『日本の新進作家』展
一
本などを通じて仏教の教えに目で触れる毎に強めるのは、その修行の過程で苦しまなきゃいけない訳でないのだろうけど、しかしながら感情などの「色」の囚われにとことん向き合った後でなければ色即是空の教えに込められた「無」の真理が齎す解放感(の様なもの)を文字通り全身で感じ取ることが難しいのでないかという思いである。つまりは真理に到達するには「色」の部分をよく識らなければならない。言葉を覚えた人間が当然のものとして身に付けた理屈の、またかかる理屈に基づいて抱く物事への理解ないし認識に対する身体的反応としての感情が有する拘束力又は私の「世界」の窄め方を内側から体感し、その限界点まで歩みを進めないと向こう側の景色なんて見えやしない。あるかないかも知れない真理の影を追い求めて彷徨い続ける。その過程の全てが一挙に把握され、纏め上げられてしまう瞬間、理解と感性の狭間にあって真理が閃かせるものをこそ見逃さない。そのための修行なのだ、と。
かかる見方に立てば、真理という概念の内側に並々と注げる長き道のりの果ての苦しみが全てを握る。ゆえにかかる苦しみを抜きにして、真理に至る道程を教義として言語化=情報化しても後輩を迷わすだけになるのかもしれない。なぜなら苦しみ方は人それぞれだから、「こう苦しめばいい」と記し教えることの無意味さは容易に知れる。それでも真理に至る道を指し示すことは、それを追い求める後輩が長き道程を踏破する為の支えになる。ここにきて、意味で答えることが決して叶わない禅問答の「意味」が見出せる。きちんと苦しめることの大事さを十全に伝えられる情報の塊として、それを口にした途端に機能不全に陥る私たちと情報の関係性を見つめ直す契機としてナンセンスな対話が重宝されて来た。
情報として提示されるものから分かる「分からなさ」と、かかる「分からなさ」から手を伸ばしていって届きそうな未知への期待。東京都写真美術館で開催中の『見るは触れる 日本の新進作家』展において、「もの」それ自体にスポットライトが当てられた理由もここにある。そう筆者は考える。
二
ヘッドフォンから流れる説明を聴きながら、室内の作品を鑑賞する永田康祐の展示空間は人が抱くイメージの形成過程に理性をもって踏み込んでいく。と記せば、およそ表現作品の鑑賞を楽しめやしないなと即断できそうだが、決してそうではない。
かかる展示空間で行われる説明はアルファベットが振られた各展示物の、一見して把握できる姿ないし構成の融解に向けて簡潔かつ丁寧に行われていく。例えばブラックホールを対象にする点で共通するにも関わらず、その見た目と成り立ち方がまるで違う二枚のイメージを見比べさせる「2種類のブラックホールの画像」では筆者自身が既に抱いていた「同じ」ものという認識に根本的な問いを立てる。片方は想像として描かれて、もう片方は大規模な実験結果として記録された。説明を聴いて知る二つの対象の実際を知ってもなお容易に消えない筆者の内なる感覚は宇宙の彼方で生まれるブラックホールの実際から離ている。刺激されたのは内観で、それを梃子にして日常という「世界」をひっくり返し、その底面にある「創造された」ものとしての側面を論理的に発見させて驚かせる。あるいは画像編集ソフトのフォトショップに備わったスポット修復ブラッシングツールを使用し、任意に指示した箇所を塗り潰して周囲のイメージから類推したものを重複させる「Theseus」は空白を不自然に埋めた作品である。しかしながら、当該作品を俯瞰して鑑賞していた筆者は上記修復箇所に気付けなかった。要するに当該作品の特徴といえる情報処理を筆者自身の脳が既に行っていた。知見としては珍しくも何ともない。けれどかかる知見を創造の文脈に乗せれば五官の作用で取得した情報を統合して作り上げられる私の「世界」の現実の、いい加減さを実感できて面白がれる。
永田康祐の手になる展示空間の醍醐味がここにあるといっていいだろう。客観的に存在すると思っていた日常を継続して生み出している人間の、創造的な営みへの気付きは私たちの誰も彼をも表現者に仕立て上げて未知なるステージへの階段を想像させ、駆け上がらせる。
現像した写真を燃やす。その結果として残ったものを使って表現を行う。かかる表現のどこにも見当たらない元のイメージは、しかしその制作過程の説明を受けることで存在感を得る。だからかかる存在感を手がかりにして、多和田有希自身が又はワークショップに参加した人たちが形にしたものの意義に向けたアプローチを鑑賞者が行える。しかしその過程が論理的なものといえるかは怪しい。失われたものを根拠にしても、それは想像の域を出ない。答えは全て手の届かない彼方にある。多和田有希の展示空間を美しく彩るライティングの妙がその神秘性を際立たせる。
寄せては返す波の様子を撮った写真を構成するイメージの中から海水の部分だけを焼き、大きくプリントアウトしたそれを宙吊りにしながら光を当てて、空間のあちこちに喪失感という名の輝きを表現する作品群は表現者が自身の母と共に制作したという説明を受けてますます意味慎重となる。「もの」として明確な形を成す表現だからこそ到達できるイメージの次元と、その境目。勢い余ってその向こう側に身を投じてしまいそうなその覚悟と工夫には「私」と名乗れる意識の全てを託したくなる魅力が詰め込まれている。
重複という要素は水木塁と澤田華のイメージ表現に共通すると感じる。前者は一つの画面を構成する異質なテクスチャの重ね合わせたものとして、後者は機械的かつ化学的な作用によって撮影し又は記録したデジタルイメージを投影するスクリーンそれ自体に焦点を当て、劇中に登場させる。そういうメタ構造の映像表現の中で画的なものの実際を問う。
スケートボードに足を乗せて表現者が感じ取った都市の感触を表したという水木塁の「雑草のポートレートおよび都市の地質学」シリーズにはその意識に統合される前の情報が優れたデザイン性を発揮して現れており、見事に保たれた個々のテクスチャの質感に意識を奪われる。そのせいだろうか、かかるシリーズ作品は展示会場で見るよりも許可された写真撮影のイメージとして見る方がその全体像を明瞭にする。二足歩行で見えるその景色の色味と触感は知っているようで知らない。視覚情報を巧みに利用した「世界」と意識の反転ぶりは、本展のイントロダクションとして申し分ない。
他方、澤田華の映像作品では電源の入ったプロジェクターを映す映像作品の劇中にて、かかるプロジェクターに向けられるぺらぺらのスクリーンこそが主役である。かかるスクリーンに投影される映像群も、ソール・ライターのカラー写真の様に前後不確定な物語を感じさせて鑑賞する者の想像力を掻き立てて面白いのだが「漂うビデオ(水槽、リュミエール兄弟、映像の角)」の真骨頂は気紛れに画角から外されたり、元に戻ったりするスクリーンによって教えられる映像それ自体の所在の無さだろう。再生機器が一つでも欠ければ途端に見えなくなるそれらの、分断されたコマを自発的に想像で埋めざるを得ない私たち人間の性(さが)。架橋を必要としない理解にも又はあり得ない妄想に囚われた誤解にも通じる点で必ずしも親しき隣人といえないかもしれないその能力は、人工的な灯りに満ちた展示空間で静かに暴れている。それをまた面白がっている鑑賞者たる筆者を見つめて、時間芸術が機械的な真実を淡々と語る。
最後に、未知への期待という本文の筋からは外れると思うがやはり記述せずにはいられない、岩井優のインスタレーション。
あらゆるコミュニティに積極的に参加し、その内側から見えるものを映像作品などの形で発表する作者が本展で見せるものは福島原発に起因する放射性物質の除染作業に携わった際の記録である。
皮肉混じりに除染作業の実際を目にできる「グラウンド・クレンジング・ガイド」も俊逸だと感じたが、それ以上に強烈だったのが展示室内をほぼ埋め尽くすヴィデオ・インスタレーション作品である「経験的空模様」であった。
木製ドームの天井には隙間が目立ち、内側に設けられた椅子に座って眺めているとつぎはぎだらけの空模様とその所々を唐突に遮る、恐らく作者であろう作業服姿の人物がこちらを覗き返してくる。
「何見てるんだよ!」
と言わんばかりの気まずい邂逅に心中がざわめいてしまうのは、先の映像作品にて除染作業にたずさわっているという理由で地元民からも忌避されていたという作者の言葉を聞いたからだろう。目に見えないものは、何も放射性物質だけではない。そしてその目に見えないものについては、展示されている作品をのんびりと鑑賞する私たちもどこかで加担しているものなのだろうと直観する。続けて実に気まずい雰囲気を肌で感じ取る。足早に立ち去ろうと試みる、しかし一方で負けてなるものか!と大した理由のない意地を張って居座る十数分間。
あるいは除染作業という主観的な経験事実が作品表現として発表された途端に客観的な意味をもち、社会一般に対する主義主張の構えとなる。およそのドキュメンタリー作品に通じるであろうこの変容にも目を向けるべきことを、岩井優という表現者は伝えると理解する。取り上げようとする社会問題に対して振るわれる編集作業というメスの存在を忘れてはならない。その入り方次第で伝わるもののニュアンスが大きく変わる。だから積極的に訝しみながら鑑賞しなければならない、見えないものが見えるようにと、ただ受け取るだけの存在で終わることがないようにと。
主体性の復権。こういう言い方をかの表現者が嫌うだろうなと思いつつも記す、嘘くさい言葉。
六
イメージを直に取り扱う。その為に必要な創意を抱き、それを具体化する為の手段としてユニークな、けれど有効かつ適切なアプローチを発見し実行する。記録装置であるカメラを用いた表現だからこそ浮き彫りになる人間の「世界」。勇み足とも思えるその認識過程への深入り。
かかるフロンティア精神に満ちた『日本の新進作家』展へと足を向けることをお勧めしたい。
『日本の新進作家』展