『佐伯祐三 自画像としての風景』展
一
外光に照らし出される景色を写実に写し取る為に網膜の仕組みに則った表現を行う印象派の絵画。そのキャンバスの上で用いられる筆触分割という特徴的な手法によって成される光の表現を思う存分鑑賞しようと思えば目の前の作品から一歩、二歩と下がっていって適切な距離を探り、印象派の代名詞となる色彩の発光がキャンバス外に存在する鑑賞者の脳内で像としての統合を果たすのに適した地点を見つけ、そこに立ち続けるのが妥当である。
こう記すと、印象派の絵画表現は鑑賞者を最終的なキャンバスに見立てて光に満ちる外界を描こうとしたものと記述でき、鑑賞者という情報処理システムに可能な範囲でのイメージの描き方という未到の地にスポットを当てて抽象画に至るまでの事後の歩みを導いたとも評価し得る。例えば後期印象派として紹介されるセザンヌの、静物や建造物あるいは山脈の光景を奇妙で絶妙なバランスに乗せて描くという実践的な歩みは人が外界を認識するにあたって正しく機能させる空間認識能力を踏まえ、更にそこから逸脱してこそ可能となり、その歩みがキャンバス内における絵画世界の広がり又は深まりへと繋がった。そこにおいては鑑賞者という存在に働きかけられる様々な情報が有意味を成す。その一例として記す厚塗りの技法は塗り重ねた絵の具を発色豊かに強調できる一方で、塗り重ねにより得られた絵の具の盛り上がりを「物」として画面上に残し、作品の重厚感や絵筆の勢い又はその移り変わりを思わせるリズムで質的に絵の印象を大きく変えられる。鑑賞する作品を情報として処理した時に内的イメージを予想以上に膨らますものとして、いわゆるマチエールという絵画の構成要素は重宝され、技法として探究された。その大きな意義の一端を現在、東京ステーションギャラリーで開催中の『佐伯祐三 自画像としての風景』展で目の当たりにできる。
二
その画業を知るために掲げる道標があるとすれば、その画風の変化の大きさをおいて他にはないと筆者は思う。
現在の東京藝術大学を卒業後、渡航先のパリでフォービズムの画家の一人であるモーリス・ド・ヴラマンクに自作の一枚を見せた佐伯祐三(敬称略)はアカデミックめ!と一蹴されたことにショックを受け、独自の絵画表現を求めて描き方を変えた。その劇的な変わりようは本展のプロローグである「自画像」のスペースで展示されている作品、「立てる自画像」とそれ以外の作品を見比べれば一目で分かる。様々な画風で描かれる「自画像」に対して「立てる自画像」は構図以上の定型の無さを面に向かって押し広げる赤に白、黒に緑といった大味な色使いで表現する。自由奔放、というには未だ馴染めずのぎこちなさを筆者はその画面からは錯覚したが、丸裸で全てを曝け出す様な投じ方がなければ自画像と評される佐伯祐三ならではの風景描写が生まれることはなかったと思うと、余りにも特別な一枚として感慨深くなる。
そこからの佐伯祐三の風景画の良さを知る為の呼び水として記せば、どんなに写実的に描かれようと風景画には描き手である画家の意識ないし視線が滲み出ると筆者は思う。描こうとする対象をとことん見つめて内面化し、そこからもう一度キャンバスという外部への表出を試みる。画家というフィルターを通して描かれるその「風景」には間違いなく感情といった人間ならではの不純物が入り混じる。けれど、それらの不純物を抜きに観る者の心を捉える美的真実はこの世界に表れない。描かれるべきその風景を個人的に見つめた画家がその時に感じたものを身に付けた技法に乗せて一般化し、抽象化していって絵画の中の真実としてしまう。かかる過程においてこそ誰もがそのままに在ることを幻視してしまう風景画という奇跡は生まれるのだから、画面の向こうにおいて、画家は永遠の命を持った存在として居続けなければならない。
その例外ではない佐伯祐三の風景画は、ここに画家としての熱視線が加わる。その熱量の大きさに対象の形状も主観的に歪められるのだが、画面上のどの歪みも表情豊かで、どの歪みから見始めても風景画としての終わりを迎えない、あるいは変わらない情報量の組み合わせが無限に等しい多様性を発揮してその実態を掴ませない。だから生きているとしか思えない佐伯祐三の風景画。自画像と喩えられるのも宜なるかなと実感する次第で、本展の2―2の展示コーナーで鑑賞できる「レ・ジュ・ド・ノエル」と「コルドリヌ(靴屋)」は表現ぶりが異なる同一タイトルの二枚が並んでいて、その特徴を対照的に知るのに最も適した一角であった。
そんな佐伯祐三の絵画作品を鑑賞していて筆者が堪らなくなるのがマチエールの絶妙な匙加減で、特に感銘を受けた「壁」の一枚では塗り重ねられたのではなく捲られたかのだと言わんばかりの部分的なマチエールが画家の熱視線から逃れて絵画的真実を生み出す。それがまた視覚的な快感となって、かぶりつく様な作品への接近を止めさせない。その上で国立近代美術館から貸し出されている「ガス灯と広告」の一枚を語るのに欠かせないあのグラフィックデザインの良さ、画面上のモチーフに匹敵する文字形状の面白さを活かした遊びの予感が重なってくるのだから内心、「うひょー!」とか「おっほー!」とかいう奇声を上げるのを我慢出来なかった。
三
しかしながら佐伯祐三という画家の風景画がハイライトを迎えるにはその晩年、描かれた作品が画家の視線に鉤爪から逃れて自律性を実現するに至った時である。
その発露は本展の3の展示スペースの一角を飾る「靴屋」からも窺えたが、代名詞というべきは「煉瓦焼」であると筆者は確信する。出入口となるドアが設られたファサード部分の質感に反比例して、どこまでも平面化する屋根に空。または煉瓦作りの階段の混み具合に反してあっさりと省かれる地面と草の寂しさ、あるいは点在する緑の芝の物語らなさ。各構成要素がちぐはぐなすれ違いを果たし、画面を構成する偏りとなっていって最後に覚えさせる好ましさ、類を見ない人称性とでもいうべきその印象。同じ感覚を本展のエピローグで鑑賞できた「郵便配達夫」あるいは「ロシアの少女」にも覚えたのだが、それら全てがエゴン・シーレと同様に三十歳という若さで夭折した画家の、実現されなかったこれからを予感させるのに十分なものであり、夢中になった。
画家が画面上に描かれるモチーフそのものになっているという感想は「醍醐」を代表作とする奥村土牛(敬称略)の絵画表現に対して初めて覚えたものであるが、同じ言葉を最晩年の佐伯祐三の絵画表現に対して向けることを筆者は躊躇しない。言葉が示す論理的な意味合いに非論理的な言語使用の負荷をかけ、そこに生まれる隙間の広がりと、隙間の向こうを覗ける窓の形状が詩的表現の個性と良さを決定するのに似て、大胆な筆致と絶妙なマチエール加減でアカデミックな絵画表現との間の可能性を行き来するかの画家の絵は正に「ならでは」のものとして記憶のツボを押し、忘れられない心情をじわっと広げていく。
同じマチエールを用いた絵画表現として、例えば東京オペラシティアートギャラリーにて開催された『ミケル・バルセロ展』で鑑賞した「海のスープ」では描かれた渦の真ん中に木製の丸棒が突き刺さっており、その三次元的表現の迫力に圧倒されはしたが、その一方でマチエールというには度が過ぎたその物性の表現によって「絵画とは何か?」という問題提起が額縁の外に生まれていた。この感覚が絵画鑑賞の醍醐味だと思って止まない、体験的な楽しみ方を論理的に奪い去っていると感じてしまい、理屈なき絵画表現がないことに同意はしても、理屈でしか観れない絵画表現が全てだとは決して思わないし、そうあって欲しいと思わない筆者にとっては振り切れない不満となってしまった。
だから展示されていたミケル・バルセロ(敬称略)の絵画作品のうち「海のスープ」にだけは辟易したのだが、その表現スタイルに正解がないのもまた事実だろうと正直に思う。線描や色彩によって全てを表現できる(と記述可能な)絵画の必要条件の内実を揺るがし、あるいはかかる必要条件に加わるべき十分条件となって絵画世界のあり様を押し広げる技法こそ、結局は試していくしかない。そして、何度でも失敗するしかない。
鑑賞者の理解を得られた時に表現は死ぬのだから。カオスに溺れられる表現者であれ、とカッコつけるぐらいが丁度いいと素人がここで宣うぐらいはきっと許される。
四
興奮度合いで言えば、直近の『エゴン・シーレ展』以上であった『佐伯祐三 自画像としての風景』展。興味がある方は是非、東京ステーションギャラリーに足を向けて欲しい。
『佐伯祐三 自画像としての風景』展