文藝 第一章
※この小説は「カクヨム」や「小説家になろう」でも公開した作品です。※
クールだぜ
彼がそう言ったからといって、聴いている音楽がマイルス・デイビスのジャズとは限らない。
全然、違う。音楽と言えるかも定かではない。
だいたい…そんな奴らばかりだ。
アヴァンギャルド……って言えば、聞こえはよいが。
「いや、俺が今聴いてるのはな…」
何も尋ねてねーっ。
僕は言ってやった、
「どうせお前の従兄弟か、親友か、先輩のド素人バンドがやっているプログレか、パンクか、民族楽器をやたら使ったサイケなロックか、意味不明な前衛音楽か、前世紀半ばのジャズだろ」
そうじゃねえよ、というのを期待していたが、莫迦の上に、意地もないらしい。
「そうだよ。何でわかった? 古いモロッコの民族楽器やアフリカ音階を使ったサイケデリック・ミュージックさ」
そういう傾向はあの時代からだ。"そういう傾向"って、小説をコンセプチュアル・アートとしてとらえる傾向だ。
伝説は、あの、天易真兮(あまやす まことや)から始まった。
眞神眞義塾附属眞神高等学校に在学中、文學倶楽部に属した天易真兮はポケットに突っ込んで(リードを暖めているのさと称して)いたBluesHarpを出して半小節のフレーズ(と言ってよいかどうか定かでないが)を唐突に吹き、それを以て、
「小説さ」
と宣ったという。(※詳細はhttp://sylveeyh.g2.xrea.com/index7.htmlを参照)
コンセプチュアル・アートとしての小説というのが、彼の主張であった。
「小説は芸術であり、メディアを選ばない」
Art of Novelと言う奴もいたが、普通、アート・オブ・ノベルというと小説の挿絵などを指すらしい。と真兮氏が指摘して、アーティステック・ノベルで定着した。
二十五歳の彼は今や『-人間存在の実存的分析による存在論考- 空 』を上梓してこの眞神郡では(眞神の書肆で出版された)、すっかり有名になり、一大思想家として名を上げたために、彼の打ち立てた小説哲学の体系は、この倶楽部では不動のものとなってしまった。
ちなみに、彼がホーナー社製の単音十穴のハモニカ(Blues Harpというのは、商品名だ)で実在として存在せしめた小説の題名は『Bluez』。
Blues Harpの音を表現した小説とのことで、Blues Harpの音そのものだから間違いはない。久米正雄の私小説なんかよりは、百万倍くらい直截な事実(言ってよければ、〝真実〟)だ。
なるほど。どうやっても、間接表現にしかならない言語表現を使わずに、直截表現にしたという訳だ。
文学の基本が「言語表現による」ものでなければならないという従前の規定を意に介さずともよいならば、一応筋は通っている。
この理窟で言えば、小説を書いて、それを演奏だと言うこともできる。ジャンルがまったく関係なくなってしまうので、それはそれでつまらない気はするが……
まあ、倶楽部だから、いいんだろうな。
僕らは正規の部活ではない。同好会でもない。顧問もいなければ、生徒会からの補助もない。文化祭の日も正式な割り当てはもらえない。
しかし、琢磨寮の中に、正式な活動場所を持っていた。倶楽部は他にもいくつかあって、いずれもこの五階建の石造建築の中に一つの部屋を与えられている。
音楽倶楽部は、吹奏楽でも軽音楽でもない連中がバンド組んだり、ソロ演奏していたりする。カルテットによる無音の音楽やら、ハンマーやブリキ缶やチェーンソーや掘削機で造る音楽やら、三味線とバンジョーとバグパイプのユニットやら、やりたい放題だ。
演劇倶楽部も推して知るべし、である。
その他にも、哲学倶楽部、作庭倶楽部、自由美術同盟、アウトドア研究会、茶道具蒐集倶楽部、建築史学究組合、異様に細分化されている仏教系の解脱倶楽部・沙門結集会、法相宗倶楽部・修験道倶楽部・釈尊倶楽部・般若波羅蜜倶楽部・ラーフラ研究倶楽部などなど。諸子百家とも称される。
もともと四つあった学寮の一つであった琢磨寮は、最も古い建築で、東西南北に面する一辺が六十メートルの組積造建築であった。
各階に、八つの部屋がロの字型にならび、そのロの字の中の部分には、内回廊があって、それもロの字となっていて、中芯の部分は空洞、吹き抜けとなっている。
内回廊は各階と階段で繋がっていた。
内回廊とは逆に外回廊もあって、それはロの字型にならぶ部屋の外側をぐるりと廻っている。
回廊の幅は5メートルもあり、バルコニーのような呈を成し、窓ガラスはなく、コリント式の円柱に支えられたアーチが連続し、ぐるりと囲むようにならんでいた。雨風が強いと吹き込む。秋は枯葉が溜まり、冬は寒かった。
一から四階までの外回廊の天井は上階の外回廊部分と一体である。
すなわち、最上階の外回廊には屋根がなく、完全な吹き曝しで、屋上へ上がる外階段があった。
文學倶楽部は四階にある。
一室が四人部屋、十五メートル四方、決して狭くはなかった。音楽倶楽部は防音の上、一室を使うが、文献学究会と古書倶楽部と活字愛好会とアカデミア倶楽部(別名プラトン倶楽部)は一室を棚や段ボールで四つに仕切って使っている。
第二帝政様式の建築、複合的で、豪華絢爛、樫などの暗めの家具が多くて厳めしく、インテリアは荘重な装飾による繁縟であった。
金塗りの椅子や小テーブル、濃い紅の繻子が壁に張られ、緞子のようなカーテン、つややかな大理石のコリント式の円柱、ヘレニズム風の彫刻群、金箔イコンや漆喰装飾など。
外廊下のそこかしこが開放的な円柱アーチで、欄干のある小バルコニーとベンチがあった。気候のよい時はよいが、雨風や雪の日は辛い。
文學倶楽部もOG・OBが日常的に遊びに来ていた。彼らは別にカフェ『浪漫’S』に於いて、シニア倶楽部と称し、随時集合しているが、琢磨寮の倶楽部にも頻繁に顔を出している。
シニアたちは在学中に自分が属した派に立ち寄るのが常であった。自作の小説を持って来て、倶楽部発行の文藝誌に掲載する。印刷製本費は倶楽部のメンバーから集めるささやかな会費と、シニアたちからの盛大な寄附によって賄われていた。
文學倶楽部は一室を占有していたが、一人が一流派とも言われるこの倶楽部では、一人、又は二、三人単位の派があるため、スペースを十数の小区域に分割して過ごしている。
たとえば、シャーロッキアン派、アグレッシヴ・アヴァンギャルド派、現実そのもの派、モンテ・クリスト荘復興運動派、芸術至上主義などなど。
伝説の人、天易真兮が属していた究竟『龍肯』派は、今では無記現実衆となっていた。
ちなみに、僕は独り派閥の純文学撲滅聖騎士軍だが、シニアで、かつ、僕の遠縁でもある天之哥舞伎が来ていたので、小説戦国時代の傾奇者団のスペースに立ち入る。
ちなみに、僕は天之若瓊という名であった。
「フルレストアしたブリティッシュ・グリーンの一九二九年製のベントレーに乗って来たんだが、雨に降られちゃってね。オープン・カーだから、せっかくのタン・カラーの革張りシートが痛んじまうよ」
哥舞伎は振り返りながら、僕にそう言った。
この人は文學倶楽部とエンスージアスト倶楽部を掛け持ちしていた人だ。あの頃から、両義的な(いや、いい加減な、と言うべきであろう)人だった。
そう言えば、ラビリンスとは、クノッソスの迷宮の紋章である「両刃の斧(Labrys)」に由来するという説があるらしい。
文藝 第一章