彩色のある 2
捻れた扉がそこにある。手が届かないだけで、そこにある。
今まで見ていた世界が、まるで作り物のような錯覚を覚えた。
足下が不定形になり、一歩進むたびに大地が揺れる。
街角の裏路地。ひっそりとしたその場所に、その捻れた扉はある。ずっと探していたそれは、他人の家の壁に何の脈略もなく不自然に表出していた。レイが今まで探し求めたもの。それは飴色に濁った雨の中の、唐突な出会いだ。
しかしトムが言うのだ。
「入ったら戻れないぜ」
分かっているさ。
「君は芸術家になるんだろ?俺にはなれなかった」
分かっているさ。僕は君とは違う。
「狂気は恐れなきゃ駄目だ」
違う。恐れちゃ駄目なんだ。
「それはそこまで来てる。もう、来てる」
早鐘を打つような鼓動に胸を痛めながら、レイは飛び起きた。いつも見る夢ではないそれが、しかして実感できる。そのの内容が、何か名状し難きもの変わったと。
昼過ぎだろうか。行方不明になったトムを探して、知り合い数人で街中を回ったが収穫はない。トムの部屋が最後の希望と思い、事情を説明した大家に彼の家に入れてもらえたが、生活感を残したその場所は、ついさっきまで彼が居たかのように、綺麗に残されていただけだった。
「この街じゃ珍しくないのかい?」
一緒にトムを探していた数人の一人、ミケが不安げな顔で尋ねてきた。
「何でそう思う?」
「普通なら警察に連絡するじゃないか。なのに君も、あそこの大家も、淡々と、それも義務だからみたいに、申し訳程度に彼を探すだけ。見ていて不気味なくらいだ」
確かにそうだった。レイは自分が思っていたほどトムの失踪に動揺していない。何か異常は感じていた。だから覚悟ができていたのだろう。不穏な何かが起こる覚悟を。
「そういう君も、そう思うなら何故通報しないんだ?」
「巻き込まれたくないからね。トムとは知り合いだけど友人じゃない。面倒事はごめんだ」
今日の昼間に初めて会った男だが、随分と淡白な性格をしている印象を受けた。人の事を言えた義理ではないが、もう少し真摯に心配したらどうなんだ。と、それこそ人の事を言えないレイは、苦虫を噛み潰したような顔になった。
ミケは飄々としたような人物だった。トムを探しに来たということは心配して来たのだろうが、それでもその雰囲気は、あまりにも『あっさり』しているように感じる。いや、その表現も少し違うか。心配は本心なのだろう。しかしそれは、トムを心配してのことじゃない。ミケは怖れているのだ。トムがそうなるなら、自分もなる可能性があるのだと。
だからレイはこう言うしかない。
「君はトムとは違う。だから大丈夫だ」
あまりにも安く、チープな言葉だと思う。映画や小説で使い潰された、とにかく締まりの悪い、無責任な責任を負う言葉。
「トムはたぶん。遠くに行ったんだ。やりたい事を見つけて。何にも追われない安全な場所へ」
ミケは不思議そうな顔をしていたが、神妙な顔を作ると、
「何にも追われないなんて幻想さ。何時だって誰でも、何かに追われてる。それに追い付かれた時に気づくのさ」
気づけばレイは、最後にトムと話したあの公園にいた。
辺りは暗くなり、少し寒くなっている。
いつ此処に来たのか。それまで何をしていたのか。何も分からないが、ただ目の前のそれから目が離せない。
捻れた扉。何処とも知れない壁に不自然に埋まっていた筈のあれが、今眼前にある。手を伸ばせば届くのだ。しかし出来ない。体が重い。それに引き摺られるように意識も地中へと深水する実感を、直接肌に感じるのだ。
意識の深度の下降と共に、捻れた扉は霞の如く、蜃気楼の向こうに消えてしまうのだった。
彩色のある 2