言っておきたいこと
荒ぶる心を強いて鎮めると、心の痛くなるような虚無が戻ってくる。
もう、何度繰り返したしたことだろう?
自分を殺めようとする指をキーボードに載せ、言葉を紡いで受け取ってもらえそうなだれかに投げかける。
たとえば天(あま)の羽衣のように、たとえは狐の皮衣のように。
だがこのところ、ついぞ手ごたえを感じることはない。
肩越しにささやくモノは、決して正面に来ることはなく、
「そういうヤツラなんだよ。
こういう世の中なの。
この世はおまえが生きるには醜悪すぎる」
と、のみ繰り返す。
顔を上げてやっと、涙の最初のひと雫が流れるのを知るように、その言葉を苦く受け止め、五感の片隅にそっと積み上げる。
いつの日かその重みに耐えられなくなったとき、おれはすべてに決別するのだろう。
文学は人類を教導し、文化を昂進し、倫理正義人情を宣揚し、世界の融和と交流に貢献するものと思っていた。
ノーベル文学賞の意義と理想が、物書きたちの心に受け継がれていると信じていた。
それが自分の空しい妄想だと気づかされた時、おれは失望に怒り、悩み、悲しみ、すべてを投げ出したいほど落胆した。
理想を語る者はいる。
ノーベル文学賞の重要性を知る者はいる。
だが、彼らすら楽をして浅きに流れようとするのだ。
ひとりぼっちの心に、誰かの詩がよみがえる。
『…自分の人生がまだ明るかったころ、世界は友だちにあふれていた
今、霧が降りると、もう誰も見えない
本当に自分をすべてのものから抗いようもなくそっと隔てる
孤独を知らない者は賢くはないのだ』
期待して裏切られる徒労は、たとえば骨のようにやせた指を水がこぼれ落ちるに似ている。
おれの感想に返される返信を読む悲しみは、たとえば砂子(いさご)の団子を噛むに似ている。
伝わらなかった言葉を、理解されなかった気持ちを拾い集める空しさ。
みんな心地良い言葉のみを得ようとするのだ。
それがなにをもたらすか?
増上慢と懈怠、裏づけのない自信と浅薄な多弁。
そして、読めてもいない感想を投げ落として来る不遜。
おれはもう、だれの作品も読まないだろう。
かつてはおれの意図を汲んだ、真摯で前向きなレスをくれる人たちがいた。
素直な反省と新たな決意を表明する人もいた。
そうした人たちに支えられた、確かで豊かな時間もあったのだ、
だが、もうみんな去ってしまい、おれにはなにも残らなかった。
ひとはなぜ言い訳するのだろう。
事を分けた言葉にこそなぜ反発するのだろう。
おれの作品をプリントし、分析するのはやめるがいい。
文章は魂の発露だ。
削り出した命のひとかけらを丹念に集めて織り出した、まぎれもない自分自身をだれがまねる事など出来るのか。
テクニックではない、人格こそを磨くのだ。
作家は技術ではAIを越えることはない。
冷徹に人間心理を分析し、喜怒哀楽を把握し、確実にツボをつかんでくる人工知能に抗えるものは個々の人間性でしかない。
自らの足下を掘れ。
言えることは、ただそれだけだ。
寂しい心に吹く風は思いを針のように尖らせる。
空しい想いに降る雨は心を刃のように研ぎ澄ます。
優しいもの、暖かいもの、美しいものに触れたかったはずの指が、憎悪にゆがんでおれに向くとき、肩越しにささやくモノは嬉々として嘯(うそぶ)くのだ。
「おまえの居場所はこの世ではない。
なにをためらう?
なにを惜しむ?
浪費する時はおまえになにも与えないのだぞ」
そうかも知れない。
いや、この4年間、確かにそうだったのだ。
そして……。
なにが起こったのかは知らない。
なにを求めたのかも解らない。
ただ、空蝉のように転がるおれの骸を見下ろす時、おれは初めて、おれの哀れさに泣くのだろう。
言っておきたいこと