花泥棒
不条理恋愛
私は髪留めを結った。花のブローチが付いている。ブローチの花は八つの花びらで、ビーズでキラキラしてる。水曜日はこのブローチと決めている。
鏡で自分の顔を見る。斜視だ。調子が悪い時は、それが気になる。虐待をしてきた父親からの遺伝だから。嫌だ。
そんな気持ちを振り払うように、手早くスーツを着て、出社支度は整った。ヒールの高い白い靴を履いた。
外に出ると、秋、と思った。
腕時計を見ると、いつもどおりの時間だ。
いつものようにコンビニによってサンドウィッチとほうじ茶を買う。今日はほうじ茶は温かいのを選んだ。
駅前のベンチに座って、サンドウィッチを食べる。いつもと変わらぬ風景。人々が駅の中に吸い込まれていくのを眺める。
「となり、いい?」
突然、声をかけられ、驚く。目をそちらに向けると、ニットの青いワンピースを着た女性がいる。どう見ても仕事に行く格好ではない。
女性は目が桜の花びらのように大きく、薄化粧をしている。唇だけ紅が鮮やかで、ふっくらした唇は彼女の声を出した。
「いつも、あなた、ここにいるわね」
私はこくんと頷く。
「ええ、ここで、こうしているのが習慣なんです」
彼女は一瞬目を伏せた。なんだろう。そして目を上げると、「お話する時間、二三分でいいの、あるかしら」と言った。
「ええ、まだ五分くらいあります」と私は答えた。
「よかった」彼女はほっとしたように、笑みを浮かべる。その安堵は私にとっては隙間に見えた。透明な隙間。私はその中に滑り込んだ。私は言った。
「お綺麗ですね、とっても。」
彼女は、えっ、という顔を浮かべた。
「わたし、あなたの顔、好きです」
彼女はまた目を伏せた。そして、そのまま、言った。
「あなたを毎日見てたの。ここに座ってるのを。でも、声はかけられなかった。」
間を置く。私は次の言葉を待った。
「水曜日に話しかけると決めていたの。」
今度は、わたしが、えっ、となる番だった。私は思わず聞き返した。
「曜日……ですか?」
彼女はまた、あの笑みを浮かべた。アルカイックスマイル、透明な隙間──私はそれが罠であったことを悟った。でも、もう遅かった。
「そう、曜日。水曜日。あなたこの日はそのブローチをつけてるわ」
「そ、それが……」
「そう、そのために。」
私は唖然とした。どういうこと?ブローチ?ブローチがどうしたというの?
「そのブローチ、欲しいの」
彼女の目の白いところが光った。
「これ、は、どこにでも、売ってるもので……」
私はたどたどしく答えた。
「違うの。」
なにが?私の中にたくさんの疑問符が浮かんだ。
「それ。」
「えっ」
「それよ。」
「だ、から……売ってるものなので」
私は半分諦めていた。
「ちょうだい。」
彼女は続けた。
「あなたはわたしを綺麗と言ったわ」
「わたしにそのブローチは相応しいと思わない?」
私はもう訳が分からなくなって混乱していた。
私はこのままではまずいと思い、腕時計を目の前に近づけて
「もう行かなくては」と言った。
彼女は口角をあげて、微笑んだ。今度は優しい微笑みだった。私は、負けた。
「置いていって。」
「はい……」
私はブローチを外すと彼女の手に渡した。
「行ってらっしゃい」彼女は微笑んだ。
私はゴミを纏めると、一目散に駅の改札へ向かった。彼女の方には一瞥もなく。
駅のホームで立ち止まった時に、はらりと頬に髪がかかって、私は心臓の音が鼓膜に響いているのを感じた。
ああ、私は花を奪われてしまったわ。
花泥棒