『潮田登久子写真展 永遠のレッスン』
一
意味ありげに撮るということ程に写真表現を毀損するものはない、と筆者は自戒の念を込めて強い筆圧で記したくなるが、それは何故なのかという自問にはすんなりと答えられないから不思議になる。
なぜなら、写真撮影が先ずは記録行為であることからすればいつ、どこで、何を撮ったかは常に問われる。スマートフォンを片手にリアルタイムで起きている出来事の情報の送受信をユーザー間で手軽に行えるようになった現状においては尚更、記録するという撮影行為の本質はより価値を持つと言っても過言ではない。ならば被写体に意味はあって当然、それが例えば社会的又は政治的に重要な議論を引き出したりすれば本望である。写真作品を表現として評価するにもこの点を無視しては何も始まらないのが撮影行為、だからこそ人々の日常をファジーに写すという抵抗と自由を志す一文にすら「意味を撮る」という撮影行為への抵抗感は現れる。さらに言えばフレームの外から入り込む言説を拒み、枠内で生じるイメージの美しさや豊かさを追い求めて邁進する抽象的な作品表現においてさえ、目の前の現象や偶然性を捉えようとする最低限の記録意識は表れざるを得ないのだから、意味を持たない写真表現はない。一素人の生意気な口を塞ぐことなく筆者はそう断言する。
しかしながらそれは同時に記録行為が保ち続ける被写体に向けた意識の高さ、言い換えればレンズを向ける対象に何一つ傷を付けずにありのままを捉えようという欲深くも潔い客観視の徹底に対する筆者個人の好意と裏腹になる。なぜなら被写体にレンズを向ける「私」とセットで外界に身を投げるような態度は、その実際において全ての事柄を様々な言説で埋めがちな私たちの日常を一歩、二歩と後退りさせる。故に気付いていないだけ又は見て見ぬふりをしているだけという不特定又は多数人に向けた冷徹な指摘を記憶行為としての写真撮影が正しく行える。そこに生まれる意識的な空間がまた、世界を変える契機となる。この契機をこそ筆者は写真作品に期待したい。だから「意味ありげに撮る」という撮影意図それ自体をとことん嫌ってしまう。それはフレーム内を「私」で埋め尽くすものに他ならない、撮られる対象なんてどこにも存在していない。客観視を装った主観的表現。同じ原理が働く身体の又は機構の作用で撮影者もカメラも究極的にはそれぞれの仕方で「客観」という主観を見ているのだとしても、互いの主観的「客観」を尊重し合える。その挑戦があってこその写真表現の面白さ。紡がれて来たその歴史と営み。そのどこにも意味ありげなんてものがない。
上記の様に文字にして見れば随分と潔癖な考えだなぁと我ながら思う所ではあるけれど、否定できもしない自分自身でもあるのだから仕方ない。そう諦めて、筆者は何度でも好きな写真を眺める。ルポルタージュな写真表現も、何か言いたげな「物」を具に眺めては隠し切れない親愛の情が表に出てしまう『潮田登久子写真展 永遠のレッスン』で展示されていた潮田登久子(敬称略)の表現作品も等しく並べて。
二
食材の保存庫として重宝される冷蔵庫に認められるプライバシーは扉を閉めた状態でそれが置かれる場所から窺える各人の生活ぶりという大まかなものから、扉を開けて流れ出す冷気を合図に観察できるその家々の食生活の内実という二重構造を取る。ゆえに潮田登久子が手掛けた「冷蔵庫」シリーズは物をメインに撮る表現作品であってもどこか生々しい。
けれどその生々しさが嫌悪感などには決して変じない。その理由として、撮影者が徹底した観察を心掛けているからと記すのは簡単に過ぎるだろうか。けれど、画面上の歪みをできる限り無くす為に冷蔵庫を真正面から捉え、定点観察としての記録を行ったという撮影上の工夫は勿論のこと、撮影許可を行った冷蔵庫の各所有者に関する何かを明かそうとはちっとも思いやしない立ち位置から始まっている興味の質と手の届く範囲の近さが私的領域の温度感を絶妙に調整している。それによって見る側が覚え得る疾しさが芽を出すことは滅多になく、反対に作品内のあれこれに目を移しては懐かしさや雑多な面白さを心から楽しめる。個性を見失わずに済む適度な相対評価というか、昔懐かしの井戸端会議をその最たる例として行われてきた個々人同士の交流の軽みがシリーズを構成する各「冷蔵庫」によって表現されていると思えるのだ。
しかしながらカメラを構えて被写体を撮る、その行為に覚える疑問を潮田登久子という写真家は率直に語る。
かつて行われた写真展のものから改題した「街へ」の展示コーナーを飾る各作品には個性的な若者と混沌とした熱気に咽せ返る様な街の雰囲気が充満していて、向こうから何か言いたげな感触がひしひしと伝わる。一鑑賞者たる筆者は、その感じを受けていい写真表現だなぁと素直に思ってしまったのだが撮影した写真家はそれをまるで獲物を追いかけているものと評し、行き詰まっていた当時を思い出す。
そう言えばと思ってパンフレットを読み返せば、「Paris Photo–Aperture PhotoBook Awards」審査員特別賞を受賞した写真集、「マイハズバンド」を構成する作品も同じ写真家である島尾伸三(敬称略)に捨てるなと言われなければきっと潮田本人の手によって捨てられていた。稀覯本か否かを問わずにモノとして見た時の一冊の佇まいや、物語の気配ないし予感を覚える自身の直観に基づいて撮影した作品集「本の景色」についても潮田本人はその撮影方針に対する迷いを頭の片隅に置き続けたという。これらの疑問や迷いが、どの写真作品からも微塵も感じ取れなかったから驚くと同時に、自身が切るシャッターに対して疑義を呈することを躊躇わないことが結果として被写体との間に、表現者なら誰もが恋焦がれる幸せな距離感を生んだのでないか。瞬間的な判断とその選別に優れた感覚ないし才能に拠って立ち、被写体にどこまでも迫ろうとする写真家の欲深き業を押し除けられるだけの内的反発を潮田登久子という写真家は大切に育めたのでないか。「先生のアトリエ」の冒頭を飾る秩序だったその一枚の光景に対して、その場所を訪問したことなんて当然にない筆者が想像的にでも愛着を覚えられるのだって潮田登久子という主観を突き放した写真家の姿形に、鑑賞者という第三者が身を重ねられるからではないのか。
当該展示コーナーにおいて感銘を覚えて仕方なかった筆者はこのような論理的飛躍込みの仮定を何度も反芻した。日常の風景に訪れた、奇跡的な瞬間美を信じない写真家をこそ信じて。
三
作り手の方が作品を突き放すという印象は国立近代美術館で開催されていた『大竹伸朗展』でも感じられたが、大竹伸朗という表現者の凄さは作りたいものなんてないという本音を本人の方が誰よりも心底知っているけれど、元々積んでいる排気量が半端じゃないエンジンを吹かしに吹かして会場中に響き渡らせられる騒音と、扱える大規模な情報量で編み上げた情報群としての作品をもって誰にも読み解けない謎を無機質に提示できる点にあると筆者は感じた。だからその表現を心底面白がれる人と、そうでない人が明白になる。
正直に言って後者に該当する者だった筆者は、だから自身が手掛けた作品を客観的に突き放そうとしてもし切れなかった潮田登久子の表現作品に好感を覚える。たとえそれが夫といった自分以外の者の助言にただ従っただけという受動的な選択だったとしても、そういう巡り合わせを含んだ流れの中に浮かべるだけの営みがかの写真家の作品にはあったのだ。それを見出せる自分自身になったという変化だって、素敵だと筆者は素直に思う。
そんな『永遠のレッスン』は今も続いているという。パンフレットの字面からも感じ取れると錯覚して止まない、潮田登久子という創作の喜び。終わりの見えないその過程に差し込む光を浴びて、身を正せた感謝の意をここに表したい。
追記 色々なものの瞬発力を鍛えたいと思い、これまで毎週水曜日又は木曜日に更新してきたのですが、新たな目標を掲げたのを機に次回からは隔週で更新したいと思います。ご了承頂けますと幸いです。
『潮田登久子写真展 永遠のレッスン』