鏡
素晴らしい提案
ありえないほど暑い夏の日、ベランダから下を覗いたら、血だまりに浸かった姉がいた。
よく考えたら、私がそうしたんだって思い出した。
どうしたもんかなぁーってそのときは思ってた。
数年前に話しは戻るんだけど、物心ついたときから、私は姉が嫌いだった。なぜかって、単純に嫉妬だったのかな。いつも私より一歩先を行く人だった。同じ顔なのに、お姉ちゃんと私の区別は、できる方か、できない方だった。
そんな姉にも“悩み”と言うのがあったらしく、詳しく聞いてみたら「他人から尊敬の眼差しで見られるのが嫌だ」とか言うんだ。うざったいたらありゃしない。
それでも、それが悩みになるほどの説得力が、姉にはあった。
確かに姉は周囲から期待されていた。何をするにしても注目される人だった。
容姿端麗が姉なら、私もそのはずなのに、私は目立たない方として、かなり目立っていた。何をするにしても姉と比較されて、悪い意味で期待通りの結果を私はだした。どう足掻こうが、姉にはかなわなかった。
そんな日々を送るある日、私は姉から部屋に呼び出された。
「何?」
椅子に座って足を組んでいる姉が、私の方に向き直って、言う。
「あのね、私と少しの間、入れ替わってくれない?」
何を言いはじめるんだこの人は。そんなの無理に決まってる。
「無理だよ。私とお姉ちゃんの差は、お姉ちゃんが一番よくわかってるでしょ?」
「分かってるわよ」そこまで言って、ニヤリと笑った。「だからお願いしているの」
「は?意味わかんないんだけど」
「そのままの意味よ。あながち、私たちには差なんてない。貴方が本気になれば、私の真似をすることなんて簡単だと思うんだけど」
違う?と、姉は首を傾げた。
確かに考えたことはある。私はいつも全力を出しているわけではなかった。どうせお姉ちゃんのかませ犬ですよ。私は。みたいな感じで生きてきたからだ。
「でも…変わるって言ってもどうすればいいの?」
「簡単よ。明日から私の服を着て、私の性格を真似て、私になりきるの。真由子は、明日から真由美になるの」
「なんで?」
そこでまた笑った。
「確かめたいから」
「何を?」
「真由子と私の、差を」
「何それ」
正直イラっとした。
「さっきも言ったけど、私と真由子には、差がないと私は思っているの。でも本当は、ちゃんと差があって、同じ顔だけど、中身も体も全然違う人なんだっていう証明が欲しい。それだけよ」
私の中で、何かが沸々と煮え滾る。でも今はそれを抑えて、笑顔を作った。
「そっか。分かった。じゃあ、明日から私は真由美。お姉ちゃんは、私、ね?」
「そう。ありがとう。真由子」
お姉ちゃんはそう言って、じゃあまたねと、机の方に向き直った。それを見届ける間もなく、私はお姉ちゃんの部屋のドアを閉めた。
私と姉が入れ替わる一カ月が始まった。
入れ替わり1日目。
私は今日から真由美になった。
お姉ちゃんの服を着て、朝食をすませ、母に言ってきますと真由美の真似をしていった。それに母は、いつものようにいってらっしゃいと返した。
どうやら母も気づいていないらしい。16年間も育てておいて、娘の顔も覚えていないのか。そうは思ったが仕方がない。母でさえ私の敵なのだ。
学校に着いて教室に入ると、普段の私にはありえないことばかりが起きた。クラスメイトから挨拶をされる。笑顔を向けられる。同性から体に触れられる。いつも隅っこの席から眺めていた真由美の特権を体感した。感動とともに、こいつらも気付かないのかと思った。私のことは馬鹿にしかしないくせに。今その馬鹿が目の前にいるとは知らず。
そんなことを考えながらも、私は真由美を演じた。幸い午後の授業まで、誰にもばれることはなかった。
昼食。いつもなら一人で食べている。がしかし今日は数人の友達と席を囲んで語りながら食べた。一人で食べるご飯とは比べ物にならないほど美味しかった。
昼休み。なんと今日の私には一人になる時間は与えられなかった。四六時中、人と話したり、絡んだりしなくてはいけない。それが少しめんどくさくなって、お腹の調子悪いからと、トイレに来てしまった。個室に入ってはぁ…と、ため息をつく。
「調子悪そうだね」
隣の個室から声がした。お姉ちゃんだ。
「悪いよ。慣れないもん」
正直に答えた。自然と笑ってしまったのはなぜなんだろうか。
「でもちゃんと演じきれてるじゃん。だーれも気付いてないし」
「ただ顔が同じだからでしょ」
「…そうだね」ややあって、姉は答えた。「そろそろ戻ったら?真由美はそんなに長い間トイレにこもってた事はないよ?」
「そうね。そろそろ戻らなくちゃ」
ふふっと、おもわず笑ってしまった。
「じゃあ、楽しんできてね」
個室から出た私に、姉の声は届かなかった。
5.6時間目も無事に終わって、放課後。
部活動でテニスをしなくてはならない。さすがに運動の質までは演じきれない。その旨を真由美に伝えたが、真由美は意地悪そうに笑って言った。
「ダメだよ。今日から私は真由子だもん。ちゃんと演じてきて?」
はい、とロッカーの鍵を渡して、真由美はそそくさとその場を後にした。
ロッカーを開けて、ラケットとボールを出してテニス場に向かった。ここでバレるのではないか。その不安が私を支配した。
体操、ランニングを終えて、いよいよ練習となった時、私は教室の窓から眺めていた風景を思い出した。テニス場には、一際輝く選手が一人いた。もちろん真由美だ。どんな球にでも追いついて、返してしまう。チャンスボールは絶対に決める。そんな真由美の姿を、私は教室から見ていた。
…できる。全力で再現すればできる。余すことなく見ていた姉の姿を追いかけながら、私は夢中で取り組んだ。
「ありがとうございました」
いつの間にか部活は終わっていた。
「真由美ちゃん!今日もすごくよかったね!」
「何であのクロスに追いつけるのかな…。私には出来ないよ」
「あの曲がるサーブの打ち方教えてー!」
コートにお礼をした瞬間、いろんな声が私を囲んだ。それに私は、一つ一つ丁寧に答えた。
家に帰ると、私の部屋で寝ている真由美がいた。
「ま…お姉ちゃん。ただいま」
思わず真由子と言ってしまいそうになり、自分でも驚いた。
「んー…おかえり。どうだった?」
「上手くやれた。今日の私は真由美だった」
「そう」
姉は一言そう言うと、また眠った。
どこか悲しげな姉を見て、私はうずうずした。このままずっと真由美でいたい。そんなことも考えていた。
2日目。3日目。5日目。10日目。
かなりの時間が経ったけど、私と真由美の入れ替わりがばれることはなかった。
15日目の夜。真由美が私の部屋に来た。
「どう?真由子。真由美の気分は」
ここ最近調子が悪いのか、声を低くして、真由美が言った。
「逆に聞きたいなぁ。真由子の気分ってどうなの?」
そこで真由美の顔が少し変わった。
「そんなの、真由子が一番よく知ってるでしょ?」
「わかんなーい。今は私が真由美だから」
ケラケラと笑いながら答えた。
「…結局、やっぱり私たちには差なんてなかったのね」
「そうみたいね」
「なんか残念だな…私は真由子より優れているってずっと思ってたのに」
「それは残念だったわね。おかげで私も、もう一人の自分を知ることができたわ。ありがとう。お姉ちゃん」
「…うん」
イラついているのが見てとれる。
「今日で半分だけどさ、もう今日でやめにしない?入れ替わるの」
そんな提案をしていた。もしも私が、15日前の私なら、吃った末に、姉に押し切られていたであろう。でも今の私はそうはいかない。
「えー。それはダメだよ。真由美が言い始めた事でしょ?ちゃんと残りの15日間もやろうよ」
私がそう言うと、真由美は少し俯いて、弱くなった。そこに畳み掛ける。
「もう少しぐらい味わってもいいじゃん。また元に戻るんだから…。どうせ」
悲しそうな演技をした。その演技に真由美は気付かず、まんまと乗せられた。
「…分かったわよ。ちゃんと残りも演じきりなさいよ」
「…うん!」少し元気にうなづいてみせた。
残りの日数も、私は言われた通りに真由美を演じた。いや、正確には演じてはなかった。もう演じるまでもなく、私は真由美だった。
30日目の最後の夜。
私は椅子に座って天井を眺めながらずっとニヤニヤ笑っていた。
31日目。入れ替わり終了の日。
私はまた真由子に戻った。
制服に着替えて、朝食をすませ、母に行っててきますと言って、家を出た。母は行ってらっしゃいと返してくれた。
学校に着いた。
これまでと同じように、私はクラスメイトから挨拶をもらい、挨拶を返した。
賑やかな朝を過ごしていると、勢いよく教室に入ってきた真由美が、私の方を睨んだ。
「真由子…!あんたどういうつもり?なんでいつも通り私の服を来て登校しているの?昨日で入れ替わりは終わったでしょ?!ねえ!なんで!」
近づき様に胸ぐらを掴んで、私の体を揺さぶりながら言った。しかしその言葉に耳を貸すものはおらず、みんなクスクスと笑っていた。
「…なにがおかしいのよ!」
真由美の叫び声が教室に響く。
「おいおいやめろよ真由子。全部真由美から聞いたぜ?」
私の斜め前に座っている男子が真由美に向かって言った。
「そうだよ。全部昨日のうちに聞いてたんだよ?ドッキリ失敗だね?」
「可哀想な真由子ちゃ〜ん。いつもみたいに隅っこに座ってればいいのに〜」
はっはっはっと、教室の笑い声が大きくなる。
「どういう事なの…?説明して?」
真由美の目は大きく見開かれ、呼吸が少し乱れ始めていた。背中がゾクゾクと疼く。私はニヤける顔を必死に堪えながら、落ち着き払って言った。
「昨日さ…真由子が言ったじゃん?」ためを作る「真由美と1ヶ月入れ替わりたいって」
舌をぺろっと出して言った。
「…はぁ?なにいってんのあんた…それは私が1ヶ月前に言ったことでしょ?今日はもうその1ヶ月目!終わったんだよ?!今日からまた私が真由美なの!」
教室の笑い声は、より一層大きさを増した。
「なに笑ってんだよ!冗談じゃないよ!」
真由美が、私を突き飛ばす。その衝撃で、2.3個の机を巻き込んで、私は後ろに倒れた。
「おい!何してんだよ」
クラスメイトの一人が、真由美を突き飛ばす。私と同じように、真由美も倒れた。それをみんなが囲む。
「真由子…迫真の演技だったけど、あんまり調子に乗ってると、痛い目みるぜ?」
その声が終わるか終わらないかぐらいで、真由美の体に誰かが蹴りを入れた。それが合図みたいに、みんなが蹴り始めて、10秒もしないうちに、真由美はボロボロになっていた。
その日の夜。
部活動が終わって家に帰ると、顔の腫れ上がった真由子が、リビングに立っていた。
「どういうことなの…ねぇ…ねぇ…。教えてよ。なんで私がこんな目にあってるの…?ねぇ…」
喉をやられたのか、かすれたか細い声で真由子が言った。
「ごめんね。お姉ちゃん。私ね、もう真由子じゃないの。真由子にはもう、戻れないの」
「ふざけないでよ…ねぇ…もうやめよう…」
私の肩に手をかけて言った。その手を私が払うと、真由美はクタッと床に倒れた。
「ううん。やめないよ。これからはもう、お姉ちゃんが真由子で、私が真由美なの」
「やだ!そんなの嫌だ!辛い辛い辛い辛い辛い…」
叫んだ後お経のようにブツブツと唱えるように言って、真由美は私の腰に手を回して、必死にしがみついた。その姿にはかつての真由美は感じられなかった。
「あのね、お姉ちゃん。私は気づいてしまったの」
興奮気味なのを抑えながら言う。
「私はね、ずっと真由美の背中を追って生きてきたの。幼稚園も小学校も中学校も今も。ずっと真由美になりたかった。私もあなたぐらいのポテンシャルを持ってて、顔も同じだし、性格だって似せることができる。でも、真由美と真由子、できる方できない方で決まったこのサイクルからは決して抜け出せないと思っていた。でもそんなある日。女神様が私にこう言ったの。『私と少しの間入れ替わってくれない?』ってね。そしていざ入れ替わってみたら、何の違和感もない。真由美と真由子はできるできないじゃなくって、名前で区切られていたことが分かった。…お姉ちゃんの思惑は外れた。私とあなたに差なんてこれっぽっちもなかった」
言葉の途中あたりから、真由美は大声で泣き出していた。構わず話し続ける。
「そして私は、【真由美】という世界を手に入れた。入れ替わったあの日から、こうなる事をずっと夢見てきた」
グイッと髪の毛掴んで、顔を上げさせる。真由美の顔は、痣と涙で醜く汚れていた。
「あなたには分からなかったでしょう…?私の苦労なんて。あなたは最初から真由美だった…!でも私は違う!真由子という視点も持っていた!だから痛いほどわかった…!真由美は真由子なんて微塵も意識していないって!」
はぁ、はぁ、と息を切らしながら言った。放心している真由美を掴んだ髪ごと投げ飛ばす。真由美は近くにあったタンスにぶつかって、小さく悲鳴をあげた。
「これからはずっと…私が真由美。お姉ちゃんが真由子。これは、お姉ちゃんが蒔いた種だから」
そう言って、部屋に入った。
その日が、真由美との最後の会話なった。
朝起きると真由美の姿は無く、普段はあまり空いていていないベランダが少し空いていて、そこから入ってくる風が、カーテンを揺らしていた。
まさかと思いながら窓の方に行く途中、テーブルの上に、2つに折りたたんだメモが置かれていた。
『真由子だった真由美へ』
そう書かれていた。中を開くと、綺麗な字でメッセージが書かれていた。
『私は今日で、真由美としての人生を終えようと思います。これは、真由子だけが読んでください。他の誰にも見せないでください』
まだここまでしか読んでいないのに、左頬を涙が伝い始めた。なぜこんなものが出てくるのだろうか。
『昨日真由子は視点の話をしてくれたね。私はあなたを見ていなかったって。でもね、それは間違いだよ。私はちゃんと真由子を見ていた。いつも私を見ていることも知ってたし、私の事を嫌いなのも知ってたよ。そんな真由子が、私は大好きだった。だからね、言ったの。入れ替わってみないか?って。でも…それがまさかこんな事になるなんてね。少し後悔はあるけど、15日目のあの時から、真由子はこうしようと思ってるんだろうと思ってたから、あんまりショックではないよ。ごめんね。真由子。これからは真由美として、楽しい人生を送ってください』
“真由美だった真由子より”
P.S 私の部屋にある遺書をあなたの部屋に置いといて。真由子が最後まで真由美でいるように、私も、最後まで真由子でいるから。さよなら。
私は両目から流れる涙を拭うこと無く、その手紙をグシャッと握りつぶした。
ありえないほど暑い夏の日。ベランダから下を覗いたら、血だまりに浸かった真由美だった真由子がいた。
よく考えたら、私がこうさせたんだって思ったけど、全部曖昧にしようと思う。
どうしたもんかなぁーと、思いつつも、私の目から涙がとまることはなかった。
鏡