ライアン・ガンダー展




 一見して不合理又は不条理に思える表現行為の構成を読み解くと、そこに仕掛けられた皮肉や主張の過激さによって選択されたテーマを支える従来の屋台骨が大きく揺さぶられ、ラディカルな問題提起となって観る側の記憶に焼き付く。いわゆる現代アートの良さとして記述されるであろう知的ゲームなこの側面を踏まえれば、展示会場となる東京オペラシティアートギャラリーの入口付近にまで作品を展示する、無節操と表裏一体な自由を行使して空間変成を試みる『ライアン・ガンダー われわれの時代のサイン』にてライアン・ガンダー本人がチケット売り場のすぐそばに各作品のポイントを記した図録を冊子として配布する行為はそれらを読み解く楽しみを取り上げる、愚さの表れのように思える。しかしながら本展を鑑賞し終えた筆者の正直な感想としてはライアン・ガンダー氏が仕掛けた「遊び」の方が知的ゲームとしての側面より現代アートらしさを楽しめたし、遥かに力強かった。その理由は、冊子に記載された各作品の概要から窺えるポイントと目の前で鑑賞できる作品との間で必ず生まれるギャップにあると考える。
 例えば、最初に入室できる展示室内には時間に関する作品群が並ぶ。それはグラファイト製の彫刻として形作られた等身大の人間の姿で、名付けられた「脇役」の出番を今か今かと待つ中、展示室の壁面に残る汚れによって彼ないし彼女が移動し続けていたという事実の間接的証明として展示され、または両面とも文字盤しかない為にその機能を発揮できず、彷徨く度に時間を忘れる壁掛け時計「クロノス・カイロス」の姿を取り、さらには氏が設定した項目毎に調査された時間(例えばイギリスにおいて正式な外科医になるために必要な時間又は18歳の男性がオーガズムに達するまでの平均時間など)を黒い立方体に設けたバックライト付きのLCDのプログレスバーの量と速さで繰り返し示され、簡易式の記録庫として床に直置きされたままの異様な光景であったりする。
 仮にこれらの作品を前述した冊子がないままに鑑賞したとすれば、筆者はきっとその完成形に込められた表現者の意図にのみ興味を抱く知的ゲームに巻き込まれただろう。頭でっかちのままに展示室を歩き回って、バランスの悪い足跡を其処彼処に残したはずである。
 これに対して、ライアン・ガンダーが配布した冊子はある意味で各作品のネタバレになっている。そこに記された内容を基にして制作意図に当たりを付け、氏の目線に立って鑑賞する作品が完成に至るまでの制作過程を想像する。用いる材料の選択から「その形」にするまでの迷いと葛藤、それらを纏め上げて完成形のピリオドを打つその後にも再度行ってしまう自問自答。それらについて、氏になりきったつもりで議論する空想ないし妄想を楽しめる。
 勿論、配布される冊子に記載された作品のポイントが表現者の意図する方向へと鑑賞者を導き、予め許された範囲内での自由な鑑賞体験を行うように仕向けている可能性は大いにあるし、いま振り返ってみても寧ろそう理解する方が正解かもしれないと正直に思う。
 実際、冊子の解説なしで見た何点かの作品に覚えた直観は反射的に意味不明という名の遠い距離感を抱かせた。それを核心とする抽象表現と違って、かかる距離感によってライアン・ガンダーの表現に浴びせかけられる冷や水に似た感覚があった。現代アートという知的ゲームの開始を知らせるファンファーレがどこかから鳴り響いて、鑑賞する意欲の半分が一気に削ぎ落とされるイメージも同じくである。
 他方、冊子の解説を読んだ後で見るライアン・ガンダーの表現作品は必要最小限のデザイン性を取っ掛かりにして、コンセプチュアルな階段を意識的に上れた。その途中、途中で出くわす中々にブラックで軽妙なユーモアには自然と笑みを誘われ、ワクワク感が増していった。例えば「編集は高くつくので」は外宇宙から飛来したとしか思えないステンレス製の巨大な立体物が木製の土台を破壊した格好で展示される作品だが、目の前に立つと珍妙な起伏を見せる表面が凸凹な鏡となって分裂した鑑賞者の姿を大小様々に写し、その場限りのエンターテイメントを発揮する。その様子を一枚撮って、どこも壊れていない展示室の天井部を見上げると「これも所詮は設定ですよね?」と漏れこぼす舞台裏の表現者がウインク付きの本音を明かす。マルセル・デュシャンのそれと比べればマイルドに薄められてはいるが、しかしその狙いを外さない視線が美術鑑賞という行為に纏わりつく虚飾性という衣の裾を遠慮なく捲り上げそうな危機感を覚える。あるいは自らが監督としてメガホンを取った『独裁者』の劇中でチャールズ・チャップリンが演じる床屋が訴えかけた自由と意志、そして融和を煌めかせるかの有名な演説を、展示室内の壁に穴を開け、そこから愛くるしい顔を覗かせるネズミがか細き声で長々と行う「2000年来のコラボレーション(預言者)」を鑑賞するために強いられる姿勢をキープしなければならないという身体的なしんどさと、意地でも全部聞いてやる!と踏ん張る意識のジレンマに頭を抱える瞬間には心身を言葉の上で切り分けて踏ん張る、独りよがりな無意味さを笑い飛ばせる契機が潜む。
 質問者と解答者という対立構造を必要とする知的ゲームの枠組みをあっという間に解消する解説付きの冊子、けれどもそこには記載内容を疑わずに信じる鑑賞者の純心を想定し、各作品を鑑賞者の内面において完成させるというある種の共犯関係へと誘い込んだライアン・ガンダーという表現者の狡猾さが認められる。しかしながら、そこにライアー・ガンダー氏自身の賭けが無かったとはいえない。
 単純に連想しても思い付く、それは配布された冊子を受け取ってもらえない危険、受け取ってもらった冊子をきちんと読んでもらえない危険。あるいはその内容に呈された疑義に基づいて最初から信じてもらえない危険。さらにはその仕掛けを体験した鑑賞者に何一つ楽しんでもらえないことになるかもしれない危険。
 その場の限りの動的な偶然によって作品が完結するという勝負所に制作者の覚悟が滲み出ていると筆者は思う。その挑み方を一歩、二歩と下がって俯瞰すれば、ときにアミューズメントパークのアトラクションと見間違うぐらいの参加型の表現を試みることが少なくない現代アートの射程が浮き彫りになる。
 無手勝流と揶揄できそうなぐらいにバリエーションに富んだ現代アートの手段の選ばなさも、お巫山戯たっぷりのパフォーマンスに対する躊躇いのなさもきっと「まっさらな場」の発生に向けられている。その目的のためなら表現ぶりが滑稽さや不条理の深い溝に勢いよく嵌るのを厭わない。日常生活の上で認識できるありとあらゆる空間を奇妙、奇抜な作品ないし表現を設置して作り変え又は突飛なパフォーマンスを実行する時間的アプローチをもって「その場」の意味内容を移し変えていく。それが一時的にしか成功しない変成であると分かっていても、それを行う。既存の社会ないし制度の合理的な文脈が齎すしがらみから免れるため、そうして確保できた時間を使って新たな道を模索する。不特定又は多数人の間で行えたのなら尚いい、「ここ」から先の延長線上にあるものを眼差した共同作業に必要なスペースを開拓する。そういう理想ないし可能性を時間と空間という対義語を酷く捻くれさせてでも表現しようとする。それこそが現代アートが達すべき境地。ライアン・ガンダーという遊び方を知って、現代アートに対する偏見を少なからず抱いていた筆者がそう理解し、主張するもの。




 表現に対する理解、と記すと鳴り響く警告音が筆者の中にもある。けれど社会的動物として有機的関連性を持ちながら継続せざるを得ない社会生活上の営為として表現活動が位置付けられる。と同時に誰かの目に晒されるのを免れない表現作品が持つ意味というものが知らず知らずのうちに生まれてしまう運命にある以上、他者で形成される社会との接触面で生じる創造と破壊の亀裂を見落とす勿体無さを避けるため、それが「どういう表現なのか」という意味認識に基づく理解の問題はやはり重要と考えるしかない。
 一方で、前述したように現代アートが既存の枠組みに対するラディカルな問題提起を有効に行うための、「まっさらな場」の発生を目的とするという筆者の考え方に拠ればそのムーブメントを如何に形成し、発生したその勢いを如何に維持していくかが極めて肝要になる。その時に「現代アートとは?」という問いに対して表現活動の質的側面を損なわない言葉を編む練習をしておくのは無意味にならない。そう考える。
他方で、表現に対する理解を生むのに「かかる表現の何処が、どう良いのか」という評価基準が寄与する面は少なくないだろう。それはきっと当該表現活動の理解を助ける特徴となる。
 もっとも、ここでこそ実践されるべき批評文化の未来について門外漢の筆者が語れることはない。ただ、かかる評価基準に対する問題意識をもって現代アートの試みを眺めるとき、何でもありの民主的な性格がその敷居を低くする分だけ現代アートの表現の良さを分散して見えなくする。それこそ単純な過激さや話題性に特化した基準が好き放題にその枝葉を伸ばしていくことになりかねない。そうして生まれる葉むらの暗がりに遮られて、現代アートの根っことなるべき行く末が誰にも追えなくなるリスクは決して低くない。素人ながらにそう危惧する。
 「では、どうすればいいか」と問題的しても、繰り返しになるが、門外漢の筆者がこの点について有意義に語れることはない。
 しかしながらライアン・ガンダー氏が日本製のデニムを24枚のパネルに仕上げ、ごみ箱の底で絵具を押し当ててコロナ禍で自宅から出られなかった時期に眺めた月の姿を所々にプリントした巨大な作品、「ばらばらになった自然のしるし(大多数は立ちすくんで気もそぞろに月を見つめる中、少数派は怒りに駆られてしるしを描く)」を鑑賞した時の肌感覚を拡張していくような感動を、また作家のスタジオの窓をHDスクリーンで再現し、かかる窓から見える日光や月明かりあるいは街並みといった景色をパソコンを使った24時間サイクルのアニメーションで流す「スタジオの窓からの眺め」のぼやけた色味に触発された詩的な想像と創作への意欲を思い出すと、現代アートにも通底する表現の地金の硬さに見出すものがある。
 ただの自然風景からでも人が感じ取る「美」しさとは何かという困難な問いもその先に見据えて、私たちは色々と「考え始める」のを始めてもいいのではないだろうか。個人的な興味を抱く対象とすることに止まらず、こう提言する勇気をここでこそ奮ってみたい。

ライアン・ガンダー展

ライアン・ガンダー展

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-01

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