復讐の女
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1 復讐の剣
いつの事だっただろう。
ある日、裕樹は小学校の外で白人さんが配っていたと言って「せいしょのことば」という本をもらって帰ってきた。
見せてもらうと、そこには色々書いてあった。
「他人をねたんではいけません」
「貧しい人は幸いです」
前者は分かるとして、後者はひどい。貧しくて幸いなことなど何一つない。
「悪に悪を返してはいけません」
「剣を使う人は剣によって滅びます」
ふん……私は悪に悪を返す。私は喜んで滅びる……
2 グループチャット
死んだ息子である裕樹のスマホで、結衣は今日もLINEを開いた。
「4年1組公式グルチャ」に書き込んだ結衣のメッセージには、30件の既読が付いたまま。
誰の新規の書き込みもなし。公式と名付けてあるが、教師と学校には内緒のグループチャットに決まっている。
結衣は裕樹のアカウントで書き込んだ。
「裕樹の母です。誰か、教えてください。あの日のことを教えてください」
何の返信もなかった。
裕樹が死んだ次の日から、自称「クラス公式」のグループチャットの流れは止まっていた。
多分皆、それぞれ仲良しのグループチャットではしゃべっているのだろうし、今はツイッターやインスタなのかもしれない。
それでも、この「4年1組公式グルチャ」は削除はされていないし、退出者も一人もいなかった。結衣が思いを託せるのはこのグループチャットだけだった。
裕樹の位牌に線香を供えながら、結衣は神仏へ祈った。
(どうか真実を教えてください。その為には私はどんな目に遭っても構いません。どんな酷い目に遭っても)
裕樹は担任の制止を無視して学校の屋上から転落死した。誰に聞いても皆、定型文のように「裕樹君が先生の注意を聞かずに走り回り、屋上から落ちた」としか言わない。
だが、裕樹はそんな性格ではないし、そもそも屋上には鉄柵がある。小学生が飛び跳ねて、大人用の高さの柵を跳び越すことなどあるだろうか。
校長は自宅まで謝罪に来た。だが、事故状況の細かい説明はない。
説明はこうだった。
「集団で屋上で騒いでいた児童たちを担任の教諭が注意した。裕樹君は注意を聞かず騒ぎ続け、屋上から校庭へ転落した。担任教諭はすぐに救急車を呼んだが、裕樹君は病院で死亡が確認された。ついては、普段施錠していた屋上へのドアの鍵を閉めていなかった管理責任をお詫びしたい。屋上設備のメンテナンスを担当した作業員が締め忘れたものであり、市の教育委員会と協議中で、メンテナンス会社を提訴する方針である」と繰り返すだけ。
結衣が学校からの電話で病院に急ぎ、病院の霊安室で裕樹の顔を見たとき、結衣の脳裏にはなぜか原田教諭――裕樹の担任――の顔がよぎった。
(裕樹をほっといて、ごめんね。本当にごめんね)
結衣はしばらく霊安室で号泣し続け、息子の遺体を抱き締めたまま、動けなかった。
(ごめんね! ごめんね! ごめんね……)
取り乱す結衣を目前にして、医者も校長も何も出来ず、最後は病院の老守衛が説得役を買って出て、ようやく結衣は霊安室を後にした。
奥山市は市立陽光小学校の施設管理不備を認め、葬儀は学校が取り仕切り、喪主である結衣の金銭的負担はなかった。だがそのかわり「裕樹君が担任の制止を聞かず、屋上で走り、柵を乗り越え転落した」という説明が繰り返された。
原田担任は葬儀には来ず、定型の弔電が葬儀場に届いた。精神的な衝撃が回復しないのだという。
結衣は原田担任と会ったことがなかった。授業参観や運動会も仕事で出られなかったから、顔は学校のプリントや陽光小学校の広報サイトで見ただけだった。その広報サイトでは評判の良い体育教師として顔写真入りで紹介されていたし、雰囲気からは好印象を受けていた。だから、裕樹が放った一言が結衣には意外だった。
「担任の先生がオレを攻撃してくる。もう耐えられないかも。先生が怖い」
仕事が早く終わり、久しぶりに家で裕樹と夕飯を一緒に食べられた日のことだった。結衣は聞き返した。
「そうなの? 評判のいい先生かと思ってた」
「周りにはそうだけど……あいつはオレにはすごく嫌な奴なんだよ」
裕樹はそれだけ言うと、すぐにスマホのゲームに戻った。
「ねえ、原田先生のこと、もっと話してよ。ゲームは後にしてさ」
「やっぱもういいよ。大丈夫。今、友達たちが戦ってる時間だから、協力しないと」
「そう? まあ、裕樹はしっかりしてるもんね。何かあったら、すぐに相談してよ?」
普通にクラスでうまくやっている裕樹に、結衣は安心していた。そして感謝していた。
夫が家を出た時も冷静で、結衣を責めるようなことも夫を責める言葉も全く言わなかった。結衣が裕樹にきちんと説明する前から、自分の父親が母親以外の女と暮らし始めて、もう家には帰らないことを、ちゃんと悟っていた子だった。
だがある月、家賃の振込が遅れて、結衣が大家に詫びる電話をして切った後、裕樹は叫んだ。思えば、あれが一回だけ、裕樹が夫や結衣を悪く言った言葉だった。
「あいつはクソヤロウだ。母さんがいるのに。ああ! なんで母さんはあいつみたいなクソヤロウと結婚したんだよ!」
「なんてこと言うのよ!」
結衣が裕樹の頬を叩いて叫ぶと、裕樹はそれ以上何も言わなかった。二人で泣いて、泣いて、涙が枯れた頃、深夜に二人で国道沿いのファミレスに遅い夕飯を食べに行ったのを回想した。
(裕樹ごめんね。原田先生が怖かったのよね)
何回この言葉を言ったか分からない。
(裕樹をほっといて、ごめんね。本当にごめんね)
独りだけのアパートのキッチンで、結衣はテーブルに伏して泣き続けた。
今日も仕事に行く時間だ。
結衣は薄く化粧して、部屋着から上下紺の制服に着替えると、春物のコートを上から着た。店の在庫セール品を、さらに社割で買った薄いベージュのコート。従業員証が財布にあるのを確認した。セール品を社割で買った紺のパンプスを履いた。メールを確認した。会社が従業員に配信するメールの内容は大抵、イラっとする内容だった。
「社員は大切な家族です。家族同士、助け合いましょう」
確かに職場には、母子家庭になった上、息子まで亡くした結衣に善意の声をかけてくれる人もいた。
ペットを飼えば、とか、知り合いにいい人がいる、とかの類。だが、そういう若い子や先輩社員は、ちゃんと家族がいて、ちゃんとした土地付きの家に住んでいる。築何十年のアパートに独りで住んでいる結衣とは環境が違った。
(シフトを気軽に変えられて、売り場に出す前から目を付けていたブランド品を定価で買える者と、そのシフトの穴を必死で埋めて、売れ残りのセール品を社割で買う者は家族じゃない)
モールの従業員通用口の守衛前で、透明のビニールバッグに私物を入れる前、結衣は裕樹の遺品のスマホでLINEの「4年1組公式グルチャ」に再び書き込みをした。
「私は裕樹がいつもどんな感じだったか、それだけ知りたい。教えてほしいな」
すぐに数件の既読マークが付いた。
仕事が終わり、帰りの電車内でスマホを見ると、30人の既読が付いていた。結衣の書き込みを、クラス全員が見た。
このグループチャットは生きている。
3 Yuzuki1225
グルチャに、数件の書き込みが加わった。挨拶程度の内容だったが。
結衣はそのたびに書き込みに返信を返す。
「本当にどうもありがとね」
そのやりとりがあって少しすると、さらに何人かが書き込んだ。
《竹本君は給食にハシを忘れたオレに、わりばしをくれました》
《竹本君のこと私は好きでした》
《たけっちはオレたちの友達でした》
そこからは、まるでグルチャの流れが再開したように大勢が一気に書き込んだ。
結衣の目から涙がこぼれた。
ようやく、裕樹の普段が見えてきた気がした。
裕樹は、クラス内では好かれていたか、少なくともいじめられたりはしていなかった。
ある日、グルチャに2度目の書き込みをした子がいた。
《私は竹本君をとても心配していました》
アカウント名Yuzuki1225による2度目の発言。2度も書き込んでくれたのはこの子だけ。グループ内で軽く返信し、Yuzuki1225にだけメッセージを送る。
「何で心配してくれていたの?」結衣。
《竹本さんは先生によく呼び出されていました》Yuzuki1225。
「先生は皆をよく呼び出していたの?」結衣。
《竹本さんだけです》Yuzuki1225。
「どうもありがとう」
結衣はあえて深追いをしなかったが、その日のうちにYuzuki1225から再び返信が来た。
《会って話せますか?》
結衣はすぐに返信を打ち返した。なんと、Yuzuki1225は明日なら会ってくれる。だが、明日が無理ならもう会えないという。
翌日の昼過ぎ、モールの従業員休憩所から店に戻った結衣は、自分のテナントのバックヤードに掲示されているシフト表をもう一度確認した。
結衣の悪い予感が当たっていた。早上がりのはずが、店長の手によって無断で閉店まで勤務が伸ばされていた。朝に見た時は何も書いていなかった。いつもはいい、いつもは……でも、今日だけはだめだ。
結衣は、ゆっくり深呼吸を繰り返すと、急いで店長を探した。売り場にはバイトの子が一人。内線電話で店長を呼び出した。
「店長。今日、延長できません」
「え? なに? そんなの聞いてないよ?」
「すみません。今日は大事な用があるんです」
「どうしてもかなあ。今日は竹本さんしか閉店まで残れる人いないんだよなあ。俺は夕方から、他店に応援で行くんだ。他に誰もいないんだよ?」
「申し訳ありません」
結衣は今日、初めて残業を断った。
「契約社員に昇格させてあげた恩を、もう忘れちゃった?」
嫌な感じで内線は切れた。
結衣がバイトの子と交代すると、店長は大げさな態度で走って戻ってきて、タバコの匂いを漂わせながら、結衣を横目で睨みながら店内をゆっくり歩いて奥に入った。わざわざ壁の薄いテナントバックヤードで携帯を使い始め、大声で他店への応援に行けなくなった旨の報告を始めた。
4 手がかり
結衣は大きなため息ばかりついている店長を売り場に残し、Yuzuki1225との約束通りの午後6時に、奥山市立陽光小学校の正門前に着いた。
Yuzuki1225は男の子だった。結衣はてっきり女の子だと思いこんでいた。
少年の名は悠月――ゆづき――だった。
四十過ぎの仕事帰りの女と、小学4年生の男子がよそよそしく立ち話を続ける光景は目立つ。結衣はタクシーを呼び、二人で県道沿いの大型ゲームセンターに移動した。
「おばさんは、竹本君とよくここに来たんですか」
「ううん。そんなに何回も来たわけじゃないよ。私、仕事で忙しかったから……」
「そうなんですね。じゃあ、思い出の場所ってわけじゃないんですね」
「うん……何回か、来たんだけどね……」
喫茶店やファーストフード店は席によっては浮くし、周囲の会話が邪魔になることもある。ゲームセンターなら皆、周りを気にしていない。すぐに席の移動もできる。それでここにしたのだ。
結衣は自販機に紙幣を入れてメダルに交換した。自分は少しだけ取り、残りの全部を悠月に渡した。
コインタワー崩しの筐体前に、二人並んで座った。
Yuzuki1225こと悠月は黙々とメダルを投入し始めた。
結衣は本題に入った。
「なんで裕樹が担任の先生に呼び出されていたのか、悠月君は、わけを知ってるんだよね?」
「……」
悠月は無言だった。
時々、口を開こうとして、言葉が見つからず、沈黙する。また少ししてゆっくり息を吸い、今にも話そうとして、息を吐きだす。その繰り返しだった。
ゲームに集中せず、機械的にメダルを投入しているからか、下に落ちてくる払い出しのメダルも僅かで、悠月の抱えるポットの中のメダルが底を尽きそうになった。
「もうちょっとメダル増やそうか」
「はい」
結衣がメダル交換機に紙幣を入れていると、店内放送が流れた。
《奥山市条例のため、夕方7時以降は、小学生の方の遊戯は禁止されています。もうすぐ7時になります》
放送と同時に、店舗正面入口から、緑の腕章をつけた一団が入ってきた。地元の自主防犯パトロールだ。
結衣は自分が悠月の保護者のふりをして居続けようかと一瞬思ったが、奥山市は田舎の町だ。防犯パトロール隊の有志に悠月の親の知り合いがいた場合、事態の収拾がつかなくなる。
結衣は天に祈った。この子は直接会いに来てまで結衣の知らない何かを言おうとして、なかなか言えないでいる。
何か重大な事実を知っているのは間違いない。
しかし、結衣が悠月から聞き出すことができる時間は残り僅かだった。
結衣は再び問いかけた。
「悠月君。皆で屋上で騒いで遊んで、裕樹だけ先生の注意を聞かなかったんでしょ? 一人だけ逃げまわって柵から落っこちたんだよね。違ったら言って?」
「……違います!」
悠月は絞り出すように、でも確かにそう言った。そしてしっかりと結衣の目を見た。
(違う?)
結衣は胸にうずまく不信感に押され、ただ事故の状況の詳細が知りたい一心でここまできた。悠月を今逃すわけにはいかない。結衣は腰を横にずらし、身体を悠月にぴったり寄せた。
「なにが違うの?」
「竹本君が落ちた時、そばに居たのは原田先生だけです」
「原田先生だけ?」
「屋上って皆が言うのは、『新しい大丈夫な屋上』と、竹本君が落ちた『古いほうの立ち入り禁止の屋上』の2つあるんです。両方、屋上って言うけど」
「……そうなんだ?」
(屋上が2つ?)
結衣の心臓は早鐘を打った。
「あの日は1組と2組で新しいほうの屋上で天体観測の理科の勉強をしてました。誰かがはしゃいで走り回って、2組の担任の伊藤先生にめっちゃ怒られました。でも1組の担任の原田先生はいなかったんです。裕樹君と一緒に、禁止の屋上のほうで、古い採光窓の囲いの点検をしてたって」
「じゃあ、悠月君は裕樹が落ちたところは見てないの?」
「はい。みんな、新しいほうの屋上にいましたから。屋上の場所が違うんです。これは絶対に黙っていろって言われました」
「話してくれてありがとう」
やはり児童にまで緘口令が敷かれていたのだ。気付いてはいたが実際に確証を得ると改めてショックだった。
「僕、調べてみたんですが、落ちた瞬間を見た子も先生もいないんです。自分で見た人は、原田先生しかいないんです」
ここまで言うと、パトロール隊が近づいてきたのを察した悠月が結衣の手を握って引き、結衣を店舗裏側の出入口外に促した。
悠月はスマホを手早く触ってから顔を上げた。
「メダル代、ありがとうございました。うちの親が今、正面の駐車場に着きました。友達と遊んだことにしてありますから大丈夫です。僕は店に戻って表から出ます。おばさんは時間差で帰ってください」
「じゃあ、おばさんは裏を回って、ホームセンターを通って表側に出るわね。悠月君に迷惑かけると困るから」
「本当ですか。それなら親に見つからなくて助かります。うちの親も友達の親も、みんな事故のことは話しちゃいけないって言うんで」
そうなのだ……保護者の間に学校から徹底した緘口令が敷かれていることは分かっていた。
「今日はありがとう!」
「お礼を言うのはオレなんです。おばさんさようなら! 裕樹君は僕の恩人なんです!」
悠月は店の中に戻って去った。
(命の恩人、てどういう意味だろう? 裕樹がそんなに親切にしたんだろうか?)
結衣は閉店までホームセンターを回った。気もそぞろに、歩いては物を手に取り、物を棚に戻し、の繰り返しだった。
結局は消臭剤と洗剤、スポンジを買っただけで店を出た。
家に帰るバスの中で結衣のスマホが鳴った。店長からだ。
「すみません。今はバスの中なので……」
「分かりました。えーと、明日なんですがぁ」
この男は何をどう分かっているのだろうか。結衣はスマホを手で覆った。
「竹本さんは遅番の予定ですが、開店作業から閉店まで通しで入ってもらっていいですか?」
「……大丈夫です」
「助かります。でも今日途中で帰りましたよね。僕、応援に行けなくて本社からこっぴどく怒られちゃいましたよ。えーと、開店作業からだから、朝、早めに着いて守衛室から鍵もらってください。レジやPOS周りの注意事項に注意してくださいね。あと、前日の最終勤務者が閉店チェック表を出し忘れていたら代筆して出しておいてください。間違いのないようにくれぐれもよろしくお願いします。じゃ」
開店作業も閉店作業にも慣れているし業務を間違えたこともない。代筆もよくしている。今日の最終勤務者は店長自身だ。また忘れるという予告だろうか。
幸いにも、周囲の乗客は結衣の通話に無関心のふりをしているし、運転手も注意のアナウンスを控えてくれている。
バス停で降り、市道からアパートまでの長く暗い道中で、結衣は悠月が送ってきた長文のメッセージを受信した。そこには悠月が裕樹を命の恩人と表現した理由が綴られていた。
――原田教諭には毎年、自分が通年でいびり倒す児童を一人選ぶ癖があり、原田教諭は最初は悠月をターゲットにしていた。ところがクラスの学級会で、持ち回りで議長になった裕樹が議題を出し、クラスをまとめて原田にいじめをやめるよう申し入れた。これをきっかけに原田の攻撃の対象が裕樹に変わったということだった。
結衣は裕樹が誇らしかったが、激しい怒りと悲しみがこみ上げた。原田の長年の悪行を学校の誰も止めなかったのだ。
そして事故当日、児童達が屋上で騒いで担任に叱られたのは事実だが、そこに裕樹はおらず、原田と一緒に別の屋上にいたという事実。裕樹は原田と二人きりの屋上で転落して死んだのだ。
悠月の証言で、原田が裕樹の死に深く関わっていることは分かった。でも、その続きが分からない。
結衣は頭の中を改めて整理した。
陽光小学校は、二人の別の担任のもとでそれぞれ起こった、別の屋上での出来事を“屋上”と“担任”という言葉で混乱させ、その上で皆に緘口令を敷いた。その上で、まるで現場を見ていたかのような一文――裕樹君が担任の注意を無視して転落した――を終始繰り返して、大勢の意識に定着させた。
だが、警察の現場検証や事情聴取はどうだったのだろう? なぜ問題なく学校の主張が採用されたのだろうか? 一体、原田は裕樹に何をしたのか?
アパートに着き、階段を上ると、結衣は部屋のドアに鍵を差した。古く、癖のある錠のシリンダーをなだめて、建付けの悪くなったドアを開けた。
いつもの臭気。この部屋は換気をしていないと下水に似た臭気がこもる。裕樹のいた頃はこの匂いが気になって引っ越しばかり考えていた。でも今はどうでもいい。
結衣は校長から受け取った市の謝罪文書を読み返すことにした。
書類はクリアファイルに挟んで居間の本棚に押し込んであった。
結衣は何度も文書を読み返した。
《警察の調べによれば、隣接するマンションの管理員が、一部始終を目撃しており……》
警察はこの証言で、事実関係の裏付けを終わらせてしまったのだろうか。
市と校長の行動は手際よく、素早かった。謝罪も早かった。裕樹の葬儀も、喪主の結衣に代わって諸々の手配をしてくれた上、費用も出してくれた。葬儀のランクだって悪くなかった。ならば、警察の人間をうまくあしらうなど、お手の物だったのではないだろうか。
結衣は悠月の告白を読み返すためにスマホを引き寄せた。すると、見慣れたYuzuki1225のアニメのアイコンがシンプルな人型マークに変わっていた。
心臓が早鐘を打った。二人のチャットルームは《相手がいません》という無情なメッセージで終わっている!
……悠月は自分のLINEアカウントを消したのだ……
彼は消えてしまった。
5 管理組合長
結衣はこのところ、朝早くに家を出て、出勤前に小学校の隣に建つ例のマンションに立ち寄るのを常としていた。
校長から受け取った事故報告書兼謝罪文書に書かれていた、《小学校に隣接するマンション》である。文書には、ここから第三者が一部始終を目撃したと書いてあった。
だが、確かに見通し線の範囲内に建ってはいるが、相当の距離がある。これを隣接と呼ぶのだろうか。当のマンション最上階の階段踊り場に立って、結衣はそう思った。
「ちょっと、あんた、最近毎朝ここに立ってますが、住民の方じゃありませんな!」
結衣は不意に強い声を掛けられ、ビクッとした。声の主は作業服を着た初老の男であった。
結衣は男に頭を下げながらできるだけ丁寧に答えた。
「すみません……私は、隣の小学校で屋上から転落した子どもの母です。ここから目撃なさった方がいるとお聞きしたものですから。息子の思い出に浸っていたんです。ご迷惑をかけて、申し訳ありません」
男は尖っていた口調を改めた。
「ああ、そうなんですか。私はこのマンションの管理組合長です。毎朝ここに立たれると、さすがに不気味ですわ……警察を呼べと言ってくる住民もいたんでね、それで声をかけましたよ。ああ、そうですか、あの事故の……」
男の声の調子が和らいだので結衣はほっとした。
「さぞお辛いでしょう。そうじゃ、お茶でも飲みなさい」
組合長は勝手に階段を下っていた。結衣は時計を見た。職場に間に合うだろうか。
通されたマンション管理室は、ひんやりとして清潔な雰囲気だった。変な臭気が無かった。
組合長は話し好きの性格のようだった。
結衣は出されたお茶を飲みながら、組合長が話すのを聞いていた。
……落ちた子の親の教育が悪いんだとか、先生と学校は被害者だとか、そんなことを言う人間もいるが、私はそうは思わない。子どもは自由で結構。安全対策を怠った学校が悪い。子を亡くした親の気持ちが分かれば、そんな悪口など言えっこない……と組合長は話した。
結衣は目頭が熱くなった。目撃者は、この人なのだろうか。
「……事故を目撃なさったのは、組合長さんでいらっしゃいますか?」
「いや、見たのはわしじゃない。見たのは清掃員さんだ。警察がその人の家に来て、話を聞いていったそうじゃ」
その清掃員の人に会いたい。話を聞きたい。
「目撃した清掃員の方は、今もここで働いていらっしゃるんですか?」
「いや、それがね、事故の後は来なくなった。管理会社が翌週からよこしてくる人が変わった。今の清掃員はダメじゃ。本人に何回言っても変わらん。それでわしが時々、早朝にざっと掃除してなんとかしているんじゃ」
結衣の望みは絶たれた。
「そうなんですか……」
「そうか、あんた、その人に会いたくて毎日来てたんだね?」
結衣は素直に頷いた。
「学校まで意外と距離があるので、目の良い方だったんだな、と……」
結衣はすぐに発言を後悔した。これでは目撃証言を疑っていると言っているのと変わらない。
恐る恐る組合長を見たが、男の態度は変わらなかった。
「うん。確かに目がいい人じゃった。視力というより注意力かのう。掃除が丁寧じゃったよ。細かいところまでちゃんと掃いたり拭いたりしてくれた。感じもいい人じゃった。でも文句を言いたくても、管理会社は奥山金剛系列じゃからのう」
結衣にも馴染み深い社名だった。
(奥山金剛……)
「この奥山地方を支えて百年の金剛さんところの会社じゃ文句は言えんわな。奥山金剛メンテナンス・プロパティマネジメント。長いカタカナは言い慣れんが、奥山金剛美装、じゃ古臭いんじゃろうな……他にも最近は金剛さんは名前を軒並み新しくしとるな。あんたも看板を見かけるじゃろ? 燃料の文字を消してフュエルエナジーとか、交通を消してアクセスデフラグメントとか、住宅を消してハウジングアドバイザリーとか……」
確かによく見る。この町は頭に奥山金剛が付く会社ばかりだ。
外をダンプが走る音がした。
ハッとして結衣は腕時計を見た。開店作業に間に合わないかもしれない。
「お茶までいただいて、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「ああ、すまんのう。あんたが大事な息子さんを亡くしたというのに、わしはくだらん愚痴を聞かせてしまった。これから出勤じゃろ? 気を付けて言ってらっしゃい」
組合長はドアを開けてくれた。結衣が管理室のドアを出ようとした時、すぐ脇に掲示されている手書きの連絡先リストに目がいった。
《奥山金剛美装 佐藤さん 080-〇〇〇〇-〇〇〇〇》
旧社名が書かれた古い紙。茶ばんでいて字は色褪せている。もしかして、この人が組合長の言う目撃者ではないだろうか。
なんとか番号を覚えたい。結衣はとっさにカバンの片方を置き忘れたふりをした。結衣は慌て者を演じ、時間を稼いで何回も携帯番号を見て、心の中で唱え、念じた。
「あ、ごめんなさい、私、脇に抱えてました。大変失礼しました」
「女の人は荷物が多いからねえ。忘れたら大変じゃ」
「どうもありがとうございました」
結衣は組合長に深く礼をして、マンションを出た。道の角を曲がると、急いで数字を手帳に書き出した。
結衣はこの日、初めて職場に遅刻した。通用口の守衛係を急かせて鍵を受け取り、開店前のモールをひたすら走った。
全身が汗と冷や汗でびっしょりになったが、作業をいくつか飛ばし、店の開店をショッピングモールのオープン時刻に間に合わせることができた。幸い、平日の午前ということもあり、客もおらず、遅れはしたがPOSシステムやレジを正常に起動して、所定の作業を全て済ませることができた。
特に実害はないはずだった。
6 目撃者
この日、仕事を終えた結衣は、普段と逆側へ向かうバス停に立っていた。胃がどうしても痛い。駅方面のバスに乗った。なんとか閉院間際の病院に駆け込むことができた。後1分遅かったら間に合わなかった。
「お大事になさってください」
窓口から処方箋と領収書をもらい、しまう。
隣接する薬局に行くと患者は自分だけだった。出た薬はジェネリック。こないだ週刊誌で《ジェネリックの闇》という記事があったが、理屈を唱えて先発薬を指定するのは暇人かお金持ちの仕事だ。
バス停で待っている間に薬を早速飲む。
夜の奥山市を運行する路線バス。立っている結衣の胃をバスの揺れが直撃し、気持ちが悪くなってきた。
バスが停車し、乗降客が行違う。結衣は目の前の席から立ち上がった客の降りる道を空けた。背後から不意に押され、結衣が無意識に避けると、紙袋をたくさん持った老齢の女性が空いた席に尻を落とした。
「まあまあ、ありがとうございます」
「……ええ、どうぞ……」
結衣はしたたかに席を横取りした女の横顔を見た。母もこのくらいの年のはずだ。……母とは疎遠だ。最後に電話した日付も思い出せない。
結衣が疲れた身体と痛む胃腸を我慢して立っていると、ほどなくして車内のほとんどの客が降りた。バスはガラガラになった。適当な席に腰を下ろすと、どっと疲れに襲われた。結衣の降りるバス停はまだ遠い。
結衣は食の進まない夕食を終え、洗い物を済ませた。
結衣はテーブルに向かうと、朝に手帳に書き留めた番号をスマホに入力し、目撃者と思われる人物の携帯に全身の勇気をかき集めてショートメッセージを打った。
「突然のメールで申し訳ありません。私は陽光小学校児童転落事故の子の母です」
この相手が目撃者だという確証もなければ、見知らぬ人にメールを送りつけて応答してもらえるとも思えない。
だが結衣は賭けることにした。他に方法はない。
間もなく返信が来た。
《心より御冥福をお祈りいたします》
短くて丁寧な文面。
やはり目撃者なのだ。目撃者でなければ無視するか非常識を咎めてくるはずだ。
結衣はすぐにメッセージを打ち返した。
「私は竹本結衣と申します。あなたが息子を目撃した最後の方なんです。息子が悪いのは分かっております。ですがわたくし、最期の細かい状況を何にも知りませんで、簡単でよいので息子の転落の様子を教えていただけませんでしょうか」
結衣は送信して、スマホを握りしめた。
返信がなかなか来ない。
忍耐が尽きかける頃にショートメッセージが届いた。
《お察しください。お許しください》
結衣の勘は的中した。相手は呆気なく胸の内を打ち明けてきた。
結衣がどう返信したら良いか悩んでいると、相手からの着信音が鳴った。結衣はビクッとした。身構えてスマホを耳に当てた。
「はい。竹本結衣です」
荒い息遣いや嗚咽が聞こえる。相手は泣いていた。
「どうか落ち着いてください。見たことを、ありのままに話してくださいませんか?」
相手は涙声で語りだした。
「……あの日、私はマンションの階段清掃をしていました。警察には目撃者として詳しく追及されました。でも、隣とは言っても、遠いですし、広い校庭も挟んでいます……」
「存じています」
「……転落があった夜、家に刑事さんがやってきて、事故のことを聞かれました。警察は、事故の時刻に私が外階段にいたことまで知っていました。多分、マンションの方全員に聞き込みをしてからうちに来たのでしょう。私は、遠くてよく見えなかったと答えました」
「……本当は見えたんですね?」
結衣の問いかけに、相手は否定も肯定もせず涙声で話し続けた。
「……警察が自宅に来る直前に、会社から電話がありました。会社は『警察の捜査に協力してあなたの住所を教えたが、何を目撃したにしろ、はっきり見えなかったと答えなさい。警察なんて何をでっちあげるか分からない。明日から担当場所を変えるから安心しなさい』と言われたんです」
「そうなんですか」
「次はどう調べたのか、学校の校長先生からも携帯に電話がありました。先生は『今回の裕樹君の悲劇に私たちは大変心を痛めている、児童も教員も動揺している、ニュースにでもなれば心ない記者に何を書き立てられるか分からない。どうか、良心的な証言をしてほしい』と念を押して切られました。私はとても怖くなりました」
「そうですか。お気持ち、分かります」
心にもない言葉だったが、続きを促すにはそう言うしかないと思った。
「だから、刑事さんには『遠くてよく見えませんでした』と答えたんです。でも全く納得してもらえず、全然帰ってくれません。どうしようもなくて私が黙ると、今度は『屋上で児童が騒ぎ、一人の児童が落ちてしまった』と学校が言っているが、声だけでも聞いていないか、と質問を変えてきました。仕方なく、聞こえたと答えると『遠い距離だが、変な騒ぎ声があったら見るのが普通で、野鳥観察の趣味があるんだから、その双眼鏡を使えば見えたはずだ。なぜそうしなかったのか?』と理由を追及してきたんです……」
結衣の胸が早鐘を打った。
「野鳥観察……」
「私は子どもの頃から小鳥が大好きで、あのマンションからは周りの森や林の小鳥たちがよく見えるので、掃除の合間にこっそり双眼鏡で鳥を見ていました。もちろん、いいことじゃありません。人様からどんな誤解を受けるか分かりません。それで、自分では人に見られない程度にしていたつもりだったんですが、マンションの住民の方はよく見てらっしゃったんですね……」
泣き声が続いた。結衣は続きを優しく促した。
「私は警察じゃありません。裕樹の無念を晴らしたいわけでもありません。でも、このままでは、お墓参りの時に息子に合わせる顔がありません。私を助けてください。ただ事実を話してくださればいいんです。誰にも言いやしません」
結衣は相手の言葉を待った。
「……双眼鏡で見た光景は今でも目に焼き付いて離れません。先生とおぼしき男が鬼のような形相で、屋上の隅に男の子を追い詰めていました。怯える男の子の前に両手を広げて立ちはだかり、ついに柵も越えさせました。そして、男の子が後ずさりして落ちると、下を覗き込み、しばらくぼんやりしていました。その後で我に返ったらしい男は、走って校舎内に戻りました。騒ぐ声がしたのは別の屋上で、児童たちが引率の先生に叱られながら校舎内に戻って行く様子が見えました」
原田が息子を殺したのだ!
結衣は頭を金属バットで殴り付けられたように感じた。激しい衝撃で結衣は口がきけずにいた。だが、なんとか言葉をひねり出さねばならなかった。
「は、話してくださって、ありがとう」
「人として嘘はつけません。でも、家で怖くて震えている私に会社からも学校からも電話があった直後です。こんな田舎ですから意味は分かります。刑事さんに言った内容に嘘はありません。見た順番を逆にして事実を並べただけです。『騒ぎ声がして、男の子が屋上から落ちたのを見た』って言いました。これを聞いてようやく帰りました。あんな怖い思いは初めてでした」
結衣は理解した。この“証言”で「裕樹が原田の制止を振り切って転落した」いう学校の主張に、警察のお墨付きがついたのだ。
「このあたりの仕事はみんなつながっています。私の会社はもちろんそうだし、主人の勤め先だって奥山金剛の機嫌を損ねたら潰れます。でも、毎晩、あの鬼のような形相が夢に出てくるし、自分が殺人を隠していることで頭が割れてしまいそうでした。あなたからメールが来た時、ついに来たと思いました。……警察に、話すんですか?」
結衣は録音していなかったのを後悔した。なぜ電話に出る前に通話録音をセットしなかったのだろう? そうだ、途中からでも録音するべきだった!
話しません、と結衣が即答しなかったからか、相手は憔悴して怯えきった声を出した。
「話すんですね……」
「いえ、そんなことは……」
「誰にも話さないって言ったじゃないですか。話されたら、私も家族も終わりよ……やっぱり話さなきゃよかった……」
「話しません」
「嘘よ……私なら話すわ……息子を殺されたんだもの……この携帯、壊して川に捨てるわ……二度とかけてこないで!」
強い声で通話が切られた。
結衣は思った。録音は無い。仮に警察に駆け込んでも、この人は証言内容を否定するだろう。そして、今晩聞いた真相はすべて結衣の妄想、でっち上げ、と片付けられて終わりだろう。
結衣はこみ上げる激しい怒りを必死になだめようとした。
(何をしても裕樹は戻ってこないんだから……真実が分かればそれで良かったはずじゃないの……)
この晩、結衣は一睡もできなかった。汗だくになって朝を迎えた。
7 ハローワーク
翌日、二人の刑事が結衣を職場に訪ねてきた。悠月の親が、結衣を「未成年者略取誘拐」の被害で警察に訴えたのだという。驚いた結衣は包み隠さず当日の状況を話し、刑事は二人とも頷いた。彼らは『結衣の説明は全てタクシーとゲームセンターの防犯カメラの映像と一致する。一緒に居たのは悠月君の全くの任意であり、犯罪要件に該当する点がない』と言って、すぐに帰っていった。だが、結衣が警察に取り調べられたという話だけが結衣の店中に広がった。
結衣はその日の午後、通帳をモール内のATMに通した。生活費の残高を把握するためだったのだが、給料日でもないのに今月の給料分が振り込まれており、次行にはほぼ同額の振込の印字がされていた。結衣は当惑した。
結衣は急いで店長に、誤って本日に給与支払いがなされ、しかも二重に払われていると伝えた。
店長がそっけなく答えた。
「法律で決まってる予告なしの場合の即時解雇の三十日分賃金ですよ。今、本部から電話がありました」
「解雇!?」
「はい。今すぐロッカーの整理と仕事の引継ぎを私に済ませたら、健康保険証と社員証を私に渡してお帰りください。このモールの入構証はもう無効になってます。出るときは機械にタッチせず、守衛室に返してください」
「なんでクビなんですか……!」
「怒らないでくださいよ。僕も今聞いた話なんです。正直、僕だって竹本さんが居ないと困るんです。契約社員になってもらったのがこの間で、どう考えてもおかしいですよね? だから理由を聞いたんですが、結衣さん、前に開店作業に遅れた日があったでしょう。本部はそれが理由だと言ってました。でも本当の理由は違うんでしょうね……」
違うに決まっている。この店長は月に何回かは開店作業に遅れている。なんなら店長の重大なミスを結衣が慌ててフォローして店長の首がつながったことも数えきれない。
「ここだけの話、竹本さん、一体何をやらかしたんですか……竹本さんの解雇はうちの社長の決定だそうですよ」
「社長の決定!」
結衣は知らなかったが、LINEでの結衣の動きをつかんだ校長は警戒網を敷いていた。結衣の悠月との接触は校長に協力する父母らによって報告されており、報告を受けた校長は悠月の両親に圧力をかけ、結衣を警察に訴えさせた。あのマンション管理組合長も、その話し好きの癖が災いを引き起こしていた。管理組合長が身内に話した結衣との会話の内容は全てすぐに奥山金剛グループの知るところとなり、ついには災難を恐れたテナント会社に結衣の解雇を決断させるまでに至った。
あくる日、結衣は失業者としてハローワークの受付の列に並んでいた。
受付で状況を話すと番号札を渡され、奥に案内された。庁舎には臭気があった。きっとこの建物の下水設備にも問題があるのだろう。
結衣は待合ロビーの椅子に座ると軽く瞼を閉じた。夢を見た。夢はぼんやりとしていたが、黒く、重かった。
「竹本さん。竹本結衣さん」
結衣は起きた。急いで呼ばれた窓口に向かう。
「お待たせしました。わたくし本日の担当の○○と申します」
「よろしくお願いします」
結衣は番号札を渡した。ハローワーク職員は結衣に失業手当の説明を始めた。失業手当を受け取るには会社発行の離職証明書が必要だという。そのうちに自宅に郵送されてくるのだろうか。催促の電話のことを考えると結衣の気がますます滅入った。
ハローワークの職員が、今後の役に立つので、今までの勤め先の名称と就業期間を正確に印刷した紙を出せますがどうしますか、と聞いた。結衣はその紙を印刷して出してもらうことにした。
結衣は待合ロビーの席に戻って、その書類に目を通してみた。
自分の歴史だった。結衣はゆっくり思い出していった。
〇〇県〇〇郡〇〇村の村立高校を卒業した結衣は、村内の製材所に入社した。理由は、木の匂いが好きだから。事務だったが、木材の切断やフォークリフト作業を手伝うこともあった。伐りたての樹木の香りが、結衣は大好きだった。
結衣の後に時々入った新卒の女子は、皆、数年で社内結婚して職場を去っていった。結衣が三十歳になった年に、その製材所は廃業になった。通告は急だった。閉鎖された翌日、職場の名残を惜しもうと結衣が車で通ると、製材所からは操業の音が響いていた。驚いて門を見ると、製材所の正門には奥山金剛林業と記された立派な看板が立っていた。前の社名の錆びた看板は無残に投げ捨てられていた。
結衣は自分の職場が看板を替えて稼働を続けているのを初めて知った。駐車場を見ると、見慣れた車も何台か混じっていた。
家に帰ってその話をすると、結婚結婚と年中うるさかった母親が爆発した。……なんで社内の異変に気付かなかったのか。クビになり、これから一体どうする気なのか。
結衣も爆発した。どうしていつも母は私を責めたてるのか。
翌日の早朝、結衣は奥山本線の支線の始発に乗った。村には二度と戻らないと決め、奥山県の奥山市街を目指した。鉄路は連なる山々をトンネルで突き抜け、列車は奧山中央駅に着いた。駅ビルの喫茶店で時間を過ごしていると、置いてある無料求人誌――こういうものは結衣の生まれた村には無かった――が結衣の目についた。
〇〇モールへ新規出店のため大募集、という大きな求人広告が目立っていた。今時の衣服や靴に囲まれた店の写真が結衣の心をつかんだ。すぐに結衣は、そのショッピングモールに直接向かった。
求人誌が少し古かったせいで、店はもうオープンしており、結衣は店内に入ってみた。革の匂いや香水の香り、木工雑貨からは強い木の匂いがした。結衣はここが気に入った。だが店長は結衣を断った。
「その広告は期限が過ぎてますでしょう。もう採用は全部決まったんですよ」
「とても残念です。……絶対に無理ですか」
「……そうですね。本当ならそうなんですが、貴方はとても感じの良い方なので、契約を毎月更新する形でのアルバイト採用でしたら検討できなくはありません」
結衣はそれから毎日働き始めた。忙しい年月が過ぎた。そんな中、毎年のように新卒の若い子が正社員として入ってきて、彼女らは職場の男性社員と結婚して辞めていくか、他店に店長候補として転勤していく。
アルバイトの身分のまま3年が経ち、悩んだ結衣は、それまであまりしなかった化粧を女性向け雑誌で勉強して丁寧にするようにした。動くのが楽なように大きめを選んでいた制服のサイズを交換してもらった。上も下も、身体にぴったりのサイズに変えた。通勤の私服もスカートにして、厚い眼鏡はコンタクトに替えた。ブラはパッドが厚く、大きいのにした。すると、結衣にはいろいろな声がかかるようになった。
「今度の合コンに結衣さんも行こうよ」
「結衣さんて、美人で仕事もできる。アルバイトにはもったいないんじゃない?」
空気みたいな扱いから一変し、契約社員登用の声がかかり、昇格した。
常連客の一人に、結衣に親しげに声をかけてくる男がいた。男は竹本と名乗った。結衣も竹本が嫌いではなかった。お互いに好みの異性同士、自然と男女は結ばれた。だが竹本は結衣より一回りも年が下だった。だから指輪を渡された時は純粋に喜べず、竹本を信じられなかった。それでも結衣は竹本を信じることにした。式は開かない地味婚にした。結衣が呼ぶ親族は不仲の母親しかいない。すぐに裕樹が生まれた。
結衣は会社の制度に産休制度があると知らされたから、素直に申請して裕樹の育児に専念した。復帰前に本社に電話したら、なんと退職したことにされていた。慌てて強く抗議したが全く埒が明かなかった。お金の面での帳尻は合うように補償するとは言われたが、元の店に戻るならパートかアルバイトしか枠がないと言われた。元の身分の契約社員では県外の遠い店舗にしか枠が無いという。心底ふざけていると思ったが、結衣はこれ以上怒っても選択肢は無いと諦めた。
それから結衣は再びパート従業員として社員以上に働き続けた。結衣は重宝された。
竹本の仕事は二十四時間シフトで、あまり家で一緒に居られなかった。付き合っている時から、そんな職業だと知っていたから、竹本がほとんど家に帰らないようになっても不思議には思わなかったが、とにかく寂しかった。
裕樹が二年生の時、学校から結衣の携帯に電話が来て、裕樹が高熱を出したから迎えにきて欲しいと言われた。公休のはずの竹本の携帯に電話したら様子が変だった。迎えに行ってはくれたが、裕樹が言うには、
「ちゃらい兄ちゃんが来たと思ったら父さんでびっくりした」
おかしい事は他にもあった。竹本から、会社の給与計算システムが不具合を起こし、直るまで給与が手払いになるからその間だけ、と頼まれて、全ての生活費の引き落としを結衣の給与口座に変更した。
なかなか直らないと聞かされ、そんな危ない会社で大丈夫かと思った結衣は、会社の雰囲気を確かめようと口実を作り、勤務中の竹本を呼び出してもらった。竹本は辞めていた。
「悪い悪い。トラブってさ。会社が一方的にオレを悪者にしたんだよ。今はいろんな仕事でしのいでるんだ」
竹本は悪びれる様子もなかった。完全歩合で月収の変動が激しいから定職を見つけるまで待ってくれと言う。結衣が待っているうちに、竹本は全く家に帰らなくなった。竹本の携帯番号は解約されてつながらなくなった。ある日、詫び状と離婚届けが郵送されてきた。結衣は印を押して送り返した。封筒の消印は大阪だった。市役所で相談をして、もらえる補助は全部申請した。なんとか裕樹と二人で食べていく目途がたった。それからずっと、裕樹が亡くなるまで二人で必死で生きてきた。
「……竹本さん。……竹本さん! すみませーん」
結衣は追憶の中をさまよっていたが、職員の声かけで現実に戻った。ハローワーク職員が窓口に呼んで電卓をたたいて見せてくれた。
「さっき大体の額を教えていただいたので、算出した毎月の支給額はこうなります」
結衣はショックだった。失業手当とはここまで安いのだ。
健康保険も、年金も、住民税の支払いもある。
結衣は決めた。
家にいると、高く黒い壁が襲ってくる。すぐ働こう。そしてある程度の額――早期就職手当金――をもらって、今のアパートから引っ越そう。この臭気はもう嫌だ。このハローワーク庁舎にも、家にも漂う下水の臭気を、もう結衣は嗅ぎたくなかった。
8 法令
結衣は奥山金剛系列の会社からはすべて門前払いされた。県内に奥山金剛と無関係の会社の数は少なく、さらに、この年の求人状況は悪かった。
途方にくれていた結衣の目に、本社が他県にあるという警備会社の募集が目に留まった。応募するとすぐに採用が決まった。
結衣は駅前の雑居ビルに研修に来ていた。支社なのだという。就業前研修に法定研修という大仰な名前がついている。
この会社は施設の警備も交通警備もやるが、それぞれ必要な研修や、根拠の法律の条文が違うらしい。結衣は講義を右から左に聞き流していた。
整列とか、回れ右とか、敬礼動作とか。結衣は敬礼で何度も教官に手の角度を直された。座学は映像中心で楽だったが、最低時給に毛が生えた程度の給料の割には荷が重いと思った。警察っぽい制服とは裏腹に、権限が乏しい。要するに、気合と雰囲気で従ってもらう仕事らしい。
だが一つ、結衣の真っ黒な心に一筋の光を与えた知識があった。それは関連法令の座学だった。
「この仕事をする上で、大切な法律の知識ですから、ちゃんと覚えてください。最後にテストをします」
教官の社員がテキストを配った。
正当防衛と緊急避難。
自分の命が助かるため真にやむを得ない場合、相手を亡き者にしても、それ以外に方法が皆無であるならば、殺人は情状酌量される。つまり、最終的には罪にならない。
結衣は思った――原田がどこにいるか、なにをしているかも知らないが、一縷の僅かな希望だ――と。
研修3日目、最終日。研修生全員が警備員として採用された。
結衣は配属先の発表前に再び神仏に祈った。――原田に接触するチャンスのあるような、公共施設の警備にあたりますように――
決まった配属先は、陽光小学校近くの大型食品スーパー。
本当に神仏が味方したのかもしれないと結衣は思った。
9 運命の扉
結衣は目の前の顔を見て驚いた。寝ても覚めても頭から離れない憎い顔。
その現物を見るのは初めてだった。
女性警備員となった結衣は隊長から呼び出しを受けて休憩を中断して大型食品スーパーの駐車場精算機に駆け付けていた。休日の来客数に忙殺されたレジ係が駐車券への対応を忘れたとのこと。当該車両の運転席に原田。その助手席から女がキイキイ文句を言っている。
「どれだけ待たせるのよ! これだけ買い物したのに駐車料金まで取る気!?」
「大変申し訳ありませんでした。ただいまゲートを開けますので、恐れ入りますが本日お買い上げいただいたレシートを拝見できますでしょうか」
「レシート? そんなものどっかいったわよ! 第一客が何を買ったかなんて個人情報でしょ!? なんであんたに見せなきゃいけないわけ?」
結衣は何回も頭を下げた。
「ねえ!? 後ろの列を見てみなさいよ! みんなを困らせて、あんた楽しいの!?」
運転席の原田は、前を向いてひたすら黙っているだけ。冷淡かつ無関心の様相を呈している。
日曜日の午後というだけあり、駐車場出口には車列が長々と詰まっていた。結衣は無線で隊長を呼び出し、許可を得てゲートを開けた。
「店にクレームの電話入れるからね! 覚悟してなさいよ!」
怒り狂った女を乗せ、原田は去った。
その日の帰り、結衣は店に置いてある無料のコミュニティ紙をもらって帰った。陽光小学校の記事があるから持ち帰ったのだが、新聞をキッチンのテーブルに広げた結衣は息をのんだ。原田を紹介する特集が出ていた。
体育教師である原田は、市立陽光小学校の野球チームを毎年、県の大会まで導く名監督なのだという。大学時代は山岳部に所属、ボランティアで奥山連峰の山岳ガイドもしているという。
写真は昼間見た薄情そうな男とは全く違っていた。筋肉トレーニング中の原田は生き生きとした表情をしていた。結衣は不覚にも写真に写ったこの男の股間に目を寄せてしまった。光の加減なのか、男性器の形がくっきりと大きく浮き出ていた。田舎の無料紙とはいえ、この写真を掲載した編集者のセンスを疑ったが――天啓のように――結衣の脳裏に閃くものがあった。
原田一家は毎週日曜日、結衣の勤務する大型食品スーパーに買い物に来た。観察するに、原田の妻が支配権を握り、家庭の原田はおとなしい男のようだった。
計画通り、結衣は休憩の時間に私服に着替え、いつものように外のベンチに一人で座る原田に声をかけた。
結衣の服装は上はニットで下はパンツ。両方とも超タイト。
仕込んだブラとショーツは、レースの隆起が服を貫通する死ぬほど高いイタリア製だ。高いがこんな下着は他にないから仕方ない。
結衣は原田に声をかけた。
「この間は大変申し訳ありませんでした。奥様、あの後しばらくお怒りでした?」
「え? どなたでしたっけ?」
「こないだ、ここの駐車場精算機でお困りになったでしょう。私、奥様に怒鳴られて怖くてあの後泣いちゃいました」
「うちのが怒鳴った時……え!? あの時の女性警備員さんですか? 全然分かりませんでしたよ。制服と全然違うから……」
当然だ。服と美容院と諸々でカードローンの限界まで使っている。ブランド物のキャップまで必要だった。髪が制帽でペタンコになってしまうから。
原田が食いついてきたこの日、わざと結衣は会話をすぐに切り上げて去った。
予想通り、翌週も原田は同じ時刻に同じベンチに一人で座り、結衣を探していた。
結衣が心を押し殺して近づくと、原田のほうから声がかかった。
こうして、二人の短い「逢瀬」は翌週も続いた。結衣には苦痛だったが――目的がある。
さらに翌週の日曜日は翌日が祝日だった。
今日にすると結衣は決めていた。
先週までに、原田が陽光小学校の教員ということも、夫婦仲が悪いことも、すでに色々と本人の口から言わせていた。
「……小学校の先生は大変なご職業でしょうね。今は親御さんが強いそうだから」
「そうなんですよ。モンスターペアレントには神経をすり減らします。ほとんど、それは家庭の役割です、と言い返したくなる要望がほとんどですよ」
「ストレス解消は、どうなさってるんですか?」
「ストレス解消はやっぱり、趣味の登山かな。前も話したけど、家内は山が嫌いで、いつも単独行なんですよね……」
結衣はとびっきりの笑顔で話を合わせ、原田は喜んで連絡先を全て教えてきた。
この日の夜、結衣は原田を駅前の居酒屋に呼び出した。原田は喜んでやってきた。
結衣は原田にハイペースで酒を勧め、お酌を注ぎまくり、原田がトイレに席を立った隙に飲みかけのコップに眠剤を入れた。
そうして原田を駅前のホテルに連れ込み、眠そうに眼をこする原田をベッドに腰掛けさせ、リモコンを持たせた。
だが館内有料放送を選ばせようとしても、既に意識が朦朧としているのか、なかなか決めようとしない。見かねた結衣が代わりに一番どぎつそうな題名のを選んでやり、桃色の画面に見入る原田の肩を揉んで耳に息を吹きかけてやった。
そうして原田が寝落ちしたのを見届けると、服を脱がせ、乱雑に床に撒いてやった。
ユニットバスのシャワーで洗い桶にお湯を汲み、結衣の尿を少し混ぜ、シーツに撒いた。
朝を迎えてぼんやりとしている原田にはこう言った。
「いくら言っても付けてくれなかったよ。覚えてるよね? 中に出したの、1回や2回じゃなかったよ? 私もいっぱい出ちゃった。ほら」
半渇きのシーツの匂いを嗅いだ原田はあせった様子で結衣をホテルに残して去った。
その夜に原田から電話が来たが、結衣はわざと怒って電話をすぐに切ってスマホの電源を切った。
翌日の電話もLINEも全て無視した。
その次の日の電話には出た。
「大丈夫。安全日だったから」
安心した様子の原田に当日の作り話を聞かせ、とびっきりの艶やかな息遣いまで聞かせてやった。反吐が出る。
だが登山旅行の具体的な日時を決めることには成功した。敵は、ついに結衣の手に落ちたのだった。
……いつの事だっただろう……
ある日、裕樹が小学校の外で白人さんが配っていたらしい「せいしょのことば」という絵本をもらって帰ってきた。
そこには色々な綺麗事が並べてあった。
「悪に悪を返してはいけません」
「剣を使う人は剣によって滅びます」
……私は悪に悪を返す……復讐が悪だというなら私は甘んじて地獄へ行く。結衣はそう誓った。
10 奥山連峰
空は青く、古くから奥山富士とも言われる名峰・奥山が、その白い頂を誇っていた。
この地方をはるか昔から見下ろしてきた長大な名峰は、県名と県庁所在地の市の名前となり、一帯の政財界を牛耳る地方財閥も、その名を借りる名峰であった。
タクシーから降りた結衣と原田は、手をつないで歩いていた。結衣は笑みを絶やさなかった。
「この旅行、奥さんにバレない?」
「バレないバレない。あいつだって好きにやってるんだ。俺のほうがよほど真面目さ」
二人は不倫中のカップルそのものだった。
結衣と原田は、奥山連峰の登山道入口に到着した。
脇には売店と公衆電話があり、ポストのようなものがあった。結衣は原田が離れた隙を見てポストにそっと近付いた。不意に原田が声をかけた。
「どうした?」
「別に、これ、なにかな、と思っただけ」
「ああ、このポストはね、入山届を出すポストだよ。遭難する可能性がある登山の前に出すんだ」
そう言いながら原田は結衣に触れてきた。結衣は必死に耐えたが、男の手は結衣の尻と胸にまで及んだ。結衣は衝動で原田の股間を握りつぶした。
「痛っ。なにすんだよ」
「……この続きは後で。宿は予約してあるのよね」
「うん。登った先に旅館があるんだ。部屋をとってあるよ」
「山小屋とか避難小屋じゃなくて?」
「お、避難小屋なんか、よく知ってるね。山小屋はもっともっと上のほうにある宿泊施設で、ほとんど雑魚寝だよ。雑魚寝じゃ結衣とゆっくりできないじゃん。泊まるのは奥山荘っていって、そこそこ立派な旅館なんだ。実は奥山荘の裏までは関係者専用道が通してあって、軽の四駆なら走れる道なんだ。だから飯も豊富で旨いし、普通に酒も色々あるよ。結衣とガチの登山はしたくないな」
「オッケー」
二人は奥山を登り始めた。
整備された登山道が続く。
勾配が緩くなり、平坦になった。
樹林を出て道が開け、目の前に平原が広がった。
「ここは見たところ、ただの平原に見えるけど、あちこちに沼があるから、俺から離れないで」
「そうなんだ。了解」
結衣は軽く受け流し、原田の注意を聞いていない風で、草花を見つけては近付いていった。
「結衣、道から離れると危ないって」
結衣は原田に必死に色香を振り撒いた。
「つまんなあい。こんな山まで来て、私を縛る気? 縛るなら、夜にして欲しいなあ……」
「お? おう……夜にな」
ちらほら他の登山客も見える。他の登山客は規定のルート通りに歩いて行き、やがて見えなくなった。
結衣と原田のカップルは、結衣が気まぐれにあちらこちらに寄り道をするので進行が遅かった。
登山道は木道のある地帯に差し掛かった。
結衣は足を滑らせて、沼に落ちた。
「やばい。助けて」
すぐに手を差し伸べた原田を結衣がぐいっと引っ張り、原田が池に落ちた。
「な、なんであなたまで落ちるのよー!」
結衣はわざと暴れて二人の全身にたっぷり水を浸した。
「落ち着いて。結衣、落ち着いて」
「冷たい! 濡れた! 気持ち悪い!」
「落ち着け。結衣、落ち着けよ!」
男は女を木道に押し上げた。男は自分で木道に這い上がった。
男女は木道に座した。濡れた体は多少の風にも体温を奪われた。
「ごめんなさいごめんなさい。思い切り殴っていいわ」
「そう言われると殴れないな……冗談、冗談だよ、こんなの、大したことない」
「ありがとね」
そうして男女は登山を再開した。
山を吹く風は強くなり、止まなかった。
「まだ冬でもないのにすごい寒い気がするんだけど」
「さっきからずっと寒くてたまんないぜ。全身が濡れた場合は山風に体温をもってかれるんだ。でも、もう旅館が近いし、大丈夫だろ」
結衣は下着を含めて全ての着衣を上下ともに速乾素材で揃えていた。一方の原田はハイキング風情の格好で、まだ濡れていた。結衣のほうの服はとうに乾いていた。
「許してね」
「もう暴れんなよ」
男はスマホを取り出した。女も覗き込んだ。
「くそ、スマホが水没した……。GPSもナビも電話もダメか……。ま、とにかく、道を進もう」
結衣は頷いた。原田は先を急いだ。
二人は登山道の分岐点に着いた。旅館方向を示す案内看板が立っている。
だが案内の根本の地面が緩んでおり、結衣が触ると簡単に向きが動いてしまった。
「なんで触るんだよ! 動いちまったろ!」
「ごめん。ごめん……」
「まあ何回も来てるから分かるからいいよ。こっちだ。こっち」
「本当? 右も左も見た目そっくりじゃない?」
「見た目はな……確かに似てるな……だけど右だったぜ」
「確信ある?」
陽が落ちかけていた。暗くなりつつある山道を見て、男は不安そうな表情を見せた。記憶に確証が持てないようだ。
「案内のないほうはどこに行く道なの?」
「下山道。エスケープルートとも言うな。だけどここからの下山道はほとんど使われてない。標高もまだ低いし、旅館がすぐだし、ほとんど廃道だな」
「じゃあ、きちんと私のスマホのGPSで確認しよう」
結衣はポケットから袋に入れたスマホを取り出した。
「防水してたのか。やるじゃん。で、どっちが旅館? 登山アプリなんか使えんの?」
「ちゃんと使えるわよ。こっち!」
男女は再び進みだした。
結衣が口を開いた。
「ねえ、宿も近いんならお酒でも飲む?」
「持ってんの?」
結衣は眠剤を溶かしたウイスキーの小瓶を渡した。原田は旨そうに何口か飲んだ。
「くー、効くね! 寒いのが気にならなくなった。結衣も飲めば?」
「もう1本持ってるの。それ、あげる」
結衣は同じ小瓶の中身を詰め替えた下剤入りの麦茶を飲んだ。
機嫌よく道を進む原田を囲む山道の状況は、明らかに悪くなってきていた。倒木や岩の障害が増えていた。
風は吹き続け、太陽は沈みかけていた。
さらに進むと、原田の口調がもつれるようになってきた。
「ちくしょう、なんでこんなに道が荒れてるんだ……とっくに着いている頃だぞ……」
原田はぶつぶつ呟きながら結衣の先を行き、必死に道を急いだ。
山上の太陽が橙色の最期の光を濃くしていく。
「あっ」
突如、原田の体が半分落ちた。見ると、地面の岩肌が剥き出しになって、細い裂け目が開いていた。原田の下半身が穴に落ち込んでいた。
次の瞬間、男の体重を支えている岩の出っ張りが崩落した。カラカラと岩が落ち、砕けていく。原田は死物狂いで結衣の足にしがみついた。
「岩肌に潜む裂け目! 奥山の牙! 登山道にはないはずなのに……」
原田に掴まれた結衣も裂け目に引きずり込まれていく。結衣は言葉にならない叫び声を上げて倒木にしがみついた。
「結衣! その手を離せば倒れれば二人とも死ぬ。しっかりつかまってろよ。すぐ登るから」
原田は結衣の足をよじ登り、必死に顔を結衣の臀部に密着させた。結衣は死に面しても渾身の演技をやめなかった。
「きゃあ、離してよ。手、離してよう」
「あ、頭がおかしいのか? 死にかけてるんだぞ!」
「……おかしくないよ。おかしいのは、あんたよ」
結衣から甘い声と愛嬌が消え失せた。
「あ? 何言ってんだよ!? くそがっ」
「……頭をすっきりさせてあげる」
結衣は尿道を解放した。原田は頭から結衣の尿をかぶり、首を伝って全身まで濡らした。
「これで頭がはっきりしたんじゃない?」
「ば、馬鹿女、こ、殺してやる」
結衣は氷のような声で言った。
「うちの子にも同じようなこと言ったんでしょうね」
「さっきからおかしいぞ。お前、おかしいぞ!」
「裕樹と言えば思い出すの? 原田先生」
「ゆうき? 誰だそいつ。それよりちゃんと掴んでろよ! 手を離すなよ!」
結衣は世にも恐ろしい冷え切った大声を出した。
「名前も憶えてないんだ。お前に殺された竹本祐樹だよ!」
「竹本? ああ、あいつか、そうか、お前、あいつの母親だったのか」
原田は呻いた。
「罪を今ここで告白して、警察に自首すれば助けてあげる」
「子どもが勝手に落ちたんだよ。そうかあんたは裕樹の母親か……俺をこんな危険な廃道におびき寄せやがって、殺すぞ!」
「やってみなよ」
今度は結衣は肛門を解放した。下剤を飲んで我慢していた便――水様便――が結衣の下半身から漏れた。原田の手は滑った。原田は滑り落ちる自分の体を立て直そうとするが、うまくいかず、言葉を発する余裕もない。結衣は右足を振りはらった。
「ぎゃああ」
原田は結衣の左足にしがみついた。かろうじて原田は結衣の足首を両手で握り締めることができた。
「助けて! 頼む! 落ちたくない!」
「ねえ、先生、本当のことを今言ってよ。自首してよ」
結衣は体を揺らした。原田がかすれ声で叫んだ。
「自首するから! 揺らすな!」
「なにがあったの?」
「お、俺がユウキを屋上で追い詰めて『ここから飛び降りてみろ偽善者め』と言ったんだ。俺が一歩踏み出すと、あいつは一歩下がった。その繰り返し。大人にガキは逆らえないことを体で教えてやった。柵も越えさせた。自首する。許してくれ」
原田は怪力で結衣の足を掴み、結衣のふくらはぎまで這い上がってきた。
「それだけ?」
「いや、最後にユウキが言った。『ボクが落ちれば、先生はクビになる。ニュースになればお父さんが帰ってきてお母さんはまた父さんと一緒になれる。さようなら先生』だぜ。世界でも救う気かよ」
裕樹の最期の言葉を知った結衣の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。結衣は反射的に体を左右に激しく振った。倒木がピキン、ギリッと音を上げた。
「ぎゃあああ」
原田が絶叫した。
「この木、二人分の体重は支えきれそうもないよ、先生」
乾いた樹が割れていく音がした。
「いくらバカでも先生なら法律の基礎は知ってるよね。一人しか助からない時は」
「や、やめろぉっ」
「他に方法が全くない時はっ!」
原田の顔が歪んだ。見下ろす結衣には原田の顔は死神以外の何物でもなかった。結衣は大きく両足を振り払った。原田は狭い裂け目の底へゆっくり滑り落ちていった。叫び声が耳にこびりついた。
結衣はなんとか山の裂け目――奥山の牙――から抜け出して、地面に横たわった。
暗い漆黒の奥山の廃道に大雨が降ってきた。結衣はリュックからライトを取り出し、雨を避けられる場所を求めて、立ち上がり、歩きだした。
間もなく結衣は道を見失った。あちこちに奥山の牙が潜んでいる気がした。結衣は傍の木の根元に座り込んだ。復讐は果たしたのだ。
(寝よう。永遠に……疲れた……)
結衣はゆっくり横たわり、気絶に近い眠りに落ちた。
だが雨が止み、太陽が昇ると、結衣の身体を毛布に包み、ストレッチャーに載せる一団があった。
結衣が気が付くと男たちは名乗った。
「我々は奥山県警察山岳警備隊です。奥山荘から宿泊予定客が到着していないとの連絡があり、あなたの提出した入山届と照合して遭難ルートを割り出しました。すぐに病院に搬送します。脱水してますからこれを飲んでください」
「……山の割れ目に、連れが落ちたんです……」
「ええ、今ザイル降下で救助に向かってます。大丈夫です。これを飲んで」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
結衣はうわごとのように同じ言葉を繰り返した。
結衣をストレッチャーで運ぶ山岳警備隊が山道分岐点に達すると、眼下から県警のヘリが現れた。
すぐに隊員が結衣に救助具を装着し、結衣はヘリ内に収容された。
11 正義の剣
退院して以降、結衣は何回も何回も地元の警察からの事情聴取を受けた。
勤務先のシフトからは外された。ひたすら、県外のあちこちの交通隊や施設隊の欠員の穴埋めをするだけの厳しい日々が続いていた。
そんなある日、結衣は県警本部に呼ばれた。
奥山県警察本部の立派な応接室に通された結衣。
(警察署の取調室みたいな汚い応接室とは違うのね……)
威厳のある白髪の警察官が結衣の前に座った。
その警察官は部屋から人払いをした。とても偉い人なんだと結衣は思った。お付きの者たちが皆、恐縮しきっていたから。
その白髪の警察官が口を開いた。
「私には全てを話してください」
結衣は静かに答えた。
「すべて、警察署で今までお話した通りです……不倫旅行をした二人に、天罰がくだったんです」
「そうかもしれませんが」
白髪の警察官は話し続けた。
「ですが、あなたは助かった。原田氏の救出には山岳警備隊が相当苦労したと報告を受けています。なにせ、開いたり閉じたりする裂け目に落ちたんです。原田氏は、明治の開山から奥山の牙と言われ恐れられてきた休火山である奥山の腹の中に落ちた。原田氏の死因は外的要因です。滑落し、岩に切り割かれ、最後は胸部圧迫で窒息死。ですが、結局、ご遺体の回収はできませんでした。狭くて脆い岩盤に挟まっているんですからね。裂け目が広がればさらに落ちてしまう。そして山が裂け目を戻そうとする。しばらくすればご遺体は跡形もなくなるでしょう。県はあのルートを完全に封鎖するそうです」
結衣は黙っていた。
「なぜ警察が山で遭難救助をしていると思いますか。救助なら消防や県の防災の役割だと思いませんか。警察官でなければ気付かない目配りがあるからこそ、命を賭けて救助に出向いているんです」
結衣はハッとした。
「あなたは復讐を果たした。違いますか」
「……」
結衣は息を呑んだ。男は言葉を続けた。
「緊急避難という方法で、自分も多分死ぬであろう危険を冒してまで、あなたは息子さんの死の復讐を果たすという賭けをしたんじゃありませんか」
「……」
「あなたが図書館で司書まで使って郷土史を調べ上げ、奥山連峰の歴史に関するあらゆる知識を得たことが調べで分かりました。あなたのスマホの検索履歴を見れば、恐らく今回の遭難に関係する語句がたくさん出てくるんじゃありませんか」
白髪の制服警察官の厳かな迫力に、結衣は震えた。
「そ、そうお考えなら、調べてください。さあ、どうぞ」
震える手で結衣は自分のスマホを差し出し続けた。
「ありがとう。……ありがとう」
男は噛みしめるようにそう言って、スマホを決して受け取ろうとはしなかった。
結衣は差し出したスマホを机に置いて言った。
「私は死にかけたんです。原田と一緒に地の底に落ちかけたんです。神様が助けてくれたんだと思ってます」
男は深く頷いた。
「ええ、そうでしょう。そうですとも。そして、私が定年直前に当県に異例の赴任の辞令が出たのも神慮かもしれないと思います」
「え……?」
「陽光小学校の児童転落事故。あれは私が奥山県警察に来る前の事故でしたが、赴任直後の私にその事故の調書を差し出す者がおりました。私は記録を調べ、地元署の捜査が不十分だったことに気付きました。陽光小学校が管理責任を問うたのが奥山金剛メンテナンス。目撃者の勤務先も奥山金剛メンテナンス。ここの人間で奥山金剛に逆らう人間などいない。すぐにおかしいとピンときました。私は地元署の態勢を一新させ、人間を変えて話をあらためて聴き取らせました。すると、すぐに家族もろとも失踪したんです。おかしいですよね? もちろんすぐに在所を突き止め、任意で事情をさらに詳細に聞くために約束を取り付けました。すると、その翌日、目撃者の清掃員は自殺しました」
「……」
「私は怒りを感じました。これまでに感じたことがないまでの感情でした。私は信頼できる部下を選び、陽光小学校児童墜落事故と、その隠蔽工作の全容を掴みました。それが本件遭難と原田氏の滑落死に繋がっています。違いますか」
「……」
「そして、目撃者に自殺を強いるような奴らを、私は許せない。そして正直、今日ここにあなたが無事で来れていることさえ不思議だ。彼らは当地に巣食う闇だ。悪魔だ」
結衣は冷笑して言った。
「私はもう死んでいるんです。死者には、悪魔でも手を出せないんじゃないですか?」
「もう死んでいるとはどういう意味です。あなたは生きている」
「息子を失い、夫だっていません。仕事だって底辺のお給料です。それだってもうクビになりかかってます。これ、生きているって言えるんですか?」
「確かにそれは不愉快な人生かもしれない。しかし、あなたは犠牲になって苦しんでいるだけだ。私よりは幸せだ」
結衣はかっとなった。
「犠牲になって幸せってどういうことですか!?」
白髪の警察官が応えた。
「私はね、無辜の人を大勢犠牲にしてきた大き過ぎる咎を負っています。警察庁の上級職の人間は、大勢を救うために少数を犠牲にしなければならない。国を守るためと分かっていても、いつしか自分の魂が凍りついていることに気付く。我々には、定年前に過労死するか、定年後に人知れず自殺するか、病死するかのどれかしかない。私は来月が定年で、余命数年といったところです。だから今さら、なにも怖くはない……」
「……」
「ただ、警察官を拝命した若い時の誓いを果たせていないのが心残りなのです。日章旗と警察章に誓った正義を、ひとつだって果たせたかどうか。だが、今、目の前に救えるかも知れない国民がいる。天が私に最後に正義を果たす機会をくれたと考えています」
「……その国民が私だって言うんですか? どうやって救うって言うんです?」
男は卓上の茶を飲み干してゆっくり言った。
「一つだけ伺いたい。あなたは、原田氏に復讐を遂げて、気が晴れましたか?」
「……いいえ……」
「なぜです。あなたは息子さんを手にかけた敵に罰を加えることができた。そして、刑法上もあなたは無罪です。悔やむ理由など、一つもないじゃありませんか」
「私は正しかったと信じてます。でも、落ちていく原田の声が耳から離れないんです」
「……で、夜は眠れない?」
「ええ、最近はお医者さんから出してもらう薬を飲んで、それでなんとかまどろむ程度しか眠れません」
「そのうち、治りそうですか?」
「いえ……多分、一生このままだと思います」
「そうですか。それを聞けて良かった」
白髪の警察官は朗らかに宣い、そして微笑んだ。
結衣は当惑した。そして怒りに襲われた。この男はなぜそんなことを言うのか。
「良かった? 何がよ! 何ひとつ、何ひとつ良いことなんてない! 何が、どう、いいんですか!」
結衣は子が父親に対するような態度で、眼前の老いた警察官に向けて自分の感情をぶつけた。
結衣が落ち着くまで相当の時間をかけてから、白髪の警察官は微笑んで言った。
「私は、あなたが正しい感性を持った人で良かったと言ったんです。普通、警察官や兵士は任務で敵を倒しても悔やむことはない。それは必要な仕事だからです。誰かがやらねばならない仕事を果たしただけ。でも、人が自分の正義の為に他人を殺めた場合は違う」
「……?」
「正しい感性の人間が復讐で相手を死に至らしめた場合、あなたと同じように、自分が正しかったと分かっていても深刻に苦しむものなんです。私は40年余りの警察人生を通して、それが正しい側の人間の本能だと知っています。もちろん、苦しまない人間もいる。もし、あなたがそちら側の人間なら、私はこの計画を全て白紙にする予定だった」
「計画……って、なんのことですか?」
「ここを出たら部下についていってください。私があなたにできるすべてのことを彼女がします。……では私はこれで。二度とお会いすることはありません」
唐突に警察本部長が部屋を去り、入れ違いに若いスーツ姿の女性警官が入室してきた。
「竹本さん。私は里中といいます。本部長から特命を受けています。さあ、行きましょう」
12 再会
それから数週間、結衣は若い里中警部補と一緒に色々な役所を回って手続きをした。だがいつも里中警部補は外で待っていて、決して役所の中に入ってくることはなかった。外で待たせて悪いと思っても、いつもニコニコ微笑んで待っていてくれる女性だった。
あちこちの窓口での手続きはいつも円滑で、時には窓口担当者が驚くほどだった。
市内にある新築の県営住宅が決まった時には担当者が驚いて声を上げた。
「事故物件でも、こんなにすぐに当たることはないです。築浅物件は順番待ちが山ほどいるんですから。誰か、お偉いさんにお知り合いがいるんですね? 誰なんです?」
こんな会話を公務員が人前で平気でするのが奥山県奥山市だ。
もっとも、結衣も驚いた。割り当てられた公営住宅は僻地の改良住宅ではなく、バス通りに近い、ほとんど新築の建物だった。結衣はどうしても下水の匂いが嫌いだったから、結衣は臭気の無い部屋に心から感謝した。
ある日、福祉事務所に訪れていた結衣は、所内が騒然としているのに当惑した。女が大声で暴れている。
こんな日に限って里中警部補はおらず、結衣は一人だった。最近の結衣は里中警部補をすっかり良い相談相手にしていた。その里中警部補が、女にしかできない外せない用があるのだと言って今日は同行していなかった。
髪を雑に金髪に染めた女が、どこかの政党のお偉いさんと来たとかで、所内でやかましく声を荒げていた。
「委託か契約の窓口のあんたらじゃ話にならないのよ! はやく所長を出してよ! 旦那が死んで一文無しで路頭に迷ってる市民を飢え死にさせる気なの? 何回でも来るんだからね!」
荒れる女を避けてさりげなく別室に移された結衣は、生活保護の認定が下りたことを知らされた。――あの一連の報道の後では結衣を雇ってくれる会社があるはずもなかった――地元テレビは盛んに報道を続けていたし、地元紙も堰を切って追随したから。
――奥山金剛グループ、脱税で追徴課税――
――奧山市長、収賄容疑で逮捕――
――奥山市教育委員会を県警が強制捜査――
結衣のフルネームと来歴まで報道されてしまった。「淫乱美人OLの復讐の殺し」などと下品な発言をしたコメンテーターもいた。だから、結衣には地元で自活できる可能性が全く無かった。
「おめでとうございます。よく耐えて、ここまでがんばりましたね……」
担当の職員が手を取って喜んでくれた。
結衣が手続きを終えて小部屋を出ると、なんと里中警部補が荒れる女と対峙していた。確かに、今日は用があるので、と言っていた。
「あんた誰よ?」
「私は県警生活安全部の里中です。あなたがここで大声を出して恫喝を始めるようになってからしばらく経ちます。所長は胃を壊して入院してしまいました。あなたを業務妨害罪で訴えるそうです。私は、傷害罪の適用も視野に入ると思っています」
「あんたよくそんなこと言えるね。この人は奧山金剛の役員さんで〇〇党の奥山県本部長様。こんなちんけな役所なんか、この方の声一つで潰せるんだよ! あんたもクビにしてあげる」
女の恫喝など気にしない風で、静かな威厳に満ちた里中警部補は、女の連れてきた男――奧山金剛の役員で〇〇党の県本部長という男――に近付き、耳元で何かささやいた。男は女を残してすぐ出て行った。
「な、なによ? 何を言ったのよ?」
里中警部補は荒れる女を無視して続けた。
「最後に言いましょう。あなたは数千万あったご主人名義の口座の預金をこの数ヶ月で全て使ってしまいました。その代わり高級な家具や鞄、ドイツ製の高級乗用車を買っておられ、所有者はあなたです。よって、生活に困窮しているとは認められないんです。……って、何回も聞いてますよね?」
女は激高した。遠くで見ていた結衣を指さした。
「あの女はなによ! 風俗でも何でもやればいいじゃない! 女なんだから男相手の商売があるでしょ!」
「……そうですか、その発言はあなたにも返ってくる提案でもありますが……」
「そんな仕事を私がするわけないじゃない! 市民への侮辱だわ! 新聞沙汰にしてやるからね」
「確かに侮辱でした。あなたのような人間に務まるような楽なお仕事ではありませんから。法令を守りながら立派に自活されている風俗産業の女性たちを私は尊敬しているんです。もちろん違法行為は許しませんが……」
「ふざけんなてめえ!」
女は半狂乱になって里中警部補を殴った。里中警部補は静かに女を拘束した。
「十四時三十二分、原田瑠奈、業務妨害および暴行の現行犯で逮捕する」
結衣はハッとした。この女は原田――原田の妻だ。化粧や服装が派手に変わっていたから気付かなかった。
外で待機していたらしい制服警察官たちが入ってきて、たちまち原田瑠奈を連行していった。
窓口職員とロビーの市民からは拍手が起こった。
だが、里中警部補は周りに誰もいないかのように静かに結衣に近づいてきて言った。
「さあ、行きましょう。本部に竹本が来ています。多分、いなくなった時とは別人だと思いますよ」
県警本部の応接室で、結衣は作業服姿の竹本に再会した。
竹本の肌は黒く焼け、額には深い皺。
何より、目が――瞳が――悲しみに満ちていた。前はそんな目をしていなかった。結衣より一回り以上も若い竹本は、すっかり老け込んで、結衣より年上の男に見えた。
竹本は椅子から立ち上がり、ヘルメットを脱ぎ、結衣に近付いた。何も言わなかった。
結衣も何も言わなかった。その代わり、結衣は男の顔を思い切り引っ叩いた。
一度では足りない。二回、三回、四回、五回……
結衣は、あの懐かしい匂いを竹本から感じた――それは、伐りたての樹木の薫りだった。
竹本は崩れ落ち、結衣の足元で泣いていた。
結衣は男に静かに告げた。
「許さない……死ぬまで絶対に許さない……ずっと……私の傍で償ってもらうんだから」
男は何回も頷いた。
結衣はかがみ込み、眼前の満身創痍の男を強く抱き締めた。
結衣の顔は涙や鼻水でぐじゃぐじゃになった。見かねた里中警部補が結衣にハンカチを差し出すまで、ずっと結衣は竹本を抱き締め続けていた。
(了)
復讐の女
全ての固有名詞や団体名は架空のフィクションです。
また、経済の構造が酷似する地方や、骨子が類似する事件が存在した場合も、全ては偶然の符合です。