『デコボコの舟/すくう、すくう、すくう』
一
自然物として保たれる岩石の造形に施される加工は元の美しさを活かすという配慮を超えた介入であり、しかしながらその造形を人工物といえる程に変えようとは決してしない。
また抽象的と評されるその表現ぶりは鑑賞者の解釈行為に依ったオープンなものに収まるものではなく、翻訳不可能な規則めいたものの存在と、それを忠実に追い求めた表現者の意思と感性で削り取った結果としての「意味」に満ちている。ゆえに無題を冠する表現物のいずれもが言語=分節機能を免れた意味の塊となって現前し、自然界に属せず、また社会的にも語り得ないものとして鑑賞者を振り回す。目から伝わるそのざらつきや滑らかさの想像的な触感だけを頼りに鎮座する作品たちをぐるぐる巡る鑑賞者が次第に紐解く玉手箱からは常識的な感覚が逃げていき、時空間が大いに捻じ曲げられ、人がなし得る認識の枠組みは嬉々として広がっていく。
だからこその異形、偉業、遺業。
瞬きをする毎に深く刻まれる感動の色と純度を増す畏敬の念には筆者が一生をかけてでも追い続けたいと思う、イサム・ノグチの彫刻による抽象表現に向けた憧れが混じる。ここに、横浜美術館で開催されていた澄川喜一の『そりとむくり』の彫刻表現における大小様々な材木が奏でるコンポジションとしての雄弁な語りとその理解に向けた沈黙の噛み合わせが生み出す、溺れるような創造空間に足を踏み入れる幸せを掛け合わせると筆者の内心にしかと根を張る彫刻表現ないし作品に対する信頼の証がその姿を現す。
しかしながら一方で、筆者はこうも思う。物を使った作品という点では彫刻も絵画その他の表現と変わりはない。ただ異なるのは、彫刻作品が他の表現作品と比べてよりイメージを物として具体化している点であり、それ故に非表現物と一緒くたになって鑑賞者がただの情報として処理しやすい面があるのでないか、と。
例えばモデルありきの彫刻表現に対して行われる、本物のように再現できているといった二次創作としての評価。または幾何学的な謎と美しさを追求した表現により周囲の景色との不一致を際立たせた結果珍妙奇天烈と言い換えられる、いわゆる「美術」として名付けられた、以後そう簡単には思い出してもらえない記憶と感想に収まってしまう悲しさ。自身の経験を省みても、似たような誤解と偏見の落とし穴に嵌まり込んで第一印象を拭えずにいる彫刻表現が少なくないと自覚する。
歩く情報処理システムとしての人が知る世界を様変わりさせるのが表現行為の真骨頂なのだとすれば、ある「場所」に「もの」として置かれることで周囲との関係性という大きな問いないし文脈を生み出し、人間の現実を左右する意味認識への揺さぶりを巧みに仕掛けられる彫刻作品は表現としてのリアリティを最も追求できるものと評価できる。問題は、ありありと訴えてくる表現「物」としての情報の流れに飲まれることなく、鑑賞者がそのエッセンスを体感するのは難しいということ。この点で、ART FRONT GALLERYで開催中の中谷ミチコ(敬称略)の個展である『デコボコの舟/すくう、すくう、すくう』では表現として用いる逆説的なアプローチが彫刻表現の核心へと真っ直ぐに導くと鑑賞者の一人として実感できたから、本展こそ彫刻表現のエッセンスを体感するのに最適な機会だといえるかもしれない。
二
中谷ミチコの彫刻表現は削り取って残るものではなく、削り取って失われた部分を追求することに重きを置く。
例えば木片の表面を削り取っていくことで生まれる窪みの中に絵は描かれ、削り取って失われた部分に自然と補填される想像ないしイメージが意識の領域にまで引き上げられる。窪みの内側で繰り広げられる表現であるためにそこに差し込む外光と、それに反発して生まれる陰影又は動けぬ死の予感がある。けれど脆い繊維質の感触が消極的な方向に振り切ったメモリを徐々に引き戻していき、次第に辿り着く中間地点、分かりやすい正邪の区別を乗り越えた優しさの表れに気付く。口にできる神秘的なニュアンスに微笑むことができる鑑賞者は、だから安堵して、その場を去ることができる。
あるいは水を掬い取る際の手の仕草を撮影した写真イメージを参照し、そこから読み取れる爪の形、皺の走り方、肉感などを表現者は塑像する、立体的にではなく、水を容れられる器のように内へ内へと具体化していく。ゆえにその凹みには必然的に手の甲の部分が表されることになるが、そこに透明な樹脂は流し込まれ、被写体となった石川県珠洲の人たちの両の手の様子が窺えやすい仕上がりとなっていた。結構な量に思える樹脂の厚みをその場で目にし又はコロナ禍で現地取材が阻まれた経緯などを事後的に知るとそれら作品群が心情的に遠くなった景色のように思えてきて、いつしか騒めく感情の足取りを見失なってしまわないか不安に駆られる。
これらの作品のうち、特に後者の「すくう、すくう、すくう」の表現ぶりに確かな意味合いを加えるのが、奥能登芸術祭で展示したときに漆喰で固めた現地の床の代わりとして設られた各作品の底面と接する柔らかな窪みを特徴とする土台であり、石膏の重みを受け入れる意思の表れである。これがあるのとないのとでは作品表現の印象が大きく異なると容易に想像できる、外界に働きかけたその見事な工夫は展示会場そのものを変成する確かな契機となっており、別会場で展示される「デコボコの舟」においても十分に活きていた。
「すくう、すくう、すくう」の時とは異なり、ぱっと見てクジラを思わせる形の「デコボコの舟」を乗せる土台は盛り上がりを見せている。左官職人の手を借りて作り上げた土台の造形は丸くて柔らかく、肯定的なメッセージを覚えるから安心して舟の周りを巡ると、しかし背反する表現ばかりに出くわしまうから大いに戸惑ってしまう。
縦横に枝を伸ばした一本の木には葉が一枚もない。だから悠々自適にさっきまではそこに止まっていられたのであろう無数の鳥が一斉に羽ばたいている様子が「デコボコの舟」の一側面に向かって描かれている、勿論、舟の表面を削って発生させた色んな窪みの内側に。
それに怯える数十人の姿が「デコボコの舟」の反対側に描かれ又は無邪気に喜んでいるごく少数の人物の様子が窪みの中で生きている。何度見返しても変わりはしない、羽ばたく鳥たちが謳歌する自由とその自由を恐れる人々の描写との間のミスマッチが強い印象。この舟は何処かに向かって進めるのか、はたまた既に乗り上げてしまった後なのか。当然のものとして説明されることがない不穏さを、しかしながら会場全体の雰囲気として保たれる柔らかさが包み込んで和らげていく。見ればそこにある、あの土台。
オープンな一室の中で阻まれる理性的なアプローチと活性化の一途を辿る受身の感性は、鑑賞するもののうちなる相克と化す。だから自覚できる、作品表現の命運を分ける想像力は、作品を構成する要素の全てと悪戦苦闘した果てに朧げながらも浮かび上がってくる一つの形を作り上げた上で、さらにその向こう側に投影されるものであるということ。敬愛するイサム・ノグチや澄川喜一の作品表現にも共通すると直観するこの一事実が、中谷ミチコの彫刻表現を鑑賞してありありと見えてくる。だから鑑賞者はただそこにあって、今まで住んでいた「世界」を思う存分変えられる。関係性の果ての果て。体験する、彫刻表現のエッセンス。
三
詩、という言葉に対して上手く言葉を注げない筆者はその代わりとして詩的表現という言い回しを好む。言語又は非言語を問わない表現一般に繋がれるその言葉のニュアンスに読み手という心身の狭間で生きる個人との出会いを夢見れるのが大きな理由である。
だからかかる詩的表現の扉を大きく強く、そして豊かに叩いてくれる存在を教えてくれた彫刻には感謝をする他ない。旅はまだまだ終わらないのだ。
『デコボコの舟/すくう、すくう、すくう』