色付く
社会人男性と白いナイフ
白いナイフがある。
いつの間にか、鞄の中にあるナイフ。
連日のサビ残で疲労困憊の彼は、その不自然な状況に反応できなかった。ベッドに倒れた彼が翌日起きても、そのナイフはまだある。
白い。柄も鞘も刃も、全て白。散らかった彼の部屋にあるどの品よりも白く、美しかった。刃物に明るくない彼だが、どうもコンバットナイフらしいというところまでは辿り着いた。
急にナイフを放り出し、彼は慌ててジャケットを拾い玄関を飛び出した。人ばかりのホームに着いた時点で既に疲れている。開かない瞼を擦り、あのナイフを思い返す。
ある。
鞄の隙間から、ナイフが見える。
絶対に置いてきた。しかし思い返しているうちに、彼は自信がなくなってきた。置いてきてない気がする。まあいいか。
今の彼には、いろんなものがどうでもよかった。
怒鳴り声。平気で人前で喚く上司だった。その同じ部屋の中で、誰もかれも陰鬱な顔をして黙っている。彼の就く会社は時代遅れの真っ黒だった。
彼は資料を投げつけられた。
朦朧とした意識の中、
輝かしい、ナイフが見えた。
彼は悟った、
『人は、刺せば死ぬ』と。
上司だけではない。
先日の傘泥棒も、
いじめてきた同級生も、
父親も、
人類あまねく刺せば死ぬ。
まだ殺さないでいるだけ。
彼は満面の笑みで上司に謝り、資料を拾い上げた。先程まで死んだ魚のようだった彼の激変は上司を気味悪がらせた。同僚は引いた。
それからの彼は無敵だった。怒鳴られても煽られても、穏やかに笑顔で対応した。上司はついに来なくなった。
彼は物怖じせず行動するようになった。会社の雰囲気は少しずつ変わっていき、彼は定時で上がれるようになった。
白いナイフは、いつも鞄の中にあった。
どんなに嫌なやつでも、刺せば死ぬ。
それが彼のお守りだった。
ある夕方、彼は父親を見かけた。
蒸発した父。優しい母を死ぬまで苦しめた父。
向こうは息子の顔も覚えておらず、彼に気付かない。
咄嗟にナイフへ手をやる。
しかし、無い。
見つからない。
そのうち父も見失ない、
彼は呆然と立ち尽くした。
彼の生活はまともと呼べるようになった。
彼は土やら鉢やらを買い、狭いベランダで種を蒔いた。ジョウロを忘れたのか、コップで水をやろうとして溢している。
白いナイフは消えた。
あの時無くてよかったと、彼は心底思っている。
刺せば父は死ぬに違いない。しかし刺した彼もまた刺されることになる。彼の場合は母の顔が、死ぬまで彼を刺すだろう。
刺せば死ぬ。いや、誰もがあらゆる手段で殺せることを、もはや彼は知っている。
しかし彼は殺さない。
あのナイフが白かったのは、誰も刺したことがないからだと思う。
コンバットのくせに臆病らしい。
でも、白いままの方がきれいだ。
ベランダが華やぐにつれ、
彼はナイフのことを思い出さなくなった。
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