝承はあるが不明瞭な部分で包まれていること
第二に、一から時代的な資料が乏しく改竄が利くこと
第三に、十番目のムーサと呼ばれたように崇拝される人物であること
【サッポー】という名を借り、盗み、“彼の心”に入り込むこと
古代の資料(後に、パピルス文書と呼ばれるもの)を改竄することは、もうすでに着手している。
次に、彼らはデルポイであの巫女に出会い、神託を受ける。
わたしが出来ることは、その時。
その瞬間
来るべき時の一瞬の中で
サッポーと名乗る女は、そう言ってから、唇を重ねたときに残る感触を確かめるように中指で口唇をなぞり、触れる。
想い出が通り、指を離す。
すると、風が吹いて口唇をなぞってゆく。
女は感じ入って足元のタンポポに気づいた。
タンポポの花言葉には“神託”があった
「これは、タンポポ、知っていたわ
あなたに会うために
でも、まだそれは、褐色に乏しく、鎮まっているの」
旋回する頭上の鳥と、タンポポの茎をくるくると回しながら
デルポイ暦アペライオスの最後の日
彼は海峡を渡り、彼の地へと着く頃
第67話「水と、生贄と、混沌と」
ーーかつて、デルポイの神殿入口の壁には、神託を聞きに来た者に対する格言が刻まれていました
「汝自身を知れ」
「過剰の無」
「誓約と破滅は紙一重」
(ウィキペディアより)
神殿内のカスタリア泉で身を清め、巫女も飲むという水を口に含んだ
「エジプトの原初の神の名前を知っていますか?
ヌンという水の神です」
【私】は彼にも、その水で清めてみるよう暗に示してみた
「面白いものだね、ギリシャの原初の神は、ガイア
ガイアは大地の神だ
大地と、水は別なのかい?」
彼は旅の間、“サッポー”という女によって自身の物語の内に燐光が生じてしまってから、彼の天秤が更に揺らいで、危うさを増していた。
その危うさが、今は彼の眼の前にも置かれていることに気づいた。
彼が、水を口に含んでみると別々な考えで引き裂かれてしまっているのが見て取れた。
水、時に人間に災害をもたらす水は、今の自分を癒し、喉を潤している。
この現実への理解に苦しんでいた。
「神々の数は多いのです
それに神々の神格や別名はより様々です
ガイアはもっと空間として捉えた方が良いのでしょう」
「名前を覚えるのも大変ではないかい?
一つに統合したほうが分かりやすいのでは?
その方が敬神の対象の真否で争いが起こらないのではないかい?」
「人は、自然や身の回りの生き物との共存を軽んじていってしまいます」
「混沌(カオス)のままが良いというのかい?」
「混沌の神は、エジプト神のセトのように悪神とされます
しかし、混沌を“何か”と取り違えてはなりません
さて、緩やかな坂道を登って、アポロン神殿に向かいましょう」
山と山との間、神殿へと向かう頭上を鳥が旋回するように飛んでいた
眼下を見渡すと斜面に沿って風が吹き、鳥は神殿に向かう景色を眼で空に描きなから、そこから急下降させるように誘った
「このデルポイの地についての知識はありますか?」
【私】は彼に訊ねたが、彼の頭はまだ整理のつかない物事に気を揉んでいた
「デルポイは、詩の発祥の地“パルナッソス山”の麓にあります
高く険しい谷カスタリアによって急斜面の絶壁が目立つ山岳地帯にあります
山塊の絶壁は、“ファイドリアデス(輝くもの)”と呼ばれたり
朝日を受け“ローディーニ(バラ色に光るもの)”
午後の強い太陽を受け“フレンブゴス(燃えるもの)”とも言われる絶景です
眼下にはプライストス渓谷が蛇行するように流れます
見事な自然の景が重なる場所でもあります」
「世界の中心を決めるために、ゼウス神が放った2羽の鷲が交差した場所
それがデルポイなのだろう?
世界のへそ(中心)として、オンパロスという石が置かれているのだよね
あとは、神託の場所だろう?」
彼は、気を揉んでいた物事から少し顔を上げてみた
「様々な説があります」
【私】は、彼の囚われの荷をここで解こうと長話をすることにしたーー
「まず、デルポイの神域は、“アポロン”の物とされます。
しかし元々は、アポロンの物ではなく、地母神“ガイア”という母なる女神の地でした。
この女神は人類の祖神とも言い伝えられます。
ガイアには未来を予言する能力があり、その為、このデルポイの地が、ギリシャの中でも特別な神託所だとされているのです。
そして、ガイアの子とされる“ピュトン”という巨大な蛇の怪物がいました。
この怪物は、デルポイを守る番人でもあったそうです。
ピュトンはアポロンによって倒され、アポロンはピュトンの亡骸をデルポイのアポロン神殿の聖石オムパロスの下の地面の裂け目に葬ったとされます。
アポロンは、ピュトンのために葬礼競技大会ピューティア大祭の開催を定めて、新たに開いた自分の神託所の巫女にも“ピューティア”を名乗らせました。
デルポイの神託所で巫女が神懸かりになるのは、地底からピュトンが吐き出す息吹(霊気)によるものだとも言い伝えられます。
同じくガイアの子である“テュポーン”という巨人の怪物が“ゼウス神”との戦いに勝利し、ゼウス神の手足の腱を切り落とし、ゼウス神をデルポイ近くのコリユコスの洞窟に隠しました。
その洞窟の番人を任せられた“デルピュネー”がピュトンであるとも伝えられます。
ーー面白いことに異なる説があります。
デルポイは、かつては“ピュートー”と呼ばれる地でした。
これはデルポイが“ピュートーン(ピュトン)”の地であったことを表しています。
このピュートーの地に元々、神託所を持っていたのは“女神テミス”であるとの言い伝えもあります。
テミスは、ガイアと同じく未来を予言する能力があり、アポロンに予言の術を教えたとも言いますが、これはピュートーの地をアポロンに奪われたことを暗示しているのかもしれません。
テミスは、テュポーンらと同じく巨人族であったともされます。
地母神ガイアと女神テミスは、同一の神であるのかもしれません。
ゼウス神は、神話による人類の歴史の5区分の第3の時代である青銅の時代に、人間や巨人族たちの愚かさや人口増加に激怒して、大洪水を起こしました。
ほとんどの人間は滅びましたが、プロメテウスの息子デウカリオンとその妻は、箱船を造って生き延びました。
箱船は6日6晩の間、悪天候の上を彷徨ったそうです。
彼らはデルポイの上にそびえるパルナッソス山の斜面で休息をとったと伝えられます。
天候が回復した後、デウカリオンは船より降りて、まず、大洪水を起こしたゼウス神への敬神として『生贄』を献げました。
そして、デルポイに神託所を持っていたゼウス神の妻である女神テミスにも感謝を祈りによって捧げたとも言い伝えられます。
また、デルポイは、地母神ガイアの娘の“女神テミス”が神託を授けていたが、元々はピュトン自身が神託を授けていたとする説もあります。
さらに、ピュトンが、洞窟の番人である“デルピュネー”を指していることは、デルポイという地名がデルピュネーの名から取られたものだとも伝えられます。
デルピュネーは、ピュトンと同じく怪物であり、上半身は人間の女性で、下半身は蛇や龍の姿をしていました。
神託所では地母神をデルピュネーと呼んで女神として崇めて、ピュトンと共に祀っていたともされます。
ピュトンの前に神託所の番人をしていたのがデルピュネーだとも伝えられます。
そして、神託所の巫女たちの一人がデルピュネーであり、アポロンは神託所を手中に置くためにデルピュネーを殺害したともされ、神託所を支配していたデルピュネーが『生贄』と引き換えに予言を授けていたが、アポロンに退治されたとも伝えられます。
デルポイを支配していたのはデルピュネースという半身半竜の男だったという説もあります。
ーーまだ神話はあるのです。
“カッサンドラ” というトロイア王プリアモスの娘がいました。
アポロンはカッサンドラーに求愛し、ある時、このように云いました。
それは、自分の愛を受け入れれば百発百中の予言能力を授けるとカッサンドラを誘惑したのです。
カッサンドラはそれを受け入れて、予言能力を手に入れるのですが、アポロンに弄ばれたあげく捨てられる自分の運命を予言してしまったのです。
カッサンドラはアポロンの許を去り、それにアポロンは怒り、カッサンドラの予言は誰も信じないという呪いを掛けたそうです。
また、アポロンはイルカ(デルピス)の姿に変身したという神話からデルピニオスとも呼ばれて、デルポイという地名の元になったとも言い伝えられます。
ーーさて、
女神テミスは、地母神ガイアなのでしょうか?
それとも、女神テミスの母が、地母神ガイアなのでしょうか?
巨大な蛇で怪物のピュトンは、女神テミスであるのでしょうか?
そのピュトンがデルピュネーなら、地母神とは?
巨人の怪物テュポーンは、一体何なのでしょうか?
ガイアの子である、テュポーン、ピュトン、テミス、その系譜は?
カッサンドラは、本当は誰なのでしょうか?
そして、アポロンは、本当に善であるのでしょうか?」
急降下を誘った鳥が、再び私たちの頭上に現れた。
鳥は逆回転の軌道で旋回し始めた。
私たちはアポロン神殿へと到着していた。
彼が口を開いた
「君は、生贄についてどう思う?」
第68話「煙、神懸かり、取り代わり」
デルポイの神託にて、巫女に出会う
巫女に恋をする
その恋が、彼を“詩人”にするーー
【私】は、中央の祭壇に黄金の装飾で飾られたアポロンの像が置かれているのに気がついた
「ガイア(ゲー)の神域の上に、一部が重なるようにして、このアポロン神殿が建てられてしまったようですね」
「神が、神の生贄になったということかい?」
紀元前6世紀頃に、アポロン像が建てられたという史実がある。
アポロン神への信仰はもう少し古く紀元前8世紀とも言われる。
信仰の取り代わりは、その時代の支配者の勢力による。
一旦、根付いてしまったものを元に戻すのは難しい。
忘れられたことを思い出すことは困難だ。
しかし、神は細部(自然)に宿る。
「それは、この時代の人間の理解によってです」
「デルポイが、アポロン神を信仰の対象にする理由は何かあるのだろうか?」
「ここにやって来たのには、理由があるはずです
覚えていますか?
あなたは神と出会うためにデルポイの地へと来たのです
この地は、元々は地母神ガイアの物です
きっと、理由があるのです
今、あなたが考えるべきことは神託についてです
巫女には、一体、どのような神託を占ってもらうのです?」
【私】の視界に、柱の暗がりの影から足が生え、形を変えてゆく様子が見えた。
影が男性的な骨格の人形に整ったあと、それが案内人(プロフェーテスと呼ばれる)であることを認めた。
柱の物陰で私たちの様子を覗き見ていたようだった。
「私たちは歓迎されているのかな?」
案内人はこちらへと歩きながら、私たちを牽制するような動作を見せた。
まず、少し巻き肩になっていた姿勢から胸を持ち上げるように開いて、胸を張って歩き、広背筋が正面から見えるように開いて、自分を大きく見せることで、自分が強者である風に誇示をした。
それから、亜麻布の素材の衣服のちょっとした折り目の正しさを指先で整えながら、完璧さ、隙のなさを演出した。
それが却って、彼の人格を取り繕ってゆく様子に見て取れた。
「先ほどのカスタリアの泉は
その名カスタリアという精霊であり女神の名が元になっています」
「ああ、あの水のことかい?」
「カスタリアはゼウス神と女神テミスの娘であり
ゼウス神と地母神ガイアの娘であるともされます」
「というと、女神テミスは地母神ガイアなのかな?」
「カスタリアはアポロン神の求愛を拒み、パルナッソス山の麓
つまり、ここ、デルポイの泉に入水したと伝えられます」
「……飲んでしまう前に、話してほしかったよ」
「ただ、この泉の水を飲んだ者
この静かな水音を聞いた者に詩の才能を宿すと言い伝えられます」
「君は僕に何がなんでも詩を書かせたいのかな?」
重い腰を上げて来たのは、威圧的で、人を値踏みする目だった。
その目は、【私】の身なりを見ていた。
「どうやら、神託に金が必要なことは知っているようだな」
案内人は【私】の身なりの良さに関心を持っているのが分かったが、連れである彼に対しては何も関心がないことが見て取れた
「君が案内人かな?」
彼は、そんな間にある差別に対して、割って入る勇気があった
「如何にもそうだが、生贄の姿が見えないが?
それがなくては、神託は受けられない」
「神が生贄を望むのか?」
「生贄が神を動かすのだよ」
「敬神や信仰では神は動かないということかな?」
「心だけでは不十分ということだよ」
「それでは奴隷のような物を用意することのできない生まれでは、
神の恩恵を受けることが出来ないということだね?」
「当たり前だ、神の恩恵はそれ相応の態度が必要なのだよ
そんなことも分からないのか?
我らのアポロン神は、社を持たない神とは違うのだよ」
ーーその時、神殿の奥から、神官と巫女が手伝い人らと共に姿を見せた
「何事ですか?」
山塊の急斜面のような形になって、神殿の柱に日差しが射し込んでいた。
それが巫女の頭上に降り注ぎ、“ローディーニ(バラ色に光るもの)”を色づかせた。
美しい一人の女が白昼夢のようにその場に現れ、論争をしていた彼の心は柱に積まされるように持っていかれた。そこに運命の女を視てしまった。
「そこに居るのは……」
燐光した青白い炎が、逆光の中で立っていた。
瞬間、イメージが飛んだ、時間は奥まった場所に隠れた。
巫女は逆光の中、彼の姿を認識した。
「お前たち、何をしている?」
神官の男が、厳しく、そのイメージの交わりを遮った
「構いません、その者たちには神事を行わなくてはなりません」
巫女は、交わされたイメージを逆光の内に留めた
「では、生贄はどうなさるのですか!?」
案内人の男が、事を荒立てるように叫んだ
「すでに届いているのです」
「届いている?」
案内人の丸くなった目が、そう言ってから振り返って見た先には、巫女の手伝いの物らが、一頭の“赤い馬”を連れて来ていた
「その赤い馬は?」
「先日、ある方が届けてくださいました
その方が、あなた達が来ることを教えてくれていたのです」
「一体、誰が……?」
彼は、彼の空想が弾けてしまっているように感じた。
運命の女と交わしていたイメージが白昼夢の中で瓦解するイメージに取って代わられないことを願った。
【私】は、きっと“奴ら”の贈り物なのだろうことに気づいた。
この勝手な配慮…行き届いた管理の眼に、自身に取り巻き、付き纏う影の濃さを再認識させられた。
「この贈り物を受け取ることにしましょう」
「…本気かい? この奇妙な【赫い】…不吉な気配がする馬を?」
「エジプトからの贈り物ですよ」
「……君のファラオからなのかい?」
「あなたはエジプトの神官ですね?」
【私】は巫女の問い掛けに頷いた
「それでは……彼は?」
巫女は彼を見つめたまま、エジプトの神官に引き連れられて来ているこの若い男が何者なのかと思案しても仕方がないことだと悟った
「贈り物はきっと、大切に受け取った方が良いのだと思います」
言葉には、素直な響きが込められているようだった
「わたしはその謎よりも深く、あなたのことが気になります
あなたはデルポイの地で、どのような神託を望むのですか?」
赤い馬が手伝い人によって祭壇へと上がった。
生贄は恍惚とした表情で気が飛んでいた。
それがすでに反対側へと行き掛かっていることが見て取れた。
「シビュラ(巫女)よ、生贄についてどう思う?」
彼は、運命の女に話し掛けた
「神がそのような犠牲を望むことについては信じていません」
巫女と、彼の間で、イメージが交わされた
「鏡……?」
「はい、これは黒曜石で作られたものです
太陽神であるアポロンの神域では日長石(サンストーン)を
身に付けていると思いましたか?」
巫女は、手に持っていた鏡を掲げた
「アステカという地では、テスカトリポカという神がいました
面白いもので、世界はもう何度か滅びているそうですよ
わたしたちが知っている神は何番目の神なんでしょう?
神は入れ替わっているのかもしれません
この神域も、元々は地母神ガイア
それからテミス、ポイベー、そして、今はアポロン神の場所です」
「……あなたは、アポロンを信じているのですか?」
彼は、巫女との間に交わされるイメージを探った
「黒曜石は、生贄となる者を切り刻むナイフにも使われる
そのようなことを聞いたことがありますか?」
白昼夢のイメージの中、彼は巫女を、映像ではない現実に、手で触れようとした
その時ーー
手伝い人が黒曜石のナイフを手に取り
神官が何かの祝詞を唱え始め
祭壇に置かれた赤い馬の首からは鮮血が、血飛沫となって辺りに飛び散った
白昼夢は、イメージの中で瓦解して消えた
「さあ、あなたの神託は降りるでしょうか」
そう言って、巫女は黒曜石の鏡を彼に手渡し、立会人と手伝い人を引き連れて、暗がりの奥にある場所へと姿を消した。
少し経った後、私たちはその場所、三脚鼎の上に座る巫女の下へと案内された。
依頼者が何を神託に望むのかが分からないまま、つまり、問い掛けの問いが無いままで、珍しい神事に取って代わっていった。
巫女は降下した、神の元へ。
月桂樹、大麦の挽き割り粉を焚いた。
くゆらせた煙が、巫女の麻の素材の衣服へと、纏(まと)った。
ーー風が吹いた
彼の眼下に広がる峡谷、山、海峡から吹き抜けて来るものがあった。
それが、巫女が降り立った空間からの息吹と共に混り流れた。
彼の中に通り道を見つけた。
駆け抜けることなく、秘儀を教えるよう体内に宿り場を作った。
「ことめいこさん」
彼の耳に去来する音楽が近づいてきたーーそれとも、死が近づいているのかーーブレインWi-fiが彼に未来を視せたーーイメージの先見は耳を通しての“遠景”ーー未来からの視聴はランダムな選曲が行われて、ある時代の一区切りの雰囲気に光が当たるーーある時代の同じ年頃の若者の骨伝導によって、音楽が流れ始めるーーStereophonicsの“Maybe Tomorrow”ーー竪琴のなかで、速度を上げられた過去が追いつくーー何処かに悲しい響きが残っていたーー声と波形と弦の振動の余韻ーーそしてーー岐路を忘れて、堕とされて終わる響き
溢れた言葉、置き所のない切なさ、長引いた孤独、忘れ去られる物事
黒曜石の鏡が割れたーー
彼の耳に、巫女の喘ぐ声が聞こえた。
取り乱された激しい息遣いが、彼のイメージを破壊していった。
神聖さを汚す陰湿な影が、彼の身体を波打った。
運命の女は、巫女であり、神の所有物であることの苦痛さに顔を歪ませた。
神は、彼の眼の前で巫女を犯し続けた。
我蘇る 忘れ去られた 赤い星
巫女の口から、デルポイの神託が、彼に降った
第69話「煙の先、遡上する」
ーー彼は暗がりから抜け出して、白昼夢の外へと立っていた
【私】は彼を追って外に出てから、ふと頭上を見上げた。
旋回する鳥が2羽、右回りと左回りで周回しながらウロボロスとなり、円環する物語が、陰と陽の気配で再び締め上げられて、色濃く彼を包み込んでいた。
その意味がウロボロスの輪から降って来るのを感じたとき、血に飢えた乾いた大地は、血を啜っていた。
赤い馬の首元から溢れ出る血ーーテュポーンの身代わりであったのか、それともーー
そのあと、巫女も暗がりから朦朧としながら出て、意識を失い床に倒れた。
身につけている麻の服が明るみに出ると、血で染まっているのが分かった。
彼はそれに驚くことよりも、“煙(息吹)”を吸ったことで身に纏っていた青白い燐光としたものが変容したことに戸惑っていることが見て取れた。
これが、【私】の役割だったのか…?
「一体、これは何があったのだ!?」
神官や案内人たちは、普段の神託と取り代わってしまった何かに怯えていた
「神が…なぜ?」
「神の意志なのか…?」
「デルポイの地が禍事で汚(けが)れて、堕ちてしまった……」
「そうではない! 決して、デルポイの地は汚れてはいない!!」
「しかし…これは……この現状は…巫女を通して、神が怒りを現している」
「お前たち、何をした!!」
神官たちは頭上のウロボロスに気づくことなく、【私】たちの方を見ていた
「赤い馬など、なぜ持って来た!?」
【私】は、この神官と案内人たちの誰かが、全てを知っているのにと思った
「ここから出ていくのだ!!」
「いや、待て」
そう言ったのは、デルポイの神官だった
「彼を見るんだ」
デルポイの一同は彼の印象が変わっていることに気づく
「……アポロン神?」
「神の息吹が彼に憑っている」
頭上のウロボロスに気づかない神官たちに見えていたのは、彼に宿ったアポロン的な神格の一側面だった。
それにすっかり魅了されてしまった神官たちは、意見をころっと変えていった。
「神が…アポロン神が、いま、私たちの眼前に現れた」
「分かる…分かります…アポロン神……私たちが分かりますか?」
「アポロン神よ…ああ…、赤い馬は奉納であったということですね」
「そうだ、きっとそうに違いない!」
「あれは、神の贈り物であったのだ!!」
加工された判断が、彼らの信仰心を利用していった
「しかし、巫女は……処女であると言えるのですか?」
あの案内人が、崇拝する化身を前にしてすっかり身の丈にあった小さな器から、威厳のない声を搾った
「あの巫女は、それでも処女であると言えるのですか…?」
肉体的ニハ処女デアル
シカシ、精神的ニ犯サレタ
アポロン神の化身とされた彼が、口を開いた
「デルポイで出会った神は
悪魔だった
いや、神の悪魔的側面だ
神を善だと思い込んでいたんだ」
アポロン神ではない側の彼が、続いて口を開いた
その声は小さく、彼らには届かなかった
「アポロン神よ、我らは一体どうしたら良いのです?」
神官たち一同は神託を授かろうとしていた
巫女ヲ、泉ヘ運ビナサイ
彼のアポロンの神格は、意識を失っている巫女をカスタリアの泉へと運ぶように指示を出した。
神官たちに運ばれてゆく彼女の地面には血が滴り落ちた。
恐らく、犯されたであろう部分から。
彼はよく通る声で悲しく小さな声の音を上げた
赤い馬に乗ったきみ
どうして、こんなことに
きみが放ったから? 言葉を
カスタリアの泉に運ばれた巫女は口元の陰鬱な隙間から、神官たちによって慎重に汲まれた泉の水を含んだ。
巫女は目を開け、そこに彼のアポロン神の姿を視た。
「奇跡だ!」
神官たちは意識を失っていた巫女が、再び、目を開けたことを神の御業とした。
しかし、そこに居るのは虚(空)になった巫女であった。
彼の耳に、過ぎ去りし時の流れがーー唸りを上げる横溢するものーー輝きを失いながら枯渇してゆくものーー読み取られてゆくのはある時代の同年代の若者の骨伝導ーーブレインwi-fiがランダムに選曲したーーTHE THEの“PhantomWalls”ーー速度を上げた過去がまたやって来るーー痛みを伴った響きーー100年の孤独?ーーいや、もっとーー増幅されたり、減退したりする、2種類の炎ーーSpace Oddityの映像の波形みたいにーー彼は、割れてしまった黒曜石の鏡を彼女に翳(かざ)した
裂け目の分だけ、巫女の意識に別な者たちが入り込んでいった
巫女を容れ物のように奪い合う、思念たちの姿が鏡に映されたーー
【私】は、見守るしかなかった
ただ、アストライアーのように最後まで人を諦めずにいたかった
歴史は『第一次神聖戦争(古代ギリシャの戦争の一つ)』を開始するーー
彼は、預言者へとなった
神託を贈る者であり、そして、詩人に
彼の語る言葉は、布教される物に
教えとして
だが、詩として
信望者を集め、数を増やし、崇められた
僕は赤い馬に乗った
一夜にして、粛々と暗闇に火が放たれた
火は列をなして、次へ次へと遡る
煙の先が道案内するように
歴史が【始まる】ということ
【私】の“右手”が、時間的制約を越えて、想いを運んだ。
辺りが鎮まり、新人類たちはネジが止まったように地に横たわり腰を休めた。
「これは?」
立っているのは【私】だけだった
黒い服の男がやって来た。
【私】の右手を見るなり、薄笑いを浮かべた。
“キットコウナルダロウトオモッタ”
消えてゆくきみの何かを、【私】が完成させるということか
これが旧人類の伝承や口伝という物か
【私】は君のように、“僕”として生きよう
君のやりかけた物語を引き継ごう
パピルス文書に僕は、彼が遺した言葉を綴った
後世、僕はそれを虎の巻のように秘伝として、木版印刷、活版印刷にし、ジプシーを通じて世界に散らばらせた
古代からの息吹が、私(僕)の中を通るーー
黒曜石で作ったナイフで、人身御供として
それは、褐色に乏しく、鎮まっていった
雨のしずくのように
時にちからづよく、一瞬で
最後まで地上に残った神の話がある
それは、ディケーの最後まで地上に残った話
※恋した瞬間、世界が終わる -第9部 竪琴のなかで 完-
恋した瞬間、世界が終わる 第9部 竪琴のなかで
忘れ去られた棚