DOMANI・明日展
一
誰にも真似できないという意味で日常的に用いられるオリジナリティという称賛は、けれどその作品表現の「良さ」を誰かが理解できるという基本線を決して踏み外さない。
つまりは誰にも理解できないと言ってしまえば容易く聳え立たせることができる固有性という意味のオリジナリティでなく、誰かが、いつ思い付いても不思議ではなかったものを形にしてみせた。これまで通りの感覚に亀裂を入れ、それを破壊してみせたことが日常語としてのオリジナリティという意味を成しており、理解可能なものとしていつしか人々の日常に溶け込み、忘れ去られることがまで予定されている。消費される運命とも喩えることが難しくないこの末路。これを忌避する表現者はだから奇抜を極めて理解を排し、オリジナリティの魔の手を逃れようと試みたり又は後世の評価にも耐え得るロジックを求めて、政治的テーマなどの選択や評価軸の理論構築を実践する。
作品表現のオリジナリティについて上記のように考えてみると、前者においては作品表現に対する新規性が尊ばれる風潮と無関係にその当否を考えることが難しいと実感できるし、また後者においてはその作品表現が学問的知見に近しいものと位置付けられ、日常的に語られてこそその真価が発揮されると理解できる。
二
経済的収入を得るという現実の他にも、鑑賞者の目を意識した方が表現内容に磨きがかかるという制作過程における経験則的事実を踏まえるとオリジナリティを念頭に置いた作品表現であっていい。そう筆者は考える。
しかしながら一方で、筆者は以下のようにも思う。すなわち社会的又は政治的テーマに対する批判を行う表現作品が学問的知見の隣に腰掛ける時にどうしても感じてしまう中途半端さ、主義主張を伝えるという点では言語的表現の方が手段として優れているのに何故そうしなかったのかという疑念の棘に苛まれて覚えてしまう不満を筆者は隠せない。この点を強く意識すると奇抜さを剥き出しにするエキセントリックな表現に十分な魅力を感じる。しかし、かかる表現は評価された時に生まれる理解をこそ嫌う表現でなければならない。ゆえに、エキセントリックを信条とする表現は鑑賞者を永遠に拒む。表現手法に内在するかのようなこの絶対的な隔たりが作品表現に及ぼす影響を致命的と評しても、誤りでないと素直に感じる。感じてしまう。
三
上記したことをオリジナリティに対する大きな問題として捉えれば、批評などで言及される作品表現の偶然性は以下の点で重要となる。すなわち作品表現の偶然性は鑑賞する側の理解を常に打ち消す不確定要素となる一方で、別の理解の余地があることを示唆し、フラットに引き戻した感性で鑑賞者が表現作品に再度挑んでいく。それを幾度も繰り返させることでオリジナリティに惑わされない作品表現の面白さを体験させ、また画面上に現れてはいるが決して掴めないリアリティをもって表現作品としての価値を根拠づけることを可能にする。抽象絵画などは、その最たる例としてすぐに思い浮かぶものの一つである。
もっとも何もしないという表現ですら何もしていないという意思主体=身体を必要とするという事実を前にすると、作品表現の偶然性とは何かが途端に分からなくなる。
なぜなら物理法則に従って存在する「もの」が引き起こす事態は一応客観的に説明できるのだから、例えばゲルハルト・リヒターがアブストラクト・ペインティングで用いるスキージという自作の道具によって画家が意図しない引っ掻き傷の様な痕跡が画面に残り、これをもって画家自身が作品に取り込まれた偶然性だと述べたとしても、かかる痕跡にはその原因となった身体運動があったのだと記述することは可能である。ゆえに画面上に現れたものはあくまで必然。それを「偶然」と評するのは作者の自由である、と理解されては元も子もない。
では、と今度はあくまで作品側に現れた痕跡の効果に焦点をあて、かかる痕跡が不確定情報として作品を構成しかつ鑑賞者の理解を惑わすという点を作品表現の偶然性と評してはどうだろうか。と考えて思い返すのは、ここでも例に挙げる抽象絵画において行われた数々の試みが画布や絵具又は額縁といった構成要素の限界点を迎えてパターン化された事実であり、かかる事実を考慮すると作品から読み取り難い情報は作者が用いる道具性を際立たせて、作者自身がそうなるように仕向けた結果であると理解することができてしまい、作品表現の「偶然」性はまたもや理解がひしめく人々の日常生活の延長線上に置かれてしまう。それでも、と意地を張ってその存在を強弁したところでかかる主張は「いわゆる美術」というブラックボックスの中に放り込まれ、日の目を見ることが二度とない。素人な筆者はそう思ってしまう。
四
全てを知れない作者個人から見ればその意思に関わりなく訪れた「偶然」の要素が、誰かと共有可能な世界を下敷きにして語った途端に因果の巡りに基づく「必然」の出来事として片づけられてしまう。かかる事態を真正面から認め、そこから始めるべき作品表現の偶然性なのだとすれば、その存在を私たち「人」に関わる出来事として、その世界の知り方まで駆け上がってみても損はない。
なぜなら感覚器官としての身体なくして「世界」の何も語れはしない人なのだから、私たちは、かかる身体という偏見を持ってしか「世界」に触れられない。このことを踏まえてどこまでも実証的に行われるのが物理学による、可能な限りを心掛けた「外」側の正確かつ詳細な記述だといえるし、またかかる身体をもって可能となる人の認識ないし判断の仕組みに理性的なメスを入れたイマヌエル・カントなどの哲学的知見であるといえるだろう。それは正に「人」一般が抱える矛盾とリアリティであり、それに挑もうとする知性であった。そのせめぎ合いの狭間に垣間見えるものを、しかし表現できる術。そこにこそ捻じ込める作品表現の意義、とはいえないだろうか。
五
客観的なものとして鑑賞できる作品のどこにも認められない偶然を、鑑賞者が気付いたり又は感じ取ったりする。その一点に向けて行われる表現手法の必然があり、そこに施されたアイデアの斬新さやユニークさに感銘を受けて夢中になった体験から鑑賞者の言葉が生まれては、その勢いのままに知っていたはずの「世界」のあちこちがガタつき始める。外を意識した認識の網の目をすり抜ける光に心から納得して、目の前にあるものが何なのかを知ろうとするために「私」たちはその目を正しく細められる。
例えば、キャンバスの上に張った水を通して絵具を画布に染み込ませる丸山直文(敬称略)の水彩画の表現は何十枚にも及ぶドローイングに支えられている。いたく感動を覚えたのは、その目的がコントロールの意識を放棄して「他者」性を受け入れることを実践することにあったということ。国立新美術館で開催されている『DOMANI・明日展』では2011年頃のドローイングの数々が壁一面に並んでいて、その様がとても象徴的だったのだがそれらを踏まえて振り返る「水を蹴る(それゆえにこそ)」や「path 4」という風景の漂い方は夢でも現(うつつ)でもなく、「私」のものとして抱き止められる柔らかさと美しさに満ちていた。意味のナイフで細分化される以前の懐かしさを筆者が覚えたのは当然の如く偶然であり、またロマンチシズム溢れる錯覚といえるだろう。でも、それでいい。それだけでいい。そう思える限り、「私」はこの命が尽きるまで必ず生きると誓えたのだから。
あるいは、大崎のぶゆき(敬称略)の「untitled album photo」がチャレンジする流動的な映像表現が鑑賞者から借り受け、大切に扱う時間経過の只中にあって懐に収めた手で想像的に確かめたくなる記憶の形は私個人のサインを拒み、「私」たちが両手を広げて蓄えるイメージ群に吸い込まれていく。多分、私たちは誰にでもなれるし又は誰かとして生きることに拘り続けるのだろう。今も消え行く映像の姿を認識し又は固定されたカメラの画角を通り過ぎて行く見知らぬ人たちの日常を認識して、想像する、そういう情報処理を行うごとに感じる実感が率先して名を名乗る。誰かを知らなければ私も知れないから、偶然と矛盾はここでも接する。変なの、と笑える気持ちを発生させるために知らずに働いたであろう意識的な防衛反応に背を向けて、私は今一度その道を遡れるか。自信はないし、気持ちは怖気付く。でも興味が尽きない。だから「世界」に在りたい。ここにこそ、嘘はないのだ。
六
知れない表現などではない。だから、知りたいことばかりである。リアリティの端っこに手を掛ける両氏の作品表現にはこうして最後に、オリジナリティに溢れるという称賛を向けられる。
あるいは正解がないことが面白い芸術活動を遠ざけるのもまた、正解がないことである。仮にそう言えたとしても守るべき一線を見極められる理性と感覚を、鑑賞する側が育めたら何よりの僥倖であると素直に思うし、またその機会を欲していたりもする。この点で『DOMANI・明日展』は有難い機会となった。
敬称を略して記すことを許して貰えれば伊原誠や北川太郎、谷中佑輔といった素晴らしい彫刻表現を手掛ける作家を知れたこともまた、本展での嬉しい出来事の一つである。拒絶の一歩手前の際どい所で成り立つ奇妙な形態の作品群に、個別の石に語らせるスタイルを徹底すれば十分だからそれを活かすために設られたシンプルな展示構成、または解体された残酷さを緩やかな繋がりをもって床に並べ、鎮魂の高き嘆きを表すという空間変成の異なりもまた鑑賞者の「世界」を大きく問う。さらには四角四面の世界で会場を仕切り、たった一つの規則性から導かれた偶然性を色とりどりに繰り広げていた小金沢健人(敬称略)の、理屈で片付けるのが勿体ない遊びの要素とあの大胆さには、ここまで記してきた筆者の考えを覆してもいいと素直に思えたのだった。だからやっぱり、正解などない。
無限と名乗れる可能性。それをこそ作っていくのだ。
DOMANI・明日展