『ヴァロットンー黒と白』展
一
遠近法を排した画面の上で輪郭線を強調した平面を生み出し、その各所で原色を大胆に用いて写実でない表現を行う。その内実は画家が認識した外界と内的イメージの双方を把持したものであり、見る者をattract(引きつける)する絵画固有の世界である。正確性に依らないその魅力は何も描いていない空白を活用した画面の広がりや、幾何学的なモチーフの配置を意識した構図の元で凝らされる装飾性などの視覚的効果によって伝えられる。正解という判断基準を無効化するために、絵画表現の幅広さを確保するために行われた印象派以降の絵画表現。
その先に見据える民主化はアカデミックな絵画表現に対する異議申し立てになると同時に、表現する側と見る側のどちらの身柄も果ての見えない荒野の只中に置く。向かうべき地平を示唆する立て看板など一つもない「自由」な時間が過ぎ去ろうとする世界において画家はそこに見えないものでも好きに描こうと筆を動かし、完成した絵を一目見ようと集まる鑑賞者は多様性と銘打たれたベンチに腰掛け、様々に口を動かし、丁々発止の議論を交わして縦横に走る文脈の痕跡を其処彼処に残す。その営為がどんどんと広がっていって絵画表現の混乱と秩序が深まっていくが、目に見えない活動域の様なものが行動の幅を狭める点を否定できない。
フロンティアスピリッツと呼ばれたあの地平線に沈む現代的な絵画の影姿。暗がりのうちに識別できなくなるものたちの楽しそうな声。
二
乱暴に要約すれば、思うままに描けというポール=ゴーギャン(フランス語の発音に近づけて「ゴーガン」とも表記される)の教えに感銘を覚えた画家、ポール・セリュジエが仲間にそれを伝えてグループの形成及びその活動を開始することになったナビ派が冊子のイラストなども手掛ける幅広い活動を行なったのも、日々の生活を送るための収入源とする意味も勿論あったのだろうが、描く表現を行える媒体を選ばない反骨と開拓が入り混じった精神性の発露として旺盛な創作を心掛けた。俗っぽさを厭うことなど微塵もなく、その真っ只中に身を置いた。そう理解することができるだろうし、また一方で表現の敷居を下げると揶揄できそうな表現の試みにおいて、けれど従来の評価基準を刷新し得るだけのクオリティを確立し、その良さのできる限り広範囲で認知させる。その狙いとの関係でいえば印刷物の仕事を手掛けることはナビ派の活動の宣伝にもなったのだろう。彼らが描く絵を見る側が「面白い」と感じ、その評価が広く定着すればナビ派が謳う創造とイメージのスペシャルな関係は観念的な膜を破り、実際のものになると想像できる。
この点である種の社会運動の様相を呈するナビ派の絵画表現が抱えざるを得ないメッセージ性の問題を解消するのに、フェリックス・ヴァロットンが手掛ける木版画が寄与する面は少なくなかったのでないか。不特定又は多数人という匿名性を頭から被る大衆そのものをキャラクター化して、社会的事象を皮肉混じりに描くその鋭さが人々の関心を引くのに相当役に立ったのではないだろうか。
デモの参加者が訴える社会問題ではなく、鎮圧のために現着した警察から逃げるデモ参加者の様子をこそ具に見つめるヴァロットンの目は、被逮捕者を連行中の警察官を追いかける子供たちの無邪気さをも残酷に裏打ちして記号化し、黒白が支配する木版画の世界の中で和気あいあいと表現してみせる。その表現を見る側の笑いを誘うユーモアは、けれど意識の向きを目の前の人物たちに自分自身も該当し得る可能性を内包した現実へと容易く変えて苦味を増し、遠ざけられていたはずの当事者感覚を取り戻させて落ち着きを失わせる。あるいは一片たりとも削り取ることなくそのままに残した木版の大部分を活用し、仕上がった画面上の三分の二をも占める真っ黒な表現が社交界に参加することを許された上流階級の男女の間の密やかな業をスキャンダラスに暴き、目線の低い興味を掻き立てる。
かと思ったら斜め上に設置したカメラ位置から見下ろすフルート奏者の練習風景に入り込んだ猫の、演奏中の彼女を覗き込む愛らしい仕草と視線だけでそれに応じる彼女との温かい交流を捉えた画面内で華美に満ちる装飾が貴族な室内に施された軽やかな表現をたった二色の情景として芸術に昇華してみせるヴァロットンは、屈強な男が穴を掘る埋葬の様子を切り取り又は何人もの男が苦労して上階から棺を運び出す場面を「困難」という題名で写し取ったりして表現者としての実力の程を窺わせたりもする。
あるいはヴァロットンの木版画に描かれるものが分割されたコマ割りを彷彿させるために、漫画やアニメーションと同じく、想像で補填できる場面展開の余白をあらゆる作品から感じて止まない。実際、三菱一号館美術館で開催中の『ヴァロットンー黒と白』展ではヴァロットンの表現が極まったと評し得る「Intimites」等の木版画がアニメーション化されて展示会場の壁面などに直接、投影されていた。思えばパラパラ漫画は風刺が得意であったりするのだから、木版画という囲いの内側で記号化されたモチーフが絡み合う物語性は扱えるテーマの量を多くするのだろうし、それらをどこまでも愛おしく又は酷薄に切り取れもするのだろう。
ゆえに、俯瞰してみれば評価できる各側面の全てが影響し合っているフェリックス・ヴァロットンは、見る者にも近しい絵画の真実を求めたナビ派の理念を体現した画家の一人であったといえるかもしれない。
三
利便性に優れない絵画は、そこに描かれているものに多くの人が興味を引かれるかという点で交換可能な商品としての価値を高める点が否めないと筆者は考える。例えばキャラクター性を全面に打ち出した絵画などは、表現者自身が見出した重要なテーマがそこにあると当然に理解しつつも、サブカルチャーを描くアカデミックな表現という美術史上の文脈を活かした評価を期待できると筆者は思うし、また美術業界以外の人たちに向けては漫画やアニメーションを通じたキャッチーな紹介文を添える形で売り込めるのでないかと想像する。その存在を知ってもらわなければ購入の機会は一ミリも生まれないという事情が特に絵画においては深刻であるとするならば、話題性を意識した制作活動を簡単には批判できない。自分が描きたいものと自分が描けるものの中で受け手に購入してもらえるものとの折衝を図って妥協するか、妥協するとしてどの水準でそれを行うのかという問いとの闘いは古来から続く画業の宿命なのだろうと素人な筆者ですらこうして想像できるのだから、一線で活動する画家の苦しみなど安易に語れるものではない。ゆえに話題性大いに結構というのが筆者の素直な感想であるのだが、要はイラストや漫画にしても描けるものを絵画で表現する意義が突き詰められているかどうか。前述したような画家の狙いが透けて見えることはかえって受け手の購入意欲を削ぐだろうから、商品としての絵画という単純な視点から見ても極めて大事なポイントに対する答えとしてその表れ方が肝要になると筆者は考えている。
さてヴァロットンに話を戻せば、かの画家が手掛ける木版画において白と黒の二色刷りが守られた理由は何かが気になる。恐ろしい程の手間をかければ木版画でも他に追随を許さない彩色表現を行えることは、例えば吉田博といった新版画の作品を見ればすぐに分かるし、また油彩も描いたヴァロットンである。同じナビ派に属したロートレックの洒脱な彩色表現も『ヴァロットンー黒と白』展で鑑賞すればその動機に一層迫りたくなる。
撮影可能エリアで存分に鑑賞した後、写真フォルダに保存したお気に入りの作品を見直す度にヴァロットンの木版画はどんどんと好きになる。ソクラテスやイエスキリストといった偉人たちの顔だけを描いたマグネットをショップで購入したが、クスッと笑える惚けた表情を見たくて無闇に冷蔵庫の扉を開閉しに行くという電気代に響きそうな事態をも招いている。こういう体験を繰り返していると絵画表現は楽しければいいとは口が裂けても言えないが、けれど楽しさや面白さが「絵画と生きる」感覚を強めるのをどうしても否定できない。
ヴァロットンの木版画のようにそこに何が描かれているかを理解する過程を省く表現がダイレクトに導く表現のリアリティを構成するものの気軽さは決しておもちゃの積み木と同じようには放り投げられないし、気付かないうちに失くなったりはしない。なぜなら分かりやすく描かれたものと同じことが容易く現実に起き、分かりやすく描かれたもののが射抜いていた事柄の核心が証明されてしまう事態に慄いて、大切な物事をいとも容易く描いた画家の視線の切れ味に心底身震いする。何を知ろうともしない真っ白な純粋も、何ものも拒みはしない真っ黒な底知れなさもヴァロットンが見つめる世界においては何処にでもある、取るに足らないものだったのだと。だからヴァロットンはそれらを使って全てを描けた。それ以上のものを必要としなかった。その上でかの画家はこう判断する。そうだなぁ、黒白で描いた木版画は話題を呼べもするだろうと。事実、ヴァロットンの木版画はヨーロッパを渡ってアメリカにまで届いた。創作版画としての真価が適切に評価された。
楽しめる、は絵画表現の全てには決してならない。また面白い、というだけで動かせる絵画表現の歴史でもない。しかしながら、なかなかどうして。
ナビ派の一員としてどこまで成功したのか、どこまでのことが成し遂げられたといえるか。各展示会場のスペースに振られた番号にも遊び心が尽くされていた『ヴァロットンー黒と白』展を通過して、振り返りたい今日(こんにち)がある。
『ヴァロットンー黒と白』展