彩色のある
僕はただ、絵を描きたかった。 夢の中にある、あの景色を、描きたかっただけなんだ。
飴色の雨が降りしきるその裏通りに、一つ歪に捻れた扉があった。重々しい圧力を放ち、近づく者を払い除けるかのような、硬く、しかし柔らかみも感じるそれを、一人の男が見ていた。
男はその扉の先に何があるのか知っている。それは何度も夢に出た。入る方法も、その先で何が起こるかも。
セピアに霞んだ世界に取り残された彼に、気を留める者など誰もいない。男はただ、扉の前に立ち尽くすしかなかった。
レイは芸術家に憧れる、働かずに絵ばかり描き、かといって誰かに評価されるのを嫌がり、発表するわけでもなく自分の世界に籠り満足する、所謂凡人だった。
しかし彼は、ある夢を定期的に何度も見る傾向があった。夢の中の光景も雰囲気も、そのなかで展開される場面に至るまで、全てが同じものだった。慣れてきた頃には匂いすら感じ取れるようになり、いつしかそこは、レイのもう一つの世界にまでなっていた。
「最近顔色が随分良いようじゃないか?」
同じく芸術家を目指すトムが、たまに落ち合う近所の公園で、開口一番にそう言った。
「夢を、見るんだ」
「夢なら俺も見るさ。俺の描いた絵が真っ白でデカイ美術館に飾られる」
「違う。同じなんだ。いつも同じ夢なんだ」
あの夢を思い出す度に、全身から脂汗が滲み出る。不思議な胸の高鳴りと、しかし感じる安心感。帰る家を見つけたような、安全な場所を見つけたような。
「じゃあ君は、どんな夢を見るっていうんだ?」
明らかにからかっている調子で、トムが聞いてくる。しかし、
「分からない。口に出したら霞んでしまう。イメージは出来るんだ。ただ、言葉に出来ない」
「はっ!流石芸術家様だね!」
ケラケラと笑うトムだが、皮肉に力が込もっていない。レイが本当に疲れていると察しているのだ。しかし心配はしない。彼らは友人ではなく、あくまで同じ『趣味』を持つ者同士という、それだけの繋がりなのだ。ならば、適切な距離感というものがある。
レイがこの町に住み始めたのは少し前だった。初めは静かで良い所だと思っていたのだが、ほんのちょっと、瞼を閉じる程の僅かな時間を過ごしただけでも、この街の問題点に気づかされた。
彼らが住む町は、時代錯誤と言わんばかりな構造をしていた。隣の町に張り巡らしてある地下鉄は届かず、地上にさえ公共の乗り物は存在しない。バスなんかは避けるように走っているし、タクシーで来ようものなら、運転手に舌打ちをされる。
何より問題なのが、ここには自分と同じような芸術家擬きがごまんといる。昼夜問わず彼ら、或いわ彼女らは、街にアイディアを探しに来るためさ迷っている。そんな事をせずとも描けるからこそ、ちゃんとした画家は成功したのかもしれない。
まぁ、彼は成功した事など無いし、する努力もしていないのだから、分かるわけはないのだが。
何の変化もない、いつもと変わりない朝。気だるげに起きたレイは、部屋の端に追いやられたキャンパスに向かい合う。何も描けやしないが、それでも向かい合う。
いつもはとんと進まない筆が、しかしあまりにもスムーズに、キャンパスに風景を刻み始めた。それは描いているレイ本人が驚愕するほど、彼の意思をあまりに無視したものであり、何より、描き出した風景こそ、レイが夢に見続けた、あの捻れた扉だったのだ。
「描けたよ、あの風景」
近所の公園は、そんなに大きくもなく、遊具もほとんど無いにも関わらず、朝からそこそこの人が溜まり場にしていた。レイも同じだからこそ分かるが、おそらく皆芸術家気取りなだけの者達だろう。描けもしない絵に挑戦する者や、綴れない物語に悪戦苦闘する者。少し前ならレイはそれらを見て同族だと卑屈な気分にもなっただろう。だが、今は違う。
「描けたんだ、僕の夢の光景を。ようやく絵にできたんだ」
らしくない、と思いながらも、興奮冷めやらぬと言った具合に、いつも公園にいるトムに熱弁していた。
「口に出しただけで霧散していたあの風景。ようやく描けたんだ」
「そうかい、それはどんな風景だっていうんだ?」
疑わしいような、不信感が丸出しの表情で、トムは聞いたことない絵師の画集を開きながら聞いた。
「扉だ。あの捻れた扉。あれが何度も夢に出たんだ」
「そうかい、良かったじゃないか」
しかし、レイの熱量とは逆に、トムは明らかに困惑したような顔をしている。
「…トム、どうしたっていうんだ?何時もなら僕を皮肉ってる筈だろ?」
「レイ、何かおかしくないか?町の様子がなんだか嫌なかんじだ」
「町は何時だってこうさ。皆が陰鬱で、夢を夢見るだけだ。でも僕は違う。僕にはあの絵がある」
今日のレイは人生最高の気分だった。キャンパスに向き合うだけで筆が乗り、気分の高揚はさながら、ついに空を飛べた大鷲の如く自由を謳歌している。
しかし、少し考える仕草をしたトムはおもむろに立ち上がり、
「それは本当に描きたいものか?」
そう尋ねながら、その場を離れようとした。
疑問がないわけではなかった。気付かなたいようにしていた。レイは見た夢を、ただ写しただけだ。これはある種、夢にコントロールされているだけではないのか。夢を見るのは自分だが、べつに見たくて見ていたわけじゃない。
「僕は…なにを描いたんだ?」
夢の光景を描いた。しかし、しかしだ。どういうわけか、その光景が全く思い出せない。
「忠告しとくぜ、レイ。絵を描くんじゃない。何かがおかしいんだ」
足早に去っているトムの背中を凝視するレイの額には、大粒の汗が滲んでいた。
彩色のある