川内倫子
一
レンズを介して見る被写体のどんな様子を残したくて、いつシャッターを切ろうとするか。かかる撮影者の主観的判断は写真表現に付き物といえるから、その反対にシャッターを切られる前のカメラがそのレンズで捉えている被写体の姿はどうなっているのだろうと想像する。特に、撮影者が見たいと願い又は誰かに見せたいと欲望するものが被写体の構図や組み合わせ、あるいは色合いなどの様々な要素に加えられる解釈可能性としてプリントアウトされる画像に表れることが少なくないことを思えば、それらを排した被写体の姿を撮影することは写真表現が到達できる一つの地点と評価できる。こう考えると被写体の客観にどれだけ迫れるかということがプロとアマチュアを分ける明確な基準になると言い得る。
これを踏まえて被写体の生(なま)に迫るために撮影者がすべきことは何かと考えればカメラ機器の適切な設定、ロケーションの選択又はポートレート写真に必須の被写体との信頼関係の形成など枚挙に暇がない。しかしながら、それらの準備の末に行うべき決断は必ずしも計算されたものとは言い難い。シャッターを切るという行為には次の瞬間にきっと訪れるという予感ないし直観で把持された未来に向けて行なわれる面が否定できないからだ。レンズを向ける花に吹く風や日の当たり具合、ミツバチの来訪といった些細な事でも被写体の状況に影響を及ぼす。それら周囲の変化を毛羽立てた五官の作用でキャッチし、見える前のその「瞬間」に向けてでないとシャッターは切れない。統覚を得意とする意識を置いてけぼりにして実行されるその判断を支えるのはセンスの側に比重を置く瞬発力といえるだろう。かかる過程においては撮影者の意識が残りたくても残れない。あるいは被写体のあるがままを捉えるために向けたレンズそのものとしてのみ記録に関われる。それは伽藍堂になった私といえるから、被写体の姿に覚える感動がその時に生まれることは決してない。
無私が残す記録、それこそが被写体のありのままの姿であると定義しよう。
二
その写真は被写体の存在感だけを訴える。ゆえに差し込む光源も現象として捉え切り、表現の純度を高めて、抽象性の森の奥へと躊躇なく踏み込んでいける。
しかしながらその表現ぶりを見て素直に「綺麗だなぁ」と思える鑑賞者の主観はある。それが場合によっては撮影者が瞬間的な予見によって剥ぎ取ったはずの分厚いヴェールを引き戻しはしないか。例えばSNSにおいては見る側を楽しませるための分かりやすいフックが施された写真表現を目にする機会が多いと実感するところ、同じ感覚をもって被写体の生(なま)に迫る写真作品を鑑賞しようとすれば余計な文脈を持ち込んだ過剰な読み込みをしかねない。
自戒の念を込めてする問題提起に対して一つのアンサーとなるのでは、そう考えて記してみたいアプローチは東京オペラシティアートギャラリーで開催中の川内倫子の個展となる『M/E 球体の上無限の連なり』で窺えた。
本展では入口の狭いスペースから作品が既に展示されている。大小さまざまな写真表現が被写体の生(なま)を伝え、抽象性の際に迫っていく。メッセージ性は強くない。そのためにある種の退屈さを感じる始まりではある。しかし、第三会場ともいえるスペースに展示されている「One surface」を経ると景色がガラリと変わる。
会場入口の反対側の壁面に展示された黒白の写真作品がメインとなるはずの空間の真ん中辺りには、高い天井から長い布が垂らされている。向こう側が透けて見えるその布には展示されている写真作品が拡大された格好で転写されていて、写真作品と対面する位置に立てば主役となるべき写真作品の方が布に転写された拡大イメージに取り込まれる。しかしながらその重複部分において布の質感が異なるイメージを生み、コラボレートな作品表現となっている。下手すれば、写真作品を直に見るより良いかもしれない。そう思って、不動のままに鑑賞する私と動けない写真作品のそれぞれを揶揄うように布の捲れは起きる。会場を移動する人の流れによって生じる微風によるものであるが、その程度の現象によって、筆者が夢中になって鑑賞していた重複する作品表現の形而上学的な印象はユーモアを兼ね備えたものに様変わりする。それを意識して見る「意識」が図らずも現象として暗示される世界の実相を読み取ってしまう。私が見知りできるのはそんなものか、という認識が概念に対して固く結んできたものの力を弱めていく。会場のあちこちからは聴こえ、途切れ途切れに知れる写真家が編んだ詩句がその決め手となって現実の真皮が露わになる。
ここで概念に頼る意識的な作用が弱まれば感覚は鋭敏になるという素朴な発想は思い浮かぶ。感覚に引っ張られて自由に羽ばたく感情群が対象をありのままに見ることを可能にするという夢物語をも抱ける。しかし人はそれほど自由ではない。言葉を知らなければ、その言葉で表現できる概念によって認識できなければ覚える感覚も形を得ない。では、概念に対する信頼を弱めることに意味はないのか。概念的な括りの隙間を縫って流れ出すものはないのか。
三
通路みたいな会場に並ぶ「An interlinking」の作品サイズに対して被写体となるものの身近さに覚える感情は淡白だけれど鮮明な記憶として残る。いつでも口にできる飴のような甘さを覚えさせて、目に写るものを二度と間違えることがない。
またはランダムに任せた再生タイミングによって同じ映像を左右に分割した画面上で流し続けるという「Illuminance」から感じ取る共時的な感覚は、展示する毎に新しい映像を加えるという作者の意図により永遠の未完の内にあり続けるというルールによって果てしない広がりを得る。転じて、自身の記憶の中からいくらでも拾える日々の感情が立てるフリクションの、その時々の結末を迎えた時に奏でた音の密度が明瞭になる。その細々(こまごま)としたあり様に思いを馳せる。
抑制されてこそ多彩に発光する感情の閾値はこうして示された。ここで天井にも床にも川のイメージが満ちる「A whisper」が表現する循環へと鑑賞者は誘われて、本展のタイトルにもなっている「M/E」へと足を進めることになるが、その途中で野焼きの写真を主として見上げなければならない程の作品数を並べた「あめつち」が表す儀式性には触れなければならない。
壁一面に敷き詰められた写真にある野焼きは植物の芽の成長に働きかけるものであるが、火から連想できる儀式性は祈りの灯火をイメージさせる。イスラエルの嘆きの壁を撮った一枚の写真は間違いなくその刺激となっているだろう。人が作り上げる社会の側から自然といった超越的かつ包括的なシステムに働きかけるこれらの行いが示唆するものは、地球規模の視点に立って見えるものと私たち人の手によって成る日常とを対比させて連綿と続く生(せい)の事柄を捉えた表現群たる「M/E」の展示空間の導入となっている。視点の移り変わりによって相対化される概念の再評価が、形而下に表れる観念から突き上げられて始まっていく。その力が信じられている。
四
「M/E」の核心を成すのは広く取られた会場の真ん中部分に設けられたもう一つの空間展示である。円筒形になるよう包まれた何枚のもの白いレースはワイヤーに吊るされて並び、その一部が裁断されて中央に通れる通路が設けられている。そこにある写真作品は電子パネルで表示されていたり又はガラスにプリントされたものであったりして「物」らしさに目がいってしまうが写真イメージそのものは神秘又は美しさの方向に絶えず視線を送っていて、展示会場を構成する四方向の壁それぞれに展示された自然風景から窺える写真家の眼差しの内面を彩る。この内なる語りがあるから、例えば地平線に重なる光が長い川を走る光景と果物ナイフで皮を剥き、真っ二つに割ったリンゴが乗る一枚の皿の近況との間の連関を迷いなく見出せる。
他の展示からも通奏低音として感じ取れはするが、何度でも始められるという再起への思いが詰まっているという感想を「M/E」には強く抱く。マクロとミクロを行き来する総合的な表現行為は視点が語る宇宙(コスモス)としての客観性を帯び、あるがままを伝える。けれど無私の中心点で捉えるそれは人間のスケールを決して離れられず、その尺度を持って推し量る世界しか写し取れていない。人が手にする概念でその全容を覆うことができそうなものとしてその規模に覚える物足りなさは、しかし鑑賞する側の主観をたじろがせるから不思議だ。主観的にボリュームを増した感情や文脈の波に乗った勢いのある解釈を寄せ付けない強さが作品に満ちている。その淵源は可能な限りで撮られた被写体の姿に由来するのだろうが、ここにおいては少しの言葉を要するだろう。なぜなら「M/E」は人が捉えられる認識の枠組みを手放してはいないから、その作品には身体機能に端を発する共通理解の礎が積まれている。同じように感じ取れるであろうという想定が埋め込まれている。だからその部分で行うべき議論があり、直ちにどうのこうのと作品を評価する短絡を妨げる防波堤となっている。
まるで一種の倫理の様に働いて見えるこの論理的マナーを確保できること。その遂行に要する時間が過ぎる間に準備を果たせること。それが概念を疑うことから始まり、見る側において大事ものとして終わること。これらを実感できるから、川内倫子の写真表現を鑑賞できた良かったと思えるのだ。
五
また一方で川内倫子の写真表現をこう評することもできるだろう。すなわち、その表現はスタンダードになり得る軸足の置き所とその力強さを兼ね備えると。
例えば画面上のモチーフが描く配置ないしは関係から設計図を抽出できそうな程の有機的な固まりを写真として表現する柴田俊雄や鈴木理策の偉業や、また山元彩香や澤田華といった新進気鋭の表現者が写真撮影のコンセプト及び技法への工夫を施して写真イメージの刷新を図ろうとする試みの面白さは川内倫子の写真を介して改めて知れる。
この凄さを会場で是非、体感して欲しい。
川内倫子