アプローチ
一
カンボジア出身のマク・レミッサさんの『レフト・スリー・デイズ』はプノンペンに侵攻したクメールルージュによって首都から追い出された時の記憶を切り絵や立体模型によって再現し、写真に収めた作品である。サスティナビリティに関する議論や対話を引き出すコンセプトの元で毎年様々なテーマを挙げて写真作品を表彰するプリピクテにおいて、マク・レミッサさんの写真作品が第九回目プリピクテのショートリストに選考された。そのテーマは「Fire/火」。マク・レミッサさんの作品でいえば、戦火に焼かれた政治的安定が持続可能性に果たす意味を問うものと私は理解した。明るみになったポル・ポト政権による大虐殺という歴史的事実を背景に置けば、その問いは深い。
立体模型で再現された都市の道路に散らばる瓦礫や銃器を持った兵士に無理やり歩かされ、休むことを許されずに進んだ未整備の地面に転がる石が接写によってリアルになり、切り絵で再現された記憶の中の人々は幼かった表現者の時間によって塗り潰されたかのように真っ暗な姿で個性を失っている。しかしその必死さだけは頭に乗せた手荷物の姿形や、重量オーバーの人数を乗せた手押し車や自転車の危ういバランスと共にリアルに表現され、伝わってくる。通用性を失った紙幣がイメージとして重なり、また切り絵として地面に舞い落ちる様はひっくり返った日常の表現として決定的だった。そうして主権国家によって成り立つ国際政治の文脈上、論じられるべきSDGsがその射程に収めるべき事柄の多さ、そしてその脆さ、儚さをこの目で見る。作られたものを撮った写真作品として二重に認められる虚構によって厚さを得た表現はその形状の巧みさより、事変に咽ぶ人々の経験としての重みを鷲掴みにする。
人の目の構造に倣った機構を備え、そこで働く機械的及び化学的作用により外界にある対象を正確に記録するという写真の意義を逆手に取ったかのようなイメージそれ自体が持つ、この説得力。その凄さは、東京都写真美術館で開催されているプリピクテの東京展『FIRE/火』で展示される他のショートリストに選考された作品にも感じた。
例えばリサ・オッペンハイムさんの『スモーク』はローゼンベルク特捜隊が撮影した薄暗い写真を元にする。かかる写真はパリのギャラリーから盗まれた一対を成す二枚の絵画を被写体としたもので、そのどれもが文書記録上の行方を追えなくなっている。ユダヤ人が所有し又は彼らが営む事業によって得られた財産の略奪を目的としたさきの特捜隊に関する事実によって陰る歴史を前にして、リサ・オッペンハイムさんは被写体となった二枚の絵画の再生を試み、それを写真に収めた。煙を用い、炎で感光させたネガに焼かれたその表現は実体を失くした存在がこの世に残した痕跡のように見えるにも関わらず、第三者な私の容易い感傷を跳ね除け、対峙するような構えと力を新たにする。それは物証となる記録の紛失という事実に足を引き摺られることのないものであり、主観的でありながらも記憶され、意図なく辿る変容を受け入れつつその本質を保って語り継がれるナラティブのような強さである。広い意味の持続可能性の問題意識がそれを丸ごと受け止められることは、バージニア州南部の沼地であり、国立野生生物保護区に指定されているグレート・ディスマル・スワンプで起きた森林火災に対して死と再生に繋がるある種の浄化を認めつつも、長年調査してきた故郷における人種差別の記憶を「場」に託し、不穏と静音に満ちたモノクロの水風景を撮影したサリー・マンさんの『ブラック・ウォーター(汚水)』にも共通している点だと感じた。
ところで、デジタルであっても撮った写真をプリントするという選択肢はある。だから仕上げた写真を物として損壊することが可能であり、現実に起きるその損壊の過程を具に撮影して記録することもできる。
この反復を、例えば絵画表現でも行えるだろう。しかしながら、損壊の過程を記録した表現によって捉えようとするものが物性を離れたイメージそのものであると仮定した場合、かかるイメージを把持し表現しようと試みる筆に及んでいる影響が既に起きていないか。
いや、起きていて勿論構わないし、寧ろそれを見てみたいのだから影響は起きていて欲しいと一鑑賞者として願う。
けれど表現手段が内包する別の可能性として、対象へのアプローチを含めた外部への迫り方、観る側との間で想定できる一般的な「私たち」という広場に座り込んだ私がその場でおずおずと紐解く表現の「現実」の切り取り方がある。私が生きるこの「世界」と重ね合わせることができる別の「世界」との類似を見つけようとする個人的で、大切な時間。近似値としての「私たち」の触れ合いを育むための契機を確保する表現は、実に機械的で化学的な写真表現が何より得意とするのでないか。こういう夢想を手放せない私は、だから世界の滅びも、再生も、写真表現がその目と手段で記録して欲しいと勝手に期待しているのだと思う。
同じく東京都写真美術館で開催されている松江泰治さんの『マキエタCC』では、世界各地の地表を撮影した作品群が展示されている。その撮影に際して課したルールは以下のものである。すなわち、画面に空や地平線を含めず、また影を作らないよう順光で撮影する。そうして生まれる各地の地表は社会経済的な需要と法令上の制限との間で生まれた人工物のリズムであったり、また人為の及ばない自然的な条件によって生まれた壮観であったりする。
しかし、ここで入り込む要素が『マキエタCC』の独自性を担保する。つまり、画面上に現れる地表の中には実はミニチュアを写したものがある。そしてさきのルールの下ではその識別を観る者において行うことが難しい、そういう仕掛けである。だから観る側には全てがホンモノに見えるし、そう実感する。観る者の頭の中で重ね合わされるイメージは損壊の過程を記録した写真表現と同じく物らしさを離れた存在感を持ち、私の「世界」にピタッと収まって「同じ」ように育まれる。クリスチャン・マークレーさんの『ファイア』は意図してその恩恵に預かり、編集作業を駆使して既存作品を超えた二次的、三次的表現の交差点に立つ。材料となる表現の顔も叫びもこちらに向かって大きく手を振り、時代をコミカルに駆け回って心の底から、そしてとても真面目に遊ぶ。
以前感想を記した『記憶は地に沁み、風を越え』の展示を観終わった後にも思ったことは、被写体に対するアプローチを含めてこそその写真表現の核心が浮き彫りになる。かかる核心の姿形は言葉により説明される手法がその射程に収める、ある意味で予見可能な結果といえるのだろう。けれど、完成されたと銘打たれた各写真表現は一人歩きする。なぜなら展示された会場には制作者ではない、私たちがいるから。そしてここまで記してきたように展示される各写真表現が直接に捉え、浮き彫りにしようとするイメージは他でもない、その表現を観る側にある私たちの「ここ」に生まれ、存在する。だから越境は起きてしまう。論理的に語られる撮影方法のコンセプトがしっかりとしていればいる程に、その幅と進められる距離は深くなる。そういう面白さが写真表現にはあるのでないか。だとすれば、やれる事は山程ある。一写真好きとして私はそう期待する。
二
政治的な事柄に触れる表現に果たせる役割は決して少なくないだろう。
持続可能性に大きな意味を持たせるのなら、また人々の暮らしの隅々に至るまでにその芽吹きを感じてしまうようなものとして具体的なものにするのなら、その言葉が指し示すものを概ね一致させるまで擦り合わせる。一致したと合意された後で再びズレが生じても、また概ね一致するまで擦り合わせる。実利に適うべき政治的主題になる持続可能性はその見通しが立った後でもその活動を継続しなければ意味がないのだから、SDGsに関する活動をどう続けていくのか。その動機と意思を、個人的なものから国際的な文脈に至るまで維持する術。その刺激。
理想の強さはいくらでも語れること。難しいのは、その理想を語り続ける意思と動機を保つこと。
人の間で解決すべき問題であるからこそ、人に伝えて、意識させる。表現は、その薪としてくべられればいい。ただの素人として私の意見をここに記す。
アプローチ