即興
存在しない事を覚えたあなたが一冊に纏めて届けてくれる、あの、見たことのない光景やこの、思い付きもしない風景。
硬い表紙で、重たさを感じさせる作品集の頁数を指で押さえて
「きみがする様に、」
誰かの為と考えもしない、あのシャッターを切る回数をカウントして
載せる為に選ばれた、それぞれの代表作の背景となる程に積まれていく、
あなたの日々の、その目が捉える日常の詳細が聞こえるように、こうして、
書き記す。
ある奏者が言うには、
私たちは、私たち以前の者たちが試行錯誤し、お客の前で披露して、その反応が良かったものをさらに練り、これもまた披露して、その反応を聴き、皆で分かち合ってあるいは盗み合って口伝いに又は得意な者が記号化して教え合って来た、その伝承を守る。けれども、私たちにも欲があり、その欲に従ってそこから先の形を模索して、演奏する。その時の心持ちを、不安を、孤独を、目の前の光景に託す。
不思議なもので、
「一の弦、二の弦、三の弦と弾き又は繋いでいく毎に曲に込められた総体的なものの塊が次第、次第に解れ出し、この『私』ってやつに重なって消えていく。その瞬時の触れ合いがまあ、なんとも言えないぐらいに力強いんだぁ。文献やら写真やらに残っていない限り、俺たちと同じ様にお客の前に姿を晒して、その時、その時の為に弦を弾いていたヤツたちの顔なんて知りはしないのにさ、その手に、指に、鼓動に、響きにと震え上がっていくその様をありありと思い浮かべられる。その中に取り込まれていく。この歓喜と循環を、特にあいつは朝陽に喩え、こいつはきっと雪景色として重く、綺麗に載せていく。そういう業(ごう)が俺らなんだ。そういう道に足を乗っけてるんだ。なぁ。」
だろう?
と、投げかけられるもの、
「そうですね」
とすぐにした返事より、すぐそばにいて、連続するシャッター音を鳴らして、そして何も言わないあなたの事が気になった。その返事を誰よりも聞きたくなった。だって
「あなたは表現者だ。」
だから、
あなたにもその機械で表現出来ることを表現したい。そういう欲がきっとある、何より作品集はその証左だ。けれどあなたが撮り、あなたが選んだ珠玉のイメージのどこにもあなたがいないことを、私がずっと不思議に思っている。何故だろう。あなたという存在はそこにあるのに、その機械をしっかりと構えてレンズの向こう、被写体となるものを真っ直ぐに見つめているというのに。その痕跡を決して残さない。
その「死に方」。
そこに存在しない誰かの目と、誰かの意思と、誰かの想いの代替物として何度も押し、何度でも切る、きみという機械。私という言葉。
若き奏者が汗を流して、伝統を背負い、さらにその先へと進もうとも勇気を奮って、お客となった私たちの目の前で必死にもがいている。申し分なく思えるその技術も、気持ちも、届かなければ意味はないのだろう。自分自身と向き合い、自らに納得してから始まるその勝負所。そこから始まるその者の人生。鬼と呼ばれようが、名もなき者としてその道半ばに倒れ、似たようなものと区別されないままそこらに埋もれて忘れ去られようと、その欲深い歩みを止めない。その姿を眩しそうに、その裸眼で見守り、破顔して、静かに少しずつ、拍手する。小さなその、姿。
「写真家というきみは、」
覚えていないかも知れない、
愛用するその機械を手にしながらあなたは、目に見えて流れる様な音声で「私にこう言った」と記録する。つまり、こう構える時の私はずっと、きっと、
「誰にもなれない」。
それが良いんだと言って、嬉しいんだって言わなかった。とても幸せそうな顔をこちらに見せる矛盾と、切れないシャッターに指を乗せて何かをとても持て余す仕草をさらけ出して、こちらの言葉を、私の表現を、上手に使って、包まって。便利だねって暖かそうに褒めてくれるのだから。この臓腑。その魂。
だから「写真家というきみと、」
その盃に、感謝を注いで乗り出す。水面に足を浸す時間と欲深き歯を剥き出しにして、私というものを、その表現をかき鳴らす。叫べ、叫べと唄いながら、その道。涙を失くして記録する、そういう機械の果ての果て。「きみを見つけて笑うんだ」と。いつか、
「あなたと名乗って」撮られる為に。
即興