マリル

一話完結の習作。



 一
 ミレイが外して捨てたミレイの家の鍵は村はずれで鍛冶屋を営むトル爺が打とうとしているすごく熱いものの一部になっていて(拾っているところを見た人がいる。),ミレイの家には今日も誰かいる。窓は深夜を忘れて灯りを漏らす。時々見える人影がマリルの家から見えたら,マリルは玄関に向かって歩み,鍵をかけて眠りにつく。辛くなんてもうない。マリルは生きて,明日も生きる。




 ミレイは美しい子だ。それはひねくれ者で気難しいパチャが苦々しくも認めるところだ。始まりのビー玉が青く収まった2つの目。長い睫毛。辛うじて生きるだけの息だけ吸える小さな鼻。『お手本』として神様が手元に取っておきたかったのに間違えて,地上に落としてしまった唇とその声。ちょっと傾げる癖の可愛い首もと。ブロンドの髪で隠す背中は弓なりで,細い足には触ると気持ちの良い彼女の肉が付いている。一ヶ月に一回だけ切る毛先はその切りたて時がマリルは好きだ。大きな木の根っこに凭れつつ一方の手で何本か無造作にまとめ取り,もう片方の手の平を,いや,許されるのであればどこでもいい,そこを擽ったのならマリルは魂のおりものを1本ずつ溶かして喉からまた,誰かに見せるなんてしない秘密の内側に入れ戻す。その時に触れる外気はマリルを安心させる。永遠と繰り返すことが可能になって伸ばせない手の肘からでも生えて伸びてしまいそうなイマジネーションな手を,ミレイに伸ばさずにいることができる。
 対するマリルは髪が自慢だ。マリルの髪は黒く長い。ミレイのように背中は全て隠し切れなくて,真新しい田んぼの畝のように上がったり下がったりを繰り返すけど,ミレイは素敵だって会うといつも言ってくれる。そのタイミングは違うけど,ミレイは触ってから末端の毛先で離してしまうまでに一回は必ず「素敵だね,マリル。」と言ってくれる。他については軽くでいい。マリルの顔は丸顔で,目はミレイより小さく,鼻はミレイより大きく縦に長い方で,唇は厚くてミレイが面白がって触ってくれる。背丈はミレイと一緒ぐらいで足のサイズはマリルの方が小さいが指先から甲にかけて横に開いていて靴が痛い時が少なくない。そしてマリルは女の子だ。ミレイと同じ,女の子だ。
 マリルとミレイが育った村は裕福だとは言えないんだと,外から来る商人たちは見かける子供に言う。商人たちの前で首を横に振る大人たちにも同じことを言っていたのだろうから,マリルとミレイのような子供達に言うその言葉はただの愚痴だった。自給自足でどうにか食べて,一年に三回ある祝祭の儀式の中で村の未来のように結婚をし,または密かに付き合い出す大きな若者。練習していた小さなステップをたくし上げたスカートを手に持ち披露する小さな若者達。その姿を中央や四隅で明明と消されることなく灯される火の向こうに伸びる影のような眼で,かつての自分たちのように優しく見守る大人達。飲み切るまで空けられるお酒に,蓄えを気にせず食べられる沢山のご馳走。生き残っている家畜が闇の影に見えなくなる村の外れから天に向かって投げ込む鳴き声。内側でだけ聞こえる笑い声。内側が強い笑い声。外を意識せずマリルも踊って褒められて,ミレイは村の誰からでも告白された。ミレイのパパとママも楽しそうだった。『マリルちゃん?』と語りかけるように微笑むミレイのママに,それを幸せそうに見守るミレイのパパにマリルは手を振って,ミレイと手を握り合ったのを覚えている。
 ミレイのママが死んだのは事故だと,マリルは聞いた。最初は雨の日に山に入って,山菜やミレイのママが得意としていた木彫りの器に合う染料を出すためのお花を探しに行った日の出来事だった。村の皆は雨の日には山に入ることを気を付ける。それはミレイのパパとママも同じだから,最初に山に入ったミレイのママも同じだったはずだ。でもミレイのママが死んだ場所から逆方向に辿って知れる滑り落ちた場所は,無理をして登らなければいけない斜面な所で,確かに染料を出す花は咲いてはいたけど無理して取るべき量ではないと村の大人達は思った。雨脚は確かに足を滑らせる量だけ降っている。だからあとはその理由だけだった。疑問は2つだけ。ならば何故?なんでそこに?その時には生きていたミレイのパパは呆然としたまま,『分からないを』繰り返した。村の皆は慰めた。ミレイはマリルの手を痛く掴んで秘密のように(でもマリルには聞こえるようにして),泣いていた。タイミング良くその手が壊れて,世界と一緒に丸ごとミレイの,さっきまであった幸せな体感と一緒に何もかも治るのであればマリルは,その肘ごと手が歪に曲がっても構わないと本当に思っていた。
 ミレイのパパはおかしくなったと大人が言い始めたのは,ミレイのパパがミレイのママが亡くなったようにその場所の上り下りを辞めずに毎日繰り返していることに,大人じゃないマリルも気付いた頃だった。ミレイのパパは一日の朝を滑り落ち,一日の夜になっても滑り落ちた。当然にミレイのパパは怪我をした。足を折り,歯は欠け,古い擦り傷も新しい擦り傷と合わさってより大きな擦り傷になり無事で済みはしない。周りの大人はミレイのパパを力づくで止めたり,拘束して村長が話をしたりした。『離せ!』と言ったり,『邪魔するな!』と言ったり,ミレイのパパは大きな声で怒鳴り暴れた。怪我をする大人から,喧嘩までする大人まで色んな大人がいたけれど,ミレイのパパをどうにかしようと村の皆で『このこと』に関わっていった。その中にマリルの両親もいたけれど,目立つことなく皆に埋れていた。マリルの両親は皆の動きを見て決める人だからいつも遅れて見えなくなる。マリルにだって見つけられないのだからしょうがない。でも人数の多い村の皆の一員としてミレイのパパとミレイを心配しているのだと,マリルは両親の心に自分と一緒の,『この温かいものがある』のだと信じた。だから村の皆がミレイのパパにすることに多少の荒々しさを感じたとしても,マリルは『仕方の無いことできっとどうにかなるもの』だと思った。ミレイも同じように思っていたと,思う。ミレイはパパがされていることに,グッと唇を閉じて声も隠していたから。
 最後にミレイのパパを見たのは一時は説得に応じても,やっぱり上り下りを辞めないパパを村の皆で拘束し,お腹を殴り,頬まで殴り,両手を後ろ手にして手首を太い縄で拘束し猿轡をさせていつもより村はずれまで連れて行った夕方だった。この頃のミレイのパパは骨が複雑に繋ぎ合わされてぎこちなく歩き,斜め前を向いてもきちんと見えていると思えず,利き手の右手はもう長く使えないことが決まったように曲げられた肘が曲がったままで,意識も疲れ切っていたためか,痩せ細っているためか,あるいはもっと複合的に複雑になっていたためにもう,ミレイのことも分からないようになっていた。肉もなく骨が皮に包まれていると言った方がいいぐらいなのに,目だけはとっても元気に見えて,『それで会うべき人にに会えているのだよ。』と村の草という草を撫でる風よりも生ぬるくも涼やかに話す,そんな印象がマリルの記憶に最後まで残っている。ミレイのパパを引き連れて行くその時の村の皆は誰1人としてマリルとミレイに気付いても見もしないか,見ても何かの言葉をかけたりしなかった。何も言わないでただ皆でミレイのパパを連れて行く。マリルの両親は村の皆として最後尾の先頭に居て歩いていた。どこも汚れていなかった。何の力も使っていなかった(そのまま家に帰って来たぐらいだ)。村の皆の数多い姿でミレイのパパの姿が隠され,村はずれ近くの,なだらかでも大きく下る先に皆が見えなくなってから,夕陽が沈むまでに村の皆が誰1人欠けることなく村の中央まで帰って来た時からミレイのパパは見えなくなった。マリルとミレイは離れることなく,黙ることで話すように2人で2人を支え合っていた。
 一番最初にパパが居ないことに気付いたミレイが,ミレイのパパをいつも真っ先に押さえ込んでいたガッチョのパパを見つけて『パパは?』と聞いてから,ガッチョのパパだけ居なくなりミレイだけがその場に残ってしまった後,ミレイは何回目かのほつれを直した長いスカートを,下ろした両手が動かないところでグッと握りこぶしを作って上なんて向かなかった。ミレイのママと違って村の皆はミレイのパパの居なくなり方に疑問なんて持っていなかった。マリルは疑問を持っていた。ミレイは疑問を持つ余裕がなかった。ミレイのパパが居なくなって誰も上り下りしないその場所で,マリルにすら見せずに,ミレイはミレイのパパと同じことをした。正確には『何もかもがが始まった場所』に頑張って登るしか出来なかった。空が曇って小雨の日,避けなければ濡れるのが当たり前で不自然に,その四肢を震わせて恐々と斜面を横に進んで行って下を覗き込んで,ミレイはそのまま止まった。ただ迷って,二つの選択肢に揺れては挟まれて,止まっていた。前にも行けない。戻れもしない。どうにも出来ない。
 ミレイはそのうちに泣いた。声をあげて泣いた。もう隠しもせず,『そこから最も近い家の』シェリルさんのお父さんが気付いて急いで近くに行って,手を差し伸べた手をミレイが選んでシェリルさんに抱きしめられるまで,ミレイは声をあげて泣いた。その日ミレイはシェリルさん家に泊まって,自分の家に1人で帰って一日,ミレイを見た人はいないそうだ。マリルは一部始終の何も,その目で見ていない。ミレイの『この話』は村の誰もが知っていることになっていた,次の日に村の皆から聞いた。
 マリルは自分の家の自分の部屋から見えるミレイの家に,持ちたくもない変な勇気を持って向かった。いつもは楽しみで仕方ない砂利道の,数多い小石が踏みしめられる音が鼓膜をツンと突いていき,1人で振り返ったことがない『戻る道』を2回も見てしまった。ミレイの家が遠い。小さく遠い。
 それでも何かしたいと思って,またいつもに戻れると信じて,果たしてマリルはミレイの家の前についた。ミレイの家についている鍵がかかった扉を叩いた。中は暗い。様子は分からない。でもミレイは居るはずで,だって帰ったはずでどこの誰も見ていないのだから,そこにミレイは居るはずだ。少ししても声はしない。もう少ししても声はしない。でも気配がすると信じて『ミレイ。』と,マリルは声を出して呼びかけた。賄賂を貰ったみたく夏でも冬でも風を通す村の家の木の板は,中からでも必ず声が聞こえる。だから聞こえている。中に居るはずのミレイに聞こえて,だから『コンコン』と中からノックが返ってきた。『ミレイ?』と確認するとまた『コンコン』とノックが中から帰って来る。『大丈夫?大丈夫?』と聞けば2回,『コンコン』と返ってくる。『話したくない?』と聞けばまた,『コンコン』と返ってくる。『中には入っちゃ駄目?』と聞けば続けて『コンコン』と,返ってくる。『ミレイ?』と聞けば『コンコン』と,返ってくる。『ミレイ?』と泣いて聞いても『コンコン』と,返ってくる。『ここに暫く居てもいい?』。そう最後に聞いたマリルの声にミレイはやっぱり『コンコン』と内側から返した。鍵がかかったミレイの扉に凭れてマリルは本当に,暫くそこにいた。向こう側にミレイが居たかは分からない扉の木の板は,壊れもせずにマリルを支えた。曇りから止まずに小雨は降って,晴れになんていかずに天気はそこで止まっていた。





  
  ミレイの身寄りが問題になった。ミレイにはミレイのパパの弟が居たけれど,もう村から居なくなった。ミレイはある意味1人になる。ミレイはまだ村の大人じゃない。そのままは良くない,と村の大人は思った。負担は皆で分けることが出来る。一番近い家のミシェルさんが1番近くで面倒を見る。その都度皆も面倒を見る。そうして村の皆で『ミレイを見る』。それが皆で決めたこれからのことだった。
 ミレイは従順に村の皆の世話になった。下を向いて歩くことなんてせず,前を向いて笑ったりもしてミレイは生きていた。弓なりの背中を隠すブロンドの髪もまた伸び,細い足は細い足のままに村の中をきちんと歩いた。マリルとだって話した。家の中から出てきたばかりの,ぎこちなかった笑みが自然になってみえて,マリルは安心したりもした。
 ただそのうちにミレイは昼間に見えなくなって,でも村にいることは確かだった。夜眠る前の部屋から見るミレイの家は夜を知らない明るさに満ちていて,影絵のような女の子が誰かと動いて窓のとても近くを横切って見えたりした。長くなんて見ていたくなかった。何をしているのかなんて,想像の硬い種の中で押し込めるだけで精一杯になって考えたり出来なかった。
 『ミレイは良い』。村の大人のうち男の人たちが『ひそひそと,でもバレてしまうように』言うようになり,村の大人のうち女の人たちが苦々しそうにミレイの『家の方を』見るようになったのは季節が半分だけ変わって秋になり,それも越して冬に近付いた頃であった。村の雰囲気はどこか落ち着かず,一番近くて一番高いあの山に雪は積もっても村の中には雪が降らないその始まりにもう,薄氷の割れる音が『村の皆の数だけ,皆の耳の下で』聞こえるような毎日になっていった。マリルは砂利道をまた不安に歩いてから静かな昼間のミレイの家の,扉の前に立った。そこに立っただけで気付けたことは商人とか外の人びとが来たりして,村の中でも戸締りに必要になるべき鍵が付いて無かった。誰でも開けることが出来て,声なんてかけずに何時だって出て行くことが出来るようになっていた。頑張って地表に置いていた種が硬い表面をすり抜けて,見えない地中に疼く根を生やす音が心臓の早鐘に乗せられて抑えられた時間を取り戻すべく急速に,『足を伸ばし』て嫌になる。扉を叩くマリルはその日に居なかった。マリルは1人で『戻る道』を下って戻っていった。
 マリルは冬の恋をするようにした。村の中でまだ大人といわれない大きな若者たちに交じって,良く会いに行ったり,話をしてお互いを知るようにして同じだけの空気を吸って日々を過ごしてみた。心の何処かを擽って感じるものごと限定して,仕切った背中を振り返ることなんてせずにマリルは生きた。ミレイの話はまだ聞こえた。村の問題として取り上げて無いものとしないのは,関わっている人が多いためだと言われていた。取り上げるとマズイんだと,『関わっているかもしれない人』が言っていた。
 やって来た商家の長男は,マリルの村から山2つ向こうにあるというもう一つの栄えた村に仕入れと新たなコネを作りに行く途中で同道していた使用人とともにマリルの村で,山越えに向けた足止めを自ら望んで行っている数日目を迎えていた。マリルは村一番の高望みと言われるタドルから紹介された村の若者たちの1人として知り合って,選ばれたように『中が詰まって深いような良い仲』になっていった。そのことにマリルの両親も喜んだ。自分たちの何かを期待するように喜んだ。
 商家の長男は村で聞けない話をする。村にはない仕草をする。物理的に触れられない,そしてマリルの知らないその距離感によって,マリルは区切ることによる息苦しさから顔をあげて新鮮な空気を吸えるような気分になった。夜になると背中を向けた窓の近くで,覚えたての詩を暗唱したりすることも上手くなった。眠るときの方向だってもう窓を避ける気持ちも,貴重に食べる伸ばしたパン生地のように薄くなっていった。冬に焼きあがるパンは美味しいのだ。マリルは『これでいい。』と確信しようと頑張る必要がない,そう思える自分の鼓動を探さなくてもいいその予感の温もりに浸ろうとしていた。『コンコン』と窓を叩く外の冬の音になんて耳を貸さない自分に成れるように,慣れるように。
 ある日マリルは商家の長男に呼ばれて行った『村と森の間』で『これからしようとした話の行き着く話』として将来を失くした。星の数ほど人はいるはずなのに,降りかかるものはマリルにだってあるものだ。マリルが住むこの村には丁寧に敷かれた長い谷底を跨ぐ丸太の橋があって,そこを走り抜けても飛び跳ねても組んだように編まれたロープが切れて落ちることもない。商家の長男に追われて,マリル自身も逃げて,飛び込んだその丸太の橋がぶつかる意思に荒れ狂う嵐のようにガシャガシャと,ガシャガシャと音を立てて左右にも振れ,マリルは何度も足を挫くぐらいに転け,落ち着く息なんて忘れて,血を吐くぐらいに叫んで抵抗し,たとえ商家の長男に繰り返し左頬から殴られ,顔の半分ごと手で抑えこまれようとも,噛みつき,殴り返し,その都度離れ,マリルは大切なものを大切に守るために逃げた。逃げて走って,捕まって,また逃げた。最後に転けてもう立ち上がれず,馬乗りになった商家の長男に何もかも奪われそうになったときにマリルは覚悟をもう決めた。商家の長男がある程度行為に夢中になっている時に潰れて見えない片目の辺りに的があると信じて親指をもって目を潰し,痛みに悶える商家の長男の首を噛み切るために噛み付いた。引き剥がされ,また殴られ,口の中に何があるかなんて分からないぐらいになって,首を締められながらロープの向こうに落とされるために押し込まれて抵抗のステップを踏まされた。もう終わる。そう思った。だから弛緩した。その時までに一番疲労していた膝から急に,スッと抜けた。商家の長男も,引っ掻かれたマリルの首の皮と引き千切られた首回りの黒髪と一緒にいなくなった。落ちた音は谷間の高さを時間に変えただけの何の変哲もないもので,意味なんて分からなかった。丸太は揺り籠のようにまだ揺れて,マリルは意識をそこで失った。ミレイのことは思い出せたか,少しも覚えていなかった。
 許された気持ちは感じれば,とても空っぽなのだった。







 熱で浮かされて起きて見る。片目は見えず,片目は見える。それで分かる少し剥げた真上の木の板たちは明るい火の光で作られる影を写すから,「私が死んだ結果」なのだと受け入れた。ほんのり感じる左側の温かみを落とし忘れた自分の体温だということに,動かせない首で縦に納得して受け入れた。
 左側から大きくかかる影はこちらを見ているようであった。しかし大きく塞がった片目と,影に覆われすぎた片目ではよく確認することは難しい。生きているようなその影は,こちらを覆った影のまま,動かない。そこから離れて行きはしない。側から離れたりしない。
 影は語る。
「良かった。」
 聞いた影の声は人の声で人の言葉を操った。言葉を返そう。そう思った気持ちは喉を上手くすり抜けてただの息として漏れ出て消えた。一言にもなりはしなかった。
「無理はしなくていい。頷くだけでいい。」
 影は言う。ぎこちなく頷く。それは伝わる。
「出来るだけのことはやって,おそらく大丈夫だと思う。そう言った人は信用出来る人だから。だからもう,大丈夫。いい?」
 ぎこちなく頷く。
「ここで眠ってて良いから。自分の足で立てるまで,ここで眠ってていいから。いい?」
 頷く。
「今は思い出そうとしなくて良い。眠ることに懸命になって。いい?」
 頷く。
「水,飲む?」
 頷く。影は遠く居なくなって、戻って来たら水差しの細い口で少しの水を口に流し込む。喉は無事に通って多分漏れたりはしていないはずなのに,息を漏らしたら顔に何滴か零れ落ちたようだった。生温くて,自分が流す涙の軌道のように顔から外れていった。
「もう眠って。もう眠って。」
 影が繰り返すものだから,もう眠った。小さい頃に遊んだ泥の手触りのような眠りの始まりについて来て,影はすべてを覆って目の中に消えた。
 
 





 マリルはミレイと神様について話したことがあった。定期的に村に来る神父様の説教を聞いた次の日で,教会の屋根が後ろからよく見える小高い秘密の木の下と小さい若者たちから呼ばれる場所で話した。
「マリルは神様って信じる?」
 ミレイはマリルを見ることなく,山を重ねたようにその晴れた日に動かないようにあった大きい入道雲を見ながらマリルに聞いた。綺麗でマリルが好きな髪が2人の後ろから吹く風に一度乱れて,マリルはミレイの顔を横から確認出来なくなった。
「神父様がそう言うから,居るんじゃない?」
 マリルの答えにミレイはまだこっちを見ずに,しかしまたマリルに聞いた。
「うん,そうだね。じゃあ,神様がいるとして,その神様を信じる?」
「いるとした神様を?」
「うん,そう。いるとした,神様を。」
「うーん。」
 軽い悩みのように唸りつつマリルは,止んだ風の中で邪魔なんてされずに横顔のミレイを見た。青空との遠近感を失って見るミレイは透明なまでに無表情で,自然所有の真剣さを悪戯に崩したりしていなかった。マリルはそこも好きだった。そんなミレイも好きだった。
「神様って皆を助けてくれるって思うから,『そんな神様』を信じるかな?うん。『そんな神様』なら信じる。」
「そっか。」
「ミレイは?信じる?」
 マリルの方はそんなに真剣にならずに,ある意味自然な話の流れとして,ミレイに聞いてみた。答えよりも続く会話を優先するためだけに生きる,そんな質問だった。
「私はあんまり信じない。だってね,皆を助けてくれる神様だったら,皆を助けるために誰かの助けが軽くなることだってあると思うの。だから同じくらいに皆が助かるって,変だし,そんなことは起こらないって思う。自分で自分を助けなきゃいけないとき。『そんな神様』ばっかりじゃないとき。信じるばかりじゃいけないとき。だからあんまり信じない。全部なんて信じない。」
 そう言うミレイにマリルは驚いた。ミレイに芯のある強さを感じはしてもこういう事に関して,ミレイはとても従順だと思っていて,大人な村の皆に怒られそうな事は考えもしないと思っていたから。マリルは急いで質問した。ミレイに関して知らないことを,知らなければいけない。
「ミレイが思っている,自分で自分を助けなければならない時ってどんな時?」
「え,うーん,そうだね。うーん。」
 『え,考えてなかったや。』ともう既に言っている,いつものミレイのような口調とトーンでミレイは横顔でも困りはじめた。『うーん,うーん。』を繰り返して,『そこに答えを忘れたのよ。』とばかりに,うんと高くの青空をミレイは見続ける。固くなりそうだった気持ちが和らいで,マリルは笑って安心した。質問はもう良くなった。
「うん,分かったよミレイ。正に今のようなときなんだね。自分で自分を助けなきゃいけないとき。自分で言っちゃったことに,自分で困って『うーん。うーん。』って,言っちゃってるとき。」
 一間を置いたミレイの顔はマリルが言った意味に気付いて広がる恥ずかしさに,その美しい顔を赤くしていった。そしてソッポを向いてしまった。綺麗な後頭部も良いけれど,マリルはミレイの機嫌を取る必要に迫られることになった。抑えきれない笑い声にミレイは増す増すマリルの方を向かなくなったけど,マリルはミレイと幸せだった。ミレイもきっと同じであった。






 治る時に出る発熱は意識をとても苦しめる。身体が経過している怪我という怪我の異常事態がそのまま真っ直ぐに躊躇わずに意識に訴えかけるからだ。剥き出しの神経はいつもより一回り太くなって,分厚い情報を大量に運んで負荷をかけて喜んでいる。
 汗が出て止まらなくなって,見ている真上の景色は記憶の塊にならずに蕩けたままに包帯の中で苦しむ。蓋を開けた頭の中から言葉はたくさん逃げていったようだ。『もういいの。』しか思えない。『もういいの。』も口に出来ない。
 影の世話になったのだろうか,時折感じる『その側』の肉に爪も食い込ませてどうにかベットで眠った。苦しみを誰かに押し付けなければとてもじゃないけど生きられやしなかった。罪なんて関係ない。『その側』に罰だけ与えるようにして,影に縋って生き続けた。






 朝の目覚め方は治ったことを一番良く教えるのだと知ったのは,『ここがどこで,今まで側に居て,今も側に居るのが誰なのかがわかるその時』だった。室内を形作る木の板の年季具合はさらに進んだように思えたけれども,室内は変わっているように思った。前には見たことがないものが一番近くの木の机の上に数個有る。村の外れから来たものだろう。その細工が凝っている。
 でもそこに在る人の,弓なりの背中を隠すブロンドの髪は変わっていなくて,細い足には触ると気持ちの良かった彼女の肉が今も付いている後ろ姿だった。焼き付いた記憶越しに通って浮かび上がる意識の上で,その振り返り方まで同じに思った。
「起きたマリル?」
 そう聞いて,
「起きたよミレイ。」
 掠れた声をどうにか形にして,マリルはミレイにそう答えた。





 安定したマリルの治り具合はどうしようもなく塞がっていたマリルの片目を開けさせて,しかし片足を不自由にしていた。無理して走って商家の長男に何かされて,ぎこちない腱になったらしい。ミレイが信用出来る人が言っていたそうだ。それを聞いて室内を,杖をついてマリルは歩く。
 マリルがそこにいる間,ミレイの家には誰も入っては来なかった。訪問者は居てもミレイは強く追い返した。時には家の裏の真夜中に静かに怒鳴りあったりもしていた。そのうちにその訪問者も減っていき,『決まったかのように』誰も来なくなった。
 ミレイの家にある食べ物は『必ず贈られる貰い物』として,2,3日の間隔で『男の人のような人』に届けられた。ミレイはその中から口が切れて上手く開かないマリルのために,消化しやすいものを作ってくれた。マリルは食べられるだけ食べた。何も言わない食事となるのが普通だった。
 見える範囲でも痣が多いマリルの体を水で浸した布でミレイが拭いてくれる時,前を隠したマリルはよく下を向くマリルになっていた。顔を見ることは,まだどうしても出来なかった。色々と出来なかった。それでも目は開けていたから,視界に入るミレイの腕には引っ掻き傷が残っているのに気付く。より前を強く押さえてしまうのは気のせいじゃなかった。
 商家の長男は行方不明で片が付いている。そして私も同じなのだと,ミレイが『ミレイの家の外の事実』としてマリルに教えてくれた。それが良いとは言わないけど,それが良いとミレイは考えて手を打ったようだった。マリルは何にも言えなかった。そこを言葉にするほど,『あるところの気持ちのざわつき』は収まっていなかった。
 マリルは夜になら外に出られる。だから夜になって,ミレイの家の『真裏の扉』から外に出た。そこは文字通りミレイの家の裏で,村に隠れた場所でもあった。杖をついて歩くのにマリルは慣れなきゃいけない。杖がつくのを邪魔する細かい小石の砂利道も,長く伸びてつくまで地面の様子が分からない生い茂った草っ原も,今までとは違って,でも今までのように歩かなければならない。マリルは一から覚えなければならず,マリルには練習が必要だった。
 寒い村の外れにある遠い闇は高く星を明るくして,透明さが力を発揮する時間となっていつもマリルと一緒に過ごした。どうしても吐く白い息はすぐに消えてまた現れる。目の前を曇らせて欲しくても,自然がそうはさせてくれなかった。だからマリルは必ず見てしまう。寒い村の外れにある遠い闇を見てしまう。
 その時間,ミレイは家の中に居た。影作る灯りをマリルが戻るまで決して絶やすことなく,起きてマリルを待っていた。マリルが裏扉を開ければ,マリルは村の外から来たであろう温かくいい香りのする飲み物を淹れてくれた。抵抗があった最初の気持ちは『あるところの心のざわつき』を持ってすればこだわらなくなって,残さず飲むようになった。ミレイは飲まないけれども,マリルは最後まで,空になるまで飲んだ。
 ミレイとマリルがする会話はとても必要なまでに留められて,それ以上にはなっていかなかった。今までミレイにも色々とあったのだろうし,マリルには1つの大きなことがあった。数なんて関係なく,またその質なんて関係ない。天秤のバランスが取れなくなっても,話せる時は話せるし,話さない時は話さなくていい。2人の間に必要なのは,例えば歩み出す鐘の音だった。教会のものであってもいいし,鍛冶屋を営むトル爺が叩く無骨な槌の音でも良かった。互いに振り向くのか,互いに対面するのか分からない,今の関係に2人して『気付いたように気付くこと』,それがとても必要であった。





  冬の小雨に連れられてミレイの家に昼の暗闇が訪れた日。亡くなったビリンズのお母さんの魂に捧げるために教会の鐘が本当になったその日。マリルとミレイの話はお互いに鐘が鳴っていることを確認しあって,マリルがもう聞いてから始まった。
「ねえミレイ。ミレイは今まで何をしていたの?」


 




 椅子に座って届く範囲でブロンドの髪にブラッシングをしていたミレイは櫛を置いてマリルを見た。窓から日光は全体的に部屋に入って散漫になって,ミレイの顔に薄ぼけた光と影を作っていた。『お手本』として神様が手元に取っておきたかったのに間違えて地上に落としてしまった,その唇とその声でミレイは言葉を紡いだ。
「今まで,ね。最後にパパが何処かに居なくなってから,の今までね。」
「そう,その今まで。『その時からの今日まで』,だよ。」
 時間の確認と今の関係に2人して『気付いたように気付いて』から,マリルは黙ってミレイが話した。
「私はねマリル,体を売っていたの今まで。場所はここ。時間は夜。人はたくさん。『外の人』も,たくさん。」
 ミレイはマリルを見ていて,マリルはミレイを見ていた。
「『外の人』が基本なんだけど,村の人も混じっていたの。でもそれは核心ごとじゃない。目的は接すること。村に来た『外の人』に親身に接して上手くコトをする。それが核心なの。」
「それが核心。ある意味の接待としての?」
「そうよマリル。ある意味の接待として,よ。」
 ある意味の接待。そこから続く話はマリルの中で決まっている。だから聞く。マリルは聞く。
「教えて欲しいのミレイ。それは誰かに仕方なくさせられたことなの?それともミレイが決めたこと?」
「それは私が決めたことよマリル。隠された期待はされていたけど,仕方なくさせられていない。自分で答えて自分で決めてそこに向かって,進んだの。」
「それは何故?どうして?」
 早鐘に似た焦燥感をマリルは抑えきれずにとうとう聞いてしまった。返ってくる答えにマリルの中でミレイがどうしようもなく変容してしまって,それはマリルにまで及び,丸太を繋いだようなマリルの大事さが抜けて無かったことになる。幼いころまで失くなってしまう。マリルの始まりが失くなってしまう。でももう聞くべきで,マリルはもう聞いた。時は進んで鐘はなる。
「うん,そうだね。理由だよね,マリル。それはね,救いなんだよ,マリル。神様がくれたりしない救いなの。覚えてる?教会の屋根が後ろからよく見える,小高い秘密の木の下で話した『あの救い』のこと。」
 マリルが覚えているのか思い出したのかの判別をつけることをしないで答える。
「『そんな神様』ばっかりじゃないときの,信じるばかりじゃないときの,自分で自分を助けなきゃいけないときの,『救い』?」
「うん,その『救い』。『そんな神様』ばっかりじゃないときの『救い』。」
「ごめんねミレイ。まだ座れない。ミレイの隣に座れない。ある意味の接待と,ミレイの『救われ方』が繋がらないの。だからまだ教えて欲しい。『救われ方』を教えて欲しい。」
 ミレイは『うん,そうだね。』と言うように頷いたまま下を向いて,顔をあげた。ミレイの声が部屋に響く。
「パパがいなくなった日ね,私,パパみたいにママが居なくなった『何もかもがが始まった場所』に向かって,あの斜面を辿って行ったの。パパが居なくなって誰も上り下りしないその場所で,マリルにすら見せずに,ミレイはミレイのパパと同じことをした。空が曇って小雨も降って,恐々と斜面を横に進んで行った。それにも必要な理由はね,マリル。私もそのまま行こうとしたの。パパとママが行ったところに。私も一緒にって思ったから。」
 今聞いてもやっぱりドキッとするその言葉はマリルを理解と困惑に挟んだ。言葉が出ないのか,言葉が出たがらないのか判断出来なかった。
「でも正確にはね,『何もかもがが始まった場所』に頑張って登るしか出来なかった。下を覗き込んでそのまま止まって,ただ迷って行くか戻るかの2つの選択肢に揺れて挟まれて。私,泣いたの。声をあげて泣いたの。それで気付いたシェリルさんのお父さんが急いで近くまで来てくれて,差し伸べられた手を私は選んで,シェリルさん家に泊まった。その時にもう,生きることは決めていたわ,マリル。死のうとは思わなかった。」
「うん。」
 そうマリルが言って,「でもねマリル,」とミレイは続けた。
「私は悔いたわ。パパと同じことをするまで私は村の皆と多分同じだった。一番近くでパパから遠かった。パパと同じことをしようとして,パパと違って止まって,パパにやっと近付いてパパの気持ちを,推し量れる気持ちになった。私はそうだったの。そんな私だったの。」
「でもそれは普通だと思うよミレイ。パパの判断が全てじゃない。」
「うんそうだねマリル。それが全てじゃない。それは分かるよマリル。でもね,気づいて付いた傷があった。私が知った傷があった。それに皆を救ってくれる『そんな神様』の,救いは来なかった。だから信じるばかりじゃないときの,自分で自分を助けなきゃいけないときの『救い』が私に,必要になった。捧げることで,パパのように。投げ打つことで,パパのように。」
 小雨降る暗いミレイの家の中で内と外で遮断された冬においても透明なまでに無表情で,ミレイは自然所有の真剣さを悪戯に崩したりしていなかった。ミレイは固く信じていた。マリルが期待していたものと違った変わらなさで,ミレイは変わらず信じていた。それがミレイの始まり。『その時からの今日まで』の始まり。
「初めての相手は今も知らない人。次の相手はマリルも知っている人。その次はまた知らない人。また知らない人。その後の前後関係はもうはっきりしない。関係を持ったのは覚えているけど,順番なんて確かにしなくなった。数度も足を運ぶ人も居るの。回数とかも関係ない。」
「村ぐるみ,なのね。外を意識した村ぐるみの。」
「概ねはそうなるわ,マリル。村も『外を意識し始めた。』。けれどこちらから渡すものがなかったの。『内側が強い村』だったし,今もそうだから。『来てもらう評判』に,こだわれなかった。今は私と,他に隠れた数人が密かな役割を果たしているの。」
「他にも居るのね。」
「うん,他にも居るの。」
 関わっている人が多いから村に問題になりはしないと聞いたことがあったマリルは,今ここで納得した。関わっている人は多いねミレイ。声に出さずに心で思ってミレイに聞いた。
「うんミレイ,流れは分かった。『今も』分かった。『失いつつも捧げて多くの助けになって』ミレイが今いることも分かった。でも分からないことがまだあるよ,ミレイ。『私に分からないことがまだある』んだよ。ミレイ。今ここで,ミレイの家でミレイと話すことが出来るまでに大きな経験をして杖つく私だから分かって,ミレイに聞かなきゃいけないことが。ねえミレイ,『その救い方』でついた傷は無かった?『強い意思でその救い方を選んだ影として,見えなくても感じてしまう傷』は,無かった?」
 視線が会うままの中で小雨が屋根を叩く音が聞こえて,ミレイはしばらくじっと動かなかった。時間が過ぎた分だけ光量が減って家の中の影は眠るための毛布を少しずつ掛けていく。微笑は浮かんでも真剣で無表情。正面のミレイは綺麗で動かない。鳴っているのはそろそろ最後だろう。そんな間合いで鐘が鳴っている。
「私を見てミレイ。分かりやすいと思うの,ミレイ。私は守った。私のものを大事なものとして守った。守ることで傷も負った。杖つく片足。今も少し腫れている片目。見えない心。強張るどこか。守ることで傷付くことなんてない,なんて誰も言っていなかった。神父様も言ってなかった。ねえ,ミレイ。また聞くね。配置を変えた食器が残した跡のように,通るたびに見える不自然な痕跡のように付いた傷,無かった?」
 ミレイはマリルの両足を見て,今度は引っ掛けて固定している杖を見て,マリルの顔も見て一つ息を少し吐いた。ミレイは言った。
「答えがない,ていうのは駄目かもねマリル。言いたくないなら,良いのかなマリル。」
「それは自分で決めることだと思うよ、ミレイ。自分で決めて,良いんだよミレイ。」
「うん。そうだね。そうなんだよねマリル。自分で決めなきゃね。それで自分で言わなきゃね。」
「うん。言って,ミレイ。教えて,ミレイ。」
「そうだねマリル。うん,そうだね。マリル。マリル。聞いて,マリル。私は言わない。私は見ない。私は決めてここに居る。私は私を救っている。私は私に救われている。今もそう。これからもそう。だからねマリル。そんな傷,無いって言う。私はそんな傷,知らないって言う。そんな傷は感じないって,固く誓って思って言う。ねえ,マリル。私はね,そんな傷は感じないよ。」
 マリルはミレイの言葉を聞いた。確かにミレイの言葉を聞いた。反芻して噛み締めて,ぐっと飲み込んでマリルはその口を,開いた。
「『そんな傷は感じない。』。そう。うん,そうなんだねミレイ。分かったわ,ミレイ。」
「うん,分かってマリル。」
「うん。分かった。分かったよミレイ。」
「ねえマリル?」
「何,ミレイ?」
「私,話せて嬉しいよ。こうすることが出来て,嬉しいよ。」
「うん,そうだね。嬉しいね。嬉しいよ,私も。」
「ねえマリル。ねえマリル。」
「うんミレイ。何,ミレイ?」
 何かに気を取られたら,音は人から遠ざかって見ないふりの,フリをしてくれる。それはミレイの家の屋根叩く小雨も例外じゃなく,その雨脚が本降りと言われるようになっても変わらない。マリルとミレイは気を取られた。時間に泣いて悲しみが軋むから,簡単に声を掛け合うことにマリルとミレイは気を取られた。




 マリルは治ったと思ったから,杖にも慣れたと決めたから,その日のうちにミレイの家から出て行くことにした。服はミレイから着ている以外に合計二着貰ったものぐらい。靴もミレイから新調して貰った。下着もだ。気付けばミレイのものばかりだった。
 杖をついてベッドからミレイの家の,『正面の扉』に向かう。鍵が付いていないそこは今のマリルにでも簡単に開けられる。だから背後のミレイはそのまま立って,マリルは扉のお腹あたりをグッと押した。キイっと鳴って,外に出て村の中に通じていくあの砂利道が見えてから後ろ手で,壊れることなんてないと分かっていても壊れないように,扉をキチンとパタンと閉めた。
『ねえマリル?』
 扉越しの背後からくぐもって,ミレイの声がマリルに届けられる。
「何,ミレイ?」
 聞こえない可能性に心配しつつマリルは前を向いたまま言った。
『ノック,していい?』
 返ってきた返事に声は届いたのだと確信して,マリルはまた言った。
「うんいいよ。じゃあミレイ,私はまだ行かないでおくね。」
『うん。そうしてマリル。ありがとね,マリル。』
 そこからの静かな沈黙があって,『コンコン。』と背後からノックがした。マリルは立ってその音を聞いていた。やっぱり今も遠い空で,曇って一色のそこの空で,マリルは杖を使ってでも立っていた。気温を下げた雨はまた小雨になっている。やっぱり小雨になっている。
 『コンコン。』と等しい感覚でミレイが叩く音は続く。マリルも『コン。』と一回返した。戸惑って,また決意したように『コンコン。』と等しい感覚は続く。マリルは気紛れのように思えても忘れやしないように『コン。』と,何度か叩いた。いつまでも続かなくても,いつでもまた始められるように。
 『コンコン。』。等しい感覚ごと弱くなって,最後のノックが止んで終わった。マリルはでも待った。待って何もないことを知って,杖から先に進めて歩くのを始めた。マリルは進む。ぬかるむ砂利道を進む。
 ビリンズのお母さんへの祈りが終わった教会から村の皆が出て来て,ミレイの家の方から歩いているマリルを見てからピタッと止まった。見えない綿でもあるのだろう。後退りをしているようにも思える。近いのに遠い光景だった。
 砂利道の音は水混じりで耳に痛くも何にもなく,杖の木の音が一番しっかりして感じて,聞こえた。杖に最初からあった『M』の刻印が握り直す手の指に隠れきれずに目に入る。どちらのものでもいいイニシャル。二人共通の一文字。
 マリルは前を進んで行く。一歩一歩進んで行く。ぬかるむ砂利の道の途中,小雨に包まれ進んで行く。






 マリルは髪が自慢だ。マリルの髪は黒く長い。ミレイのように背中は全て隠し切れなくて,真新しい田んぼの畝のように上がったり下がったりを繰り返すけど,ミレイは素敵だって会うといつも言ってくれる。そのタイミングは違うけど,ミレイは触ってから末端の毛先で離してしまうまでに一回は必ず「素敵だね,マリル。」と,言ってくれる。
 





(了。)






 



 


 



 

マリル

マリル

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-20

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