エフ
私の手は、人よりも少しだけ小さい。
普通なら意識もしないような個性だけれど、ギターを弾く私にとってはそれが随分とコンプレックスで、大きなハンデでもあった。
公園のベンチに適当に座って、眠気覚ましに買った缶コーヒーを手のひらで転がす。青い缶のそれを好んで飲むようになったのは、彼がいなくなってからだった。
彼と一緒に過ごしたのは、長い人生から見れば一瞬にも等しい時間だったと思う。それでもこんなに焦がれているのに、少しだけ笑った。私の世界の一番大事なところには彼がいて、真ん中で笑っていて、他のことはその周りにある。そんな生活が好きだったし、それは今でもまだ変わらない。
彼を思い浮かべるとき、必ず一緒に思い浮かぶのが、缶コーヒーと赤いギターだった。根っからのコーヒー好きであった彼は、同時に優秀なギタリストでもあった。とはいっても、それは趣味の範疇を越えなかったのだけれど。
飲み干した空の缶をごみ箱に投げ捨てて、背中に背負った赤いギターをそっと隣に置く。ハードケースではない、頼りないふにゃふにゃの袋に入ったそれは、彼が私に残したものだった。
形見というのは、どうにも癪だけれど。
私の小さい手を笑った彼は、もういない。
じわりと、視界がにじんだ。
格好いい彼に憧れて始めたギターだけれど、今じゃそこにあの人の面影を探していた。手が小さくて四苦八苦する私をあの人が笑ったのも、いつだったかうろ覚え。忘れるのが怖い。私の世界は今だって彼を中心に回っているのに、この脳みそは無情にもどんどん記憶を消していってしまう。どうせならいっそ、あの人の隣で笑ったことも、ギターの弾き方も、私の世界ごと全部ぜんぶ、消してくれたらいいのに。
いつまでも過去に囚われたままの自分にうんざりする。それを彼はきっと望まないだろうし、私には大事にしなくちゃいけないものがたくさんあるのだ。このままじゃいけないことくらい、分かっていた。それでも仕草一つだって覚えていたかったのに。
現実を受け入れられないほど馬鹿な女じゃないけれど、いつまでも彼の夢から覚められないくらいには、女々しかったようである。それならばどうか一生覚めないでと、願うことは愚かだろうか。
彼を想うたびに胸に渦巻く苦い気持ちを、私はいつも一気に飲み干した黒いコーヒーのせいにする。
にじんだ涙を乱暴に拭って、いつかのあの人のようにギターを抱えた。
あの頃弾けなくて笑われたFのコードも、もうつっかかったりしない。
エフ