『現代のやきもの 思考するかたち』




 日常生活の用途に応じて模索され、これぞという形を得た器。その器の制作過程だけでなく、そのために用いる素材選びまで遡り、その一つ、一つを検分して器という表現の発展可能性を探り行く試みにおいて頼りにする思考と両の手を動かしては何度も飛躍し、その度に重なる失敗が逞しく育てる発想。出来ることと出来ないことが明瞭になっていき、意味のある工夫は生まれ、やがてかたちとなって現れるもの。それを手にする作り手がここぞとばかりに目を凝らし、制作者として味わってきた苦労を躊躇いもなく脱ぎ捨てては行う一鑑賞者としての見定め。どれだけ時間をかけても覆らない、目の前のものを非とする判断を下す地獄から、意図しない偶然と奇跡を誰よりも最初に垣間見れたという無類の喜びに身を浸し、表現者として名乗り上げられる地平までを踏破する。
 その良し悪しで作品を篩にかけるならこの段階をおいて他になく、したがって表現者と名乗ろうとする者であるならこの段階でこそ最も冷徹になるべきであり、またこの段階での判断がそのまま自分以外の誰かの目に晒され、評価の梯子を上へ下へと行き来するハメに陥る覚悟を決めなければならない。しかしながら一方で、表現者の勝負所というべきこの覚悟が打ち込まれた場所から振り返って見えるものの余地や語り得なさが想像を生むし、あるいは打ち込んだ地点としての新規性ないしユニークさが話題を呼んでマーケットを刺激し、一ジャンルとなる程の需要を生んだりするのだから、やり甲斐はきっとある。



 以上のように記してやっと口にできるもの、すなわち技術ないし理性こそが作品に表れる想像ないしイメージの質を決めるという手段偏重の言葉はある。と同時に何処からか聞こえてくる、表現されるべきものが作り手を導くという夢みたいな記述とそれを可能にした実相の確かな在処。
 例えば菊池寛実記念智美術館で開催中の『現代のやきもの 思考するかたち』で鑑賞できる前田正博(敬称略)の「色絵金銀彩鉢」や杉浦康益(敬称略)の「化石皿」は鉢や皿の形状を維持しつつも、その意味合いを大胆に侵食する。モチーフが描かれるべきキャンバスの物性に働きかける表現は絵画においても見られるが、花に見立てられた、と言葉にするのが憚られるぐらいに前者のそれには美を究める技術が鉢という物の表面で繰り広げられており、その機能性を無視するのに苦労はない。あるいは洗練さを極めるよりも困難に思える「化石皿」が経た時間を体現するもの、皿としては余計に過ぎるその幅の厚さや調整という意識を押し退ける全体の大いなる傾きは美的感覚のスケールの違いを視覚情報として鑑賞者に叩き込み、使用上の便宜をかけ離れた悠久の旅路を想起させる。かかる二作品を鑑賞していて思う、技術として可能になることと技術としてかたちにしたものとの二点から想像し得る表現世界の広大さと深さに対する希望は、その場で省みて実感する自身の手になるものの限界と絶望感に容易く転じる。それでもなお腹の底からふつふつと湧き上がるものに励まされるのもまたこういう瞬間で、日々こつこつと積み重ねることを愛おしく感じるのもまた然り。
 そこからまた足を進めて出くわす栗木達介(敬称略)の「歩行する輪態」が見せる丸みのあるフォルムの奇妙さに隠れて台の上で行われていた影の歩みと、その愉快さ。作品の内側で這う何かの運動を思わせる物理的なフォルムの一面から、作品自体が歩いていると見る側に解させる情報としての影の遊び方までが表現者に計算されて、愉しまれていた。ここにおいて忘れられていない感情と経験がきっと表現作品の制作過程にあったと筆者は信じる。文字通り、触れ合って作られる陶芸作品なら尚のこと真実味を増していくのだろうな、とも。その遊びをより巧みにしていたのが大塚茂吉(敬称略)の「耳飾りの女」で、タイトル通りの形象を追って知る切れのある目鼻立ちや真ん丸とした耳飾りの可愛らしさには素直に見惚れる。けれどその感情を覚えさせているものが陶器という物に表れるべき幾何学的な均衡とバランスであり、翻って陶芸作品全体に通じる美的要素の認識へと鑑賞者を導く。その上で目を回す紋様のリズムと陶器としての色味には天井知らずの再評価を行なってしまう。
 ならば、とばかりに目に飛び込んでくる荒木高子(敬称略)の「砂の聖書」と「石の聖書」の作品表現から読み取れる思想性は砂の中又は石の内側から姿を表したかの様な逆説ぶりが、シルクスクリーンで聖書の言葉を転写させた当時の画期的な表現方法と組み合わさって凄みを増す。ご自身も学んだというキリスト教に向けた内心の思いの、声にならない声の感触も目で味わい吟味する際に覚える疚しさは作品鑑賞に内在する無遠慮さと無関係ではない。ここから翻って、窃視に近しい鑑賞者の目を意識してでも成された作品表現を巡る事実がその覚悟の強さの証明にもなるだろうということ。上記二作品の近くに展示されていた新里明士(敬称略)の「光器」に施された蛍手の技法、すなわち透彫(すかしぼり)にした後でその小穴に透明釉を充填して焼成された後に現れる発光の内省ぶりが遠く呼応する様に見えて仕方なかった。最後の空間の神的変成を成し遂げていた川上力三の「座」、「求道の道」そして「虚塔」もまた高みと未来を等しく扱っていたのだから、前を向いて行くしかない。



 思いを表す表現であることは確か。けれど、それを予め知って行うとは限らないのが表現の醍醐味。
 暗中模索の決死行で頼りになる理性ないし思考が掘り起こしたり又は覚えさせてくれるものの千変万化を楽しめる時に手を当てて、胸に覚えるものを識る。
 目の前にあるものに向けて投げかけるこの言葉の返り方を見て学び、また想像する。この繰り返し。それでいいのだと改める。
 そう考えて、また始めるのだ。

『現代のやきもの 思考するかたち』

『現代のやきもの 思考するかたち』

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-04

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