ささらなみ
この作品は、劇化を目指していたもののそれに至らなかったプロットの端書きです。
小説としてのボリューム感に欠けると思いますが、温かい目でご一読していただけますと幸いです。
海辺
潮騒が聞こえる。
馴染みのある音、馴染みのある光景。
この場に育まれてきた私にとって、ここは心安らかになる、落ち着く場所。
ここが好きだ。
暑かった今年の夏も早々に過ぎて、少し海風が肌寒い。羽織ものを置いてこなければ良かった。遠くの方にはぼんやりと川崎の工業地帯が見えて、その前を大きなタンカーが横切っていく。目の前の海はどこまでも広がっていてその大きさに圧倒される。
「ねえパパー濡れちゃったよー」
子どもの歓声がする方に目を向けると、波打ち際で戯れる親子の姿があった。半ズボンを股下までびっしょりと濡らした子が父親の元に駆けていく。可愛い。自然と笑みがこぼれる。
「ひろ、こんなにびちょびちょにしたらママに怒られるぞー」
「えーー」
その子はお父さんに抱かれて退場していった。もっと遊びたかっただろうに。また今度、だ。
「ごめん、待った?」
不意に背後から声がして私は驚いた。それはワイシャツを腕まで捲り、髪が乱れた成俊だった。
「うん、少しだけね。」
こうやって、いたずらな返事をして彼を困らせるのも楽しい、というのは悪趣味だろうか。
「そっか、ごめん」
「ふふ、いいよ別に。」
「そう?」
「海、見てたから」
彼は頭を掻いて、私の隣にゆさりと座った。背中がびっしょりと濡れているのはそれだけ焦って走ってきたのだろう。市民課市民係は今日も仕事だったらしい。
「日曜も出勤なんて、そっちは大変だね」
「まあね。係長に来いと言われたら出ないといけないからさ。」
「今日は何だったの?」
「ああ、電柱山の近くで猪が出たっていうから、その捕獲作業だよ。」
「うわ大変そう」
「こんなにでっかいんだよ?目の色変えて走りまくってるからびっくりした」
両手を目一杯に広げて猪の大きさを表そうとする彼が可笑しい。成俊はそのまま立ち上がって、暴走する猪のことを興奮気味に話し続けた。
「向こうも捕まらないように必死だろうね」
「ほんとほんと。参ったよ」
「で、捕まったの?」
「いや、結局山に戻っていった。体バキバキだよ。せっかくの休みが猪追いかけて終わったんだから」
「お疲れ様でした」
こんな華奢な体でよく頑張ったねと労いを込めて、彼の背中を優しく撫でた。私にはないようなごつごつとした背中。今でも少しドキドキする。
「今日の海は穏やかだね」
猪のことを一通り話し終えて、成俊は唐突に話題を変えた。彼にはこういうところがある。でも、そこもいい。
「何を急に。」
「いや穏やかだなって」
「都会育ちにそんなこと分かるの?」
「確かに。分からないかも」
「もう」
私はこの時間が好きだ。彼と会う時は大体ここに来て、気が済むまで話して帰る。いつも帰る頃には髪が塩で乾いて大変だけど、そんなのは気にならない。
彼と出会ったのは四年ほど前のこと。高卒で入職した私よりあとに入ってきた彼は同い年だった。別の部署にそれぞれ勤務していたけれど、何かのきっかけで知り合い、飾らない彼の人柄にいつしか惹かれていた。成俊は時々そそっかしいが、まっすぐで、誠実で、そして優しい。
「やーだー帰らないー!」
向こうの方で男の子の泣きじゃくる声が聞こえる。さっきの男の子がまだ帰りたくないとごねているようだった。そうだよなあと私は思った。
「ひろ、ほらズボンびちょびちょなんだから、冷えて風邪ひくよ?」
「やーだーやーだー!!」
男の子は体をくねくねさせてお父さんに必死の抵抗をする。小さい力で思いっ切り腕を引っ張って、わんわんと泣いている。
「可愛いねえ」
隣で成俊が呟いた。彼は優しい笑顔で親子の様子を見守っている。
「そうだね」
私は彼に近づきたくて、肩にもたれかかる。塩の匂いがワイシャツからした。華奢に見えてもしっかりとした彼の体から温もりを感じた。
「僕たちも、いつかああなるのかな」
「ん?」
成俊が幸せな言葉を発する。私はその幸せに埋もれて、心地よい。
「ほら、あの親子みたいに」
「そうかもね」
成俊が私の頭をそっと撫でる。私もこの人と、あんな風に子どもを持つのかな。そんな未来があったら、十分過ぎるほど幸せに違いない。
「なってみたい気はする」
「乗り気じゃない?」
「ううん、そういうことじゃない」
「なら…」
「先のことは、分からないじゃん?」
私は遠くを見た。何かを見つめたかったけど、さっきのタンカーはとうに水平線の向こうに消えていた。私は紡ぐ言葉を考えてしまっていた。居たたまれなくなって、彼の肩からゆっくりと頭を起こした。
「未来のことは誰にも分からないでしょ。」
「まあそうだけど」
「明日、大地震がくるかも」
「え?」
「明日、隕石が降ってくるかも」
「いやいや、それはないんじゃない」
「明日、猪にタックルされて死ぬかも」
「ちょっと、ふざけないでよ」
「これは冗談だけど」
私には未来の話を避けるきらいがある。それは、一言では言い表せない理由で、自分でも正直全ては分からない。ただ、素直に「私も」とは言えないことだけは分かっていた。
「…つぐみさ」
「ん?」
成俊が真っ直ぐこちらを見て、私の手を両手で握る。その手は微かに震えていて、彼の緊張が伝わってきた。私は胸が一瞬詰まるような、時が一瞬止まるような、そんな感じがした。
「僕は君と結婚したいと思ってる」
胸が高鳴る。確かな嬉しさ。じんわりと胸中に染みてくるような、そんな温かさ。
「…うん」
彼の言葉が私の中にすとんと落ちていく。多分、この先二度とは言われないだろうその言葉の重みは、思っていたよりもしっかりとしていた。これで私も大人になるのか、とふとよぎった。照れで顔が赤く熱くなるのも感じる。でも頭の中は真っ白で、何て返せばいいのか、全然分からなかった。
「…どうかな」
驚きで黙っている私の顔を見て、彼が優しく問いかけた。私はまだ言葉が出てこない。
「あ、ごめん。何か居心地が良くて、今の気持ちをそのまま伝えたいって思っちゃって。もう四年目だからとか、誰かに唆されてとかそういうんじゃないよ。今思ったことを、つい…」
私の何とも言えない反応を見て、彼は焦ったのだろう。それに私は精一杯の照れ隠しで応えようとした。
「別にいいよ。…嬉しい」
「え、本当?」
「…ていうかさ、記念日でも誕生日でも無いのにいきなりプロポーズする?それも、ここで?」
「あ、そうだよね。ごめん」
彼との未来を、もう一度想像していた。
温かな家庭、という言葉がぴったりだと思う。彼なら、子どもが駄々をこねても付き合い続けて、一緒に泥だらけになるまで遊ぶんだろう。それに、家事も積極的にこなしてくれるのだろう。そして何より、お互いに支え合って暮らしていけると思う。
だけど、
何かが胸奥に詰まっていた。アンビバレントな、複雑な気持ちが時間差で押し寄せてくる。それは、難しい気持ち。この瞬間を喜べるはずなのに、いつかは夢見たはずなのに、心がすっと不安になってくる。私はそれを悟られないように努めた。
「前に海の見える、景色の綺麗なところでプロポーズされたいって言ってたから、今だ!って」
「…それで?」
「うん、つぐみの望みが叶うところだ!って」
この人は本当に可笑しい。心配になるくらい真っ直ぐで、純情で。
「確かに海の見える場所って言ったけどさ、まさか海の目の前とは思わなかったな。」
「あっ、そうだよね、ごめん!」
「いや謝らないでよ」
「ごめん、あ、また言っちゃった、ごめん」
潮騒が小さくなる。満ち満ちとした海が段々と茜色に染まっていく。私の目はずっと海を見ていた。気づくと二人の間に沈黙が流れている。
「…やっぱ、海の見えるレストランとか、そういうのが良いよね。そうだよね」
「…」
「嫌だった…?」
「ううん、嫌じゃないよ。嬉しい。」
紛れもない本音。それは偽りのない気持ち。
「じゃ」
「何か、今は答えられない、かも…」
そう口を衝いて言ってしまったあと、私は少し後悔した。彼の表情が不安げになる。それを見て私の心はちくりと痛んだ。
「そうだよね…、急だったよね、ごめんね」
「ううん。なんていうか。」
「うん」
「…なんて言えばいいのかな」
「…言ってみて、何でも」
「…うん」
私の心を表す言葉を探した。探している間も海を見つめて、静かに考えた。
「…」
「まだ、ざわざわしてる。」
「ざわざわ…?」
私の今の気持ち。はっきりとイエスを言えない、そんな気持ち。それを精一杯表現する。
「うん」
「そっ…か」
彼を傷つけないように、考えて考えて、次の言葉を私は紡いだ。
「…ちょっと、待ってもらってもいい?さっきの返事。」
私も彼に対して誠実でいたかった。その思いが出来るだけ彼に伝わるように、そう願った。
「成俊の思いはちゃんと受け取ったから。私もちゃんと返事をしたい」
「うん…」
心配になって彼の顔を覗くと、彼の目は私をしっかり思ってくれていた。決していじけたり、拗ねたりして言っているのではないのがよく分かる。私はそんな彼を見て、余計に罪悪感を覚えた。まるで騙すような、そんな真似をしてしまったように感じたからだ。
「…不安にさせちゃってごめんね。」
「ううん」
私はすくと立ち上がり、それにつられて彼も立ち上がった。海風が陸風に変わってきた。陽は沈んで海の色が濃くなり、そこにはもう親子の姿も無かった。
「私なりに考えて、ちゃんと答えは伝える。」
「うん、分かった」
「ありがとう。」
「いや」
私は彼に隠している事がある。いや、言えていない事がある。それが今、私と彼の間にただ横たわっているのだ。
「ほら、明日からもお互い忙しいんだから」
「そうだね。風邪引かないように」
「そっちこそ」
「じゃあ」
結婚。この年で恋人がいて、長く付き合っていればそのうち出てくる選択肢。私だってそうだ。でも、私は素直にそれを選んではいけない。というか、選べなかった。彼と別れた後、ざわざわとした胸に蓋をするように今晩の献立を考えた。それで気が紛れるような感じがした。私には晩御飯を作らなければならない人がいる。その人はきっと、我が家でじっと待っているだろう。
嬉しいことを素直に嬉しいと思えることは幸せだ。そんなことも私は思っていた。
近藤家の朝食
朝五時四十五分。携帯のアラームが鳴るやいなや、私は開かない目で赤いOFFのボタンを押した。いつもは鳴る前に目が覚めているのに、昨日は色々考えていたせいですぐに寝付けなかった。だからいくらか寝覚めが悪い。それで私は少し寝返りを打って、布団に居残ろうとした。しかしこの後のことを考えたら、今すぐ起きないといけない。
目の隈を気にしつつ身だしなみを整えて、炊飯器の蓋を開けた。三合炊きの小さなお釜の中に、新米が粒立っている。美味しそう。濡らした手に塩を揉みこみ、まだ熱々とした白米を握ろうとする。
「熱っ」
小さな声で叫んでしまった。もう何年もやっていることなのに、この熱さはまだ慣れない。少し我慢して熱々のお米をまとめていき、その中に年季の入った甕から取り出した梅干しを一つ入れた。
「あーしょっぱい!」
種を口に含むと、頭がキーンとした。母から教わったこの梅干しは、売られているものよりもしょっぱい。夏に干していた時にはその上でカブト虫がひっくり返っていたほどだ。
「よいしょ」
色々と考えている内に一つだけ小さなおにぎりを作って、小皿にのせていた。付け合わせにと沢庵もその脇に置く。
「お母さんもね」
私は台所を出て、居間にある仏壇に向かった。そして母の写真の隣におにぎりを置く。私の母は既に他界している。もう何年も前のことだ。静かにおりんを鳴らして、手を合わせる。
「ねさ…お母さん…。」
そんな事を呼び掛けても、もちろん何も返ってこない。
「…プロポーズ、どうしよっか。…どうしたらいいかな。嬉しかったけど…やっぱ、お兄ちゃんのこと考えたら、そうだよね…。」
遺影の母は微笑んだまま何も返してくれない。私が求めている答えを言ってくれればいいのに。でもこうやって目を閉じている間はざわざわも無くなって、心配な気持ちも不安な気持ちも消えていった。
ジリリジリリ
居間の奥にある部屋からけたたましい目覚ましの音が聞こえてくる。兄、完の部屋だ。
「お兄ちゃん、時間大丈夫―?」
おにぎりに海苔を巻きながら、兄の部屋に向かって大声で呼び掛けた。
「お兄ちゃん、六時だよー?」
「早く起きなー?」
ジリリジリリ
目覚ましは鳴ったままだ。このまま待っていたら私まで遅刻してしまう。だから今日は早めに最後の手段を使うことにした。
「お兄ちゃん、起きないなら私部屋入るよ?」
そう呼び掛けると、少し時間が経ってから目覚ましが止まった。中でごそごそと音がする。きっと彼は起きた。
その足でまた台所に戻り、おにぎりをもう一つ作る。これは兄の弁当だ。兄・完はいつも同じものを食べている。朝はお茶漬け、昼は梅干しおにぎり二個、夜はお蕎麦。たとえそこにどんなおかずが付こうと、これらが無いとどうも気が済まない。私なら何でも食べるけれど、これはお兄ちゃんの一種の「癖」なのだと思っている。
「おはよう」
不意に後ろから声がした。
眠気をまとって部屋から出てきた完は、一応皺なく整ったワイシャツとスーツを着ている。彼の背丈は私とそこまで変わらないから、細かな皺までもよく見えた。
「おはよう」
彼はそのまま台所を通り過ぎて、洗面所に向かった。手を洗い、口をゆすいで、顔を洗う。そして鏡を見ながら寝癖を整えた。
「あ、お兄ちゃん、ネクタイズレてる」
「あ、ああ」
裏の剣を引っ張って、緩くなった首元の結び目をしっかり締める。彼は首回りがきつくなって、少し不愉快そうだった。
「だからネクタイは嫌いだよ」
「そんなこと言ったってしょうがないでしょ?今の職場はスーツ必須なんだから。」
「そうだけど」
首の辺りを触って気にしながら、完は炊飯器の方へ行く。流しの隣のラックから大きな方の茶碗を取って、それ一杯に米をよそっていた。
「つぐみ、お茶漬けどこだっけ」
「あ、ごめん。切らしてたから新しいの買ってきたんだった。ちょっと待って」
「うん」
昨日どこかに置いたはずのレジ袋を見つけて、中から歌舞伎柄のパッケージを取り出した。買ったまま放置するなんていつもならしない事なのに、昨日はあのせいで、ついしてしまったのだろう。
「ありがとう」
彼はお茶漬けを受け取って、独りでに作り始めた。ご飯をよそって、素をかけて、お湯を注ぐ。工程がシンプルなのがお気に入りらしい。
「いただきます」という声が聞こえたかと思うと、先に食卓について茶碗に並々入ったお茶漬けを食べ始めていた。これまた習慣のラジオも傍らに置いている。
「あーお兄ちゃん、お米ほとんど残ってないじゃん!」
「あ、ごめん」
「いいよ、私パンにする。」
自分のお茶漬けを入れようと炊飯器を覗いた時、そこには気持ち程度の白米が残っているだけだった。他人を顧みないというか何というか、彼にはこういうところもある。何はともあれ時間がない。月曜日はやることが山積みだ。出来るだけ早く出なければ。
「いただきます」
私は食パンを袋から取り出して、生のままその上にジャムを塗った。完はその間も黙々とお茶漬けを啜っている。
「あのさ」と話しかけると、彼は少しこちらを見た。でも、次の言葉が続かなくて、気づくと彼が話し始めていた。
「つぐみ、今年のノーベル賞は誰だろうな」
「え?」
私は、今何を話そうとしていたのか分からなくなって言いとどまった。そうだ…プロポーズの事だ。出来るだけ早く言わなければならないことは分かっている。けれど、まだ切り出す準備が出来ていない。なぜならきっとこの話は、一言二言で終わるような話ではないから…。
「ほら、もうすぐ発表だからさ。去年の物理学賞はグラフェンのガイムとノボセロフだったから、今年は宇宙系が来るんじゃないかと思うんだよね」
「そうなの」
兄の話は始まると止まらない。物理とか数学の話になると特にだった。大好きなことだから余計に熱が入る。
「うん、去年は光ファイバーとCCDセンサーだったからね。」
「お兄ちゃんの言ってること、相変わらずほとんど私には分からないよ」
「でね、ガイムとノボセロフの凄いところは…」
本当にその内容のほとんどは理解できない、難しい言葉だらけ。でもその生き生きとした顔、表情を見るとほっと安心している自分がいた。
そして私はとりあえず、この朝に切り出す事はやめておくことにした。
*
チーンとおりんが鳴ると、仏壇の前で完が正座していた。母の遺影を前にして、今日も昨日と同じようにぶつぶつと唱えている。
「今日も他人様に迷惑をかけません。」
そう言って、兄はじっと手を合わせる。
「お兄ちゃん、茶碗は流しに置いといて」
「分かった」
完の弁当を詰めたところで初めて、私は壁に貼った付箋に気づいた。【お兄ちゃん、月曜早出】
「ていうかお兄ちゃん、時間大丈夫?今日早かったんじゃない?」
「あ、そうだ」
完は慌てて支度し始める。それを「お兄ちゃん、落ち着いて」と私が上手くリードする。歯磨き片手の完から茶碗を受け取り、たらいに入れた。それはぷかぷかと水の中で浮いている。
「今日は財布忘れてない?」
彼はズボンの後ろポケットに手を突っ込みながら「大丈夫持った」と答え、家の中をバタバタと行き来した。
「ケータイ充電切れてない?」
「うん、まだ53%残ってる」
「んー何とかなるか。あと、お弁当これ」
「うん」
急いで梅干しおにぎりの二つ入った巾着袋を完に渡す。カバンに上手く入らなくてますます焦っている兄に代わって、私がスムーズに入れた。電車の本数が少ないから、乗り遅れると大変なのだ。
「もう忘れ物ない?」
「たぶん大丈夫。」
付いている全てのポケットに手を突っ込んで彼は再確認した。本当に大丈夫だといいのだけど。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい!」
彼は黒カバンを持って、どたどたと玄関を出ていった。走るのは得意じゃないから、見守った後ろ姿はどこかぎこちなかった。
*
完を見送って後片付けを済ました後、ふと思い立って携帯を取り出した。電話帳をマ行まで辿って【マツモト先生】の表示を見つける。
「もしもし、すみません。近藤完の妹のつぐみです。――おはようございます。ご無沙汰してます。――私は元気にしてます。はい。――あ、それで完なんですけど、もしかしたら遅刻してしまうかもしれません。はい。すみません。私も気づくのが遅くて。――はい、すみません。よろしくお願いします。失礼します」
彼が本当に遅刻しないといいのだが。そんな心配をしながら、これで自分も出勤できると息をついた。ほっとして化粧を済まし、もう一度仏壇の前に立った。
『今日もお兄ちゃんが何もなく過ごせますように』
やっぱり無理なのだろうかと、この朝の様子を思い返してそう思う。私の家族は兄の完、一人だけだ。母は十年ほど前、私が高二の時に他界した。それからは兄と、唯一の遺産だった平屋に二人で暮らしている。私の兄には、癖がある。人は誰しも癖があるけれど、その癖の度合いが少し強いというか、そう、クセの強い人かもしれない。だから、上手く生きることが苦手、というか不器用だ。
私は今、岐路に立っている。兄と、成俊。
玄関に立ってパンプスに足を入れた時、ふと家の中を見回した。兄との時間が思い出される。さらに母とのの記憶も呼び起こされる。
片方を選ぶということは、もう片方を捨てること。その選択には、大きな痛みが伴う。どちらを選んでも。
私は逡巡を止めた。まだ、彼のプロポーズを受けると決めた訳ではなかったかもしれない。今は考えるのをやめた。とりあえず、頭の隅にやってしまいたかった。
まずは、ちゃんと時間が取れる時に話してみようかな…。
そう思った。兄と、しっかり向き合って話せる時が良い。それだけ決めて私は家を出た。
学習塾エイキックス
「すみません、おはようございます」
「たもつー、遅いぞ?」
良かった、その声からしてマツモト先生はそこまで怒っていない。僕は安心して息をついた。「マツモト先生」はここの塾長で、中年小太りのおじさんだ。結局、乗る予定だった電車には乗り遅れて、次の電車は三十分後だった。一本後の電車の中で言い訳をひたすら考えた。今年のノーベル賞の話で出る時間を忘れていたから、合掌の時間がいつもより長かったから、走っている途中で靴擦れを起こしたから。最寄り駅に着いてからも、走っていくか歩いていくかそんなことを考えていた。こういう時にどうしたら正解なのか自分には分からない。
「たもつ、遅れる時は電話を一本入れるの、社会人のマナーだろ?」
「あ、はい、すみません」
僕はこういう「マナー」が苦手だ。対処法を考えているうちに、こういう大事なことは忘れてしまう。だから、ただ謝ることしか出来ない。
「今日はつぐちゃんから電話あったから良かったけどさ…お前もう三十とかだろ?」
「三十一です」
マツモト先生はイガグリ頭をぽりぽりと掻きながら僕の方を見た。思わず目を伏せる。
「そろそろつぐちゃん離れしないとまずいんじゃないの?」
「はい、すみません」
「お前さ、ここクビになったら他いくとこあんのか?どうやって食ってくんだよー」
「はい…」
「まあ、今日のところはつぐちゃんに免じて無罪放免。」
「はい、ありがとうございます。」
結局謝ることしか出来なかったが、自分ではそれなりに反省していた。
「ていうかそうだよ完、本題本題」
「あ、はい」
「お前を早い時間に呼んだのはちょっとお願いしたいことがあってだな」
話を切り替えて、マツモト先生は鍵のかかった引き出しの中から黒くて分厚いファイルを取り出した。表紙には社外秘と書かれているが、どうやら塾生のファイルらしい。先生はそれをぱらぱらと捲りながら唐突に切り出した。
「生徒、持ってくれないか?」
「は?」
「だから、生徒持ってくれないか。」
「はい?」
「この子。来週から入ってくる」
そう言って先生はファイルから数枚のシートを取り出した。中にはその生徒の情報が色々書かれているようだ。が、僕は事務員で、生徒を持つような講師ではないはずだった。
「新田チエさん、高三。部活を夏の終わりまでやってて、これから受験勉強始めるらしい。」
そんな僕の疑問を意に介さず、マツモト先生は流暢に続けていた。が、状況が全く理解できない。
「いや、でも、」
「まあ、そこそこいるけどなそういう子。で、うちで受験指導をすることになった。理系の科目が苦手みたいだぞ。」
先生は何を言いたいのだか。僕に指導経験は無いし、そもそも人付き合いが苦手だ。僕は出来るだけ人と関わらない方がいい。だから何とかまた考えて、僕は逃げ道を探しに探した。
「僕は、事務で、講師では無いです。そもそも指導経験もないですし」
「まあそうなんだけどさ、今皆手一杯だから。完、見てあげてよ。」
「見てあげてよと言われても」
「ほら、お前理科とか数学得意じゃん」
「いや、そうですけど、それとこれとは」
「俺は、その子にとっても、お前にとってもいいことだと思うんだけどなー」
僕にとって?先生が何を言いたいのかよく分からない。大体自分と関わるその生徒というのも可哀想だ。どんなにガッカリするか。そして二ページ目にあった模試の結果を見て僕は愕然とした。
「それに、この模試の結果、酷いですよ」
「そう、そうなんだよねー」
この新田とかいう子の志望校は地元の国立大学だった。地元だから自分も名前は聞いたことがある。だが彼女の模試の結果は、悪い。まず、記述の数学の偏差値が50を優に割っている。そして、センターの理系科目は得点率が50~60%。これらが確かに全体の偏差値と判定を下げにいっている。
「千大の教育。もうちょっと点数取りにいかないとだよねー。国立一本みたいだからさ」
「国立の、単願ですか…」
「うん。」
「自分じゃないと、本当にダメですか?」
「え?」
「いや、その、何で自分に講師なんか。先生が一番分かってるじゃないですか」
「まあな」
「なら」
「でもほら、うちは人材不足だろ?他に頼める先生がいないんだよ」
「いやでも」
必死の抵抗をする。しかし先生は負けてくれない。
「まあまあまあ、勝負の夏は過ぎ去ったとはいえ、あとセンターまでは四ヶ月、二次まではそれ以上ある。だから何とか、導いてあげてよ?ね」
「ですが」
「俺は、お前なら出来ると信じてるぞ」
「…」
「な」
相変わらず先生の圧はすごい。パーソナルスペースにもずかずか入ってきて、汗ばむ顔を僕に近づける。この顔を至近距離で僕は何度見たことだろう。その度に僕は無理やり説得されてきた。嫌な記憶ばかりが蘇ってくる。
「…わ、分かりました」
「よし、サンキュ」
何とか押し切れたのを安心したのか、先生はどっと椅子に腰かけた。頬が緩みに緩んでご機嫌だ。一方僕は相当不機嫌だ。自分で引き受けておいて、というものかもしれないが本当に嫌だった。
「じゃあ来週からだから、頼むな。」
「…はあ」
これは完全に押され負けた。あそこでいいえと言えないのを分かって先生は顔を向けてきたのだろう。この人も相当だ。そもそも人と関わるのが好きでないから、事務で雇ってもらったのに。だから当然講師なぞやりたくない。全く、やりたくない。ただ、マツモト先生に拾ってもらえたからこそ今の自分があることに間違いはなかった。渋々僕はその事実を認めた。だから先生に言われてはっきり拒否できなかったのだろう。
「あ、あと。完、くれぐれも程々にな?」
「ほどほど?何が、どのくらい?」
とっくに話を終えた気で、先生は他の書類に目を通していた。そして僕に声を掛けた。
「ほら、お前のいつもの感じじゃ、きっとその子ビビっちゃうから、やめとけよってこと。」
「は」
「あ、あと、くれぐれもノーベル賞の話なんか、するなよー?」
先生はニヤニヤしながら僕に釘を刺していた。何をまた言いたいのだか。僕は来週が不安で、また嫌で、あの時イエスと言ってしまったことを既に後悔していた。
もう仕事を選ぶことは出来ない。生き地獄みたいだ。
市役所福祉の窓口課
平日午後の市役所は混んでいる。私のいる課も同様だ。色々な申請に来る人、相談に来る人、わざわざ文句を言いに来る人。うちの係の島も皆、市民対応か外回りで出払っていた。
「つぐみーごめんごめん」
「先輩、お疲れ様です」
ガニ股気味に佳奈さんが駆け込んでくる。佳奈さんはうちの係の主任であり、小中の先輩でもあった。こざっぱりとした性格で、この町のお年寄りにも好かれている。
「ごめんねー長谷川のおじいちゃんがなかなか帰してくれなくてさ。お告げがあったからワシはもうじき逝く、なんて言うもんだから。」
「ええ」
「そんなこと言ってるうちは大丈夫ですよって言いくるめちゃった」
「そうだったんですね」
長谷川さんは私と佳奈さんが担当しているおじいちゃんだ。優しくて、面倒見がよく、人懐っこい。でも少し物忘れがあって、説明には回数を要したり、電話でも根気強く対応することが必要だった。
デスクにどかっと座った先輩は水をゴクリと飲んで一息ついた。またこの後外回りなのだろうかなどとと思っていたら、佳奈さんは急に私の顔をじっと見つめてきた。
「ねえ、つぐみ、まだ完に話してないの?」
「え?」
「え?じゃないよ。プロポーズの話」
結局あれから数日経ったが、まだ兄には話せていない。それは成俊のことを思えば、早く言わなければならないということは重々分かっている。けれど、それが何を意味するのか、そして兄妹に何をもたらすのかもよく分かっていたから。だからこそ、時間がまだ私には必要だった。
「まあ、色々考えちゃって」
「そっか」
佳奈さんは素知らぬふりで書類整理をしていたが、私の内側をきっと分かっているようだった。そして私がなぜ答えを出せないのかも。
「…何か、考えれば考えるほど分かんなくなっちゃいました。どうするのが私にとって、お兄ちゃんにとって一番いいのか。」
「まあ…難しいよなあ」
「何であれ、早く話さなきゃとは思うんですけど、決心がつかなくて。」
「でもフィアンセをいつまでも待たせるわけにはいかないしねえ」
「そうですね…」
「あー大変だ」
冗談めかした返事をした佳奈さんは私に微笑みかけた。全く笑いどころの無い話なのだけど、彼女なりの和ませ方なのだろう。
「…私がその話をした瞬間に、色々なものが変わってしまう気がするんです」
「色々なもの?」
「はい」
「…完が独りぼっちになっちゃう、とか?」
「…」
「あんたたち、二人で頑張ってきたもんね。」
そう。そういうことだ。佳奈さんにふと言い当てられて、我ながらはっとしていた。私のざわざわの正体。まともに向き合うのがどこか怖くて、避けていた事実。佳奈さんはそんな私の胸中を知ることなく、背中をぽんと叩いて仕事に戻った。
兄を切り捨てる、いや見放してしまうことは家族として何て心無いことなのだろうと思うし、でもそれで諦めたら諦めたで、彼を憎みそうになる自分が憎い。
「すみません」
ふと声のした方向に顔を向けると、そこには成俊が立っていた。一瞬私の方を見て優しく微笑むが、私は居たたまれなくなって目を逸らしてしまう。あれ以来会っていなかったから、余計に気まずかった。
「あ、噂をすれば、市民課市民係の川瀬クン。」
「ちょっと先輩」
「足立主任、長谷川さんから介護保険の問い合わせがあったので、出来れば主任から」
「えー、さっき会って話したばっかなのにー。オッケー。あとで電話するわ」
「すみません、お願いします。」
成俊はどこか思うところがあったのか、数秒間その場に留まっていた。デスクに気まずい空気が流れる。
「あ、いけない。つぐみ、もう出ないと笹井さんの家庭訪問、間に合わなくなっちゃうわ」
佳奈さんはその空気を察したのか、私と彼の間に入った。こういった芸当は彼女の得意技だ。私は心の中で小さく感謝していた。
「そうですね、行きますか」
「じゃあ、僕はこれで」
「お、今日も頑張ってね川瀬クン」
「はい、失礼します」
彼はすっと去っていく。あの日からずっと返事を保留し続けられているからなのか、後ろ姿に少し元気が無いように見える。私は申し訳なさを感じた。
先輩が家庭訪問に行くべく支度を始めると、私もデスクをまとめて準備をした。
「ねえ、つぐみ」
「はい」
すると唐突に先輩が声を掛けた。そこにはさっきの明るさは無く、私の事を真剣な眼差しで見ていた。
「何であれ、完には話しな?」
「え?」
「あんたたち兄妹にとって、大事な事でもあるでしょ。」
「…はい」
「それで、自分の答えを決めればいい。」
「自分の、答え、ですか…」
先輩の目は真っすぐだった。私はそれに気圧される。
「そう。つぐみの人生なんだから。」
「はい…」
「確かに心配は分かる。あいつあんな感じだし。」
「…」
「…でもね、回りまわって考えてみたら、案外そうでもないってことも世の中にはある」
「え?」
「あんたはもう、十分頑張ってきたんだよ」
「?」
「行くよ」
先輩はそれだけ言って、足早に先を歩いていった。
自分の答え、その言葉を反芻して私はその背中を追いかけた。
新田チエ
その日が来た。正直出社したくなかった。朝の目覚ましを止めたくなかったし、今日はお茶漬けも食べたくなかった。母の仏壇には「地震でも起きますように」と非科学極まりないお願いごとをした。
だが、その日は来た。そうやって嫌々出勤した僕を見たマツモト先生は、苦い顔をしている僕を見て檄を飛ばす。
「たもつ、そんな辛気臭い顔をするな。お前の初めての生徒なんだから。」
「顔、臭いですか?」
「あー違う違う、滅入るなってことよ」
「ああ、はい」
「多分、もうすぐ来るよ。」
「…」
先生は僕の顔を覗く。そんな先生を無視したくて、僕は無表情でどこかを見つめていた。
「お前、緊張してんのか?手に人でも書いて飲んどけ」
「人飲むんですか?」
「知らないか?まやかしだまやかし。お前はそういう超科学は好きじゃないか」
「というか、その、緊張とかじゃなくて、嫌だなって」
「け、本当に素直だな。相変わらず」
「すみません」
「…その素直さは時に人を傷つける」
「はあ…」
「だから気を付けろよ?」
僕はその言葉を何度も聞いた。
だから、他人とは関わりたくない。他人と関わらなければ、不用意に彼らを傷つけることはない。それが長年考えた末にたどり着いた結論だった。そう、何度直そうと思っても直らない癖なのだから仕方ない。僕はそう思っていた。
「こんにちは…」
不意にドアが開く音がしてそちらの方を向く。開かれたドアからむっと蒸し暑い空気が入り込んできて、そこには夏服のワイシャツとグレーのスカートを着た女の子が立っていた。
「あの、今日からお世話になります…」
「新田さんね。ようこそ、エイキックスへ。」
そう言うとマツモト先生は彼女を迎え入れ、教室の椅子へと促した。僕の前を通り過ぎる彼女に軽く会釈をして、その場をやり過ごす。この新田チエという女の子は、どこにでもいるような普通の女子高生だった。体格も痩せすぎずふくよかでもなく、普通。スポーツを何かやっていそうな感じで、話し方もギャルのような極めて苦手な部類ではない。
「改めまして、私、塾長のマツモトと言います。」
「ど、どうも」
「あれだね、体験入塾の時に会って以来かな。まあ、今日から来年の春まで、新田さんのサポートをね我々でしっかりとさせてもらいますからね」
「よろしくお願いします。」
彼女は礼儀正しく頭を下げた。だが一方で、隣に無表情で立っている僕のこともチラチラと見ていた。どこか不愉快に感じた僕はそれを顔に出してしまう。それを察してか、マツモト先生はおどけるような口調で話を急に変えた。
「あ、それで、新田さんの担当の先生です。近藤って言います。ほら」
先生に促されて「近藤完です、お願いします。」と僕は一応挨拶をした。こんな形式ばかりの挨拶に何の意味も無い。
「ちょっと不愛想で不器用だけど、この人頭は良いから。分からないことあったら何でも聞いてやって」
「あ、はい。新田チエです、よろしくお願いします。」
不信そうな目で僕を見て、彼女も形式的に頭を下げる。何となく、自分の事を怖がっているのは分かった。ただ、申し訳ない。僕も君が凄く恐かった。
「あ、でも近藤先生国語は苦手だから、そこはごめんね。それ以外ならバンバン聞いてOK」
「そうなんですか」
彼女は内心怪訝に思っているようだった。いくら頭が良いとか、国語が苦手とかパーソナルな情報を言われたって、彼女には所詮棒が喋っていたようにしか見えないのだろう。
「すみません」
一応僕はそう言って、軽く会釈をした。そして国語なんて何が面白いんだと、内心別の考えに頭を巡らせていた。
「じゃあ、あとは近藤先生から今後の学習計画とか聞いてください。頼むね」
「は」
「は、じゃなくて。学習計画、こないだ一緒に作っただろ?」
「ああ」
「じゃ頼むな」
「はい…、分かりました」
「よろしく」
マツモト先生は「入塾のご挨拶」という塾長の仕事をさっさとこなして、逃げるように階下に捌けていった。教室には二人が残ったが、非常に気まずい空気が流れる。きっとこれもマツモト先生の魂胆なのだろうと、僕は猜疑心を膨らませる。
「…」
「…」
「近藤完です、よろしくお願いします。」
「それはさっき聞きました」
確かにそうだ。だから講師は嫌だと言ったのに。急に回転が速くなった頭の中で次の一手をひたすら考える。その間も彼女はちらちらと僕の事を見てきた。その疑いの目が本当に不愉快で、とりあえず場をとりなそうと僕は彼女の目の前に座ることにした。
「じゃあ、今後の計画について話します」
「お願いします。」
椅子を引いて、新田さんの前に座る。さっきはそんなに自己主張をしなさそうなタイプの人間に見えたが、こうして目の前にしてみると、やはり少し苦手な部類かもしれないと思った。それは僕の長年の勘だった。僕の次の言葉を伺う彼女を再度観察すると、運動部・カーストは中位・後から馴れ馴れしくしてくるタイプ、そう読めた。だがまあこんなものが勝手な憶測に過ぎないというのは、他人を理解出来ていない自分が一番分かっていることだった。
「希望科目は数学、あと基礎の物理と生物、ということで」
「はい、そうです」
「模試の結果を見ました。で、志望校のレベルがこのぐらい、今の君はここ。残りの期間はトータル四ヶ月。」
「はい」
「二次試験の方、国語と英語はこれから伸びるだろうけど、数学が危ない。あと、国立単願だから、センターも理系科目で点を取ることは必要。せめて得点率を70%に上げたい。」
「はあ」
「だから総じて、理系科目の対策が大切、という結論に至る」
「やっぱ、そうですよね…」
「週二回・二時間のコースで、二次試験まで38回来てもらうことになるが、もちろんそれだけではカバー出来ない。他の受験生ともかなりビハインドがあるから、今月は早くに基礎を固めて、演習も始める。」
「あの」
「はい?」
この時間からいっそのこと逃げ切ってしまおうと早口でまくし立てていた自分を制して、彼女はすくっと顔を上げてこちらを見据えた。
「今からやって合格する可能性って、どれくらいだと思いますか?」
思い切ったことを聞く。そう思った。僕はいつも通り、考えるより前に答えていた。
「まだ、判断材料が充分に揃っていないので、現段階では明言は出来ない。」
「はあ…」
僕のその言葉を聞いて、彼女は眉をひそめていた。僕の言った意味が理解出来ているのか、出来ていないのか。僕にはさっぱり分からない。
「ただ、例えば君が数学も理科も捨てずに根気強く向き合った場合は、五分五分以上にはなると思う」
「五分、五分…?」
「二回受けて一回受かるという意味だ」
「あ、それは分かります」
「ああ」
「ど、どうぞ」
「よって、理系科目の底上げを。放っておいた場合は、合格する可能性はもっと低くなる。」
「…」
新田さんは黙ってさらに眉を曲げている。僕の言った事は嘘ではないだろう。統計的に推測しても、そのような結果になるはずだ。これは単純な話。彼女が苦手に向き合えば、裏表の確率が同様に確からしい、コイントスと同じモデルになる。
「何か?」
「いや、塾の先生ってそんな感じなんだなあって」
「そんな、感じ?」
「何か、内心ダメだと思ってても、隠して無理やり励ますものだと。」
「あ」
この時初めて、僕は彼女を傷つけてしまったのかもしれないと悟った。すぐに自分の発言を時系列順に顧みる。どれだ、いつだ、と必死に頭を回して何とかしようとしたものだから、気づけば手汗が溢れ出していた。
「いや、すみません。傷つけていたら申し訳ない」
「いやそういうんじゃなくて、ただ、イメージと違ったので」
「イメージ」
「はい」
攻守が変わったと確信した。彼女の生意気な「はい」の言い方で、僕は主導権を向こうに握られたのだと思い知らされた。ふと抱いた心配が穴だった。これは最早、僕のウィークポイント。トラウマだ。
「…」
「癖、なんだ」
「癖?」
「いや何でもない」
それでも形勢を変えようと、余計なことを口走ってしまった。余計なことは言わない方が良い、というのは過去の経験から学習しているはずなのに。
「先生って素直なんですね」
「は」
「あ、いや、今のは皮肉です」
「ああ」
「人付き合い、苦手なタイプですか?」
「?」
「あ、いや、コミュ障、みたいな」
「コミュ障…?」
「それとも…」
やっぱり苦手なタイプだと思った。少し話しただけで距離を詰めてくる。僕の予想は悪い方に大当たりしていた。だから思わず「何であれ僕のことはいい。」と遮っていた。癪だったのだ。ずかずかとパーソナルスペースに土足で入り込んできた彼女が。大人げないと思いながらも「君は自分の心配をした方がいいと思う」と僕は付け足した。
「すみません」
「…ああ」
また気まずい空気が流れた。今のは自分が少しは悪いかもしれない。そう思いふと彼女の方に目をやると、新田チエは「あ、メール来てるじゃん」と言わんばかりに自分のケータイを開いていた。だから僕は「数学と理科、どっちが苦手ですか?」と強引に話を続けることにした。
「どっちも嫌です。勉強して何になるのか」
「僕はそう思わない」
「え?」
「じゃあ君はそのケータイを使わないの?」
「使いますけど」
新田チエはそう言って、一度仕舞ったケータイを取り出し、目の前でじゃらじゃらさせた。
「君が誰かにメールを送る時、そのケータイからは電波が出ている。電波は赤外線よりも波長が長くて、周波数が低いもので、光の仲間だ。ほら、物理で赤外線とか、やっただろう?」
「何となく」
「これも範囲。何となく、じゃ困る」
「じゃ、覚えてます」
「まあいい。ここで問題になるのが、限られた電波をどれだけ効率的に皆で使うか。メールは早く届かないといけない。だから周波数ごとに分解できる波の性質を使って、ユーザー毎に微かに周波数を変えて混線を回避しているんだ。まあ実際には拡散符号っていうのも追加して…」
「ダメダメダメ、アレルギーアレルギー」
「?」
「言ってること全然分かんないし、理解できない」
新田チエは両手をバッテンに組んで堂々と拒絶してくる。ああいう事を言われると無視できないのが僕の性質だった。そしてまた話し過ぎてしまったと、今更気づいたのだった。
「部活引退するまで、ちゃんと勉強してたのか…?」
「うーん、多少は?」
「多少か。まあ何であれ、君の暮らしも理系の知識で成り立っているということだよ。」
「分かんないけど、分かりました」
「ちょうどいい、今日は物理基礎の復習を全て終わらせる。」
「え」
「何か」
「最悪」
新田チエの方こそ、かなりストレートな物言いだと僕は思う。このずけずけとした態度に僕はある意味諦めたのだろう。この人間と友好的な関係を築く必要は無い。皆無だ。だからコイツをお客様扱いするのはやめようと決めた。態度が悪いと分かっていても、僕は諦めた。
「僕も最悪だ。」
「先生、本当に変態ですね」
「変態?」
「だってこれ好きなんでしょ?」
「ああ」
彼女はそう言って物理の教科書を掲げたあと、渋々と勉強を始めた。ここまでやる気がない人間を相手に教えるのは相当に苦痛だ。だが、仕事だからと割り切る。その間に何度も彼女の態度にイラッとしながら、僕は授業を続けた。そして波の部分の復習を一通り終えた時、「一ついいですか?」と彼女が言ってきた。
「私、先生とは波長が合わないと思います」
僕は「同感だ」とストレートに返した。これもダメな「素直」に当たるのだろうが、彼女の言い回しは上手いなと少し関心もしていた。
疲れる。他人とはやはり関わらない方がいい。そもそも、上手くコミュニケーションを取れない自分には講師は向いていない。互いに理解するために在るとかいう言葉も、僕が使えば人を傷つける。会話も苦手だ。何を聞かれているのか分からなくなるし、相手に分かるように説明するということが何よりも難しい。何度説明を繰り返しても分かってもらえないこともある。
新田チエは授業を終えると、「ではまた」と言い残して帰っていった。二次試験が終わるまでの辛抱、あと残り37回。長い。
ふっと息を抜くと、気分が悪く体がだるかった。昔の様々な記憶が不意に思い出されてきて、急に心が沈んだ。頭にまとわりつくあれこれを振り払おうと大きく頭を振る。二次試験が終わるまで、あと何か月と何日あるんだ。僕は本当に大地震が起きて、この塾ごと沈んでしまえばいいと思っていた。
近藤家の夕食
その日は秋の気まぐれで、風のとても強い日だった。珍しく定時に上がれた私はママチャリに跨って海岸沿いを駆ける。公務員といえど、いつもは大体残業がある。だからこういう日はなるべく早く帰って、家事を色々片付けなくてはならない。
「あーせっかくちゃんと干したのにしわしわ…」
軒先から洗濯物を取り込んで、どさっと床に広げる。外は夕方でもだいぶ暗くなって、風も冷たい。時化た海からは波の音が強く聞こえた。
「あ、お蕎麦茹でなきゃ」
先にやるべき事を思い出して私は洗濯物を放った。そして台所で鍋に水を入れる。火にかけていつもなら沸騰を待つけれど、もうすぐ兄が帰ってくるからと、えいっと乾麺を二束その中に入れた。今日は自分も蕎麦を食べることにしよう。
「えーとこれは私ので…」
兄には洗濯物の畳み方にもこだわりがある。例えばシャツは両袖を内側に折ってから山折りを二回して四分の一にする。ズボンはチャックを軸に半分、今度は横に半分。夕食の蕎麦と一緒で、こうでないと気が済まないらしい。
「ただいま」
決まりに則って洗濯物を畳んでいると、玄関から完の声がした。その声色からして今日も疲れているようだ。
「おかえり、もうすぐお蕎麦出来るからちょっと待ってて」
「ありがとう」
彼はルーティン通り、手洗いうがいをしてすぐにカバンを持って自分の部屋に消えていく。その部屋の中からは何かをぶつくさと呟く完の声が聞こえた。「あー」とか「うー」とか、そんな感じだ。
私の結婚のこと。
成俊のプロポーズから早一か月になる。その間丸っきり忘れていた訳ではない。仕事で彼に会うたびにごめんと心の中で謝ったし、先輩からは何度も急かされた。
「お蕎麦上げるね。」
「…うん」
言い訳をするなら、兄の仕事が忙しそうだったこと。マツモト先生から生徒を任されたみたいで、その子の授業の日には今日みたいにげんなりと疲れて帰って来ていた。それを見て、ますます私の勇気はしぼんでいく。
「はいおまちどおさま」
「…いただきます」
上着だけを脱いでワイシャツ姿になった完は、いつものように蕎麦をすすり始めた。山葵も葱も入れないのも彼のこだわりだ。つゆもストレートがいいらしい。
「お兄ちゃん、今日もあの子の授業だったの?」
「ああ、まあ」
「そっか。」
私もあとでいいやと洗濯物を傍らに置いて、つゆを椀によそいお湯で割っていた。どうして割らずにいけるのか、同じ兄妹でもそこは分からない。そんな事をふと思いながら、私もすすり始めていた。
「やっぱ、講師向いてないと思う。事務に戻りたい」
完が唐突にぽつりと溢す。ふと彼を見ると、それは本当に疲れているようだった。頭が下を向いて肩も落ちている。
「なんで?」
「何か、関係構築とか、コミュニケーションとか、すごく疲れる」
そっか、そうだろうな…。
ぶっきらぼうに見えて繊細な兄は、昔から人付き合いは大の苦手だった。それは一番近くで見てきた私がよく知っている。そんな彼がマンツーマンで生徒に向き合っているのだから、さぞそれはストレスなのだろう。
「でもその子も受験で大変なんでしょ?」
「まあ」
「お兄ちゃんは何が大変なの?」
「何が?」
「これがきついなーって思うこと」
「うーん…」
彼は生半可な気持ちで弱音を吐く人ではない。自分なりにもがいて苦しんだ上の今なのだと思う。だからその気苦労を和らげてあげたかった。
「…生物は得意みたいだけど、数学も物理もパッとしない」
「お兄ちゃん得意なのに?教え方の問題じゃない?」
「何を言っているのか訳が分からないと言われた」
「やっぱり」
「でも、訳が分からないと言う方が、訳が分からない。」
「まあまあ、高校生なんてずっと前だから覚えてないけど、誰でもお兄ちゃんみたいに出来る訳じゃないってことだよ」
私は止まっていた箸を動かして、意気揚々と蕎麦を口に入れた。完は眉間にしわを寄せて、仏頂面をしている。
「自分で勉強するのは楽なのに、自分の頭の中にはあるのに、それを他人に伝える時にはなかなか伝わらない。間違ったことは何も言ってないのに。」
「そうだねえ」
「伝わらない度にここが何か、ぐーって詰まる」
そう言って完は眉間の辺りを指差した。時々出てくる、彼独特の表現だ。
「どうしたらいいのかな…」
「それが分かったら今までも苦労してないよ」
今のまま完がぐるぐると悩んでしまう方が良くない。私は思い切って伝家の宝刀を抜いた。
「向き不向きより前向き、って覚えてる?」
「聞き飽きたよ。母さんの言葉だ」
「そうそう」
母が生前に唱えていた、兄妹にとってのおまじないのようなもの。何か出来ないことができた時、自分を周囲と比べて辛くなった時、もうやめたいと諦めたくなった時、母が私たちに言っていた。兄は特に得意と不得意の差が大きかったから、母から何度も言われていたのを覚えているのだろう。
「私はあながち間違ってないと思うけどな」
私も小さな頃は受け入れられなかった。高校生くらいまではやはり自分と他者の違いや差が目に付いて、反抗期にはそう言う母に口答えした。でも、母が亡くなった後、大人になって、その言葉の意味するところを理解できた気がする。
「まずはお兄ちゃん、前向きだよ。あと四か月しかないんでしょ?」
「僕からしたら、四か月 も だ。」
早々と蕎麦を食べ終えて、彼は空になった器を水場に持っていった。私にそう言い捨てた後もなんやかんや言いながら、片付けていた。彼は納得したのか不服なのか分からないが、そのままぶつぶつ繰り返しながら自分の部屋に帰っていった。大体このあとは完の好きなようにしているから、私は深くは知らない。
完の部屋には入ってはいけないという暗黙のルールがある。それは彼が何か悪さをしているのではなくて、彼にとっての聖域だからだ。彼にとって落ち着ける場所。母が一度大掃除をしてしまった時は大変だった。多分小学生の頃。散らかっているように見えても、彼には彼なりの秩序が成り立っていて、「整理整頓出来てない訳じゃないんだ!」と兄は珍しく怒りを顕わにした。それ以来私も母も立ち入っていない。
「つぐみ、これ来てた」
昔の思い出に頭を巡らせていた時、完がやって来た。彼が持ってきたのは、白くてデザインの凝った封筒だった。
「僕の名前と、つぐみの名前も書いてある」
宛名は【近藤 完様 つぐみ様】となっていて、差出人は母方の遠縁の親戚だ。
「田畑さんって、お母さんのお姉さんの方の親戚だったっけ?」
手をちゃんと拭いて丁寧に封を開ける。それは、まっさらな和紙に時候の挨拶から印刷されていた。
謹啓 秋も深まってまいりました
皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます
さて私たち二人はすでに入籍を済ませ新しい生活をはじめたところでございます
このたび遅ればせながら結婚式を挙げることになりました
つきましてはこれからも変わらぬご指導ご鞭撻を賜りたくささやかながら披露かたがた小宴を催します
お忙しいところ誠に恐縮ではございますがぜひご出席をいただきたくご案内申し上げます
敬具
平成二十三年十月吉日
鷺沢圭一
田畑里香
記
日時 平成二十四年一月十四日 午後二時
場所 レストランテ シャンティ
東京都港区麻布三丁目一の十五 電話番号 03359975364
東京メトロ南北線六本木三丁目駅 下車 徒歩一分
なお勝手ながらご出欠のお返事を十一月二十五日までにお知らせいただきますようお願い申し上げます
「何だった?」
「披露宴の招待状。」
「そう」
自分で言っておいて、そのフレーズに少しヒヤッとした。蓋をしていたはずの色々なことを一気に思い出してしまう。
「誰?」
「里香さんだって。従妹、のはず。お兄ちゃん、覚えてる?」
「さあ。」
「さあって」
「僕は興味ない」
「まあ、多分私たちもほとんど会ったことないよね…」
確かに完の言う通り、興味があるかと言われれば難しい。私は新婦の子と面識は無いし、母の葬式にも来ていたかどうか記憶がない。わざわざ送ってきてくれたのに申し訳ないが、その綺麗な招待状を暫く私は眺めていた。
「お兄ちゃん、出る?」
「出ない」
即答。やっぱりだ。兄はこういったカチカチの行事、まさに冠婚葬祭は大嫌いだ。これらにまつわる色々なしきたりが面倒なのだろう。
「東京だって。お兄ちゃんだいぶ行ってないんじゃない。大学出て以来?」
「僕はいい。大学に行ってた頃も、東京は合わなかったよ。人が多くて。」
「久しぶりに行ってみたら、イメージ変わるかも」
「まさか」
「でも、兄妹どっちも出ない訳にはいかないからさ。」
「はあ」
完は本当に嫌そうな顔をする。
「はい嫌な顔しない」
「そういうのは苦手だよ」
確かに、塾講師でストレスフルな兄を無理に連れてくのは酷だろうと思う。ここは私が出るのが一番なんだろう。土曜日だから多分仕事も都合が付くはずだ。そう自分を納得させて、私は出席に丸をつけた。
「私出るよ。親戚付き合いもしないとね。」
「助かるね」
「うち二人しかいないんだから。ついでに東京観光でもしてくるよ」
「そう」
私は招待状を丁寧に折って、封筒にしまった。返送するもの以外は汚さないように居間の箪笥に入れておく。
「その日、センター試験だし」
「あそっか、お兄ちゃんそもそも仕事か」
「多分な」
完はそろそろと自分の部屋に歩いていった。その背中を見て、不意に呼び止めなければならないような衝動に駆られた。話の流れからすれば今しかないと思った。「ねさ」と声を発した時、その足がピタッと止まった。私の息も止まる。言うなら今しかない。このまま先延ばしにしていたらもっと言いづらくなる。「何?」と聞かれ、体がスーッと冷えていく。色々なものが、ない交ぜになって一気に押し寄せてくる。だけど話さなければ何も始まらない。始まることが良い事なのかは分からない。でも、このまま秘めたままにしておくのが良いとは思えなかった。とりあえず切り出さなければ何も始まらないと、そう思った。
「私も、結婚するかも」
彼は一瞬首を傾げ、棒立ちのままそこに立っていた。それを見て私は迷った。でも、嘘を兄につき続けるのは何よりもしてはいけない事だと思った。その気持ちが心を突き動かした。
「お兄ちゃん、私プロポーズされたの」
完は黙っていた。事態を飲み込めていないんだろう。静寂がその場を支配した。それから少しフリーズした後、彼はゆっくり「ああ」と言わんばかりに頷いた。どれだけ時間が経ったのかは覚えていない。二人の間には、ただ蛇口から水滴の落ちる音だけが聞こえていた。そして、口火を切ったのは完だった。
「そっか。」
それ、だけ…?
「ねえ、」
思わず呼び掛けても、変わらぬ様子で自分の部屋に去ろうとする。
彼は何を思っているのだろう。私の告白を聞いてどう感じたのかは分からない。だけど。こんなに淡泊な返事で終わるものだと思っていなかった。せめて「興味ない」とかそんなことを言ってくると思っていた。ねえ、何か言ってよ。おめでとうでも、訳が分からないでも何でも言ってよ。私の心の中に色々な言葉が溢れ出した。とめどなく溢れ始めて、さっきまで流れていた変わらない空気とのギャップに私自身が戸惑っていた。これは私の問題でもあり、完の問題でもある。私たち兄妹の問題だ。なのに、あっけなく、突っ撥ねられたような冷たさに、私はどうすればいいのか分からない。
「いいの?」
兄は立ち止まって「…何が?」と言った。居ても立っても居られなくて、私は矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「これは私だけの事じゃないんだよ。」
「?」
「興味ないのかもしれないけどさ、お兄ちゃん、大丈夫なの…?」
「どういう、意味?」
「いや、だからさ!」
「うん」
言い過ぎたかもしれない。兄は少し驚いたような顔で私を見ていた。
「お前が幸せなら、それで良いんじゃないか…?」
違う、そういうことじゃない。
確かにそれはそうかもしれないけど、でも、こんなんじゃ私は自分の答えを決められない。ちゃんと話したい。違うじゃん。嫌だ。もっと興味もってよ。お兄ちゃんの問題でもあるでしょ?
そう言い返す前に、彼は居なくなっていた。何も解決していなかった。
ない交ぜになった気持ちのまま、私は残った洗濯物を畳み始めた。手元も、心も寂しくて、何かをして紛らわせたくなった。
「そっか…って、さ」
ふと顔を上げた時、微笑んだ母の遺影が目に入る。母ならこんな時、どんなおまじないを掛けてくれただろうか。
「…お兄ちゃん、本当に大丈夫なのかな。」
母はにこやかだが何も言わない。写真立ての中でそのままだ。
そして完の畳んだシャツたちを彼の部屋の引き戸の前にそっと置いた。
「…私はちゃんと話したい。私がどうするのか、お兄ちゃんがどうするのか。」
中からは何も音は聞こえてこなかった。でも私は戸の外からそっと話しかけた。
「私はお兄ちゃんを放っておけない…」
「ごめんね…」
ちゃんと話そう。嫌がられても、避けられても。私はちゃんと向き合って話したい。彼は一人では生きていけない。
私はただ、兄の気持ちが知りたかった。
恋愛方程式
ピピピピ ピピピピ
「はい終わり。ちゃんと解き切ったか?」
「いや、確率の問題が時間なくて…」
十一月に入ったが新田チエは伸び悩んでいた。予定通りに復習は終えたものの、過去問演習を始めても点数を取れない。概観すれば少しずつ力を伸ばしていたけれど、正直まだ足りない。もっと力をつける必要がある。最後の模試でも、偏差値は上がったが判定は変わらないままだった。何が悪いのか。僕は、教え方云々より、単純にスタートダッシュが遅かったのが原因なのではないかと考えていた。
「だから、計算でいけないなら地道に数え上げる。取りこぼし無くだ。」
「分かりました…。でも、大変ですよね」
「確かに大変だけど、スモールステップの積み重ねでも答えには辿り着ける。あとはそこで踏ん張るか逃げるかだ。」
「はい…」
やはり彼女と話すのは疲れたが、比較的率直に感情を表す人間だったから、「曖昧」な事が苦手な僕にとっては案外楽なタイプなのかもしれないとその頃は思い始めていた。
「じゃあまず自己採点して。分からなかったところがあったら解説する」
新田チエは赤ペンを取り出して、「あー」とか「うー」とか唸りながら〇や×を付けていく。
「あの、もう少し綺麗に解答書けないか?」
「え?そんなに文字が汚いですか?」
「いやそうじゃない」
彼女の解答用紙を1枚取って読んでいると寒気がした。数学オタクが「美しくない」という表現を使っているのを聞いたことがあるが、彼女の解答はそれだった。論理立っていないというか、乱雑というか。とにもかくにも美しくない。
「綺麗に、解を示せ。滑らかな、流れになるように」
「はあ…」
得点はまずまずだった。出来れば大問二つを完答してほしいのだが。もう少し点を積んで、さらには安定してそれを取れるようにならなくてはいけない。これではまだまだだ。
「これじゃ五分五分のままだ。このままだとかなり厳しい」
「…そこまで言いますか?」
「模範解答の解き方とも照らし合わせてみろ」
そう言うと新田チエは渋々過去問題集を開いた。こうも言わないとやらないのでは、五分五分も無理だろう。だがそれを言うのは流石にやめておいた。
つぐみが結婚すると聞いた時、僕はいまいち飲み込めなかった。まず気になったのは、妹にも彼氏がいて、そもそも恋愛に興味があったのかということだった。まあ年頃だから恋愛の一つや二つはしてきたのかもしれないが、正直僕には全く興味がなかった。
「なあ、君も恋愛とかするのか?」
「…は?」
「だから、恋愛とかするのか?」
新田チエはいつも通り眉間にしわを寄せて、こちらを睨んだ。不快感の塊だ。
「先生、何か変なものでも食べました?」
「いや、朝はお茶漬けを食べたし、昼はおにぎりを食べた。」
「だから、そういう意味じゃなくて、頭おかしくなりました?ってことです」
この子は本当にストレートな物言いをする。僕にはよく分からない恋愛というものを聞いてみようと思っただけなのに。
「頭は大丈夫だ。」
「そうですか。ていうか女の子にそういうこと聞きます?」
「聞いちゃダメなのか?」
「普通聞かないでしょ、まして大人の男性が。マナーですよマナー」
「はあ…」
世の中には暗黙のルールが多すぎる。またそれを思い知らされて、僕は聞かなければ良かったと今更ながら後悔していた。
「でも、するんじゃないですか?」
「は?」
「恋愛」
新田チエは赤ペンで書きながら急に話を投げ返した。その唐突な蒸し返しに思わず僕も狼狽える。
「…」
「先生は、人を好きになったことないんですか?」
「ない」
「うえー」
「人は嫌いだ」
「へ?」
「人間は複雑で理解が難しい。」
「いや…」
「でも数字は裏切らないし怒らない」
「はあ。私は数字の方が嫌いですけど。」
人間は複雑で理解が難しい。お世辞や皮肉など、言ってることと本心は違ったりする。場の「空気」を大事にし、「しきたり」に従って行動している。そして、他人を好きになったり嫌いになったり、互いにくっついたり離れたりして生きている。だから、嫌いだ。
「恋したら、先生も人間のこと理解できるようになるんじゃないですか?」
「どういう意味だ?」
「ほら、恋してる時は相手の気持ちとかすごく考えるから」
「はあ、恋愛なんて所詮脳内物質の作用に過ぎない。子孫を残す本能だよ。」
「先生、ロマンティックの欠片もないんですね」
「ありがとう」
「皮肉です」
だから、嫌いだ。新田チエはこのあとも話し続けたが、僕にはさっぱり分からなかった。
「恋愛はそんな脳内物質とか、そういうんじゃないと私は思いますけど」
「なら何だ?」
「何というか、もっと…ロマンティック、なものです!」
ロマンティック?そんなものはあり得ないし、信じるに値しない。鼻で笑ってしまう。
「なら、これはどうだ?君の好きな恋愛は数式にも表せる」
「別に好きじゃないですけど」
僕は苛立ってホワイトボードに数式を手早く書いていた。彼女のロマンティックには理詰めで対抗するしかないだろう。
L→8+1/2Y|1/5P+2J|1/3G|1/2(Sm|Sf)2|I+3/2C
「何ですかこれ」
「右辺の文字はそれぞれ、つがいの仲が良かった年数…」
「つがいって言います?カップルで良くないですか」
「そうか。じゃあ右辺からカップルの仲良くしている年数、元カレ元カノとの二人の累計交際年数、ここからは1から5の数字が入ることになるが、二人がどれだけユーモアを重視しているか、二人がどれだけ見た目を重視しているか、二人がどれだけ性生活を重視しているか、二人がどれだけ相手の家族と上手くやっているか、子どもをどれだけ重視するか、を表している。イギリスの数学者が発表したものだ。」
「はあ」
「で、これらの和は、二人の関係があと何年続くかを示している。」
似非科学の割にはとても美しく、整った数式だ。エレガントとも言える。
「恋愛ホルモンと言われているオキシトシンのピークは三年だ。つまり、そこまでにこのラージLはどんどん減少していくのが普通だろう。」
「それで?」
「最終的に、総和はゼロ、いやマイナスになって夢は終わる。」
完璧なQEDだ。我ながら心地良い。だが新田チエはそれに構わず反論した。
「本当にロマンティックの欠片もないですね」
「この数式にはロマンがあると思うけど」
「やだやだ。人の心を数式なんかで表せてたまるかって感じ。先生が言ったんじゃん、人間は複雑だって。」
「…ああ」
認めたくないが、僕は確かにそう言った。
「だって、付き合ってる時に「私たちあと何年続くんだろ」とか年単位で計算しないと思いますけど」
「いや、」
「ホルモンがどうたらとか、数式がどうたらとか、絶対気にしないと思います。好きなら、誰が何と言おうと好きだし、たとえ喧嘩しても、その人の事で頭いっぱいなんですよ。もちろん、皆が皆ずっと好きでいられる訳じゃないかもしれないけど。」
「そんなもんか」
「私は、分かりますよ。」
「?」
「大事なもんは、大事なんです」
「ふうん」
「先生、本当に恋したことないの?」
「ああ」
「じゃあ、おにぎり、誰が作ってるんですか?」
「は?」
「いや、お昼にいつも食べてるじゃないですか。美味しそうなおにぎり。」
「ああ」
「てっきり彼女の手作りだと」
「彼女?」
「ええ。あ、でも居ないか」
「…妹だ」
「え?」
「妹だ」
「え⁈ 妹、居たんですか」
また余計なことを言ってしまった。彼女は水を得た魚のように「え、可愛い?」「何歳ですか?」と要らない質問を繰り返ししてきた。面倒だ。僕は新田チエを無視して、席に戻らせた。
「えーいいじゃないですか質問したって。気になるし。」
「それより、早く採点しろ」
「えー」
恋愛の話で時間を無駄にするなんて、本当に勿体無い。生産性が無い時間を過ごしてしまった。良くない。
*
授業を終えて、白板の数式を消す。筆圧が濃くて残ってしまっていたから僕はそれを二回消した。
「ていうか先生、恋愛に興味あるなんて意外でした。そういう柄じゃないと思ってたので。」
新田チエは去り際に僕にそう刺してきた。何て性格が悪いのだろうと、僕は無視を決め込んだ。
「人間に興味ないんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、なんで?」
「は?」
「なんで恋愛の話なんか私に聞いたんですか?」
彼女の質問は核を突いていた。こういうところは頭が良い。僕は一瞬素直に答えるか迷った。でも嘘をついても特に意味はないと思ったから、普通に答えることにした。
「…妹が」
「妹さん?」
「ああ。妹が、結婚するらしい」
「え、あ、おめでとうございます!」
「いや、僕に言われても」
「いや、先生も家族なんだから関係あるでしょ?」
「そういうものか?」
「そりゃそうでしょ。」
「はあ」
「で?」
「ああ。それで、ちょっと、知ってみたいと思った」
「…?」
新田チエは何故か驚いたような顔をしている。口をぽかんと開けたまま、「何を、ですか?」と聞き返した。それに僕は「恋、ごころ?」と静かに答えた。その答えがどこか恥ずかしいような、そんな気がしたからだ。
「恋心?」
「…ああ」
その後、新田チエはうるさく囃し立て、「えー先生が恋心知りたいとか…ちょっと…」「先生は結婚、しないんですか?」「あ、先生、自分でおにぎり作った方が良いと思いますよ」「結婚するならなおさら。妹さん心配するって」と一通り喋ったあとに帰っていった。
僕は、他人の気持ちを考えるのが苦手だ。
でも、今は少し興味があった。つぐみが、今何を考え、何を思っているのか。兄として、というより、個人的な興味と言った方がいいかもしれない。
新田チエの言う通りならば、大事なものは大事、ということならば、つぐみはそう思える相手を見つけたということだろう。僕にはよく分からないが、きっとそういうことなのだ。
なら、何故?
彼女は「私だけの事じゃない」と言った。そして「ちゃんと話したい」と言った。
僕がどうするのか?そんなのは決まっている。変わらず、独りで生きていく。彼女の結婚は、僕の問題ではない。
やっぱり、僕には他人というものがよく分からない。
理解が出来なかった。
告白
あの夜の衝突から彼との間に距離が出来ると思っていたけれど、私と完の関係性はそこまでは変わらなかった。向こうも特段避けてるような素振りは見せず、いつものように私に起こされて、朝はお茶漬けを食べた。そして仏壇の前でおまじないを唱えて、私の作った梅干しおにぎりを持って塾に出た。夜も帰ってきては蕎麦を啜った。
多分、兄は兄のタイミングで話してくれるはず。今、彼は彼なりに色々なことを考えているんだろう。だから、私はその時を待っていつも通り仕事をしていた。
でも、佳奈さんは怒っていた。私が「お兄ちゃんの返事、『そっか』でした」とお昼に話した時、彼女は「はあっ⁈」とフロアに響くほどの声を上げた。そして目の色を変えて「こんなに妹が悩んで言ったのに、その返事はないでしょ!」と怒った。まあ確かに佳奈さんの言う通りなのだけど。でも、私は待つことに決めていた。
潮騒が聞こえる。
気づけば冬も近づいて、海岸はだいぶ寒かった。私は冬物のコートの袖口を握って、じっと座っている。
「…ずっと、待たせてごめんね」
「え?」
「ちょっとどころじゃなかったよね」
「ああ、全然大丈夫だよ」
兄のことを待つということは同時に成俊も待たせるということ。彼をいつまでも待たせている申し訳なさも募り、ある日私は彼に声を掛けた。彼にはきちんと説明したいと思ったから。「話したいことがある」と言うと、彼は少し驚いた様子だったけれど快諾してくれた。
「やっぱり不安にさせちゃった…?」
「ううん、大丈夫」
「本当に?」
彼は優しいから気を遣ってくれている。でも心中は不安でいっぱいだったと思う。私が同じ立場なら気になって仕方がなくなる。
「…本音を言えば、ちょっと不安だった」
「そうだよね…ごめんね」
「ううん」
成俊は優しく微笑んだ。そして私は彼に、完のことを話し始めた。
「お兄ちゃんがいるって話したことあるでしょ?」
「うん、三歳上だっけ?凄く頭の良い人だって…」
「お兄ちゃんなの」
「え?」
「私が、迷ってる理由」
彼は少し驚いていたようにも見えた。でも私は話を続けた。
「…お兄ちゃんさ、うーん何て言うんだろ、ちょっと変わっててさ。不器用、っていうか。よく言えば自分に素直なのかな。自分の思ったこととか、パッと言っちゃうんだよね。興味なかったり嫌だったら、そのまんま。それに、空気読むとか、暗黙の了解、とか大の苦手で。」
成俊は頷きながら、真面目に聞いていた。けど、こんな話いきなりされたら困るはずだ。
「小さい頃からずっと独りぼっちだった。学校でも友達作れなくて、クラスで浮いてた。同級生の子とかを泣かせちゃったりしてさ。結局、そういうのが積み重なって、学校行かなくなっちゃったんだよね。」
「…」
「私、お母さん亡くしてるのは知ってるでしょ?」
「うん」
「そんなお兄ちゃんを支えてたのがお母さんだったんだ。『あんたは好きなことやんな。でも他人様には迷惑かけちゃいけないよ』って。よくお兄ちゃんに言ってた。子どもながらに凄いなって思ったよ。色々なことがあっても、お母さんは根気強くお兄ちゃんを支え続けた。…私だって、最初はお兄ちゃんのことよく分からなかったもん。何でこんなこと拘るんだろう、何で分かってくれないんだろうって。何度も喧嘩したし、何度も泣かされた。」
成俊は悲し気な表情をしているように見えた。でも、そんな顔しないでほしいと私は思っていた。それは、それだけ私が兄を心配しているという事の証だった。
「これだけ聞いたら印象悪いかもしれないけどさ、お兄ちゃん凄いんだよ?高校の時、物理オリンピックに出たの。」
「物理オリンピック?」
「うん。不登校になったお兄ちゃんの勉強を見てくれた塾の先生がいたんだ。その先生が得意な数学や理科を伸ばしてくれたから、高校や大学にも行けた。」
「そうだったんだ…」
「でも、お母さんは私が高二の時、がんで死んじゃったの。…うちはお兄ちゃんと私の二人だけになって。もう、とにかく必死だったよ。私が頑張らなきゃ、私が今度は支えなきゃ、って。お兄ちゃんも就職とかで色々上手くいかなくなっちゃうしさ。本当にあの頃は大変だった」
「…」
私は過去を思い出し、胸のすくような思いがした。あの時の色々な不安、心配、そんなものが胸中に溢れ出てくる。それでも成俊は長くてまとまりのない話を、ひたむきに聞いてくれた。その在り方が、一番ありがたかった。そして指がかじかんで冷えていた。空はすっかり暗くなり、カモメの鳴き声だけが響いていた。暗がりの中でそっと私は彼の方を向いた。
「…まだ、ちゃんと話せてないんだ。お兄ちゃんと」
「え?」
「…結婚のこと」
そう呟くと、成俊は私の言いたいことを分かってくれたように見えた。彼はそれを示すようにそっと頷いた。
「わがままなのは分かってる。馬鹿だなって思ってるかもしれない。でもね、私にとっては大事な家族なんだ。お兄ちゃんなんか居なくなっちゃえばいいのにって思ったこともあったけど、私には見捨てられない。」
「…」
私の剣幕に彼は言葉を失っていた。言っている中身も含めて、それが普通の反応だと思う。自分でも少しおかしいというのは分かっている。言ってみれば、これは過保護というものなのかもしれない。
「私は、お兄ちゃんにも幸せになってほしい。…だから、ちゃんと話して、私の答えを決めたいの。」
とどめを刺したような気がした。そして二人とも黙り込んだ。私はわがままを詫びた。成俊は何を思っているんだろう。本当に、本当に、申し訳なくて自分を責めた。
「ごめんね、また待たせることになる。私のわがままで。それに、もしかしたら…」
「いや」
「?」
「大事なことだと思う。」
「え?」
「だって、二人で、お母さんが亡くなった後、一緒に頑張ってきたんでしょ?」
「…」
「なら、僕はちゃんと話し合ってほしい。」
成俊は私の手を、あの時のように両手で包んだ。
「僕は、君が答えを出すまで待ってるから。」
「…」
「だから僕のことは気にせず、納得いくまで考えて。」
「…うん」
彼の心からの言葉だと感じた。私を真っ直ぐ見据えた彼の瞳は澄んでいた。そこに疑いは一つもなかった。
「イエスでもノーでも、僕は君の答えを受け入れる」
「…ありがとう」
その後いつものように彼とは別れた。彼は「風邪引かないようにね」と言って去っていった。
彼はもしかしたら少し引いていたかもしれない。付き合って長くなるけれど、彼にここまで踏み込んで話したことはなかったと思う。でも、話して、話せて、良かった。
私は家路を急いだ。今夜も蕎麦を茹でなければと、小走りで路地を抜けた。
心のざわざわは、まだ消えない。私はまだ何かを決めた訳でも、何かを選んだ訳でもない。今もどうしたらいいか分からない。だけど、その気持ちも、少し落ち着いたような、そんな気がした。
家庭訪問
ピンポーン
今日は塾が休みだから、昨日は夜更かしをしていた。だから誰であれ起きるつもりはない。休日は休むためにある。
ピンポーン
知らん。もう少し寝させてくれ。
ピンポーン
「完⁈ 寝てんなら起きてこーい!」
うるさい。近所迷惑だからやめてくれ
「あのさあ、私このあと仕事詰まってんの!」
…佳奈だ。
朝っぱらからこんながなり声を上げる奴は、アイツしかいない。大きな声で近所迷惑になるとは思わないのだろうか。彼女の呼び声で頭が痛くなり始めるのを感じながら、僕はゆっくりと起き上がった。枕元には昨晩読んでいた科学雑誌が転がっている。その横の置き時計を見て、「そうか、今日は定期訪問の日か…」と僕は寝ぼけた頭で思い出した。
「どうも。市役所の足立です。」
「知ってるよ」
仕方なく向かった先の玄関で、佳奈はいつものおばさん臭い出で立ちで立っていた。ベージュのコートに真っ赤なセーター。それで許可も得ず軒先まで自転車を回し、しっかりと停めている。相変わらずだ。自分もよく「図太い」と言われることがあるが、コイツも相当だと思う。
「定期訪問、あんの忘れてたでしょ?」
「ああ…」
「まったく。まあいいや、入るから」
佳奈は僕がいいと言う前に靴を脱ぎ、既に家に上がっていた。寒くて冷えると繰り返しながら今日の天気に文句を言っている。天気に何かを言っても無意味だと分からないのだろうか。人間の傲慢さを体現している。自然現象は自然であるからこそ、畏れ多いのだ。
「そんな雑で、市民に怒られないのか?」
「え?ああ、あんたは別よ。あんたにわざわざおべっか売る必要ないでしょ」
「はあ」
知ったようにずんずんと廊下を進み、彼女は居間へと入った。僕はその後を追いながらだるそうにゆっくり歩く。先に座っていた佳奈は重そうなトートバッグを床に置いて、中からバインダーを取り出していた。そして、いつもの形式的な質問を始めた。
「最近、調子はどうですか?」
「ぼちぼちだ」
「そう」
生きているかいないのか、そんな質問ばかりが並んだシートにチェックを入れていく。こんな事を毎日何軒も繰り返しているのだから、役所は相当暇なんだろう。
「生活の中での困り感とかはありませんか?」
「寝ているところを叩き起こされて睡眠不足です」
「はいはい。役所の仕事なんだからしょうがないでしょ?」
一通りの質問に答えると佳奈はバインダーを置いた。「今月も特に問題なしね」と興味なさげに言いながら、物色するような目で近藤家の居間を見回す。仕事柄なんだろう。すると彼女は急に立ち上がってどこかへと歩き出した。ああ、僕の部屋に向かった。「おい」と止める前に彼女は既に戸を開けていた。
「はあ…この部屋の汚さは相変わらずだなあ」
「だから入るなって」
「分かってるよ。でもそろそろ整理した方がいいんじゃない?」
「汚いんじゃない、僕なりの秩序があるんだ」
「耳に胼胝ができるほど聞いたわ」
「そうか」
耳にタコとか、あの足八本がまとわりつくのはごめんだと変な想像をしている間に、彼女は話題を変えていた。その最初のいくつかは聞きもしていなかったようで、それが仕事に関する話だと分かるまで数秒を要した。
「で、仕事はちゃんと続いてる?」
「ああ。色々大変だけどな」
「何が大変なの?」
「授業だよ。元々事務で入ったのに、マツモト先生が生徒教えてくれないか?って」
「え、なに、じゃあ今先生やってんの?」
「一応な」
それを聞いて佳奈は珍しく驚いた顔をしていた。よほど意外だったんだろう。別に自分に講師が務まるとは今も思わないが、彼女のこの反応はそこそこ癪だった。「お前には無理だろう」という憐みがその目に込められていると思ったからだ。
「えー大丈夫?生徒さんとは上手くやれてる?」
「さあ。向こうが決めることだ。こっちはすごく疲れるよ」
「そっか。今度はちゃんと続けなよ。まあ、マツモト先生のとこなら安心か」
「ああ」
まあ、佳奈が心配するのも無理はないのかもしれない。僕は大学時代、理系ながら院には行かず就職した。院進するほどの金も無かったし、これ以上奨学金を借り入れる余裕など甚だ無かった。それに苦しい生活を甘受するほど研究がしたかった訳では無い。それで人並みに就活というものをした。何十社とエントリーをして、数社の一次選考に通り、一社以外全て面接で落とされた。マツモト先生に言わせれば、「その面接官達は本当に人を見る目があったんだな」らしい。そして残った一社に奇跡的に受かった。だが、その会社では地獄が待っていた。後に知ったのだが、そこはブラックで有名な企業だったらしい。入社してすぐに配属された営業は、今思うと二度とやりたくない業種になった。
協調性、コミュニケーション能力。
このフレーズが何度僕の頭を掠めただろう。一言で言うのならば、僕が「仕事」をするのは無理なのだと悟った。仕事というのは人が寄せ集まったところで、互いになんやかんやとやり取りをしながら回っている。それを初めて知った。それまでの自分は居場所を取り上げられては作り、まるで永久機関のようになることを目指していた。つまり外部から何も受け取ること無く、自分だけで生きていけるように、自然となっていた。自己完結。そうすれば誰にも迷惑を掛けず、干渉されずにいられる。だが、それは社会という場所では到底許されるものでは無かったのだ。そしてノルマを達成出来なかったとか人間関係が上手くいかなくなったとか、そんな理由をつけて早いうちに僕はその会社を辞めてしまった。これに対して周りからは「甘い」「社会人ならそれくらい耐えろ」などと言われた。が、僕の中にその決断を疑う心は微塵も無かった。むしろ会社の上司から、「自分から辞めてくれて助かった」と最後に溢されたから、やはり自分がいない方が助かるのだと正当化していた。そう、僕はやはり独りでいる方が正しかったのだ。
それからは職を転々とした。出来れば人と関わらない仕事が良いと思った。それで色々なものをやったが、どれも挫折した。本当に世の中ごまんと職業があるのにこんなにも合わないのかと逆に驚いたほどだった。結局、学生の時にお世話になっていたマツモト先生の塾で雇ってもらって今に至る。こういった過去を踏まえれば、佳奈の心配も理屈が通っていると思った。その苦労は知っているから、本当に「続くといい」と願っているはずだと僕は感じていた。
「でも保健師も大変だな」
「え?」
「色々な人のところ廻って、話して。僕に一番向いていない仕事だよ。」
「まあね。あんたにはきついかも。」
「ああ」
「ね、お焼香させて」
チーン
「ねえ、つぐみ居なくなった後、どうすんの?」
「え?」
居間に戻り線香を差した後、佳奈は唐突に話を切り出した。母の仏壇の前で遺影をしみじみと見つめながらの事だった。
「結婚、するんでしょ」
「ああ」
「ああって…。あんた、『そっか』で話終わらせたんだって?」
「覚えてないよ」
「つぐみから聞いた。」
「そうか」
「あの子、すごく悩んでるよ。プロポーズ受けるか受けないか」
「は?」
彼女の言葉に僕は素で驚いていた。初めて聞く情報だったからだ。佳奈が何を言っているのかよく分からない。つぐみは素直に結婚をするものだと僕は思っていた。
「は?って」
「受けるんじゃないのか?あいつもそう言ってたぞ」
「いやあんたさあ、他人事じゃないでしょ?」
「他人事だよ。自分には関係ない。つぐみが結婚したいならばすればいいと思う。」
「ねえさ!はあ、まったく…」
佳奈は何故か憤慨しているようだった。仏壇から僕の方に体を向けて何やら喚き始めた。一体僕の発言の何が気に障ったのか、僕にはさっぱり分からなかった。
「あんたはさ、つぐみの結婚に反対なの?」
「いや、あいつが幸せならそれで良いんじゃないか。つぐみにもそう言ったよ。」
「ならさ…」
そこで言葉を切った佳奈は何かを考えているようだった。そして話し続けた。
「つぐみ居なくなったあと、一人で生きていける?」
「何が言いたい?」
「家事とか、身の回りのこととか、自分でできるの?」
「何とかなるんじゃないか」
「何とかじゃないよ…つぐみ、そういうとこを心配してるんだよ?独りになった後のこと。」
「僕は、今も昔も、独りだ。」
「またそれか」
「悪いか」
「…あんたがつぐみを安心させないと、あの子、断ると思う」
「なぜ?」
なぜだ?つぐみにもどうしようもなく大事な男が居るならば、そいつと結婚すればいいだけの話だ。僕には関係ない。
「あんたが、大事だからだよ」
「…俺が?」
「あんたが大事だから、心配なの」
「心配?」
「そう。あんたが独りで生きていけるか、心配なの」
「俺は独りで生きていけるし、今までも独りで生きてきただろ」
「ねえそれさ、本気で言ってる?」
ああ。自分は今日の今日まで独りぼっちだ。他人とのいざこざを避けるために、下手に誰かを傷つけないためにそうなった。それが一番楽だった。
「あんたさ、昔電柱山で殴り合いの喧嘩したの覚えてる?」
「いつの話」
「小五とかの時」
「そんなことあったか」
「悪ガキの冗談を真に受けたあんたが、キレて殴りかかって喧嘩になったの。私たちが止めに入って落ち着いたけど、そん時、つぐみも居たんだよ。あんた、本当に覚えてない?」
「ああ」
「つぐみ、大泣きしてた。お兄ちゃんを殴るな!ってそいつに向かってったの。冗談だったんだよって向こうが言い訳しても、『お兄ちゃんをからかうな!』ってひたすら泣きながら怒ってた。」
「ふうん」
「兄貴が馬鹿にされたのが、本当に悔しかったんだろうね。小二とかなのに、小五のデカいやつに立ち向かってた。」
「…」
「それだけ、守りたかったんだよ。あんた、勘違いされやすい奴だったから、色々言われてたのはつぐみも知ってただろうし。」
「…」
「家族でもない私が口出しすることじゃないんだけどさ、もし、あんたが、あの子のことを祝ってあげたいと少しでも思ってるなら、ちゃんとあの子の背中を押してあげて。安心して、自分の道に進めるように。」
「…」
「でも、ダメならダメって言ってほしい。」
「え?」
「ねえ、まだ毎朝『他人様に迷惑をかけないように』って唱えてんの?」
「ああ」
「あんたはもっと、他人を頼るべきだと思う。たとえ、その時に上手くいかなくて、自分が嫌になったとしても、そこで諦めないで、逃げないでほしい」
「…」
「人は結局独りじゃ生きられないの。どんなに他人と離れたくても、関わりたくなくても、それは無理なんだよ。だからたまには他人の手を借りなきゃ。私も、マツモト先生だってそう。あんたのその気持ちを応援する人はちゃんと居る。」
「…」
「私は、応援するよ?」
「?」
「あんたが頑張るなら、私は応援する」
「…そう」
そう言い残して、佳奈は次の訪問に遅刻すると焦りながら家を出ていった。
佳奈の言った事は本当だろうか。つぐみは、自分を理由にして結婚を躊躇っているのだろうか。まさか。僕は、独りだ。今までも、これからも。なるべく誰かの厄介にならないように、他人には関わらないように努力してきた。人は複雑で分かりにくいうえ残酷だ。一度異物とみなすと寄ってたかって淘汰しようとする。何故そこまで嫌われるのか分からなかったが、その問いの探求は最終的には諦めた。
つぐみの助けを借りて生きてきた…?
考えたくもない。自分は、自分で生きてきた。いや、でも…今の暮らしが出来ているのはあいつのおかげなのか…?それであいつは僕の心配をしているのか?
認めたくない。自分は独りでいい。つぐみに頼らなくても生きていける。
「同情されてたまるか…」
朝飯の準備をしていた。もう既に正午を回っていたかもしれない。その日はお茶漬けなど初めてどうでもいいと思った。後で調子が狂うと分かりながら、気づくと冷蔵庫から卵を取り出していた。そして茶碗に冷えた白米をよそった。
卵を割ろうとするも、力を入れ過ぎて殻がバラバラに茶碗に入った。考えてみれば卵を割るという事も、自分が今までしてこなかった事だった。
「くそっ」
シンクを拳で叩いた。痛みが響く。痛い。そして、滑稽だった。卵一つさえ満足に割れない自分に気づかされたような気がしたのだ。脳内につぐみの顔が浮かんだ。腹が立った。悔しかった。そして、悲しかった。
佳奈の願い
役所の仕事はいつも忙しいけれど、師走は特に忙しい。御用納めが近づくにつれてどこの課も一段と慌ただしさを増すのだが、特に寒くなると市民から様々な相談が増える。この冬を乗り越えるのに苦労している人がいる、路頭に迷ってしまった人もいる。そんな人たちのために、私たちは日々町を駆けずり回っていた。
「お疲れー」
そんな外回りから帰ってきた先輩はどさっとデスクに突っ伏した。
「あー寒い寒い」
「だいぶ今日は風も冷たいですもんね」
「そうそう。もう顔が凍るかと思ったわ」
先輩はコートのポケットからカイロを取り出して、シャカシャカと何度も振った。ふとそちらを見ると指先がかじかんで、赤くなっている。
「今日は何軒訪問したんですか?」
「えーとね、澤井さんと朝日さんと小谷さんと高橋さんち、ああと長谷川のおじいちゃんち。だから五か」
「午後もまた出るんですよね」
「そうよー冬は皆やっぱ体が痛くなるからね。ちゃんとケアしてあげないと」
「お疲れ様です」
それは保健師の佳奈さんだから出来ることだ。彼女の確かな洞察力とサポート技術は他部署からも一目置かれている。
「さ、お昼食べよ」
「あ、私もそうします」
先輩はそう言って手製のお弁当を取り出した。気づけば正規の昼休みをだいぶ割り込んでいたらしい。私も書きかけの書類を上書き保存して、パソコンをスリーブさせた。
「あれ、先輩それ」
「あ、これいいでしょー?長谷川さんにもらったんだー」
佳奈さんが取り出したのは缶のおしるこだった。不意にほっぺに当てられると、まだ温さが残っていた。「羨ましいです」と言う私を横目に、「あーあったまるー」と嬉しそうに飲んでいる。
「先輩のお弁当、本当にいつも美味しそうですよね」
保温弁当に詰められていたのは、あおさの卵焼き、きんぴらごぼう、アスパラベーコン、そして兎の形に切られたリンゴと、ごま塩ご飯だった。彩りが良くて、私の残り物を詰めた茶色いお弁当とは比べ物にならない。
「ほら、食事くらいは楽しみにしたいじゃん?この仕事してると辛いことも色々あるからさ」
確かにそうだなと思う。やりがいはあるけれど、時にはきつい言葉をかけられることもある。佳奈さんは色々な人と接する分、そうなんだろうと私はその言葉をしみじみと受け止めた。
「それに、あんたと違ってお相手もいないから、唯一の楽しみよ。んなこと言ってるとまた太っちゃうわ」
卵焼きを頬張って「ああうまい」と佳奈さんは呟いた。その豪快さが頼もしい。
「そういや、あいつはまだおにぎりばっか食べてんの?」
「ああ、はい。」
「相変わらずだねー」
「あーでも最近、なんか…自分で作るようになったんですよ」
完と言えば、最近変わったことがあった。ある朝、私がいつものように昼のおにぎりを作っていると「明日からは僕がやるから」と言ってきたのだ。突然のことで、今までにこんなことは無かったから、私はとても驚いた。そして翌日、朝起きると手にこびりつく米粒と格闘する彼が台所に立っていた。
「ふーん、あいつがねえ」
「洗濯物も、自分の分はやらないでくれって」
「えー」
「正直、ちょっと戸惑ってます」
かぼちゃの煮物を口に入れて考えた。まだ、兄からは「そっか」以外の言葉は無い。それに、やはり少し距離が出来たような気がする。何か、私の手を借りまいと決意したかのように、冷たい距離を取っているように見える。兄なりに自分で頑張れるという姿勢を見せようとしているのかもしれない、でも…
「先輩、お兄ちゃんに何か言いました?」
「え、なんで?」
「こんなこと、今までに無かったので」
「うーん、私何か言ったかな…」
きっと先輩が兄を焚き付けでもしたんだろう。そうでもなければ、だ。
「素直に喜んでいいのか、分からないです。」
「?」
「むしろ心配で。」
「心配?」
「何か無理をしてるんじゃないかって。意地になってやってる気がするんですよね…」
「意地かあ」
「もし、私の為にそうしているのなら、なおさら…。」
「そうだよね…」
近藤完は、一生懸命な人だ。興味は狭くても、自分がやると決めるととことん努力する。だから、空回りもしやすい。余計に周りの事が見えなくなって、自滅してしまうこともあった。そこがどうも不器用というか何というか。良いところにその力を使えばいいのになかなかそれが難しいらしい。あんな姿を見たのは初めてだった。それは嬉しかった。でも、だからこそ、不安にもなる。
「つぐみさ、私が前に言った事覚えてる?」
「へ?」
「回りまわって考えてみたら、案外そうでもないってことも世の中にはある」
「ああ、覚えてます」
「完は確かに こう だから、傍から見てると心配になることもあるけどさ」
先輩は両手を眼前に立てて、前後に動かす。そう、完はそういう風に周りが見えなくなって、真っ直ぐ突き進む人だ。
「でもね、私思うのよ」
「え?」
「完についてるのは、あんただけじゃない。私も、他の人もいる。」
「…」
「完のこと、一度信じてみたら。」
「信じる…」
「そう。あ、あんまりやり過ぎちゃったら止めてあげてね。私ちょっと焚き付けちゃったかも」
「?」
「ごめんね」
佳奈さんはそう言い残すと、お弁当を手早くしまって午後の家庭訪問に向かっていった。デスクに残された私は、彼女の言葉をまた考えた。
お兄ちゃんの意地を信じろということ…?
でも、そんなことしたら何が起きるか分からない。信じるとは。信じる?
*
佳奈は三階の廊下で電話をかけていた。
「ああ、もしもし?市民課市民係の川瀬クン?―あのさ、だいぶ先の事なんだけどさ来年一軒、家庭訪問代わってくれないかな。―詳細はまたメールするから。うん。はい、ありがとうーよろしくー」
その相手はつぐみの婚約者、川瀬だ。色々な思いを巡らせながら佳奈は話していた。
「私はあんたら二人とも、幸せになれる道を探したいよ」
電話を切ってから彼女はそっと呟いた。そして師走の市役所の喧騒に紛れて、佳奈は外回りへと駆けて行った。
教えること
エイキックスは狭い。駅前の雑居ビルに間借りしている個人塾だから部屋もそんなに無く、講師の休憩する場所もない。これは自分が通っていた頃から変わらない。あの当時から変わったことといえば、マツモト先生の髪の毛がだいぶ薄くなったことと、薄汚かった壁紙が張り替えられたことくらいだ。そしてまさか自分がここで、更には講師として働くことになるとは。昔は想像さえしていなかった。
部屋が無いと言ったが、マツモト先生はフロアの一角を陣取っていた。事務の仕事をしていた時はそこのデスクを自分も使っていたけれど、かなり汚い。書類が高々と積まれ、色々な筆記具も上に散らかっている。整理整頓が出来ていないというのは僕の部屋よりもこういう状態の事を言うのではないか。
その日、僕はその狭い教室で昼ご飯を食べていた。自分で作ったおにぎりだ。今日は新田チエの授業がこのあと控えている。その事を考えるだけでただ帰りたくなった。
「寒いねー」
ぼうっとしていると、丸々とした手をさすりながらマツモト先生が入ってきた。浪人生の授業を終えたのだろう。分厚いプリントの束を近くの台に放ったと思うと、その上にチョークボックスを雑に置いた。
「おう、完元気か?」
「はい、まあ」
「まあってなんだよー」
「何食べてんの?」
そう言ってマツモト先生は手元のおにぎりを指差した。見て分からないのだろうか。
「え、おにぎりですけど」
「おにぎり?ぐちゃぐちゃじゃん。」
「そうですか?自分で作ったんですけど」
「え⁈完が?」
「はい」
マツモト先生は腰を抜かしているようだった。その意図がよく分からない。
「あーそうかそうか。うん、旨そうだな」
「嘘ですよね」
「それは分かるのか」
そう言うと先生は汚い机に色々なものをしまい込んで、僕はおにぎりを食べ続けた。
おにぎり、一見簡単に見えて奥が深い。手を濡らしても米粒が掌にこびりつくが、濡らしすぎると三角形を維持出来ず最早おにぎりではなくなる。このバランス。たかがおにぎり、されどおにぎり、だ。
「どう?新田さん」
おにぎりの奥深さに思惟を巡らせているとマツモト先生は不意に話を振ってきた。
「五分五分かと」
「そうか…」
その話題は新田チエに関するものだった。おにぎりが遮られ、僕の頭の中は模試と過去問演習のデータで埋め尽くされる。数字は得意だ。直近の彼女の偏差値や得点率なんかはすぐに呼び起こされた。
「センターは目標の70%を掠めるようにはなってきましたが、得点が安定しません。あとはこの一か月、それを解消して、どれだけ点を積めるか、かと。」
「そうか。二次試験の方は?」
「それもまだ危ない、ですかね」
「うーん」
先生は髪の無い頭を掻いて悩んでいた。その渋そうな顔は、僕と思っていることは同じなのだろう。正直言って、五分五分より悪いかもしれない。新田チエの伸びは予想よりも悪かった。決してアイツが努力をしていない訳では無い。けれどどうも上手くいかない。センターで点がしっかり取れれば、まだ予定通り千大を受けられる余地はある。だが、センターで失敗すると…それは志望校の変更を強いられることになるだろう。
「うーん模試の結果とかを見てる限りは国語とかは順調だけど、ま油断は禁物だな。」
「はい」
「結果がちゃんと出るといいけどねー。努力はしてるからな…」
「まあ、そうですね」
確かに、手を抜いていたり、真面目に勉強していないという訳では無いのだ。彼女の努力は認めるが、それに結果が伴ってきていない。これでは無駄骨とかいうやつだ。ここに関して、僕は苛立ちがあった。正直に言うと。
「…完さ、気づいた?」
「はい?」
その苛立ちを段々噛み締めて、思い出すだけでイライラしてきた時、先生が振ってきたのは意外な問いかけだった。
「彼女最近、苦しそうな感じだよな」
「え、そうですか?」
僕は気づいてはいなかった。というか、全くそうは思っていなかったのだ。むしろ成績の割に、よくそんな強気な態度で居られるなと思っていたほどだ。苦しい、まあ言わんとしていることは分かるがそんな事を言っている暇は無い。思い悩んでいる間にライバル達は着実に力を伸ばしているというのに。
「ああ。何となく分かるよ」
「そうですか…」
先生は軽々しく「分かる」というが、それはきっと僕には出来ないことだ。他人の気持ちを慮るなど。そんな事を気にしていたら生きていけない。
「なんで彼女、結果が出ないのに、苦しいのに、わざわざ頑張ろうとしてるんですかね?」
「またお前言い方」
「いやでも。そんな苦しいとか思うくらいならやめろって話だと思うんですが。」
「まあ、皆色々あんだべ」
「はあ」
先生は適当に僕を丸め込んだが、全く僕は理解していなかった。苦しいからどうした、苦しいなら勉強しろ、そして結果を出せ。結果を出せないなら……いや、これは論理が通っていない。
「でお前の方はどうなんだ。講師始めて二月半ってとこだけど」
「はい?」
そんな僕の不機嫌さを察したのか、先生は話題を大きく変えた。どうでもいいような口調でありながらしっかり自分が主導権を握るあたりが、やはりマツモト先生らしいと僕は思う。
「正直言って…」
「うん」
「疲れました」
「あら。」
「あら、じゃないですよ」
僕の不平を先生は全く取り合う様子はなかった。聞いている素振りだけ見せて、適当な口を利いている。それもいつもの事だった。こちらに顔も向けず自分の仕事を進めている。
「まあ、もうセンターまでほんの少しじゃない。ここは完くんの踏ん張りどころじゃないの?」
「いや、でも」
「でもじゃなくてさー」
「ですが」
「新田さんが走り切るまで、付いててほしいけどな。せっかく頑張ってるからさ」
「…」
仕事を途中で投げ出すのは性じゃない。無責任にも程がある。だが、心身が摩耗していくのを感じている。彼女の授業の日の疲労感は酷い。伴走しているこちらにこそ、「苦しい」という気持ちが存在した。
「なあ、教えるのって大変だろ?」
「え?」
うなだれる僕を見て、先生は急に立ち上がって近づいてきた。
「大変じゃないのか?」
「…いや、大変です。思い通りにならなくて」
「うん…教えるってのはな、自分が分かってれば出来ることじゃあないんだな。」
「はあ」
先生は僕の隣に座って、ポケットからタバコの箱を取り出した。それを見て「禁煙です」とすぐに言う。そう言うと口に咥えようとしたところで「分かってるよー」とわざとらしく漏らして、箱を再びしまった。この人、まだ吸ってるのか。タバコには害しかないのに。
「で、何ですか?」
「ああ。教えるってのは、相手がどこまで分かってるかを探って、相手の理解度に合わせて言葉を選んで、相手のものになるまで何度も何度も試行錯誤することだ。」
「はあ」
「何度も何度もトライアンドエラーを繰り返す」
「でもそれってきつくないですか」
「きついよー。当たり前じゃん。お前は一発で理解しちゃうからそうでもなかったけどな」
「だから疲れるんです」
「でもお前だって大変だったよ。解けない問題が出てくると、イライラしてきちゃって暴れるんだから」
「え?」
マツモト先生は「ほらあれ」と教室の壁に凹んだ穴を指した。その穴はこぶし大になっていて、周りが黄ばんでいた。前から誰が開けたのかと不思議に思っていたが、まさか自分とは。全然覚えていない。
「お前の母ちゃんもそれには困ってたけどな。で、何の話だっけ?」
「トライアンドエラーを繰り返す」
「そう。相手と向き合うのに疲れても、そこで諦めちゃあいけない。」
きついことに諦めるなと言われても、そんなの根性次第だ。マツモト先生からはこんな前時代的な思想が時折滲み出てくる。そういうところもこの人らしいのだが、僕は少し苦手だった。
「お前だって、踏ん張らないといけないんだよ」
「精神論ですか」
「そうよ。騙されたと思って、最後まで尽くしてみな。言葉を何度も何度も交わしてみろ。絶対お前も、得るものがあるからさ。」
そう言ってマツモト先生は肩を叩き、自分のデスクへと戻っていった。ポケットのタバコをまた乱雑に放ったと思うと、「コンビニ行ってくるわ」と言って、次の瞬間には廊下に消えていた。
最後まで力を尽くして、自分が何を得るというのだろう。絶対は、絶対にないとそう知っている。そう思いながら食べ損ねていた昼ご飯を再開した時、ふと外から声が聞こえた。マツモト先生が外で誰かと話しているようだった。
「あ、新田さん、元気?」
「はい、まあ」
「大丈夫?無理してない?」
「え?」
「ほら、最近焦ってるでしょう」
「そんなことないです。大丈夫ですから」
「そう。まあもうちょいだから、信じて頑張るんだぞー」
「はい」
僕はその頃、またおにぎりについて考えていた。ピタゴラスの三角形、三対四対五。これを意識して作ると見栄えがいい。やはりピラミッドにも採用される黄金比だけある。
「先生、何食べてんの?」
「見てわかるだろ、おにぎりだ」
「え?ぐじゃぐじゃじゃん。まずそう…」
「…は?」
上から降ってきた声に僕は自動的に答えていた。だがその声は相当失礼な事を言った。ああ、新田チエか。最悪だ。授業はまだなのに彼女は見るだけで寒そうな短かなスカートを履いて、来なくていいのにやって来た。
「これはピタゴラスの三角形だぞ?」
「ピタゴラスイッチだか何だか知らないけど、ぐじゃぐじゃ。食べる気にならない。」
「ああ君もか。食べれば皆一緒だ」
「また屁理屈言って」
高校が午前で終わったのだろうか。チエはそのまま教室に入ってきて、参考書の山を机に上に広げた。
「妹と喧嘩でもしたんですか?」
「は?」
「だって、それ先生がどうせ作ったんでしょ?」
「ああ」
「料理苦手だけど、私の方が上手いです」
「そうか」
「結婚話で揉めてるとか?」
「揉めてるつもりは僕にはないが」
「揉めてるんだ」
「あいつが勝手に、マリッジブルーになってるだけだよ」
「本当かなー。新郎が気に入らないとかじゃないんですか?」
「会ったこともないよ」
「え⁈嘘でしょ。」
「本当だよ。どこの誰かも知らない」
「まさか、実の妹の結婚も興味ないの⁈」
「ああ」
「やっば。私絶対こういうお兄ちゃん要らない」
「そうか」
僕は早々に彼女の無駄話を遮った。こういうのこそ無駄話だ。だからイラっとして、彼女に貶されたおにぎりを大口で頬張った。
「私だったら、家族に祝福されたいですけど」
「家族か」
「うん。まあ、私は姉弟多いから誕生日も何もなかったけど。」
「それは可哀想に」
「お姉ちゃん、あたし、弟弟弟妹妹の七人姉弟。父さん母さんじいちゃんばあちゃんまで入れたらほぼ毎月、誰か誕生日だし。」
「予想以上の大家族だな。それでこんなに図太くなったのか。」
「図太くないです。ていうか私の話はどうでもいいからさ、先生も妹さん大事にしなよ」
「大事に、か」
大事に、と言われても。何をしろと。
「例えばの話だ」
「何?」
「例えば、だぞ」
「うん、だから何?」
「例えば君は、その姉弟の事が心配で結婚を諦めるとか、考えられるか?」
「え?」
新田チエは自習の手を止めてこちらを見た。見るからに怪訝な表情をしている。不信感まる出しとかいうやつだ。いや、違うかもしれない。
「…」
彼女は少し黙った後に話し始めた。その時、表情が一瞬硬くなったように見えたが、それも僕の思い過ごしだろう。
「うーん…理由に因るんじゃない。どうしてもっていう理由があるなら。」
「…そうか」
「でも、」
「ん?」
「私は家族も大事だと思う。代わりはいないし。」
「…ふうん」
あいつが勝手に言い訳をして結婚を迷っているなら、何も出来ることはない。僕は、僕の生活を粛々と送るだけだ。
「知った口、利いていいですか?」
すると新田チエはこちらを見据えて言ってきた。嫌だ、と言いたいところだったがそれはやめておいた。
「先生がまともにこうやって仕事出来てるのも、妹さんのおかげなんじゃない?」
「は?」
「だって、おにぎり。妹さんのは、すごく美味しそうだったもん」
「…」
そう言われて僕は下を向いた。確かに妹のに比べたら、自分でも少し汚いと思う。それに、あんまり美味しくはない。
「ま、がんば」
新田チエは再び自習に戻った。赤本の問題を唸りながら解いている。
自分はひねくれ者の変わり者で性格が悪いと思っていた。だが、家族を思う良心がまだあるのなら。逃げて、諦めた先で、つぐみに頼って生きてきたならーいや、
「まさかな。」
「え?」
独り言が大きすぎた。それにチエが顔を上げる。「すまん」と断って、僕は教室を出た。駅前のコンビニから帰ったマツモト先生は、向こうの隅で麻婆丼を食べていた。
衝突
ガッシャーン
「熱っ!」
御用納めが近くなり、くたくたになって帰ってきた夜。玄関に入ろうとすると、中から何かが落ちたような音と兄の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、大丈夫⁈」
台所に駆け付けると、完は茫然として、フリーズしている。
「…」
彼の足元には鍋が転がり、その近くにはお湯と蕎麦が流れている。
「ケガとかしてない⁈大丈夫?」
「ああ」
「あ、火傷してるじゃん…!冷やそう冷やそう」
少し赤くなった指をすぐに水道水で冷やした。靴下には床に広がったお湯が染みていたけれど、それに気づかないくらい私は焦っていた。
「ごめん、大丈夫、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないでしょ。ほら、もっと冷やさないとダメだよ」
「大丈夫だって」
兄が私の手を振り払った。その力は私よりもうんと強くて、そのまま後ろに下がってしまう。お湯だまりにまた足を突っ込んで、私は「熱っ」と声を上げた。
「お兄ちゃん、私本気で心配してるんだよ?大丈夫じゃないよ。大丈夫な訳ないじゃん。」
「そんな大声出すなって」
完は適当に指を冷やして、近くにあった手ぬぐいで水を拭った。私はその様子を見て、また彼に近づいた。そして「危ないよお兄ちゃん。大丈夫じゃないって。」と呼び掛けながら、濡れた獣のように身体を振るう兄を諫めようとした。
「ねえ!」
「いいよ、新しいの茹でるから。」
「だから、」
「大丈夫だから」
「何で、そんな意地になってんの?」
「…」
完の手が止まり、表情が曇った。それでも私は問い詰めた。
「お兄ちゃんが一人で頑張ろうとしてるの、私知ってるよ?」
そう言うと彼は、鍋を持ったまま首を小刻みに振って、言葉を詰まらせていた。見たことのない姿だった。強気で勝気な彼にしては弱々しい姿だった。
「…私、心配だよ。」
「は?」
「お兄ちゃんが頑張ってくれるのは嬉しいよ。でも、心配なの。変に力が入っちゃって、頑張り過ぎちゃって、お兄ちゃん自身が潰れちゃうのは嫌なの‼」
私は気づくと泣いていた。不安と心配が全て溢れ出て、何故か涙が止まらなかった。
「…認めたくないからだよ」
「え?」
「自分がお前のおかげで生きてきたとか、認めたくないからだよ!」
「…」
彼が声を荒げるのも、いつぶりだろう。覚えていない。幼少の頃の記憶が蘇る。そして完は、静かに語り始めた。その鍋を手にしたまま、どっと流れ落ちるようにお湯溜まりの中に座った。
「…僕は、独りだ。いつでもそうだった。」
「え?」
「というか、そうじゃないといけない。僕は、他人を傷つける。」
「お兄ちゃん…」
「自分でも分からないんだよ。分からないまんま生きてきた。何が悪いのか、何がいけないのか。母さんは変わらなくていいと言った。でも、変わらなきゃいけなかった。僕だって、嫌われたくてやってたんじゃない、誰かに変な目で見られたいからやってたんじゃない。でも、でも、僕の中にはどうしても破れないルールがあって、どうしても曲げられない拘りがあって、どうしても言っちゃう癖があって。…変われない。どれだけ頑張ろうとしても、変われないんだよ!」
私は唖然としていた。兄が、あの完が、ここまで感情を顕わにすることは珍しくて。
「だから、僕は独りで生きるんだ。生きないといけないんだ。独りで…なのに、なのに…」
完は鍋を静かに下ろした。濡れた床にカンと金属音だけが響く。彼は肩で息をしていた。呼吸が荒くなって、苦しそうにし始めた。
「分かってるよ。分かってるんだよ…。」
「…」
「でも、僕は、僕は、認めたくないんだよ…」
私の胸が刺されたように痛む。痛い。兄の生々しい心の声が。兄の苦しみが見て取れる。悶えていた。やめて。そんなこと思わないで欲しい。
「僕は、もうお前に、これ以上迷惑を掛けたくない。」
「迷惑って」
「僕は…僕は…」
完は言葉を詰まらせた。何回も何回も言うのを躊躇って、言っては止めて、それを繰り返した。
「…ねえ、もうやめよう」
「僕は…」
「ねえ」
「お前に頼らなくても、生きていける。」
私は咄嗟に、彼の手を掴んだ。彼の冷たくなった手を、両手で包んだ。
「私は迷惑だなんて思っていない。そりゃいつも優しくて、仲の良い信頼できる家族で居られた自信はないけど、迷惑なんかじゃない。でも、お兄ちゃんにとっては、他人に頼る自分が許せないんだよね。どうしても、どうあがいても認められないんだよね。じゃあ、私はどうしたらいいの?私がお兄ちゃんの心配をすることも迷惑なの?…私どうしようもないじゃん!」
完は暫く何も言わなかった。私は手から伝わる彼の温かさだけを感じていた。そしてどれだけの時間が経ったのだろうか。彼は最後に一言呟いた。
「…つぐみ、ごめんな」
「?」
私はもしかして、人違いなのだろうかと思った。偏屈で頑固で不器用で不愛想な兄が、こんなことを言うなんて、想像が出来なかった。彼が謝るなんて。というか謝られる義理もない。彼が謝る必要は一切ないのに。
「ねえ」
完は蛇口を締め、私の下に転がった蕎麦を片付け始めた。手元がおぼつかないのか、ぬるぬるとした蕎麦一本一本を何とかして掴もうとしている。そうやって懸命に落ちた蕎麦を片付けて床を必死に拭いているその人は、私の兄だった。紛れもなく、私の唯一の家族だった。
「ねえ」
「大丈夫だから」
「え?」
「気にしないでいい。つぐみが安心して出ていけるようにするから。なるから。」
はっきりとは言わないけれど、きっとこれは兄なりの答えだと思った。「そっか」以上の答え。それが私には分かった。
「つぐみ、蕎麦食べるか?」
そう言って完はまた鍋に水を注ぎ、その鍋を火にかけた。色々な気持ちが湧き上がってきて、何も返事を返せずに黙っていた。彼は黙々と、蕎麦を茹で始める。私の結婚のことは一言も出なかった。私も言わなかった。でも、何かが通じたように、兄の強い意志を感じた。
その夜は兄と二人で温かいかけ蕎麦を食べた。温かくて、美味しいお蕎麦だった。完は早々に食べ終えて、自分の部屋に消えた。何も言わなかったけれど、空気はもう冷たくなかった。
杞憂、という言葉がある。心配する必要のないことをあれこれと、余計に心配することの喩えだ。佳奈さんの言葉の意味も、少し分かった気がする。何となく。
完全ではないけれど、胸のつかえが取れた、若しくは胸奥の何かがゆっくりと融けた。
私の答え、もう、決める時なのかもしれない。決めていいのかもしれない。
そんな気持ちも、固まってきた感じがした。
心配は残るけれど少し光が差したような、そんな夜だった。
鼻つまみ者
つぐみの迷いは消えただろうか。
あの夜の事を思い出すと、僕は身震いがした。それが暫く続いている。言わなくてもいいことを言ってしまったような気がする。多分、自分の中に巣食っていたものを全て吐き出してしまった。ずっと錘になっていたあれこれを彼女にぶつけた。正直、恥だ。恥ずかしさがある。もう時間を巻き戻すことは出来ないけれど、自分の言った事、やった事は正しかったのか。それは分からない。彼女の望みも、分からない。
二〇一二年の仕事始めは一月三日からだった。塾にとって正月はハイシーズン、受験生たちが 正月気分の家を抜け出して大勢押し寄せてくる。あと少しでセンター試験。彼らにとっての第一関門だ。その日が近づくにつれて、教室は独特の緊張感が漂った。一方の講師は採点にフォローにと忙殺されている。僕は新田チエだけしか見ていなかったから、複数掛け持ちしている講師に比べたら自分は楽な方なのだと思っていた。
「先生、まだ帰ってなかったんだ」
新田だ。流石に寒くなったのか、スカートの下には長い靴下みたいなものを履いている。自習を終えてこれから帰るのだろう。壁の時計を見ると、もう22時を回っていた。
「採点?」
「ああ。マツモト先生に、他の生徒のやつを頼まれてね」
「新年早々お仕事ですか」
「そうだよ。君みたいな子たちの為にね」
「へー、自分の為とか言うと思ったのに」
五月蠅い。イラついて、スムーズに進んでいた赤ペンを僕は一度置いた。
「はあ、僕も好きでこの仕事やってる訳じゃない。」
「そうでしょうね」
「え?」
「だって、向いてないもん」
ああそれは自分が一番分かっている。のに、わざわざ外から指摘されるのは癪だった。本当に、本当にコイツは図々しい。
「知ってるよ。何回も仕事、転々としてるからな。」
「そうなの?」
「ああ。ここに来る前は交通警備やってたよ。一週間でクビになったけどな」
「意外。なんで」
「事故を起こした」
「やっば!」
何が面白いのか、新田チエは机を叩いて笑っている。本当に何が面白いのか。
「何も用がないなら早く帰れ。」
「はいはい。あ、先生、ちょっといい?」
「何だ?」
「この問題なんだけど…」
彼女が重そうなリュックから取り出したのは、志望校の赤本だった。馬鹿みたいに付箋が沢山付いたページを繰って、何年度かの問題を探しているようだ。
「国語か…?」
「うん、小説なんだけど、この問五の心情説明の模範解答が納得いかないんだよね」
「僕は国語担当じゃない。」
「えー」
チエは不服そうだが、マツモト先生からも説明があったはずだ。僕には国語は解けない。そう赤ペンを再び握って、彼女を無視しながら僕は採点を再開した。
「そもそも、小説の中身自体が理解できない。現役の時も、何度問題を解いてもダメだった。」
「人間は複雑で理解できないから?」
「そう。国語って名前からして日本人ならみな出来るって面をしているが、僕みたいのは無理だ。自分の気持ちを混ぜ込むな、文脈で捉えろと言われたが、それでもさっぱりだった」
「ふうん、オリンピアンでも出来ないことがあるんだね」
「オリンピアン?」
「先生、物理オリンピック出たんでしょ?マツモト先生から聞いた」
「ああ余計なことを…。そんなの過去の栄光で、社会に出ても何も役立たなかったよ。」
「まあまあ、そんなこと言わずにさ、ここ、主人公が街中でギター弾きと話す場面なんだけど」
「いやだね。そもそも時間外だ。」
「はあ…。こんな頑固なお兄ちゃんなら、妹さんも大変だね」
「君はいつも、知ったような口を利くな」
「あ、すみません。つい癖で」
そう言うとチエはわざとらしく頭を掻いて、赤本のページをパラパラとしてみせた。そんなに付箋を貼るなら全部吸収しろと言いたくなる気持ちを抑えて、僕は無視を決め込む。
「でも、先生しか頼る人がいないんですよ。友達にも聞けないし。私、鼻つまみ者だから」
「鼻つまみ?」
「先生と一緒、って意味」
一緒?まあ、その素直さは良くも悪くも僕と同様かもしれないと思った。大体、鼻つまみ者で括られる義理はないのだが。
「私は道徳の授業が苦手だったな。他人の立場に立ってよく考えなさいって言われても、その人の立場はその人じゃなきゃ分からないじゃん。思いや悩みに寄り添いたくても、理解したくても、他人が出来ることなんてたかが知れてる。」
「ふうん」
「でもさ、他人の気持ちが分からないなんて当たり前じゃない?」
「国語の話か?」
「ううん、先生の話。だって、別の人間なんだからさ。自分でも自分のこと全て分かってるか、自信ないもん。」
「そうか」
「私たちは、頑張って想像することとか、共感することしかできないんだよ」
僕は静かに頷いた。何か、珍しく彼女の話がしっくりきたのだ。自分の中で普通に受け入れていた。
「あれ?先生、物分かり良くなったね。前なら否定してたのに。妹と仲直りしたから?」
「心外だ。それに妹とは元々揉めてないさ」
「先生も『共鳴』してくれるようになりましたね。」
チエはご機嫌な様子だったが、ここは『共感』、じゃないか?ようやく覚えたからといって、むやみやたらに物理の用語を乱用するな。そう言おうとしたが、また僕は思いとどまって止めていた。
「君が僕に譲歩してきただけだ。」
「またまたー。で、この問題なんだけどさ。」
「だから、国語は専門外だ」
「えー」と言って彼女は暫く駄々をこねた。採点している目の前に赤本を突き出してしつこく邪魔してくる。この時間こそ勉強に回して欲しいというのに。だから「早く帰れ」と僕が根気強く拒絶していると、彼女はとうとう折れたようでそのリュックに赤本をしまった。
「じゃあ先生、帰りますよ」
「ああ。」
「でもとりあえず、センター頑張らないとですね」
「そうだ。あと二週間無いんだからな。バランスを考えろ。バランスを。」
「分かってますって」
「七割は絶対条件だ。」
「知ってますって」
「早く帰れ」
チエはうやうやしく「ごめんあそばせ」と丁寧に挨拶をし、お辞儀をしてきた。馬鹿らしい。それに僕も「風邪だけは引くなよ」とだけは返して、再び採点に戻った。
鼻つまみ者。チエは僕と一緒だと言っていたが、そうだろうか。確かに思い返してみると、あいつと似ていると思う箇所は何個かあるかもしれない。頑固なところとか、率直なところとか。いや、あいつが、僕に少し似ているのだ。可哀想な事に。
ひとり
この仕事をしていると、人の死に直面することは度々ある。そういった報せは、いつも唐突だ。
一番心にくるのは、予期せぬ人の死だと思う。密な関係性の人でなくても、自分が関わった人が亡くなれば心にぽっかりと穴が開いたようになる。これには慣れというものが存在しない。その度に、暫く私は虚ろになった。
御用始めの日、市長や課長から新年の訓示を受けたあと、私は休み中の残務を片付けていた。年末から年始にかけて丸々休ませてもらったけれど、その分溜まるものは溜っている。隣では佳奈さんが黙々とデスクワークを続けていた。
その日、昼休みに掛かる頃、不意に内線が鳴った。
「足立主任、警察署の永嶺さんから。内線1番です」
「あ、OK」
先輩は「永嶺さんか…なんだろ?」と呟いて受話器を取る。私もそれを横目で見ていた。
「はい、家庭相談係主任の足立です。」
「え?長谷川さんが?」
電話を取った佳奈さんは狼狽えていた。その声を聞いた周りの同僚もこちらに目を向ける。
「そうですか…」
警察署、そして佳奈さんの様子から、私は顛末を察した。
長谷川さんが亡くなった。
私と佳奈さんが受け持っていた地域の独居老人だ。遠方に住む娘さんが家を訪ねた際、自宅で倒れているのが見つかったという。直ちに病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。死因は心不全だった。
「はい…はい。分かりました…。」
「…」
「あとで伺います。失礼します」
電話を切って、佳奈さんは小さくため息をついた。
「はぁ…」
長谷川さんは独りで暮らしていた。奥さんを数年前に亡くして、娘夫婦も東京に住んでいたのだ。無責任にも「誰も、見つけてあげれなかったんですかね…」と、私はぽつりと呟いた。悔しさと、悲しみとが混ざり合って、やるせなさに襲われる。
「…そうだね。」
「あと一週間、訪問が早ければ…」
「うん…」
私の頭の中には長谷川さんとのシーンが巡っていた。物忘れが進行していたけれど、長谷川さんは日々楽しそうに暮らしていて、私も佳奈さんもよくしてもらっていた。訪問の際には「今日はべっぴんさんが来てくれて嬉しいよ」と毎回言われながら、名前と顔は覚えてもらえないようだったけど、色々お土産をもたせてくれた。
「でも、私たちが言っちゃいけないけど、それは無理だったよ。」
「…」
「予想できなかった。残念だけど、どうすることもできない。」
そう言われて、私は思い出した。若手はこういう時、感情的になり過ぎる。確かにその気持ちは忘れてはならないけれど、個人的な感情を交えてはいけない。佳奈さんはいつもこう言っていた。
「そうですよね…」
「ご遺体、警察に移されたみたいだから、あとで行こう」
「分かりました」
先輩は静かに仕事をまた始めた。このくらいの割り切りがないと、やっていけないのだ。
*
「ご無沙汰」
「どうも、お世話になります。」
警察署に着くと、連絡をしてきた永嶺さんが待っていた。白髪に茶色のジャケット姿はずっと変わらないものだ。私も入職して十年になるが、それより前からこの街で働いている。その大先輩は今では副署長に昇進し、私や佳奈さんも度々お世話になっていた。
「俺と会う時は、仏さんが出た時だからね。なるべく会わないといいんだけど」
「そうですね」
静かに会話をする先輩と永嶺さんの後ろを追って、私たちは署の地下にある霊安室へと通された。ここには仕事柄、何回か来たことはある。薄暗くて肌寒い、あまり居心地の良くない部屋だった。それこそ寝台と仏具しかない異質な場所だ。
「はい、どうぞ」
中に入ると、白い布が被せられた誰かがいる。一歩一歩近づいて顔に掛けられた布を永嶺さんが剥ぐと、そこには長谷川さんがいた。肌は青白く硬くなっていたけれど、その顔は柔和な表情をしている。安らかに眠っているように見えた。私はその顔を認めて、佳奈さんと二人で手を合わせた。
亡くなった人というのは不思議だ。ついこの前まで元気にしていた人でも、何かが抜けたように動かない。生気が失われて、モノのように無機質になる。私はこの有り様に何回も直面してきた。その度に、不謹慎ながらそう思っていた。魂が抜けた亡き骸はあまりにも切なくて、哀しかった。
「娘さんとかは、ショックだろうね…」
「そうですね…」
突然の死は、残された人達に大きな心の傷を負わせる。何よりも、「予期していない」ということが大きなダメージを与える。突然体を捥がれたような、そんな苦痛を経験することになる。
私は母の事を思い出していた。母の時は、また別の痛みだった。
「がんになっちゃった」と夕食の食卓で言われたのは、高校に入った頃だ。その日の献立はカキフライで、少しずつ暑くなっていた初夏の日だった。それまでずっとお腹が痛い、背中が痛いと言っていたけれど、仕事を理由に病院へ行くのを母は先延ばしにしていた。結局私が強引に言って医者にかかった時、既に取り返しのつかない状態にまで悪化していた。告知以降、手術をしたり薬を飲んだり入院したりして、母は生きようとした。希望と絶望を繰り返し、何度も生きるか死ぬかを彷徨った。その様子を見て、周りの人間は不安に押しつぶされそうになった。この宙ぶらりんな辛さも、私は重く、苦しかった。
長谷川さんは、独りで倒れた時に何を思っていたんだろう。苦しかったと思う。助けを呼ぶことも出来ず、痛みに悶えて亡くなったのもしれない。いくら分別をしようとしても、その申し訳なさは消えずに私の心を刺した。
*
「どうしたら良かったんだろうね…」
警察署の建物を出た時、佳奈さんが呟いた。
「え?」
「どうしようもなかった、で片付けられないよね」
彼女は哀し気な横顔を見せた。気丈な佳奈さんが普段見せることのない顔だ。
「未来のことは分からない。でもだからこそ、」
「だからこそ?」
「今出来ることを私たちは一生懸命やらないといけないんだろうね」
佳奈さんと二人で役所に戻った。県道を南に走る。まだ世間は正月休みなのか、車は少なかった。帰りの車中、ラジオだけが流れていた。リクエスト曲でビートルズがかかる。私は助手席の窓から、遠くに見える海に目を向けた。
私たちにはまだ仕事が残っていた。今を、一生懸命に生きることしか出来ないのだと思った。
変化
一月十日は母の命日だった。といっても、法事に呼ぶ親戚も居ない私たちは兄妹だけで毎年を過ごしていた。七回忌を終えて以降は軽く、簡便なものに。お坊さんを呼ぶこともなく、普段より畏まった服でただ焼香をして、ご飯を二人で食べる。そんな日になっていた。
「お兄ちゃん、ライターどこやったっけ?」
「おかっての引き出しじゃないか」
この日ばかりは兄も観念して、家の中でワイシャツにネクタイをしっかり締めている。一日我慢できるなら二日くらい我慢できるだろうと普通は思うのだけど、彼にそんな論理は通用しない。大体それが出来るならとっくに彼は仕事場にネクタイをして行けるだろう。
「ありがと」
「ああ」
オイルが少なかったからか、ライターを何回か押して二本の線香に火を付けた。私は兄に一本渡してその隣に正座する。完はじっと母の遺影を見て、何かに耽っているようだった。
チーン
空気の冷えた家の中で、おりんの音が響く。それに合わせて兄妹二人でそっと手を合わせた。
「十年、だね」
「ん?」
「いや、お母さんが亡くなってから」
「ああ」
「色んなことがあったけど、十年も経った気がしないよ」
「あんまり覚えてない」
「お兄ちゃんも私も大変だったけど、今考えると上手いことやってきたよね」
「そうか?」
「そうじゃない?お互い、何とか生きてる」
「まあ、な」
「何回仕事変わった?」
「さあな。四、五回じゃないか」
「六回じゃない?マツモト先生のとこ入れたら」
「そうかも。つぐみはよく続いてるよな。」
「だって、今時高卒雇ってくれるとこ無いでしょう?お兄ちゃんは大学出てるから転職し放題だけど」
「すまない」
「いや、別に責めてる訳じゃないって。」
本当にあの頃は大変だった。お母さんみたいにならなきゃと勝手に頑張りすぎて、何度も挫けそうになって。明日どうなるかも分からないような状況で心労が溜まった。就職して、全力で仕事を覚えて、たまに馬鹿にされたりすることもあったけど、大卒の同期に勝手な競争心を抱いて頑張った。お兄ちゃんは、研究に没頭していて楽しそうだったから、それを壊したくなくて余計に。
全部、恥ずかしいかも。青臭いというか、何というか。全力とか必死とか、今なら恥ずかしくて出来ない。私も月日を経て、成長したのかもしれない。
「…お前、行くんだろ?」
兄は隣で突然呟いた。いきなりだったから驚いたけど、その心構えは出来ていたような気がした。
「ん?」
「だから、行くんだろ?」
「…どうだろうね」
「行きな」
「え?」
「僕は、大丈夫だ」
完は私の目を見た。普段まともに顔を合わせてくれない彼の眼差しは、真剣だった。驚くほどに。あの時の大丈夫とは違う、彼の気持ちがしかと伝わってきた。
「強がってる訳じゃない」
「独りになって、大丈夫なの?」
私も、自分の気持ちをしかと伝えた。静謐な空気だったけれど、私と兄の言葉は強かった。二人の間に通じ合う何かがあった。
「そんなに心配か?」
「うん」
「そうか」
「そりゃ心配だよ。小さい時から見てきたんだから。お母さんを振り回して、周りから孤立したお兄ちゃんの姿を。」
「振り回した、か」
「お母さん、私が熱を出した時も、学校に呼び出されたらすぐにお兄ちゃんのところ行ってたでしょ。私の話を聞いてほしい時も、お兄ちゃんがパニック起こしたらそれどころじゃなかったよね。」
「覚えてないよ」
「お兄ちゃんは本当に何も覚えてないんだから」
私は微笑んだ。隣の兄は頭を掻いた。顔は見えないけれど、きっと照れ隠しなのだろう。それくらいは自分にも分かる。というか、自分だからこそ分かる。そして私は言葉を続けた。その言葉は今までよりも踏み込んだ、棘の強いものだった。
「…一人で生きていける?」
「いけるよ」
「家事とかさ、炊事洗濯掃除ごみ出し。それだけじゃないよ。身の回りのことも」
「そういう問題か?」
「そういうことも大事でしょう」
「何とかなるさ」
「…そう」
「ああ」
「また、皆から距離を取ろうとしない?」
「さあな」
「逃げようとしない?」
「辛くなったら逃げるさ…」
「うん、それがいい」
「そうだな」
「死なないでよ」
流石にそれは踏み込み過ぎたかと思った。それまで調子よく返していた完の返事も一瞬戸惑っているようだった。
「…そう簡単に、人間死なない。」
「でも」
「死なない」
死んでたまるかと言わんばかりに彼は語気を強めた。確かに、図太いこの兄ならばそう簡単には死なないかもしれない。今なら自信を持ってその言葉を信じられる気がした。だから「近くにいるから」と私は返した。
「…好きにしろ」
「うん」
それから暫く二人は黙っていた。そして遺影にかかった埃を拭いて、乾いたお供え餅を取り出した。その間も兄はまたじっと母の写真を見ていた。私はそっと立ち上がって、鏡餅を台所にやった。兄は何を今考えているのだろう。後ろ姿を振り返って見ても、頭の中までは分からない。
「あと、明日私東京行ってくるから」
「何か用事あるのか?」
「前言ったでしょ?田畑さんの披露宴。」
「ああ」
まあ覚えているはずがないけど。お餅に生えた青かびを包丁で私は手際よく落とした。完はまだ仏壇の前に座っている。
「たまにはお兄ちゃんも東京行ったら?母校でも見てきたらいいのに」
「悪趣味だ。遠慮しとく」
「はいはい。お兄ちゃん、明日は仕事?」
「ああ、センター試験だからな」
「あ、そっか。そういえばさ、」
「何だ?」
「辞めたいって言わなくなったね」
「まあ…そうだな」
仕事の話を持ち出すと、兄は急に立ち上がって自分の部屋に戻っていった。不愉快だったのだろうかと考えていると、また彼は居間に出てきて、参考書か何かを取り出しぶつぶつ言いながら作業を始めた。
「何やってるの?」
「ん?」
「それ。」
彼が開いたノートパソコンには表のようなものが映っていて、手元にあるのは数学の問題らしい。
「仕事だ」
「え?」
公私を分ける兄が、珍しい。残業なんて一番やりたがらないのに、休みの日に仕事だなんて。
「珍しいね、そんなに急ぎなの?」
彼は頭を掻いて「いや」と口ごもった。それはどこかの大学の過去問みたいだった。溢れんばかりにマーカーなり付箋なりを付けてチェックしているのが見てとれる。
「過去問?」
「ああ、そんなところだ。邪魔だから早く何処か行ってくれないか?」
「はいはい、分かりました」
「…僕も、頑張らないといけない」
完はこう静かに呟いて、再びパソコン相手に作業を始めた。何処かへ行ってくれないかとは、自分が居間に来ておいて全く彼らしい。ただそれは今まで見たことのない兄の姿で、何故か気恥ずかしさを感じた。違和感がある。きっといいことなのだろうけれど。兄の何かが、確かに変わっていた。
私は彼の邪魔をしないようにと家を出た。どこも行きたいところは無かったけれど、ふらふらと歩いていたかった。コートにマフラーを締めて、ポケットに手を入れた。そして目指した先は海だった。
カモメの鳴き声が空高く響く。東京湾も冬は波が少し荒い。
母の骨は二人で海に撒いた。佳奈先輩の家の船から、細かく砕いた遺骨を海に還したのも十年前のことだ。だから、ここは私にとって落ち着く場所。心安らかになる。
そっと手を合わせた。目を瞑って、波の音だけが聞こえる。
私はこの時、決めていた。自分の答えを。それは安心感からか、納得がいったからなのかは分からない。けれど、確かに決めた。だからもう、前のようなざわざわは無かった。
波になれ
今年のセンター試験は全体的に易化し、平均点もかなり上がるとみられていた。僕も実際に数学と理科を解いたが、確かにその通りだと思った。
だが、チエの結果は自己採点で68%。振るわなかった。
その日、チエは元気が無かった。
「新田、聞いてるか」
「…え?」
「今のとこ、聞いてたか?」
「あ、すみません。」
解説中、チエは椅子に座ってぼうっとしていた。こちらの話も聞いてないようで、いつものように反発もしてこない。さぞかし凹んでいるのだろう。だが、仕方ない。もう結果は変わらない。
「先生、」
「何だ?」
僕の問いかけに、彼女はゆっくり体を起こしてこちらを見た。何か物言いたげな雰囲気だった。
「喧嘩しました」
「誰と?」
「…母です」
「そうか。」
チエは大きくため息をついた。このタイミングで母親と喧嘩。彼女に何があったのかは僕も察しがつく。
「センターのことで何か言われたか」
「まあ…」
「そうだろうな」
「何で、分かるんですか?」
「流石の僕にも分かる。」
「そうですか…」
「結果は変えられない。君はセンターで失敗した。それは変わらない事実だ」
「相変わらず言い方…今は傷つきますよ」
彼女は物憂げな表情だったが、これは紛れもない事実だ。このまま志望校を変えずに挑んでも正直ギリギリ受かるか受からないか、受からないか、だろう。このまま貫き通した結果は目に見えている。
「新田、」
「私、今年しかチャンスないんですよ」
「え?」
チエはそっと呟いた。唐突に彼女が言ったそれは、僕は知らない話だった。
「今年落ちたら次は無いんです。」
「…?」
彼女は、今まで見たことのない真剣な表情で、僕は思わずたじろいだ。彼女のそんな姿を今まで見たことがなかった。
「先生もさ、友達いなかったでしょ?」
「…は?」
「私も。鼻つまみだから。今まで友達と呼べる友達いないんです。部活だってチームメイトでしかなくて、誰か悩みを聞いてくれるような子はいなかった。多分私が悪かったんだけど。」
「それで一緒だと言ったのか」
「まあ。同じ匂いしたから」
「そうか」
チエは強がって笑った。その笑みが僕には虚しく映った。
「私は、国語好きなんですよ。ていうか、小説?本が友達だったし、休み時間はずっと図書室にいて。私の居場所だった。先生には分からないだろうけど」
「分からないな」
「それで、図書室の先生がよくしてくれたんだ。いつも私一人で来てたから気にしてくれたのかもしれないけど、色々話聞いてくれて。本の事だけじゃなくて、家族の事とか部活の事とか。単純だけど、その先生みたいになりたいっていつしか思ってた」
「それで、か」
「まあ。でもうち姉弟多いからさ。私もともと、大学行かずに就職することになってたんだよね。お金無いし。でも、三年になって自分の将来のことを考えた時、その先生のことを思い出して、どうしても諦められなくなっちゃって。それで夏に親を説得して、チャンスを貰ったんです。一回だけ。」
「それでか」
「だから凹みますよ。そりゃ。もちろん、自分の努力が足りなかったってのは分かってるけど。」
自暴自棄になるくらいならさっさと勉強しろと言いかけたが、それを飲み込んだ。僕には彼女の心情を推し量ることは出来ないが、きっとそれは酷だ。
「じゃあ、どうする?」
「?」
「やめるか?」
「いや、」
「やめたいならやめればいい。それが嫌なら努力を続けろ」
「は?」
「だってそうだろう?自分の失敗を取り返せるのはお前自身だ。」
「…」
「僕は、君を応援する」
驚くチエの顔を見て、恥ずかしくなった。性にも無いことを言った気がする。でも、本音だ。偽りのない。照れ隠しに、彼女にファイルを乱暴に押し付けた。それは、僕が最近業務外で個人的に作っていた資料だった。
「これ」
「なんですか?」
「二次の数学の過去問を単元別に分類して、傾向を分析した。過去20年分だ。それくらいあれば足りるだろう。」
「先生が?」
「ああ。」
「嘘でしょ」
「内容に文句があれば僕に言ってくれ」
正直、面倒な作業だった。単元おろか解法の頻出度まで分析にかけた手製の対策ファイルだ。何の役に立つかは分からなかったが、誰かに言われるでもなく、僕は自分の意思でこれを作った。
「うわ…細か」
「使いたくなければ使わなくてもいいが、授業外の自習にでも使ってみればいい」
「…ありがとうございます」
「未来は、誰にも分からない。ラプラスの悪魔は量子論で否定された。」
「…何の話ですか?」
「僕は最初、五分五分だと言った。」
「そうでしたね」
「君の成績を見れば、可能性50%あるかないかだ。でも、僕は君の頑張り次第でそれ以上にもそれ以下にもなるとも言った。」
「はあ」
「何が起こるか分からないのは確かに怖い。何かが起きても、その唐突さに僕たちは狼狽える。」
「…」
「波になれ。」
「は?」
「僕は君にケータイメールの話をした。あの話には続きがある。」
「メール…?」
「波は、前に進むしかできない。障害物に阻まれても、回折して、前に進んでいく。だから、僕らの打ったメールはどこにでも届く。家の中に居ようと、色々なものに囲まれていようと、彼らは後ろに下がることはない。止まることはないんだ。」
「前に、進む。」
「くよくよ未来の事を考えている時間は無駄だ。そんなことをしてるうちにその日は近づくぞ。」
「…はい」
これは僕なりの、精一杯の励ましだった。自分でも途中何を言っているのか分からなくなったが。
「言ってる意味、分かったか?」
「もう、ちゃんと勉強したから、分かりますよ」
「そうか」
「先生も、そんな精神論みたいなこと、言うんですね」
「それは誤解だ。僕は数字と科学しか信じない」
「だって、君の気持ちは分かる、だなんて」
「言葉のあやだ」
「そこは変わらないのか」
「ああ。」
「意外でした」
「やめたくないなら、最後まで踏ん張れ。それでやりきれ。もしかしたらその先に君の望む結果が待っているかもしれない」
「はい。」
また無駄な時間を過ごしてしまった。残りの時間は急ぎ足で問題を片付けた。残り一か月しかない、とみるか残り一か月もあるとみるかは彼女次第だ。僕が受ける訳ではない。そこは関係ない。
彼女は去り際に「先生、励ましたかったのは分かったけど、回りくどいよ」と言った。余計なお世話だった。
マツモト先生が言ったことも、何となく分かってきたような気がした。教えるとは、諦めずに試行錯誤を繰り返すこと。トライアンドエラー。そして、気持ちに寄り添うこと、悩みに共感すること、これらは新田チエが教えてくれたことだった。
癪だったが、彼女と過ごす数か月の間に、自分の中にそれが芽生えていた。
決心
久しぶりの休みは家で過ごしていた。引っ越しはいつになるか分からなかったけれど、自分の荷物を軽く整理して、段ボール箱に詰めた。途中で別に全てをこの家から引き払う必要はないのだと気づいて、その段ボールは一箱減った。思えば、引っ越しというものを生まれてこの方したことがなかった。ずっとこの家が我が家だった。子どもの時も、大人になる時も、大人になってからも、私の時間はここで流れていた。まだ出る日は決まっていない。
田畑さんの披露宴は素敵だった。純白のドレスを身にまとった花嫁の幸せそうな顔。会場の温かな雰囲気。どこの誰かも分からない参加者同士に和気あいあいとした空気が流れる。私の時はきっともう少しこぢんまりとした式だろう。呼ぶ人も少ない。だから、兄を無理矢理にでも来させよう。ずっと先の話かも分からないけど。
成俊にはしっかりと伝えた。自分の答えを。二月の寒い海辺だった。
「私、決めた」
「ん?」
彼は顔を少し強張らせて私の方を向いた。彼にプロポーズされてから、四か月も経っていた。
「私と、結婚してください」
「でも、」
「何も、言わないで。」
「?」
「色々あったけど、最後は自分で決めた。ちゃんとお兄ちゃんのことを考えて、納得いくまで悩んだ。だから、これは私の気持ち」
「…」
「何か、私分かったんだよね。家族なら、いつも片時も離れず傍にいるべきだって思ってた。今までずっと、お兄ちゃんの助けに、お母さんの代わりにならないといけないって思ってた。それが普通だったし、当たり前のことだった。でも、結局それは私の思い過ごしだったのかもなって、彼の頑張る姿を見て気づかされた。」
「思い過ごし…?」
「うん。言い過ぎかもだけど。…別に離れていても、私の想いや今までの日々は変わらない。過去も変わらない。」
「…」
「だからそんなに心配することないのかもなって。」
「そっか…」
「初めて自分の人生を、行く先を全うに考えたかも。自分がこの先どうなるかなんて今まで真面目に向き合ってこなかったからさ」
「そうなの?」
「うん。それだけ大事だったんだよ。お兄ちゃんのことが。」
「うん」
「でも、私は自分の道を進むことにする」
「分かった。僕は君の答えを受け入れる。」
成俊は何も言わず、ゆっくり私の頭を撫でた。なぜだか分からないけど、とても落ち着いた。
「今度、お兄さんに会ってみたいな」
「え?」
「つぐみがそんなに大切に思ってるお兄さんだもの」
また兄のつまづく姿を見たら、私の決心も揺らいでしまうかもしれない。そのくらい、彼は放っておくのが危なっかしくて、いつも心配ばかりの人だ。でも、完は何も悪くない。成俊にも、佳奈さんにもそういう風には思って欲しくなかった。彼は、近藤完として生きている。今も、今までも。ちゃんと、自分をもって生きている。確かに性格が捻じ曲がっていて、ひねくれていて、そのせいで勘違いされやすい人で、時には色んな人を傷つけて、悲しませて、泣かせて、怒らせてきたけど、彼は彼だ。
私は段ボールに封をして隅に仕舞って、寂しくなった家を見回す。今の私には「近くに居るのだから大丈夫」というのが一番の言い訳で、拠り所だ。ふとその前に座った仏壇の隣には、鉛筆で何本も線が入った柱がある。
つぐみ ○センチ
なんて書かれた文字は、もうすっかり擦れていてその一つ以外他は読めなかった。兄と普通に競ったら勝てないから、私は背伸びをしていたはずだ。それを思い出した時に心がぎゅっと詰まる感じがした。悲しいのではなくて、何か、色々な気持ちがこみ上げてくる。でもこれが私の進む道だ。兄のことはきっとお母さんが守り続けてくれる。
携帯の着メロが鳴った。感傷に浸っていたところでハッとして、電話に出るとそれはマツモト先生だった。
「あ、もしもし?つぐちゃん?」
「どうも、ご無沙汰してます」
「元気にしてる?」
「はい、おかげさまで」
最後に話したのは去年の秋口だっただろうか、久々に聞いた先生の声はいつも以上にご機嫌そうだった。
「結婚、するんだって?完から聞いたよ」
「あ、はい。」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「母ちゃんにくっついて、うち来てた頃はまだ小学生くらいだったかね。それが今や嫁入りかい。立派になったもんだ」
「そんな、立派だなんて。まだまだですよ」
「そうかいそうかい。まあ一つお祝いを伝えたくてね。」
「すみません」
「それでさ、完、最近家ではどう?」
「え?」
「無理してない?」
「ああ」
「ほらさ、俺あいつに難物押し付けちゃったべ?もともとは事務で雇ったのに、講師までさせちゃって。」
「そうみたいですね」
「もうすぐ、あいつの一仕事も終わるよ。傍から見てりゃきつそうだったけどな。まあ、俺もあいつが小さい頃から見てたんだから、あいつにとって生き地獄だろうってのを分かって押し付けた訳だけど」
「先生のおかげで、毎回愚痴だらけでしたよ。最近はそうでもないですけどね」
「ああ、そうかー。それはつぐちゃんには悪いことをしたね。まあ俺は、あいつにとって何か糧になればいいなと思ったんだけどな。」
「いえいえ。でも何か、変わりましたよ。お兄ちゃん。こないだなんか、休みの日に何か作ってました。数学の本なんか出して」
「そっかー、あいつがね。」
「楽しそうでした。仏頂面だったけど、何かぶつぶつ言いながら」
あの時兄は確かに楽しんでいた。私が東京から戻ったあとも、同じ場所でずっと続けていた。単純に好きな数学相手だったからかもしれないけど。
「やっぱ、俺は逃げて欲しくないんだよねー」
「?」
「人から逃げて欲しくない。治らない癖があったとしてもさ」
「そうですよね。」
「ま、だから俺は押し付けちゃった。別につぐちゃんが結婚するなんて知らなかったんだけどね。」
「はい」
「ま、何か完くんが得てくれるといいんだけど」
「先生、」
「ん?」
「お兄ちゃんのこと、どうかお願いします」
私の心からのお願い。どうか、彼を導いてほしい。きっと兄には先生の塾が一番の居場所だったから。無責任かもしれないけど、お願いします。私はそう願った。
「ああ。分かってるよ。」
「すみません、ありがとうございます。」
「今も授業出てるけど、あいつ生き生きしてきたよ。まずそうなおにぎり持ってさ」
マツモト先生は電話口で大声で笑った。私も笑みがこぼれた。彼に確かな未来が続きますように。
電話を切ったあと、洗濯を取り込んだ。兄の分だけ掛けたままにしておく訳にはいかないから、一緒に取り込んで、つい畳んでしまった。私も癖だ。彼が帰ってきたら怒られるかもしれない。
「はくしょんっ」
鼻がむずむずしてきた。もう、花粉が飛び始めたのか。私は花粉を落とすために自分と兄の洗濯物をはたいて、もう一度畳み直した。明日は出勤。束の間の休みも気づいたら終わっていた。
川瀬の家庭訪問
「川瀬、おめでとう」
「はい?」
昼休みに係長に呼び出されると、「昇任だ」と突然内示を受けた。冬に受けた試験に合格したのだ。入職してから配置されていた市民課市民係を離れて、次に行くのは国民健康保険課。主任での昇任配置だった。
いきなり罵倒されたり、ごねられたり、市民係はなかなか堪えるところだったけど、僕としてはやりがいがあった。役所の役人と市民という立場を超えて、人と人として関わっていくのが楽しかった。
「あ、市民課市民係の川瀬クン!」
健康福祉部のフロアを別件で歩いていたら、足立主任に声をかけられた。つぐみの上司ということもあってお世話になっている、尊敬する先輩だ。
「お疲れ様です」
「あんた、昇任配置なんだって?」
「え、ていうか声大きいです」
主任の声はとにかく大きい。こそこそ声にしていても周囲には丸聞こえだった。
「あれ、私あんたと同格になっちゃうじゃん。」
「そうですね、先輩」
「けー、何か嫌だねえ。可愛がってきた後輩だったのにどんどん抜かされてくなんてさ」
「そんなそんな」
「結局可愛い奥さんも貰って、給料も上がって、いいねえ幸せで」
「まあ…すみません」
「でさ!」
と話を勢いよく切り替えた彼女に手渡されたのは、一冊のバインダーだった。
【家庭訪問記録 家庭相談係】
僕はそれを見て、数か月前の記憶を呼び起こしていた。足立主任に電話で突如頼まれた一件。きっとこれの事だろう。
「忘れてたでしょ。異動に結婚に忙しいところ悪いんだけどさ、今日の午後だから頼んだよ」
「あー…はい。」
「ちょっとさ、プラスで要望来ててさ、部屋の整頓を手伝ってほしいんだってその人。」
「整頓、ですか?」
「うん。市民課市民係の川瀬クンなら何でも出来るでしょ?」
「いや何でもって、」
「ま。最後のお仕事、頑張ってこい」
先輩は顔を近づけてニッコリ微笑んだ。その圧に僕は思わず「わ、分かりました」と頷いた。
*
その家は街の中心から離れた、港の方にあった。足立主任から貰ったバインダーに挟まれていた住所を元にたどり着くと、それは今時珍しい木造平屋の一軒家だった。
「近藤さん、か」
婚約者のつぐみと同じ苗字だと図らずも思ってしまったが、仕事中にプライベートを混ぜてくるのはよくないと考えるのを止めた。公務員なのだから。
ピンポーン
そしてチャイムを何回か鳴らしたが、家主は出てこなかった。
「ごめんくださーい、市役所の者ですー」
何回もそれを繰り返しても返事が無かった。ふと目をやった軒先には洗濯物が掛かっている。多分在宅なのだと思うけど…
「…はい?」
そう辺りを見ている時、気づくと小柄な男性が玄関に立っていた。年は多分自分の少し上くらいで、今まで寝ていたのか恰好はスウェット姿だった。
「…誰?」
「あ、すみません。市役所の、市民課市民係の川瀬と言います」
「足立佳奈じゃないのか」
「足立主任は今日、諸事情ありまして」
「サボりか。どうぞ」
一言で分かる淡泊なその男性は、僕を家の中に通した。見た目通りかなり年季の入った家で、田舎の祖父母の家のような雰囲気がしている。居間に案内されると「お茶、飲みます?」と彼は言ったので、僕は快く「頂きます」と答えた。
「改めまして、本日家庭訪問に参りました川瀬です。」
「どうも。」
「早速ですが、チェックシートの質問を」
そう言うと彼は「ああ」と答えた。最初は気難しい人なのだろうかと思っていたけれど、ただ物静かな人なだけなのかもしれない。そう思いながら僕は形式的に質問を始めた。
「最近、調子はどうですか?」
「ぼちぼちです」
「ぼちぼち?」
「はい」
〇にするか×にするか迷って、欄の隣に△を僕は書き入れた。
「生活の中での困り感とかはありませんか?」
「うーん、仕事が色々忙しくて手が回らない部分もあるけど、何とかなってます」
「お仕事、大変なんですね」
「まあ。でも、初めてやりがいを感じてます」
「初めて?」
「何回も転職してきたんで。その度にお宅の足立にはだいぶお世話になりました。」
「そうだったんですね…」
「あいつとは腐れ縁で。小中の同級生だったんで」
ええ…と僕は内心驚いていた。小学生の時の主任、どんな人だったんだろう。想像がつく気もする。その話がとても気になったが、仕事に集中してシートにチェックを入れていく。
「あの、」
「はい?」
「…部屋の整頓についてお困りだと、お話を伺ったんですが」
「ああ。こっちです」
男性に促されて居間から奥に進むと、和紙の黄ばんだ襖があった。「色々、捨ててみようと思ったんですけど」と彼がその戸を開けると、汚い、とまでは言えないが何とも乱雑な部屋がそこにあった。机の上には様々な書類や書籍が並んでいて、床にもそれが続いている。棚に入りきらなかったのだろうか、洋服も山になっていた。
「いざ整理しようとすると、いつか使うかもしれないと思って結局何も変わらなくて。一応自分なりに整ってるつもりだったんですけど、溢れてきてしまったので…申し訳ないんですけど…」
「…はい?」
「ちょっと手伝ってもらえませんか」
彼はひと呼吸おいて、そう言った。市民課市民係に在籍した四年で色々な現場に出たけれど、こういうのは初めてだ。
「とにかく、今必要なもの、必要じゃないもの、保留したいもので分けていきましょうか…?」
「お願いします」
よく聞くような方法を提案しながら、僕は床に落ちていた資料を拾った。それは論文か何かのようだった。
「極限的、分光計測法…?」
「ああ、それは捨てていいです」
他にも物理や数学、化学など様々な論文が散らばっている。中には懐かしい用語が並んでいるものもあった。自分は数学科だったから、少しは内容も分かった。
「何の研究されてたんですか?」
「え?」
「あ、いや、研究者の方なのかなと」
「ああ。スペクトル拡散について色々やってました。」
「物理屋さんなんですね」
「いや成り損ないですよ。今となっては趣味の範疇です」
そう自虐めいて、男性は「これは今必要か…?」とぶつぶつ呟きながら、書籍を段ボール箱に分けていた。僕もそれを続けた。
「僕も少し大学の時やってたんですよ。数学でしたけど。クオンツになりたくて。」
「クオンツですか」
彼はこちらを急に向いて、目を明るくした。
「まあ、挫折しました。周りが凄すぎて。」
「そうですか。」
少しずつ部屋が片付いて、段ボール箱に続々と物が溜まっていった。理科屋の家だからか出てくるものが面白いものばかりで、僕は思わず途中で何度も手を止めた。そうやって阻まれながらも、だが結局は二人で黙々と続けていた。
「あれ、これ懐かしい」
棚から出てきたのは、自分も小学生の頃に読んでいた科学読本だった。月刊で届くもので、毎月楽しみにしていたのを思い出す。
「ああ…」
彼の手が止まった。僕が「要りますか…?」と聞くと、彼は少し悩んでいるようだった。
「あ、でも、保留にしますか。今となっては貴重ですよねこれ。」
「まあ。」
「自分も読んでました。父が買ってきてくれて」
「僕もです。母が買ってくれた」
「同じですね」
「幼少期の思い出みたいなものだ」
「なら、残しておきましょうか」
「いや、」
僕が一瞬戸惑うと、男性はまた考えていた。ぶつぶつと何かを言って、悩んでいた。
「捨ててください」
「でも」
「僕にはもう、必要ありません」
「いいんですか?」
「はい。大丈夫です」
そう言われて、僕はたくさんの月刊誌を段ボール箱に詰めた。もったいないくらいで、あわよくば自分が持ち帰りたかったけれど、彼がそういうなら仕方ない。
部屋の整頓が終わった頃、気付くと夕方になっていた。17時には帰庁しなければならない規定だ。だから僕は一言言ってその家を出ることにした。
「あの、そろそろ帰庁しなければならないので…」
「あ、すみません。どうぞ」
男性は玄関先まで付いてきて、見送りに出てくれる。もう空がその頃には橙に染まっていた。
「ありがとう、ございました」
「いえ、お力になれたか分からないですけど」
「いや、助かりました」
僕が一礼して出ようとした時、彼が「あの」と声を掛けてきた。
「整理整頓のコツ、とかってあるんですかね…」
「そうですね…」
コツ、何だろう。もちろん常に意識することが一番の解決策だけど、それを実行するのはなかなか難しい。とはいえ整理収納アドバイザーでもない自分には上手いアドバイスも浮かばなかった。
「頑張りすぎない…ってことですかね?」
「え?」
「あ、いや、いつも綺麗に出来たらそれはそれで最高ですけど、難しいじゃないですか。だから僕はたまには『まあいっか』と手を抜いて、休みの日にまとめてやってますよ。ま、実際それでさえ難しいんですけどね」
ふとその男性の顔を見ると、笑っているように見えた。もしかしたら僕の言った事が面白かったのかもしれない。
「そうですよね。すみません、ありがとうございました」
「いえ。では失礼します」
腕時計を見るととっくに十七時を回っている。だから思わずやばっ!と叫んで僕は公用車へと向かった。
この近藤さんという人は不思議な人だと思った。自立生活支援が確かに必要だろうけど、並々ならぬ生命力を感じる。それには彼の生活史がきっと刻まれているはずだ。多くの人に接してきたからこそ分かる何かが僕の中にはあった。
けれど、またこの人に出会うことになるとは、僕はこの時予期していなかった。むしろ長い付き合いになるとは。
進む道
いつもはよく眠れるはずだが、昨晩はあまり寝付けなかった。今日は国公立大学二次試験の合格発表日だ。正直自分の時は、まあ何年前だったかも覚えていないが、あまり緊張していなかったと思う。そこまで受からない気がしていなかったし、結局合格していたからだ。しかし、他人の合否にここまで緊張させられるとは。正午には構内の掲示板に番号が貼り出されて、チエがそれを見に行くだろう。僕は昼まで寝ることにする。
*
「こんにちは…」
「お、来たか」
掲示板を見に行って、帰ってきたらもう夕方だった。やっぱり内房線は本数が少ないよね。地元に帰ってくるとやっぱり田舎だなーって思う。コンビニもろくに無いし。
「で、どうだった?」
「…」
「…?」
「…」
「……」
「…受かりました!」
…そう、合格した。
自分でも最初信じられなくて、何回も受験票と掲示板を交互に見た。でも確かに私の番号がそこにあった。何か、正直ダメなんだろうなって思ってたから驚きすぎて、本当に信じられなかった。もちろん本番の試験も一生懸命やったけど、色々自信が無かったし。だから余計に嬉しくて、私はお母さんにすぐ電話していた。
「あら、おめでとう!そうー良かったねえ。」
「ありがとうございます」
「もう親御さんには伝えたの?」
「はい、母も『おめでとう、それなら大学行ってこい』って言ってました。」
「そうかー。うん、良かった良かった。」
「どう?今の気持ちは」
「そうですね…何かまだ信じられないです。受かると思ってなかったんで。ラッキー、みたいな」
「そうー?ラッキーじゃないと思うけどな。君の努力と頑張りの妥当な結果だよ」
「そうですかねえ」
「だって、相当苦しんだべー?」
「…まあ、苦しかったです。最初で最後のチャンスだったし。」
「うん。よく頑張ったよ」
そう言いながらマツモト先生は教室の隅に行ったかと思うと、いきなり大きくガッツポーズした。「うおー」と雄叫びを上げんばかりに何度も両腕を上下させていた。最初はとても驚いたけれど、私もおんなじ気持ちだった。
「あれ、今日近藤先生は?」
「ああ、完?もうすぐ出勤してくると思うよ。」
「あ、そうですか」
あの人は、何て言うだろう。どうせ『そうか、まあ僕には関係ない』とかそんなところだろう。前よりは少し丸くなったのに、きっと根本的なあの性格の悪さは変わらない。意地が悪いというか根が曲がっているというか。
「…あの人、また事務に戻っちゃうんですか?」
「そうねえ、まあアイツ次第かな。辞めて欲しくない?」
「え、いや、最初はヤバい人当たっちゃったなって思ったけど。」
「ヤバい人か」
「まあ不器用で不愛想だったけど、あの人悪い人じゃないですよね」
「悪い人じゃないって(笑)そりゃ悪い奴じゃあないわ」
「でも、私がセンター失敗して凹んでる時…、励まそうとしてくれたんですよ。回りくどかったけど。」
「へー回りくどくか。あいつらしい」
「波になれ、って言ってました」
「へ?」
「波は、前に進むしかできない。障害物に阻まれても、前に進んでいく。だからお前も波になれって。意味分からなかったですけど、何か元気になったんですよね」
「ハハハハハッ」
先生はいきなり笑い出した。死んじゃいそうなくらいコロコロと笑ってる。
「え、そんなに私変なこと言いました⁈」
「あーごめんごめん、いやね、あいつもやるなあって思って」
「?」
「それ、俺の受け売りだよ。」
「えー!」
「あいつがここに来てた時、俺があいつに言い聞かせてたことだ。まさか師匠の言葉を盗むとはなあ(笑)」
「うわー普通に嬉しかったのに。騙されたみたいな気分です」
「ま、良いじゃない。合格したんだし」
まあそうですけど…。せっかく優しくなったと思ったのに、あの人ときたら本当に。まったく。
*
「お疲れ様です…」
「お、完。お疲れさん」
「どうも」
出勤するとフロアにはマツモト先生しかいないようだった。合格発表で悲喜こもごも、といったところなのだろうか。部屋の空気は活気に溢れている訳でも無く、また沈んでいる訳でも無かった。
「うい」
「ういって、何ですか?」
「ほら、お前の教え子が待ってるぞ」
そう言うと先生は奥の方を指した。きっとチエが来ているのだろう。僕はその指に従ってフロアの奥にある教室へと向かった。
「新田、どうだった?」
「あ、先生。」
彼女は私服で教室に座っていた。今日は重そうなリュックも無く、身軽だ。にしても相変わらずまだ冬だというのに丈の短いスカートを履いている。
「で、どうだった?」
「…」
「…?」
「…」
「……」
「…受かりました!」
「は?」
「だから、受かりました!」
「…ああ、そうか」
正直ほっとしていたのは嘘ではない。自分のやったことで他人の将来を断つことは、人として到底受け入れられないだろう。この自分が人としてなどと声高に言えるものでは無いと分かっているが。ただ、自分が関わってしまったからには彼女には受かって欲しかった。そうすれば自分の今までの苦労も報われる気がしたのだ。そして、彼女の夢も叶えて欲しいと今は思っていた。
「…おめでとう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、春からは通うのか」
「はい。お母さんも許してくれました。」
「そうか。姉弟にも伝えたか?」
「はい、お姉ちゃんにだけはとりあえず。あとの皆には今晩帰ったら言います」
「ああ。ちゃんと伝えてやれ。きっと家族は心配してるさ」
「そうですね」
無表情で僕は彼女に言葉を返していた。だが喜んでいたのは間違いない。こうやって他人と喜びを分かち合うのは、久々だと思う。僕は確かに嬉しかった。自分と関係ない他人のことでも、僕はとても嬉しかった。でも、天邪鬼でつい言葉を続けた。
「僕は最初、君を引き受けることが死ぬほど嫌だった」
「え?」
「僕は事務員なのにマツモト先生が君を押し付けてきた」
「押し付けてきたって…本当口悪いですね」
「マツモト先生に何度も反対した。でも結局押し切られた」
「そこまで嫌だったとは。ていうかそれ、この今言います?」
「今じゃなくていつ言える?君と会うのはもうこれで最後だろう」
「はあ。つくづく先生は嫌な人間ですね。意地が悪い」
「僕も、君みたいにずかずかと人のテリトリーに入ってくる人間は一番苦手だ。」
「先生もなかなかですけどね」
「ありがとう」
「褒めてないです」
チエは笑っていた。流石に数か月過ごして、僕の言ってる意味が正しく理解できるようになったのだろう。
「でも、僕は君に色々なことを教えてもらったよ。」
「え?」
ふと溢した僕の言葉に彼女はきょとんとしていた。「何でもない」と形勢を立て直す間もなくチエは「なになに?」と聞きながら僕に近づいた。
「はあ…」
「はあって、そっちが言い出したんですよね」
「分かった分かった。人間について。僕にはよく分からない、人の気持ちについて、君から教えてもらった」
「…」
「それが少しは役に立ったよ。」
「そりゃ良かったです」
「やっぱり人付き合いは疲れるけどな。」
「だろうね」
そして一度喉まで上がってきた言葉はつっかえた。言うのが照れ臭かったが、僕は言った。
「…ありがとう」
流石にチエの方も拍子抜けしているようだった。その顔を見て言わなければ良かったと後悔した。
「別に皮肉じゃない。」
「分かってますよ。相変わらずよく分からない人だけど、まあ少しは丸くなって良かったです」
「そうか」
「先生のおかげで、私は夢を諦めずに済みました。ありがとうございました。」
「ああ」
「じゃあ」
「頑張れよ」
チエは「ちゃんと頑張ってきます」と言って去っていった。彼女にとって受験は通過点だが、これで僕の仕事は終わった。去年の秋から半年間、長かった。最初は反吐が出るほど嫌だった。人嫌いの自分が、一対一で人と向き合わなければならないという現実から逃げ出したかった。色々なことを思い出して、色々なことを考えて、彼女の授業日が来るたびに憂鬱だった。でも今は、あっという間の時間だったと思う。今思えば、の話だが。その中で、自分は少し変わった。新田チエという他人に関わったからこそ、新たな視点や考え方を教わった。自分を見つめ直すことが出来た。何も全てが良かったとは言わない。コミュニケーションには疲れたし、言うならば「神経を擦り減らし」た。多分、使い方は間違っていないはず。僕の「癖」が治った訳ではないし、苦手が得意になった訳でもない。でも、確かに何かを得た。前向きな何かを。そして、次に前に進まなくてはいけないのは、この自分だ。
「おっす」
「お疲れ様です」
「良かったな、新田さん。」
「ああ」
マツモト先生は隣に座って、またポケットからタバコを取り出した。本当に癖なのだろう。僕はそれをいつものように咎めて、仕舞わせた。
「おかげで、って初めて言われました。」
「ん?」
「初めてですよ。他人にそんなこと言われたの」
「良かったな」
「先生は、僕に何を学ばせたかったんですか?」
「へ?」
「最初に言ってましたよね。僕に彼女を押し付けた時。踏ん張れば、絶対お前にも得るものがあるからって」
僕は先生のその言葉をしっかりと記憶していた。そういう口実で僕は無理矢理講師を引き受けさせられたのだ。
「あーそんなことも言ったっけなあ」
「誤魔化さないでください。覚えてます。」
「だよな」
「はい」
「じゃあ逆に聞くが、お前は何を得たと思う?」
「え?」
先生は狡猾にも質問を質問で返した。はぐらかしの常套手段だ。先生は自分から手の内を明かすつもりは無いのだろうと思い、僕は答えることにした。
「今思うと、あいつに言った事は全て自分にも通ずるのかなって思います」
「ほう」
「諦めるな、逃げるな、踏ん張れ。まあ先生にも言われましたけど。ここに通っていた頃から、自分は人間から逃げてきました。人付き合いってのを避けてました。まあ、今も別に好きじゃないです。苦手です。でも、案外悪くないなって思いました。ちゃんと向き合えば、それなりの何かを得るっているか、何ていうか」
「だろ?」
「まあ、僕の癖は直りません。多分このままです。それでも、そこに閉じこもって、周囲から距離を取り続けるんじゃなくて、見方を変えてアプローチをしてみれば、他人と関わるのも悪くない」
「ああ」
必要な時は他人に手を伸ばして、関わりをもつ。そこから助けを得たり、知恵を得たり。母さんの言ってた「他人に迷惑をかけてはいけない」というのはそのための「マナー」、だったんだろう。迷惑をかけないように独りでいる、というのは少し違ったようだ。
「なあたもつ」
「はい?」
「他人の役に立つ、っていいべ?」
「…そうですね」
「役に立つってことはな、誰かに必要とされているってことだ。」
「必要…」
「そう、お前も必要な人間なんだよ」
「そうですか」
「どうする?講師、来年度も続けるか?」
「…」
「なんで黙るんだよ」
「まあ、僕は四月から事務に戻りたいですけど。」
「そうか。素直で宜しい。続けてみれば?って言おうと思ってたんだけどな。」
「じゃあ、考えておきます」
「ああ、そうしろ」
チエから色々学んだとはいえ、それが自分にとって実りのある経験だったとはいえ、それをまた始める気力が僕にあるだろうか。個人的にはやはり事務が合うと思うのだが。
マツモト先生はまた汚いデスクに戻っていった。僕はもう少し保留しようと思った。四月まではまだ時間がある。それまでの間は休みをもらうとしよう。人付き合いの疲れと言うのは一朝一夕で和らぐものじゃないからだ。
まだ、今の僕には。
ご無沙汰
「最近どう?」
「まあまあだ」
「ちゃんと食べてる?」
「ああ」
色々と良い区切りだった年度末に私は引っ越した。だから今は、市役所にほど近いアパートに成俊と二人で暮らしている。そして例の兄は独りであの家に住んでいる。どうやらマツモト先生の塾は辞めることなく、今年度も続けていくらしい。それも事務ではなく講師で。何とも意外だった。彼の教え子は無事第一志望の大学に合格したのだという。それも相まって続ける気になったのだろうか。そして相変わらず、朝は仏壇に手を合わせ、おにぎりも自分で作っているのだろうか。私は今の彼を、何も知らない。
「よく来たよね、小さい時に」
「ああ。それは覚えてるよ。お前は波が怖くていつも泣いてた。」
「そうだったっけ?」
「ああ。何で泣いてるのかさっぱり分からなかったから、イライラしてたよ」
「酷いね。お母さんは優しく守ってくれたんだろうけど」
「…どうだ、最近?」
「ん?」
「亭主とは上手くいってるか?」
「まだ、結婚はしてないけどね。向こうのご両親にも挨拶してきた。全部話したけど、優しく受け入れてくれた」
「それは良かったな」
「お兄ちゃんにも近いうち会わせるよ」
「いいよ」
「だって、唯一の家族でしょ」
「僕は別にいい。何を話せばいいか分からない」
「そうですか」
一方の成俊は会いたがっていたのだけど。まあここでいくらごねても、きっとこの兄は受け入れてくれないだろう。
「これ、書いておいた」
「あ」
完が鞄から取り出したのは茶色の婚姻届だった。保証人の欄に乱雑な字で「近藤完」と書かれている。私は迷わず兄を選んだ。それで以前からお願いをしていたのだ。
「おめでとう」
「…ありがとう」
兄の署名で欄が全て埋まった。この紙一枚を出せば、完とは戸籍の上で家族ではなくなる。彼からは離れることになるということだ。近藤家の戸籍には完だけが残る。単なる事実だが何か、残酷だ。
「式、来てくれるよね?」
「さあな」
「流石に来てくれないと怒るよ?私の方スカスカになっちゃうし。」
「佳奈とか、役所の人間とか、高校の同級生とかで埋まるだろ?」
「そういう問題じゃないでしょ」
「そうなのか」
「そう。お兄ちゃんに、私は来て欲しい。ていうか、無理矢理にでも来させるから」
「無理矢理か…」
「うん」
「そのうち招待状送るから」
「…考えておくよ」
春の海は穏やかだ。風が止んで波がなくなり、海面は静まっている。凪だ。遠くの方に東京の街が見えた。ぼんやりだけど、きっとそれだった。
「ありがとうな」
「ん?」
「色々世話になった。」
「素直だね」
「それは、良い方でか?」
「うん」
「ならいい」
嘘だ。良いことばかりの二十数年では無かった。この人の唯一の家族として私が尽くしてきたものは、外から見れば自己犠牲だ。ただ、自分が可愛くてそれをしてきたのではない。過度だと言われればそれはそうだけど、私はしたくてやってきた。私にとっての唯一の家族も、この完だったから。
「私も、お世話になりました」
「僕は何かしたか?」
「うーん、しなかったかもね」
「…そうだな」
兄離れ、とでも言うのだろうか。私に突然降りかかってきた結婚という出来事は私の家族観を変えた。持ちつ持たれつでやってきた今までを。
「お母さんのことは頼んだよ」
「言われなくても面倒みるさ。花もちゃんと替えるよ」
「また、命日には来るから」
「ああ」
「もっと帰ってきた方がいい?」
「いや、いいよ」
「そう?」
「お前は、大事な人間の傍にいる方がいい。」
「お兄ちゃんが『大事な人間』なんて言うなんてね」
彼は変わった。良い方に。いや、元々悪かった訳では無いけれど。
「生徒に教えてもらったよ」
「え?」
「恋愛について教えてもらった。僕にはよく分からなかったがな」
「は?何聞いてんのお兄ちゃん。生徒にそんなこと聞いたの?」
「ああ。ダメか?」
「いやーまあ、お兄ちゃんらしくていいんじゃない。」
「それは皮肉か?」
「そうだね。褒めてはないよ」
「そうか」
「…お兄ちゃんも、幸せになってね」
「生きてるだけで十分幸せだ」
二人で海に手を合わせて、帰路についた。完はいつもの家に帰り、私は隣町の彼の家に帰る。私はもう、蕎麦を今晩茹でないし、チキン南蛮を作る。お兄ちゃんはきっと帰って蕎麦を茹でる。そして明日の朝は大音量の目覚ましで起きる。
私たちは別の道を、それぞれの道を進む。彼は講師を続けるんだろう。マツモト先生のところでは少なくともあと何年か、もしかしたら何十年と働き続けるんだろう。
私は…。
私は、そのうち母になるのかもしれない。というか、なってみたい。男の子でも、女の子でもいい。成俊と二人で子育てをしてみたい。お兄ちゃん、いや伯父さんには嫌われてしまうのかもしれないけれど。
「ありがとう、じゃあね。」
ふと振り向くと、兄の後ろ姿がどんどん小さくなっていった。途中でつまずいてこけていたけれど、それは前よりは頼れそうな、強い背中だった。
数か月後、近藤家
午前六時。目覚ましが鳴った。
ジリリジリリ
今日は塾が休みだから、昨日は夜更かしをしていた。だから起きるつもりはない。休日は休むためにある。
ジリリジリリ
知らん。もう少し寝させてくれ。
ジリリジリリ
…ん?いや、今日は何か予定があった気がする。
ジリリジリリ
今日は…式、か…?
「うああ!」
バチンっ
まだ眠い目を無理矢理開けると、蛍光灯が付きっぱなしだった。二つもやらかしてしまった。最悪だ。仮病でも使って休ませてもらおうか。…流石にそれはダメだろう。
「はあ…」
仕方なく起きて、着替えをする。ワイシャツは少し皺が残っていたがしょうがない。そしてネクタイを緩めに締めて、洗面所に向かう。普段は付けない白色の太いやつだ。蛇口を捻って手を洗うと、今日は水がぬるかった。乾いた口に水を含んで、うがいをする。痰が絡む。ぬるい水で顔を洗った。目覚めるように何回もすすいだ。鏡を見て髪も整える。変な恰好で寝ていたせいか、今日の寝癖は酷い。水を頭にひたすらかける。
「まあ、これで良いだろう。」
ラジオを付けて、炊飯器を開けた。今日の炊き具合は水分が多くなく丁度いい。濡らした手に塩を揉みこみ、まだ熱々とした白米を握ろうとする。
「熱っ」
小さな声で叫んでしまった。もう慣れてきたと思っていたが、この熱さにはまだ時間がかかるだろう。それを少し我慢して、熱々のお米をまとめていく。その中に、年季の入った甕から取り出した梅干しを一つ入れた。
「しょっぱ…」
取り除いた種を口に含むと、顔がめちゃくちゃになった。母の梅干しは、やはり塩辛い。でもこれがクセになる。それから二つ作って、巾着袋に入れた。以前はここまでかなり時間が掛かったが、最近は七時のニュースまでには終わるようになった。成長だ。
今日はきっといい食事が出されるんだろう。でも、きっと口に合うようなものじゃない。ある程度食べるフリをして、その場をやり過ごそう。そう考えて念のためにいつも通りおにぎりを握った。食べるか食べないかは分からないけれど、これが最早習慣になっていたからだ。
「お茶漬けどこにやったか…」
ああ、切らしてたから昨日買ってきたのか。居間の机に放置されていたのを回収して、僕は一袋を取り出した。茶碗一杯に残りの米をよそって、電気ポットから湯をかけた。もう流し場のラックには茶碗は一つしかない。箸も一膳だ。つぐみが居なくなってからは朝昼合わせて米も一合で足りている。
「いただきます」
アイツが出て行ってからは暫く経った。もちろん僕は独りで暮らしている。最初は予想以上に家事が大変だった。炊事洗濯は何とかなったが、掃除ごみ出しは難儀だ。時々あいつが見に来て、色々と文句をつけた。僕としてはそこまで酷いとは思わなかったが。
エイキックスには在籍し続けている。結局、事務への復帰をずっと希望し続けたが、やはりマツモト先生は再び生徒を頼んできて、その子の講師をやらされることになった。今度は高二生。チエよりもきっと長い付き合いになる。
その新田チエは、エイキックスでアルバイトを始めた。最悪だ。てっきりこれで今生の別れになると思っていたのだから。まさか数か月後に再び会うことになるとは予期していなかった。「一応教員志望なんで」とアルバイトに申し込んできた時、僕は拍子抜けした。しかしマツモト先生は顔なじみ特典と言って試験も無しに彼女を通した。相変わらずの様子だ。…まあ、その顔なじみ特典にあずかったのは彼女だけでは無いのだが。
僕は十分幸せだと思う。毎日ご飯を食べれて、家があって、着るものもある。給料は少ないが、まあまともに暮らせるくらいは貰っている。つぐみの指す「幸せ」とはそれではないのかもしれないが。佳奈にも助けてもらっている。マツモト先生にもよくしてもらっている。今やエイキックスは再び僕の居場所になっていたし、多少の人付き合いは出来るようになった気がする。大前提として、他人に関わるのは今でも苦手、というか嫌いだ。癖も別に直らない。思った事を言ってしまうし、嫌なことは嫌だと断ってしまう。朝はお茶漬け、昼はおにぎり、夜は蕎麦でないと気が済まない。新しい生徒と関わるのもとても疲れる。まあ、こんな自分でも何とか生きているのだから、十分幸せなのだろう。
「ごちそうさまでした」
ラジオを切って、茶碗を盥に入れる。洗うのは帰ってきてからでいいだろう。
「財布、もった。」
ズボンの後ろポケットに手を突っ込み確認する。
「ケータイの充電もまだ残ってる」
「おにぎり。一応」
それはカバンに上手く入らなかったから少し乱暴に入れた。休みの日は電車の本数が少ないので、乗り遅れると大変だ。
「忘れ物、ない」
付いている全てのポケットに手を突っ込んで再確認した。多分、大丈夫だろう。
「えーと、君津で乗り換えて…一本。駅から徒歩5分。」
行き方は事前に調べてメモにしっかり書いた。電車が止まらなければこれで上手くいくはずだ。
「あ」
大事なものを忘れていた。急いで部屋に戻り、机上に置いた招待状と白封筒を取った。その時行きたくない思いが再び襲ってきたが、そこは観念して背広に仕舞った。
「あ、忘れた」
チーン
焦りながらもこれを抜きにしてはいけない。僕は正座をして、仏前の母に手を合わせた。
「行かないと、ダメか?」
写真の母はじっと僕の目を見た。その問いかけに、僕は睨まれているような気がする。
「…だよな」
母はそっと頷いた、多分。非科学的な想像も、こういう時は悪くないのかもしれない。
「つぐみの晴れ姿、母さんの分も見てくるよ」
本当は見たかっただろう。生前に溢していたこともあった。つぐみが結婚への迷いを打ち明けてきた時、なぜ迷っているのかがそもそも理解できなかったし、疑問だった。それに、自分が責められているように感じて、腹立たしかった。でも今ならば、彼女の当時の気持ちを理解できる気がする、分かる気がする、いや共感、出来る気がする。驕りかもしれないが。
「今日も他人様に迷惑を…他人様と程よい距離感で。行ってきます」
ゆっくりしてしまったが、時計を見るとかなり時間が無かった。そして僕は慌てて家を出た。もう外は、地面から湧き上がってくるような暑さだ。
背広を脱ぎたいし、ネクタイを外したかった。
ささらなみ
※本作品に登場する人物、団体などは実在のものと一切関係がありません。
※本作品中の数式などは全てフィクションです。