接吻

 オーストリア全域に雨が降っていた。まるで届いたばかりの悲しい知らせに申し合わせたかのようだ、と彼は手配したハイヤーの車窓から灰色の空を眺めて思った。
 手紙に書かれていた住所は、彼の住む邸宅からおおよそ二時間の距離だ。深い水底に沈んでいく心地。ガラスに張り付いた水滴が、風によって後ろに流されていく。
 運転手はミラー越しに後部座席を見やった。かの有名な資産家が物思いに耽っているということは、なにかオーストリア全土を震撼させる事件が起こったのかも知れない。そんなことを内心で考えていたが、プロ意識の高い運転手は無表情でハンドルを操作し続ける。
 資産家の名前はレオといった。その名を聞けば、誰もが眉間にしわを刻んだ疑い深い大金持ちの顔を思い出すことだろう。現に彼は今も眉と眉の間に深い渓谷を作っている。

 ――まさか、自殺だなんて。彼はそこまで思い詰めていたというのか。

 レオは手紙の文言を思い出し、また暗い気持ちになった。彼のことを心底理解している者たちは知っている。険しい表情とは相反して、彼の心がとても温かいことを。レオに手紙を寄越した男は、そんなレオの優しさを思って、こうして彼を呼びつけたのである。
 賑やかなウィーンの喧噪を抜け、人のまばらな田舎道に差し掛かる。辺り一面に広がる田園風景。晴れていれば、きっと遠くの稜線まで見渡せたことだろう。オーストリアの良さというのは、むしろこういった牧歌的な部分にあるのではないか、とレオはぼんやりと窓外を眺めていた。雨脚はとどまることを知らない。
 しばらくしてハイヤーの速度が落ち、とある木造の小さな小屋――それは家というよりも小屋だった――の前で止まった。運転手が降り、傘を差してから後部座席のドアを開く。そうしてレオが降車しようとしたとき、小屋の中から一人の男が姿を現した。きっちりと着こなしたブラックフォーマルスーツ。

「おはようございます、レオ様。この度は足下が悪い中、よくお越し下さいました」
「君が手紙をくれた、ヨーゼフ君かね」
「はい、そうです。さあ、中へ入ってください。コートはこちらで預からせていただきます」

 そう促されて、レオは運転手の傘下から小屋の中へと足を踏み入れた。すでにたっぷり一日分の料金を受け取っている運転手は「ではまた後ほど」と言って去って行く。ヨーゼフは、レオのコートをハンガーにかけてクロゼットに仕舞うと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「それにしてもここ数日はずっと晴れ続きだったのに、まさか今日に限って悪天候だなんて。今朝方、来ていただく日を変更したほうが良いのではないかと思ってそちらにお電話いたしましたが、レオ様はすでにお出になられたあとだったのです。気遣いが至らず、申し訳ございません」

 腰を折って謝罪するヨーゼフに、レオは驚いて両手を胸元でひらひらさせる。

「いやいや、今日はどんな天候であれ、ここへ来させてもらうつもりだったんだ。だから、頭を上げてくれ。君はなにひとつ謝る必要はない」
「……ありがとうございます。レオ様は本当に、お優しいかたなんですね。“フランツ”があなたにずっと感謝していたのがとてもよくわかります」

 ヨーゼフが語る彼が、すでに過去形であることがレオの気持ちを暗くさせる。

「フランツ……」

 手紙によれば、彼はこの小屋のすぐそばの木で首を吊って自死したようだった。彼が孤児院に在籍している頃は何度か顔を合わせた記憶があるが、卒業してからは人づてに噂を聞く程度で、レオにとっては今の彼がどんな顔をしているのかすらわからない。彼が画家を志していたことも、ヨーゼフからの手紙で思い出したくらいだった。

「……彼のことは、本当に残念だった。私がもっと多くの金を彼に援助してやれていたら、と……全てが手遅れになったあとで思ったよ。気付くのが本当に遅かったんだ。私は馬鹿だった。金など、正しい使い道を知らなければ、ただの足枷にしかならない」

 ヨーゼフは慌てた様子で「レオ様、それは違います」と首を横に振った。

「彼はあなたを恨んでなどいません。むしろ、フランツはあなたに心から感謝していたんです。彼は“少しだけ”人に頼るのが下手だった。だから勇気を振り絞って孤児院に縋り、たまたまそこへ居合わせただけのあなたからの支援金が届いたとき、彼はあまりの嬉しさに三日三晩寝ずに絵を描いていました。とっておきの絵を描いて、レオ様に送るのだと……」

 レオは、ヨーゼフから聞くフランツの純朴さに胸を打たれる心地だった。同時に、自分を恥じる気持ちが込み上げてくる。

「……私は、困っている卒業生がいるから助けてやってくれないかと聞かれて、適当に返事をしただけだ。実際に送金したのは私の付き人であるし、現に私は自分が資金を援助したことを三秒後には忘れていた。それくらいの端金だったんだよ、私には……」

 レオは俯き、なんとも心細い気持ちで足下を見た。ヨーゼフはそんな彼の様子を見て、なんだかおかしくなって微笑んだ。フランツの言った通りの優しい男なのだと、理解したのだ。レオはヨーゼフの笑みに驚き、顔を上げた。

「まあ、それはさておき、彼が書き残した絵を見てやって下さい。フランツにとってはそれが一番、嬉しいことだと思いますから」

 ヨーゼフに促されるまま、レオは彼のブラックフォーマルの背を追った。小屋の中は思ったよりも入り組んでおり、玄関口からすぐのドアを開けると、回廊のように部屋が衝立で区切られていた。その全てに、無数のスケッチや油絵が並んでいる。

「……僕は何度も彼に見せられ、ここが満足できないだとか、もっと魅力的に描けるはずなんだと聞かされ続けましたから、彼が伝えたいことはおおよそレオ様に伝えることができます」

 見る限りでは風景画が多いように感じられた。おそらく小屋から眺めることのできるオーストリアの広大な景色を書き留めたものだろう。中には人物画もあり、かつての孤児院での人々を描いたものや、楽しそうに笑うヨーゼフの姿もあった。特徴的なのは、どの作品も一枚の紙を惜しむかのようにびっしりと書き込まれていることだ。それが部屋中にかけられているのだから圧倒的だった。

「……この歳にもなって恥ずかしい限りなんだが、私は芸術にはからっきしでね。彼の絵が、どれくらいのレベルのものなのかは全くわからない。だが……この膨大な数を見れば、彼が絵画に費やした時間や情熱がわかる。彼は、本当に描くことが好きだったんだね」
「ええ。フランツは来るも来る日も絵を描いていました。至極個人的な絵ですから、万人が満足するものは描かないし、描けない。だから誰も彼の絵を買わない。彼は毎日腹をすかせながら筆を走らせていました」
「なにが彼をそうさせたんだ」

 フランツの絵に四方を囲まれた二人は向き合って言葉を交わす。

「彼はよく、僕に語って聞かせてくれました。孤児院のみんなで遠足に行った、ベルヴェデーレ宮殿での出来事が全てのきっかけだと。そのときはレオ様もご一緒だったそうですね」

 脳裏にキラリと光るものがあった。レオは顎に手をやり、ううむと唸ってから記憶の糸をたぐり寄せる。

「ベルヴェデーレ宮殿……ああ、確かに……確かにいつか、孤児院の子供たちと一緒に宮殿に赴いたことがある。宮殿が美術館になっていてね。そうだ、そのときも芸術はとんとわからんと言って断ったんだった。だが、孤児院の長に“資金援助をしているんだから絵を見ないのはもったいない”と半ば強制的に参加させられてね。私はそこで、グスタフ・クリムトの……なんという題の絵だったかな、男女が丘の上で顔を寄せ合っている――」
「接吻、ですね」
「ああ、そうだ。接吻というタイトルだった。その絵がとても気になって、子供たちがあちこち歩き回っていても、そっちのけで見入っていた」

 一度思い出すと、記憶というものは洪水のようにどっと押し寄せてくる。レオはたった今見たばかりというように言葉を重ねた。

「男は、女を抱きかかえるようにして頬に口付けを落としている。女はそれをあるがままに受け止めているんだ。きっと絵の中の二人は愛し合っているのだろう。だが、私には、どこかもの悲しくて……別れのシーンを連想させた。ちょうどそのとき一人目の妻との離婚で揉めていたのも影響したんだろう。悲しい絵だった」

 ヨーゼフはじっとレオの思い出話に耳を傾けていた。レオはそこまで話して、ふと自分が今、なんのためにこの小屋まで足を運んだのかを思い出した。フランツだ。フランツのために来たのだ。

「……私が絵を見ていたとき、フランツは……ああ、どうしていたかな。他の子供たちと騒いでいた気もするし、孤児院の長と一緒に大人しく絵画を見て回っていた気もする。……だめだな、私の悪い癖で、すぐに自分のことで頭がいっぱいになる。フランツがなにをしていたか、全く記憶にないよ。おそらく宮殿を出たときにはもう、絵のことすら忘れていた。別の事柄で頭の中は支配されてしまっていたんだ……」

 レオは再び、小屋中に敷き詰められたフランツの生きた証に目をやった。

「そうか、彼はあのときの経験がきっかけで、画家を目指そうと志したのか……。なんだか彼については、まるで今、初めて会った人のことのように知らないことばかりだよ」

 バタバタと小屋の外装を叩く強い雨の音が続いている。湿気が肌に張り付き、なぜだかレオは頬を触った。そうすることでレオの心の中に生まれた侘しさが消えたかといえば、それは全く効果をあらわさなかった。ヨーゼフは歩みを進め、フランツの作品に目を配りながら先を行く。

「そういえば、接吻に描かれた二人は、作者のクリムトと彼を取り巻く愛人のひとりであったエミーリエがモデルになっているそうです。僕も何度か“接吻”の実物を見たことがありますが、あの鮮やかな色彩感覚はまるで絢爛な夢を見ているようで、僕にはあまりピンとこなかった。フランツにそう言うと、君はわかっていないと怒られてしまいましたがね」
「なるほど、フランツはあれを悲しい絵だと思ったのか。私と同じだ。画家を志した彼と同じ感覚で絵画を見ることができていたのだと思うと、嬉しいものだ」

 そうしてようやく、二人は小屋の一番奥に辿り着いた。そこにはキャンバスやパレット、絵の具が整然と並んでおり、一目見てフランツの作業場所だったことがわかった。ここで彼が様々な作品を作り出したのだと思うと、感慨深い。レオはこれまで生きてきた長い年月の中で触る機会のなかったそれらに、静かに手を触れた。ヨーゼフが「レオ様に渡したいものがあるんです」と言った。

「実は、フランツは遺書を残しています」

 その単語の不穏なイメージに、レオは思わず眉間のしわを濃くする。ヨーゼフは、ああ、と合点がいったようで「大丈夫です」と笑みを作ってみせる。

「心配なさらずとも、世や人を恨んだものではございません。僕ももらいましたが、身近な人々への感謝の言葉を綴った――フランツからの最後の手紙、とでも言いましょうか。彼は他人からしてもらったことを、たったひとつとして忘れない男だったんです。もちろん、レオ様もその例外ではございません。今、ご用意いたしますね」

 そう言ってヨーゼフは屈み、フランツの作業場所を探り始めた。ふと、レオの視界に、布がかけられたままのカンバスが入り込んだ。イーゼルだけが、その足をはみ出させている。

「あれはなんだね?」

 顔を上げたヨーゼフが、レオの指さすほうを見やって「ああ」と声を出す。

「あれは彼の遺作です。世界で一番つまらない絵だ、と僕にいつも言っていたものですから。レオ様がいらっしゃると聞いて、布をかけておいたのです」

 ご覧になられますか、とヨーゼフは柔らかな口調で問いかけた。レオは頷く。自ら命を絶つと決めたフランツが、その最後の瞬間まで向き合っていた絵はいったいどんなものなのだろうか。レオはヨーゼフが立ち上がるのも待たずに、自らその布の端を持って持ち上げていった。

 ゆっくりと布が取り払われ、絵画の全貌が明らかになっていく。

「……僕は、世界で一番良い絵だと思うんですがね」

 現れたのは、グスタフ・クリムトの接吻――ではなかった。どこまでも精密に模倣した複製画だ。鮮やかな色彩がちりばめられ、その中央で二人の男女が寄り添っている。レオはただただ、その絵を前に呆然とした。接吻を模したその絵は、明確にある箇所だけが違って描かれていたのだ。

 抱きしめられている女の顔。しなやかな女の身体の上に乗せられた、穏やかな表情。それは今、絵画を見つめているレオにそっくりであった。

「レオ様」とヨーゼフは名を呼んだ。レオは、少しの間を置いて、ヨーゼフのほうに視線を送る。

「これが、フランツがレオ様に宛てた最後の手紙です。本当に彼は、どこまでもあなたに感謝していました。それだけは、レオ様の心の中に置いていただきたいのです」

 そう言って、両手に抱えた箱の中をレオの眼前に差し出す。几帳面に敷き詰められた封筒の表には、レオの名前がひとつひとつ書き込まれている。レオはもう一度、フランツが描いた最後の作品を見た。

 レオを、この世の全てのように愛おしく抱きしめる男の顔を。



接吻

接吻

オーストリア全域に雨が降っていた。まるで届いたばかりの悲しい知らせに申し合わせたかのようだ、と彼は手配したハイヤーの車窓から灰色の空を眺めて思った。/2018年製作。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted