ヒーローごっこ
始業式の日の朝。カーテンの僅かな隙間から目を刺すような朝日が眩しい。壁掛け扇風機のタイマーはすでに切れていた。背中に張り付いた寝巻きが気持ち悪い。すぐさまそれを脱いで、シャワーを浴びた。制服を着て制汗スプレーを振ると、部屋中にツンとくる匂いが充満する。食卓につくと、テレビの前には特撮ドラマに釘付け状態の弟がいた。決め台詞と共に、ボルトみたいなポーズをとるヒーローを真似している。
「正義の味方、アワレンジャー!」
たぶん僕も小さい頃はこんな感じだったんだろう。今思い返すとちょっと恥ずかしかった。プレート上のハムエッグを不器用に食パンに乗せる。いよいよヒーローと怪物が戦うというところで、朝食を食べ終え、家を出た。
シノノメがちょうど歩いてきた。照りつける太陽に若干ふらついている。死に絶えそうな声でおはようと言う彼女の手には、とうに温くなったペットボトルがあった。気温三十五度、ジメジメする気候に耐えられず、僕たちは転がり込んだコンビニで氷菓を買い、木陰のベンチに座る。シノノメのはすでに棒が見えていた。それからほんの十数秒で食べ切ると、彼女はさっきまでの形相がまるで嘘みたいに生き返り、僕の前に仁王立ちする。
「私、生まれ変わったらスーパーヒーローになりたい」
「またいきなりどうした」
シノノメはいつも奇想天外で、何を考えているのかわからない、というかたぶん何も考えていない。
「悪いヤツをちょいと一蹴りで倒したりするの、なんか憧れるじゃん」
「お前はワンパンで飛ばされそうだけどな」
「なんでだよ、いつだって勝つのは正義だよ? 正義の味方、アワレンジャー!」
聞き覚えのあるセリフと、見覚えのある決めポーズ。あー、そうか。どうやら今朝の特撮に感化されたらしい。そういえばこの間はヘビメタバンドに憧れて、長いウィッグと安っぽいギターに、下手で悪趣味なメイクをしていた。彼女は本当に影響されやすい
滑稽なポーズを取る彼女を、通りすがりの野良猫が一瞬じとっとした目で見て、それから僕の横に座った。僕を挟んで彼女とは反対側に。僕が頭を少し撫でると目を細めて、もっと撫でろと言わんばかりに見つめてくる。シノノメが近づいて触ると、フシャーと控えめに威嚇した。
「猫には嫌われんのな」「うっさいな」
僕も氷菓を食べ終え、一休み済んだところでベンチを後にした。当の猫は僕の少し後ろをついてきていた。
「人懐っこいな」「そうか?」
シノノメは少し不満気な表情で、ちらちら猫の方を見ながら歩いている。
通学路の坂を下る途中、杖をついたお婆さんが登ってきた。透かさず将来有望なシノレンジャーが駆け寄る。
「おばあちゃん! 荷物、持ちましょうか?」
「あら、気が利くねぇ、あんがとさん」
おばあさんは、僕たちが下ってきた坂の天辺にあるバス停まで行くそうだ。
シノノメがスーパーヒーローになりたいだなんて言い出した時は、また変なスイッチが入ったかと思っていたけど、案外とても良い子になってしまった。何をとっても消極的な僕にはきっとできないことだし、そもそも大抵の人はやろうとしない。それを率先してやる彼女に、僕は感心した。
「あんたたち、学校は大丈夫なのかい?」
「んいや、いつも早めに出るから時間は大丈夫ですよ」
おばあさんの荷物はシノノメが持っていた。流石に自分だけ何もしないのも如何なものかと思って、おばあさんを負ぶろうとしたけど、さすがに申し訳ないと断られた。慣れないことはするもんじゃない。顔が少し熱くなった。それを見たシノノメはニマニマしていた。気付けば猫はもういなかった。
バス停に着くとおばあさんは「ほんと助かったよ、あんがとね」と言い、数秒ズボンのポケットをもぞもぞして「これでジュースでも買いな、余ったら仲良く分け合うんだよ」と千円札を取り出した。僕は慣習的に断ろうとしたけど、シノノメは「わー!いいんですか? ありがとうございます!」と満面の笑みで受け取った。おばあさんも嬉しそうにして、バスに乗り込んで、走り去った。
僕たちはまた学校の方に向けて歩き出す。この坂をまっすぐ下って、海岸通りを左に曲がり、少し歩けば着く。だいたい二十分、門が閉まるまであと三十分なので余裕で間に合う。僕たちはさっきおばあさんにもらった千円札を自販機に突っ込み、コーラとアクエリを買った。シノノメはお釣りを折半しようとしたけど、僕は結局何もしなかったから彼女に全部持たせた。彼女が自販機から取り出したコークのキャップを勢いよく開けると、ビタビタと泡と赤茶の液体が溢れ出した。でもそんなことは気にせず、僕たちは歩き始めた。
「ぷはーっ! 仕事終わりの一杯は最高だよ」
「本業はこれからだけどね」
「やっぱ良いことすると報われるんだよ、君もそう思うだろ?ねこまる」
「うわっ、いつからそこに」
僕とシノノメの間をさっきの猫が歩いていた。僕たちがどうせ戻ってくると思って待っていたのだろうか。そしてシノノメは、この猫が若干丸いからと言う、いとも単純な理由で「ねこまる」と名付けた。
「でもあんまり無茶はするんじゃないぞ」
「気遣ってくれるなんて、君も随分丸くなったねぇ。でも大丈夫、大丈夫。私こう見えて強いから」
ふんっ、と鼻息を荒げてシノノメは細い腕で筋肉をアピールするけど、筋肉と呼べるものは出てこない。やっぱり少し心配だ。彼女は好奇心旺盛で、何かを夢見る度、それになろうとするけれど、そのベクトルがどこか変な方向を向いていて、時には危なっかしい。
「この間魔女になろうとして、ほうき諸共海に落っこちたじゃん」
「げっ、…過去を掘り起こすなんて卑怯だぞ、すねきっく!」
「痛っ」シノレンジャーはやや暴力的である。ねこまるは恐怖を感じたのか、再びシノノメから距離をとった。
海岸通りに差し掛かって左に曲がる。住宅街を抜けて、視界が開ける。青い空と藍色の海、遠くには大きな入道雲が浮かんでいる。潮風が心地いい。
海岸沿いには鉄道が走っていて、僕たちはその線路脇の歩道を歩いていた。コンクリートの隙間からは一輪の黄色い花が顔を出していた。
踏切が鳴り始める。僕たちは立ち止まった。
少し遅れてきたねこまるがにゃっと短く鳴いた。
ふと踏切の向こう側に目をやると、一匹の毛並みの綺麗な猫が座っていた。
するとねこまるが、遮断機の降りた踏切にのそのそと入っていく。どうやらねこまるは踏切を見るのが初めてで、電車が来ることを知らないらしい。
向こう側の猫は何か言っている。たぶん戻れと言っている。
それでもねこまるは、そのゆったりとした歩みを止めない。
それを見兼ねたシノノメは、有ろうことか踏切内に侵入した。
「…だめだ、シノノメ!」
彼女の手を掴もうとしたけどすり抜けてしまった。
左右双方から電車がすぐそこまで迫っている。
僕の足はすくんで動かない。
鳴り響く二つの警笛と、障害物検知のブザー。
ねこまるが踏切の向こう側へ走り始めた瞬間、視界は猛スピードで走りながら悲鳴のような摩擦音を上げる列車の壁に切り替わった。
やけに五月蝿いアラームで目を覚ます。さっきまでの胸の緊張が和らいでいく。でも心臓はまだ大きく波打っている。魘されたせいか、猛暑のせいかわからない汗が、とてつもなく気持ち悪かった。寝巻きを脱ぎ捨て、シャワーを浴びて、制服を着る。髪からは淡くシャンプーの良い匂いがした。それを掻き消す制汗スプレーの匂いにはもう慣れた。玄関では弟がランドセルを背負って靴を履いている。給食用のコップが床に当たって、カラカラと鳴っていた。僕は冷蔵庫の氷を一つ、口に放り込み、家を出た。
自転車に乗って、坂を下る。向かい風は相変わらず熱風だけど、歩くよりずっと涼しい。坂の途中で転んで膝を擦りむいた小学生がいた。鞄を数秒漁って絆創膏を取り出す。
「兄ちゃん、ありがと!」
「学校着いたらちゃんと消毒してもらいなよ」
「えー、痛いのやだ」
「だめだよ、バイキンが増えて足からゾンビになっちゃうよ?」
「それはもっとやだ」
「じゃあ痛いの我慢しような」
「……うーん」
割り切れない小学生を後にして自転車に乗り、海岸通に差し掛かる。
信号待ちをしていると。向こう側にねこまるとそのカノジョがいた。
「ネコにエサやりしないで」と書かれた看板を尻目に、さっきコンビニで買った魚肉ソーセージを与えた。
そして坂から見て右の方に自転車を進める。
いつもとは違う風景にほんの少し、新鮮な気持ちだった。
制汗スプレーの匂いが混じった潮風は涼しくて心地いい。
地上に照りつける太陽はまだ夏が終わることを知らない。
ヒーローごっこ