『不思議な力』展
一
この世界で起き得る事象を合理的に説明するのが物理法則なのだから、その物理法則に従って起きた事象に不思議はない。だとすればかかる事象に対して「不思議だ」という思いを抱く人にこそかかっているフィルターがあり、日常的な感覚に基づく類推の、半透明な視界の悪さによって好奇の目が養われている。
このフィルターを通して見る世界を主観的だと批判するのは簡単だろう。しかしながらそもそも客観的に存在する事実も主観的に認識しなければ無意味に等しい。つまりは異なる意思主体間で認識し得る事態があり、その全容を可能な限りで合理に基づき一般的ないし普遍的に語ることを試みて、その内容を検証し、結論としての妥当性を了解し合う。ここに至って初めて対象の客観性というものを口にすることができ、人の身体で触れられる外の世界の存在感を確かめられる。この過程において主観と無関係な客観などどこにもない。
ならば主観と客観の二項対立は、目の前の対象をどのように見て、如何に語るかという「私」の内部の違いに過ぎないのでないか。例えばカメラを道具として使用するとき、私たちは目で見る主観とカメラで記録する客観を容易に想定するが、実は使用者である「私」とカメラはそれぞれの仕方で外の世界を客観的に「見ている」とはいえないか。
鉄骨並みの強度としっかりとした構造をもって聳え立つイメージを彷彿とさせる二元論の枠組みに手を添えて、主観の真実に迫れる「もの」がこの世界にあるだろうか。
二
生前、野口里佳の父親は写真を趣味としていた。そのために大量のネガが遺品として残されていたが、心の整理をつける意味でそれらを一つずつ現像していく中、プロの写真家として見る家族の記録は決して無視できないクオリティを保持していた。その一端を、東京都写真美術館で開催されている野口里佳の『不思議な力』展で鑑賞できる。
写真となった思い出は旅行を楽しむ若き頃の母に父、あるいは家の中で人形を手に持ちレンズをじっと見つめる幼少期の野口里佳の姿などどこかの別の家庭でも拝見できそうな場面を記録する。ゆえに無関係な第三者の目を楽しませる要素など無さそうに思えるが、しかしながら「父のアルバム」を作り上げるその写真群は本展のハイライトでないかと思える程の感動を覚えるものだった。
人の心情を動かす要素はどの写真にも存在する。記録された対象を図形的に把握し、その構図の良さを語ればよその家族の私事を記録した写真にも表現作品としての良さを見出すことができる。それは合理に即した客観的な語り方であり、したがって家族愛といった感情的要素を押し退けた評価を「父のアルバム」に向けて行うことを可能にする。
しかし一方で、野口家の思い出を鑑賞する筆者はその記録写真の意味に思いを馳せていた。記録された目の前の出来事に対してかつて被写体となった自らの思い出を投影し又は親愛に満ちた瞬発力でシャッターを切り、過去を残すことを選んだ撮影者の心情を想像して共感している。あるいは撮影者が既に他界されたというエピソードの上で残された写真に表れる生前の意思を、素敵に思える世界への接し方を自分勝手に補強して、その出来栄えを無節操に味わっている。
要するに主観的情動を排して楽しめる「父のアルバム」でなく、また各写真に認められる構図の上手さといった要素もそれのみで称賛できるものではない。
いわば二項対立の短絡的側面を活かして客観と主観の双方から見えるものを言葉にしていき、その陥穽に滔々と落ち込んでいくものの勢いや美しさ、不可逆性などに対する形容そのものが表現に対する評価となる。ゆえに等身大の表現物として一方から見るだけでは物足りない。「私」で見ても又は「カメラ」として眺めても「父のアルバム」については何一つ上手く語れやしない。
三
続けて記せば、例えば蜂として飛ぶ姿に焦点を絞って撮影をし続けた「クマンバチ」のシリーズに認められるピンボケはクマンバチの客観を捉え続けた結果なのか又は周囲の景色を主観的に排除し続けている時間なのか。
虫としての蠢きを固定カメラで捉え、または森の様子を撮影し続ける映像によって捉えられていない音が伝える営みの情報が鑑賞者の中で渾然一体となり、総合的な生命の営みを表現する「アオムシ」及び「虫・木の葉・鳥の声」は客観的な記録作品なのか又は鑑賞者をも再生機器として利用して完成させる表現者の主観的な作品なのか。
あるいは歩道を照らす街灯や車道を走るテールランプ又は営業中であることを知らせる看板の蛍光ネオンといった街の彩りをピントの合わない状態で強調し、それらを星の瞬きの様に記録する「夜の星へ」が映す光景は野口里佳が当時拠点としていたドイツ、ベルリンのスタジオから自宅までの帰路を行くバスの車窓から見えるものを情感たっぷりに捉えたものなのか、それとも人の身体が把持し得る世界の見え方を客観的な可能性として示唆するものなのか。
そして本展の最後を飾る「潜る人」の、撮影の経緯に紛れ込んだ偶然を語るエピソードを真っ二つにする世界の明暗及び屈折した景色によって表現される神秘性は日常生活で人々が見過ごしている客観的真実なのか又は撮影者の手になる計算された演出なのか。
決して曇りなき眼(まなこ)で対象を観察しているといえない、フィルターが掛かった状態にあるときの人が見ているもの、それをどう評するか。センスオブワンダーの芽をむやみに摘み取ることがないように慎重に検分する必要を識る、『不思議な力』展の見事な構成なのである。
四
表面張力で張り付いた紙のコースターが蓋として機能し、逆さまになったコップの中の水がこぼれ落ちない等の現象を瞬間的に切り取った野口里佳の「不思議な力」は、本展の冒頭を飾る。あり得ないと思っていた未知の瞬間を記録したその作品群は手元にフォーカスした場面構成を巧みに生かして、目にする驚きを温かく保持する。
日常的な事象から類推してこれから起きることを予見し、考えられるリスクを管理しようとする感覚をこそ穿つ「不思議な力」の写真表現を最後に記す理由に多言は要らない。
未知を既知へと変えていく原動力として尊ばれる驚きの反応は主観的誤謬を客観的に指摘する一面と裏腹であり、他方で相対化された主観的な世界の地平を刷新する、客観という名の梃子に向かって意思主体の手を伸ばさせる。不思議と思えるフィルターの、光沢ある表現はそうして可能になる。
以前記した川内倫子の、被写体の生(なま)を捉えようとする表現もこの例外ではないだろう。主観の際に迫り、向こう側の存在を把持する。その試みをいつ、どこで、どのように行うか又はどの程度に止めるか。ある種の個性の現れとして写真表現を左右する大切な要素。
ゆえに曇った眼(まなこ)を恐れるな。ただし、その曇りをこそ忘れるな。そうしてこそ写真表現は輝く。独断と偏見をもって記すこの言葉を容易く飛び越える、素晴らしい作品表現は確かにあるのだから。
『不思議な力』展