柴田敏雄と鈴木理策 その二
鈴木理策
一
セクションⅡの冒頭を飾る鈴木理策さんの写真作品である「海と山のあいだ」から放たれる照明の輝きに目を奪われ、スイッチを切り替える意識が認識する浜辺の風景にはこちらに押し寄せて来る波の勢いが、割れる飛沫をまざまざと見せつける瞬間として残されている。かかる波の動きの始まりとなったもの、画面奥の水平線で曇天と共に天地を支配する海水が保つ深度により特定の波長が奪われた結果としての青色を生かして静かにそしてたっぷりとした様子の自然描写を実行し、鑑賞者に素直な感動を与える。
題名にある山の姿がどこにも見当たらない不思議も、海水が動く様子を指す「波」が生じる狭間を不在として感じさせる叙情性の表れとして受け入られる。それぐらい、鈴木理策さんの写真は美しくて綺麗だと筆者は思い出して納得する。それが鈴木理策さんの写真表現の表層に過ぎず、根本的にひっくり返される「世界」の真相へと通じるということも。
二
ギュスターヴ・クールべの「石切り場の雪景色」の画面内に描かれたどの箇所をピックアップしても、そのモチーフを「描く」という画家の意識の痕跡が微塵も感じられないと筆者はいつも思う。色の異なる岩肌と、積もるべき所に積もり、溶けずに残ることを現実にする物理的法則に従った雪化粧との間に枝葉の末端を伸ばし、生命活動を続ける植物と一本の杖を片手で突き、集め終えた枯れ枝の束を担ぎ歩む老いた姿。その厳しくも眩い昼日中の景色にあるどこまでも緻密で、忠実で、現実的だと主張される絵画の現実が見る者に投げかける不自然と困惑は、鑑賞する作品との間の距離感を一歩、二歩と遠ざける。
思えば、人の身体という接触面以降で認識可能な外界は脳内で整序された結果であるのだから、かかる事実から目を背けない画家が見極めた不自然さこそが外界の生(なま)に最も接近できる扉の一つになのでないか。密かに恐れ慄く鑑賞する立場から、そう直観できる展示会場に鈴木理策さんの写真作品が並ぶ。
視覚に重きを置いて外界の情報を取得する私たち人の意思は「何」を見ているのかを知れる目の動きに表れる、と一応判断できる。例えばその目が合うと私たちは互いを認識していると判断できるし、言葉等の伝達手段を行使してその場における意思疎通を図れる。またはその目が合わないことで目の前に立つ人は他の対象に注意を奪われ、対面する私(たち)を認識していないか又は認識したくないと積極的に表現していると判断できる。前者なら声を掛けたりして注意を向けさせる。後者なら、その意図を察してその場を後にする大人な対応を試みれる。
勿論、目の動き以外からも同様の推測を行える。しかしかかる目が位置する人の顔の変化として読み取れる感情表現も考慮すれば、コミュニケーションの成立に向けて目の動きを把握することの優位性ないし重要性は無視できない。
2016年の11月から12月にかけて鈴木理策さんが行ったポートレート撮影の試みである「Mirror Portait」はハーフミラー越しに自分を見つめる姿を撮影することにより、不自然なぐらいに視線が合わない物性を強めた人の顔を捉える。狭い通路の様に設けられた展示会場の一角、等間隔で飾られる「Mirror Portait」の写真作品の数々はそれぞれの容姿が異なるからこそ観る側に驚く程の異物感を覚えさせ、と同時にかかる異物感を自分の身体についても引き受けさせる妙な伝達力を有する。その結果として、私たち人の「世界」の心許なさを際立たせる。
導線で繋がっている別の展示空間に展示される岸田劉生や古賀春枝の太く力強い肖像画の持つ存在感が、先に記した「Mirror Portait」の異物感と呼応するのは感覚的にも理解できる。しかしながら、当該通路に同じく展示されていたジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「若い女の頭部」の、非常に柔らかい愛嬌と美しさが混在するその一枚にまでさきの異物感の影響力が及んでしまうとは予想だにしない。斜め下から見上げる角度で描かれたその存在に欠けている人間らしさ、画家の美意識で磨き上げられた陶器に等しい「もの」らしさは美しくも不自然で、私たち人が対象を見る時に意識的に又は無意識的に働きかけている整序の過程の存在を示唆する。私たち人がものを「見る」以前の、向こう岸に隠れた(より正確には私たちの身体が隠してしまった)外界の実際の分からなさを間接的に報せてくる。
この異物感をもって鈴木理策さんの写真表現を見返すと、その画面を構成するあらゆる要素に備わっていたと判断せざるを得ないある種の不気味さに気付く。ピントがズレた枝葉を手前に置き、採られる前の赤い実が燦々と降り注ぐ陽光に揺れる喜びを表している第一印象を素直に抱く「りんご」は人とは違う構造を有する存在として外界に触れている、人とは別の生命体として湛える物量をもって見る者を圧倒する。その近く、合計24個の枠に収まるマス目の内側で自然風景の豊かさをリズムよく見せる作品群についても同様で、目が眩む程に輝く命の循環に意識がくらくらするのを心中抑え切れない。
さらに遡る展示会場のセクションⅡにおいてクロード・モネの「睡蓮の池」又は「睡蓮」と並び、二枚一組の表現を成す「水鏡 14」を鑑賞して認められる、無数の蓮の葉を浮かべ真上の空を写し込んだ写真作品の水面の重複が発する穏やかな警告は、その生を全うしている最中のアメンボの姿を捉えた撮影者の意図と無関係に進む世界の向こう側をはっきりと浮き彫りにする。水面に触れるぐらいに低いアングルから反射する周囲の景色を写し取った、同じく二枚一組の写真作品である「水鏡 15」も前後移動を果たした様な光景の重複をもって観る側が覚える感動のベールの端っこが摘まれ、痛みを全く残すことなく私たち人の「世界」の生皮が剥がされていく。
さらに移動してセクションⅢ、ポール・セザンヌの「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」の隣に展示された「サンサンシオン 09 C–58」の白き重厚感に見て取る「過去」の隆起や風雪に耐えた「歴史」という名の幻想が、訪問したセザンヌのアトリエで撮影者がレンズを向ける格子窓の外、切り取り線を上下左右に走らせた様な樹木の人為的なイメージと呼応して鑑賞者を未到の地に立たせる(「サンサンシオン 09 C–96」)。
その落ち着かない気持ちを抑えずに、足早に再度来訪するセクションⅡにて鑑賞できる「White」シリーズは前述したギュスターヴ・クールべの絵画と同じく林立した雪景色の真っ裸又は曇天の隙間から漏れる太陽光が生み出した波打ち際の明暗を鮮明に打ち出して、印象強い景色を見せる。その表面にある、目で触れて覚える(と錯覚する)ざらざらとした質感は論理的に理解可能な対象認識の過程と並走して激しく明滅する感情表現の、意識する時間を乱暴に奪ってあっという間に「世界」を染め上げる私たち人の容易さの核心を突く。雪舟の水墨画を真ん中に挟んで、柴田俊雄さんの「グランドクーリーダム、ダグラス郡」と並んで展示されるセクションⅥの「White」シリーズの二枚が視線誘導する奥行きに辿り着くまでに鑑賞者の目が踏む淡い影と、その対比によって囲ってしまう、ぼんやりとしつつも真っ白な雪の、ときに嘘くさくも感じられるその詩的な領域における語り口を愛してしまう私たち「人」が求めるこの欲。個人的な「世界」における事実としては真実だと表現できても、客観的な事実として記述するのが極めて困難と思えて仕方ない「美」しさの淵源としてその概観が記述されていく。
三
クロード・モネがモチーフの形態を犠牲にしてでもその意識と絵筆を素早く動かし、画面の上に表現することを止めなかった移ろう外界の輝きと印象は鈴木理策さんの作品において、記録された瞬間が露わにする被写体の不自然さに眩暈を覚える経験の記録として始まっていく。人としての身体をその場に置き、かかる身体を通じて識っていく整序された結果としての「世界」の瓦解が導く時間と空間は、私たち人の内的イメージの解放への鋭い切り口となる。この点で鈴木理策さんの表現は柴田俊雄さんの表現と交差する。そう筆者は考える。
人の身体という偏見をもって見える外界の限界点を見極めようと思考し、行動する表現者。媒体の違いを乗り越えて認識されて又は媒体の違いがあろうがなかろうが認識される情報としての「世界」。かかる「世界」の事実を知らしめようと試みられた作品を見る鑑賞者が再び目にする「私」と世界。三者関係の様に関係し合って広がり、また深まる領域が多層になっていけばより面白いかもしれない。
絵画などの表現に関する半可通な知識経験しか有しない素人だからこそ、様々な表現領域における「これから」に対する期待を筆者は隠しもしないのである。
柴田敏雄と鈴木理策 その二