巨人と小人
巨人と小人
「巨人と小人」(2021年12月9日から原稿打ち込み)羽沢椛龍
空の色のある夢幻。野球の試合の最中にふと空を見上げると、その青色は無限に続いているように見えて、手を伸ばしても果てない。
龍多にとって日々のトレーニングは自分との戦いだったし、本番の試合は命がけの戦争だけれども、そんな毎日にふと気が付いてみれば、奈落の底のような死を夢見ていた。
美夢と巡り会えなかった龍多の人生は考えられないけれども、美夢は根深いところで闇に蝕まれている人間だ。死のような暗い闇の方からムスクのような甘ったるい香りが流れてきて、気が付くとそこに惹かれて魅せられているような、そんな物狂おしい恋に落ちていた。
龍多の心臓の鼓動の夏が燃え、それは束の間の猛暑の憂鬱な暑い午後のように、青春の真っただ中にあった。龍多の汗かいた心臓は美夢の凍りついたような眼差しに恋こがれて憧れていた。涼と熱が対照的で光と影のようだから、合わないというのは分かっている。
『それでも僕に一目振り向いてみてはくれないか。』
美夢は知的なエリートで、すれ違うといつも夢のような良い香水の香りがする、お金持ちのお嬢様だった。ベルガモットの爽やかな明鏡止水の香水のヴェルセンスは美夢の雰囲気に似合っていた。とても冷たい雪のような頬の色に、水色のシフォンのワンピースがよく似合う人だなという印象が物思いの初めだったかもしれない。海外に長く住んでいたという情報や、宗教がらみの良くない噂話が美夢をミステリアスに見せていた。何でも心の世界の達観を得るために、数百万円のお金を積んで、海外で何百時間ものセミナーに参加するという、悪質なカルト教団に家族ぐるみで騙されているらしく、大金持ちの家ではあるけれども、新興宗教で結婚も自由にできないという不幸な人なのだという。
とても華奢で小柄なのに、瞳に揺るぎない力があり、その目を見ると、一瞬で青空のただ中に投げ出されて虚空を漂うような不思議な気持ちになる。龍多は図体が大きくて、日焼けしていて、美夢にはたぶん見向きされないような野性的な身体をしていて、並んでみるとあんまり似合わないような気がしてしまう。
けれども、球団のパーティーの会食で偶然美夢と席が近くで、勇気を出して話してみると、美夢はとても利発で、噂話に聞いていたカルト教団がらみの不幸など微塵も感じさせない気高さと話術の才で僕を魅了した。世界一の良い女だと思った。美夢以上の女はいないと確信した。勇気を出して龍多は一つ美夢にもじもじしながら尋ねてみた。
「美夢さんはご結婚はなされていますか?」
彼女は淀みなく、
「結婚はまだしていないし相手もいないけれども、時期とタイミングが来たら、人に決められた人と結ばれて結婚すると思う。」とシンプルに話した。
「それじゃあ僕とお付き合いしませんか?」
龍多は言った。
「はい?」美夢は目が点になった。口元には笑みが浮かんでいるがとまどっているようだった。
「好きなんです!」龍多は頑張った。
深入りして聞く勇気がなかったから予想なのだけれども、それは美夢の宗教の問題でその宗教の組織が決めて婚姻が執り行われるという意味であったらしい。龍多はそのことについてあまり深く考えずに、このかわいい人とお付き合いしたいという思い一つで粘った。
「そうですね。龍多さん、でしたよね。私で良ければ、今度どこかでお会いして話しましょうか?」美夢は龍多におずおずと提案した。
「ありがとう! 嬉しいです。」龍多の心は舞い上がった。
そのパーティは華やかで、ラビットズの球団関係者以外に芸能人も来ていたけれども、僕は美夢の神秘的な装いの前で時が止まったようで、その後同じテーブルの別の誰かが彼女とワインの銘柄の話をしている傍らで、美夢の口づける青みがかったワインレッドの液体を眺めるふりをしながら、美夢の顔をじっくりと見ていた。
「先程のシャルドネワインの澄んだ味わいと比較すると、こちらのフルボディには重みがありますね。」彼女が鈴の鳴る音で話していた。
美味しかったオードブルのシュリンプも、ピッツァのトマトソースと照り焼きチキンの味わいも良く噛みしめないままに、ただ美夢の博識と心地良い声に聞き入っていた。ソーダ色のシフォンのワンピースと白い肌は本当にか弱く見えて、淡く消えてしまいそうに儚く見えた。
「メロンパンの世界樹」
龍多は美夢に三島の鰻を御馳走しようと誘った。美夢はOKして、球団のパーティーから1か月後、龍多と美夢は初めてデートした。
龍多と美夢は、お昼ご飯に鰻の立派な重箱を食べた。鰻丼は、香ばしくカリっとしつつも、身はあくまでふっくらと焼き上げられて、風味絶佳だ。たれの奥深く後引く美味しさと、豪華な鰻の大胆な盛り付けは圧倒的だった。照り輝く鰻の色艶はまさにゴージャス。老舗の風情ある店内は、親しみがあり、やはり静岡のお茶は美味しく、茶色は緑で大切に振舞われる印象だった。
三島は水が良いので鰻も美味いのだ。食後に龍多と美夢は近くの一風変わった公園に寄った。三島の公園にはブックツリーなるインスタレーションアートがあり、アルパカが飼育されており、メリーゴーランドがあり、謎な公園だった。水の流れが綺麗で、せせらぎは透明で美しかった。この美しい水で鰻は健やかに育つのだろうと、龍多は思った。
美夢はブックツリーのところで、綱に吊り下げられた果実のような本を眺めながら
「世界樹みたいね。」と言った。
龍多は「世界樹?」と聞き返した。
「世界樹は林檎とか桃とかバナナとか青い宇宙苺とかマンゴスチンの心の世界での大きな木のことよ。世界樹は人間が誰しも死に際に通っていく。心の木の事なの。カバラのセフィロトの木なのだけれども、その世界樹に実る果実によって、人の死に際は違うわ。人生で最後に食べたものによって、死の直前に立ち現れる走馬灯のような世界は違うの。その数十秒の死に際の物語は、世界樹を人が心で通る時に見られる神話なのよ。」
「美味しそうな果物の木だね。死に際なら、僕は好物のピンクのメロンパンが食べたい。いちご味のジャムを入れたホイップクリームとカスタードクリームが挟まった、ピンクのメロンパン。メロンパンの世界樹ならどんな死に際なの?」
美夢は珍しいものを見るような目で龍多に言った。
「そうね。世界樹には確かに銀のメロンパンの木があって、銀のメロンパンは旅のメロンパンだから、銀のメロンパンの世界樹を選ぶと、あらゆる世界樹の物語に繋がって、世界樹を旅するような死に際になる。明鏡止水の真珠の実の一番優しい世界樹も通して貰えるの。だからメロンパンだと死に際の神話は長いのよ。銀のメロンパンの木なら、あらゆる色のメロンパンは実るのだと思う。だから、あなたの好きなイチゴジャムクリームサンドのピンクのメロンパンも世界樹として選べると思うわ。メロンパンは死に際の神話が長いものになるから豊かかもしれない。」
龍多は美夢に言った。「メロンパンで死に際が長いなら、死ぬ前に沢山の友だちに会えていいのかもしれないね。美夢は死に際に最後に何を食べて、どんな世界樹を通って天国に行きたいの? 教えて。」
美夢はブックツリーの本をめくりながら、龍多にその植物図鑑を見せた。
「私は花が好きだから、花のような実のマンゴスチンを選びたいと思うわ。マンゴスチンの死に際は、一番好きな人から、逆さ言葉で責められて、最後この世で一番愛した人一緒にいられる実なのよ。だから、花のような白いマンゴスチンの世界樹を選びたいわ。」
龍多は美夢から植物図鑑を受け取って、その桜のような咲き誇る白い花を見た。春の桜吹雪の下で死んでいきたい日本人の美学のようなものを龍多は思い出した。
「きれいだね。最後にお花の実を選ぶのは、美夢らしくて素敵だと思うよ。」龍多は言った。
「ありがとう。あなたも最後にピンクのメロンパンを心で食べることを思い出せればいいわね。いちごジャムのホイップクリームとカスタードクリーム、たっぷりと挟んでね。」
美夢はブックツリーにたわわに実る。本の実を見上げて、何かを思い出すような目をした。そしておもむろに龍多の近くに来て瞳を見つめて話した。底知れない美夢の瞳に龍多は引き込まれていった。
「カバラのセフィロトの木の実は、全部心の世界で鮮やかに幻視して教えを受けるものなの。私がセフィロトの木にパスを入れて描いたカバラの実は、天使のりんご、みつりんご、青いちご、バナナフィッシュ、エジプトのトトの桃、七色の賢者の石のザクロ、イチジク、マンゴスチン、真珠の林檎よ。メロンとライチは作りたかったけれどもまだ作れていない。一つ実を作ると幻影の中で実のパレードが起きて、次々と実がラッシュで現れて、全部実を心の中で食べていき、砂糖袋や、蜜ぶくろや果実に入っている虫だらけになったりするの。それが果実の宗教的な食の教えになるのね。食の大罪や、生きているうちに甘い果実を食べられる人生の喜びや、死んで飢える前に限界まで食べられるだけ食べたほうが人間は幸せだというメッセージがあるの。果物を食べる甘さの喜びが明鏡止水なのね。天使のりんごは黄緑色の甘酸っぱいりんごて、幸福になれる。みつりんごは赤い蜜入り林檎で何よりも美味しい。そうした味の幻を心の中で受け取ると、いつか季節が回って果物を現実に口にできる教えがあるの。青いちごは複雑な花のようなセフィロトの木の絵を描くけれども、宇宙のような青のキイチゴの絵が見えて、食べると爆発したり、膨らんだり、不思議な七変化をするわ。バナナフィッシュはいろいろな色と味のある不思議な黄色の魚で黄緑色の尾のマスカットバナナフィッシュを世界中の海に投げて水に返したり、赤や黒のバナナを教えられたり、バナナフィッシュを食べすぎてバナナ穴に詰まったりするイリュージョンがあったわ。サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」ファンには嬉しい実ね。エジプトのトトの桃には宇宙色の卵のような桃の種が入っていて、宇宙色の卵は何でも3つの願いを聞いて叶えてくれるの。青い星の卵のラッシュの時には、桃の木の上のユダヤ教の集合的無意識の神様の教えもあったわ。七色の賢者の石のザクロは、赤、青、緑、太陽、月の賢者の石が、ザクロのガーネットのような実として出てきて、宝石の美しい夢を見たわ。ザクロは虫を体内から出す果実なので賢者の石として描かれるのね。イチジクはユダヤ教の旧約聖書の原典に描かれる女性的な実で、イチジクは両親の死の木から現れる恐ろしい実りなのよ。自分のカバラのせいで親が果物に吸い取られて死ぬという幻はとても恐ろしいもの。マンゴスチンは七つの大罪の怠惰の果実で、南国フルーツのドリアンやナツメヤシやライチのように七つの大罪の象徴になっている。マンゴスチンは万年筆のインクに使えたりする7色の実で、マンゴスチンを食べると死に際の最後の夢を見ることができるの。最後に大切な人と一緒に生きられる果実なのよ。真珠の林檎は好きな人との愛を確かめるための実で、結婚している男女は同じセフィロトの木からゴールデンアップルができるわ。男女の愛の結合から、木の実が生えてきて一本の世界樹になるの。真珠の林檎は白い真珠の種が、愛する人への夜の密やかな夢想のオナニーの数だけ相手の所に飛んで行って愛を伝えるのよ。」
「え、えぇー。オナニー?」
龍多は照れた。美夢も照れて笑って話題を変えた。龍多は真珠の林檎を満足して気に入った。
「刑務所の死刑囚について調べてみたことがあるの。死を待つ人の最後の部屋をあなたは知っている?」
「知らないよ。怖いよ。」
「最後の部屋には果物や生菓子が置かれていて、3つの祭壇がそれぞれキリスト教、仏教、神道を表していて、ひとつ死刑囚は宗教を選べるの。その部屋で人は人生最後の食事をして死にゆく。」
「怖いよ。」
「最後の食事はそれぞれ死に際に通り抜ける世界樹のメタファーになっていて、りんごを選ぶとサタンりんごだから、死に際に地獄の心理を見るのよ。だから、世界樹の意図を知っていて最後の食べ物をよくよく選ばないといけない。」美夢は話した。閻魔に舌を抜かれて何も食べられなくなってから、最後に口にしたい食べ物を食べて喉に詰まらせるの。それが最後の食事。抜かれた舌がザクロになるから、それを食べた後に好きなものを口にするのよ。」
「間違って選んだら辛いね。死刑囚はほんとにその後首を吊られて死んでしまうものね。メロンパンはあるのかな?」
美夢は微笑んだ。「あなたは死刑になるような人じゃないから、善人だから気にしなくていいのよ。最後の部屋の生菓子にメロンパンはないと思う。でも心の目で全ての食べものを見たら、マンゴスチンの代わりの明鏡止水の青い生菓子くらいはあるかもね。」
龍多は悲しそうな顔をして、美夢の頭を撫でた。美夢は私も死刑囚にはならないと思うけれどねと言って、ちょっと寂しげに微笑んだ。
「まだ死んじゃだめだよ。」
「そうね。まだお互い若いから、二人とも三十代半ばなんだから、まだ生きられると思うわ。新選組とかキリストは30歳くらいで死んでいるかもしれないけれども。」
「うん。死に際の世界樹はもっと後の人生に取っておこう。」
龍多は美夢の頭を繰り返しなでなでと撫でた。美夢は眩しそうに龍多を見つめて、ちょっと照れていた。
「呪と祝」
野球の試合は玉が語る。じっとボールだけを見つめている。白いボールの玉の動きがストーリーラインとなり、生き生きと動き出すのだ。バッターと投手の晴れ舞台が巨人で、外野手たちは小さい小人だ。TV画面の注目はバッターや投手の巨人たちだけに向いて、その他大勢の身軽に走り回る小人には向かない。龍多の所属するプロ野球チームのラビットズでも、いつも注目されている人気のあるポジションが、絵柄的には巨人になる。星の軍団、球界のスター集団ラビットズは1軍はテレビスターだが、2軍のファームの龍多はテレビやニュースには映らない。ホームランでかっとばす勝ち試合は爽快でスカッとするけれど、龍多みたいな投手だって大切だ。龍多はひたすらにキャッチャーミットの穴だけを見つめている。キャッチャーミットの穴に入ったままボールが返ってこないことを投手は求めて投げ続ける。絶対に相手のバットで打ち返されてはならない。龍多が求めているのは穴のところに行って、そのまま帰ってこないこと。
美夢と出会った球団パーティーのあった時期はちょうど龍多のいるラビットズの二軍のファームは、野球のトレーニングキャンプのシーズンで、龍多も早朝のベースランニングから、午後の個別練習まで一回一回のメニューをハードにこなした。週末にちょっと息が抜けて、一軍のラビットズの野球試合の録画を見て勉強したり、美夢と月1くらいでどこかに行ってデートをしていたりしていた。
日々の体幹トレーニングやスクワットで筋肉痛だったり、個人的にダンベルでウェイトトレーニングしたりする週末のオフの日だったけれども、日々息を切らせて走り込みをしている汗だくの龍多の日々、野球選手の汗臭さから考えると、たまに美夢と会って過ごせる休日は夢のように楽しくて、癒される時間だった。そんな時龍多は、日頃の疲れも忘れて美夢に甘えてはしゃいでしまう。
その月の週末は、美夢と一回だけデートができた。美夢は一般企業の会社員で平日はいつも仕事で忙しく、龍多もトレーニングがあるので、会えるのは2人の都合が合う土曜日か日曜日だった。その週は美夢と一緒に国立新美術館の点描作家の美術展に来ていた。美夢と出会う以前なら、ラビットズの寮の部屋に立てかけてある小さい釣り竿一本持って、海釣りに出かけているような、何でもない日だったけれども、美夢と出会ってからオフの日に輝きがあって、龍多の人生に光が灯ったような気がした。
国立新美術館のガラス張りの現代的な透明な光に溢れる建築物の中は、有名な点描作家の大回顧展とあって、、長蛇の列が出来ていた。龍多と美夢は、国立新美術館の外の、樹木の植えられた並びに、観客の列を作って並びながら話をしていた。人々は皆長蛇の列に並びながらも、きれいな並木のスペースを眺めたりしながら、涼しい顔で気ままに過ごしているように見えた。
「三国志の諸葛孔明が、お饅頭を作った最初の人なんだって! 知ってた?」
「知らなかったわ。でももしかして饅頭が、頭っていう話し?」
「それだよ! 人の頭に見立ててお肉を入れたお饅頭を作って、諸葛孔明は川化けをなだめて犠牲者を出さなかったんだ。」
「川化けって龍人かしら?」
「そうだよ。川の神様が荒れたのを、諸葛孔明が饅頭でなだめたんだ。」
「その頃はお饅頭は餡じゃなく肉なのよね。お饅頭は日本に来て、肉が食べられないお坊さんが食べられるように、あんこにされたの。本来は諸葛孔明の饅頭のように肉だったのだと思う。」美夢が言った。
「肉をあんこにしてしまったんだね。でもどっちも美味しいね。」
「びわんもちというお饅頭があって、酒饅頭の仲間なのだけれども、お饅頭の外側と中身が呪と祝の関係にあると言われているわ。」
「怖いのと楽しいの?」龍多は尋ねた。
「そうだけれども、象形文字を見ると祝いのしめすへんが生贄の台で、呪いの口辺は唇だから、本来は呪いが祝いで祝いが呪いの意味であるとも考えられるの。」美夢が言う。
「「へぇ、祝いと呪いは反対の意味なのに、元々はそれが逆の意味だったんだ。」龍多は考えた。
「そう。それで酒饅頭は中身のあんこを呪って祝いにしてあり、あんを肉にしてあり、外側を祝って呪いにしてあり、お酒で死なせているの。中身を活かして外側を死なせて作ってある構造なのよ。」
「祝いが呪いで呪いが祝いなんだね。」龍多は納得した。
美夢は龍多の目を見て嬉しそうに言った。
「秋の紫いもの季節が来たら龍多に作ってあげたい肉まんを思いついたの。美味しいわよ。」
「どんなの?」
「牛肉を丸めたものにチェダーチーズを切ってペタペタと張り付けて、そのチーズ玉を紫芋と砂糖と小麦粉とあずきあん大さじ1入れた生地で包むの。生地はアガペシロップとはちみつと黒蜜を混ぜたネクターで煉って、肉まんと同じように蒸し器でふかして作るのよ。紫芋チーズ肉まん、今年龍多に食べて欲しいわ。」
「わぁ、美味しそう。その肉まん食べたいよ。」
「紫芋の季節まで待っていてね。味は不思議ととろけたチェダーチーズと牛肉がビックマックみたいでゴージャスで美味しいのよ。」
「うん。」
行列が動いて、展覧会の会場に入れるようになった。チケットを見せる受付にもまた人が並んでいる。
「もうちょっとで会場ね。」
「うん、楽しみだよ。」
木立から木漏れ日が揺れて、光と影が2人の足元に点描を描いていた。会場に入ると、圧倒的なスケールで大画面の点描作品が並んだ。原色の輝く絵画作品は、龍多の目を喜ばせた。絵画は散りゆく桜の死の想念や慈しみ深いマドンナリリーの優しさを想起させ、血の花と同時に、愛しい女の死にゆく儚さを見るものに伝えてきた。点描作家の美術展は色鮮やかな点描画で、生命力が満ち溢れていた。大画面を前に立った美夢の姿は色鮮やかな点描の水玉に溶けていき、生命のダイナミズムを全身で感じ取っているかのようだった。
蜜の甘さが豊かな水源の在りかを伝え、飲み水がはちみつのように甘い、命のアムリタであることが、絵の前に立って一瞬脳裏に閃いた。オーストラリアの国家の本物のアカシアのような黄色の点描の可憐さがそう思わせたのかもしれない。
桜の花のような点描のイメージは春の雪のようであり、そのピンクは人間の血液を吸ったほんのりと上気した人肌の温もりのようであり、儚くも、歴史上何度でも蘇ってきた桜の花の運命のようだった。束の間の春の日に喜ばしい歓喜の色彩の中で、二人は人生で目にする一期一会の花の美として目に焼き付けた。点描の中に息づく生きた花があり、またその花の命の死も同時にあった。
「明鏡止水」
日々の野球の試合の時間は魔法の時間で、時が伸びたり、縮んだりする。あっという間だと思う時があれば、濃密な永遠がその試合の中にあったりもする。そんな時龍多は満ち足りた。ラビットズのファームの選手も日々の試合に明け暮れている。球場の入り口でファンにハイタッチしたりする仕事やヒーローインタビューが回ってくることもある。ファームにはバーベキュー大会もあるが、日々の雑用もあるのだ。
ラビットズというチーム名はもちろん兎のラビットだ。兎は足が速く、野球選手の盗塁の全力ダッシュをイメージしている。あとジャンプしてボールをキャッチするスーパープレーも兎のジャンプ力だ。滑り込みセーフで点を取りに行く脚力は兎の素早さなのだ。一発カッコよく決めるホームランの見事な一点では、野球ボールは球場の天の星として輝く。野球のウサギの内なるパワーはその魔術的なボール扱いだ。魔法がなければボールは完璧な軌道でミットに収まり放たれない。ラビットズは星のウサギたちの輝くスター軍団なのだ。
その週の試合ではハプニングもあり、龍多が速い球を投げたら、バッターのバットが一本折れてしまった。バッターのバットが割れた木片が飛び散った時、龍多はぎょっとして、怪我や故障を心配した。球はバットより強し。結局龍多もバッターも無事だったが肝が冷える出来事だった。
毎日汗だくになって試合に明け暮れて、スーパープレーで滑り込んだりして、龍多のユニフォームはいつも泥々だ。汗臭いユニフォームを立体ジェルボールで洗う時、その毎日の洗濯を奥さんがやってくれたらなと妄想する。汗臭いユニフォームを洗ってくれる美夢の姿を思い描いて龍多はにんまりした。早く美夢と結婚して幸せな家庭を築きたいのだ。その月の週末デートは龍多と美夢はカフェに行って話しをした。
庶民的な喫茶店デートだ。龍多は美夢と会える日をとても楽しみにしていた。
カフェに行く道のりで小さな花をいくつか見つけた。梅の白い小さい木の花や、一輪のたんぽぽや、咲き残った椿か山茶花の赤い花や、黄色い小さな点のような野草が見つかった。ちっぽけな春の訪れはこうした散歩に出ないと見つからないものだったと思う。空の色も池の水の色も、透明感があってきれいな晴れの日だった。色即是空空即是色の如く雲一つない快晴の澄み切った空の色は、ほのかに紫がかっていて、どこまでも遠く高かった。
老舗のカフェの入り口の古びた木の扉には、レトロな色硝子で、赤や青の花の模様が描かれているステンドグラスがあった。中に入ると、白いエプロンをした紺のスカートのクラシカルなウェイトレスの女性が奥の席へと2人を案内した。赤金色の革の座席は木の仕切りで隣のボックスと分けられており、銀のミルク入れを白い陶器の花のようなティーカップで珈琲を出してくれる。
「きれいなウェイトレスさんだね。」
龍多がウェイトレスさんに鼻の下を伸ばしていると美夢はやきもきしてしまった。でも本当に綺麗な白い肌のこじんまりとした顔の造りの美女だった。ウェイトレスさんのヘッドドレスは、まるで中世の屋敷のメイドさんのようで、美夢でも彼女に憧れを抱いた。
「私は、ベルギーチョコレートケーキも注文するわ。龍多はいいの?」
「じゃあ僕のクラブハウスサンドも頼むよ!」
龍多ははしゃいだ。
運ばれてきたベルギーチョコレートケーキは濃密な濃いチョコレートのみっしりととろける充実して風味で、ナッツのアクセントがとても美味しかった。とろりとしたチョコレートソースは甘くもほろ苦くて、病みつきになりそうな味だ。舌の上の体温でチョコがどろりと溶けて、味覚に浸透して侵してくる。舌が全部チョコレート色に染まる。
美夢は龍多に話しかける。
「最近、明鏡止水のお経を始めてみたの。もう作って一か月くらいになるわ。1回一五分くらいかかるのだけれども、心を守れていいのよ。おまじないみたい。」
「その明鏡止水ってどうやるの?」龍多は尋ねた。
運ばれてきたクラブハウスサンドを龍多は大胆にかぶりついて食べた。茶色でかりりと焼けたサンドイッチに、ベーコンとレタスとトマトが挟まっていて、ベーコンの塩気が舌に美味しかった。龍多は夢中でむしゃむしゃと食べた。その様子を楽しそうに眺めながら、美夢は明鏡止水のお経について説明した。
「明鏡止水のお経は、般若心経の組み換えで作るの。般若心経はとても有名なお経なので、たぶん龍多もお経らしいお経として、ドラマとかで聞いたことがあると思うわ。元々の般若心経は怖い印象のあるお経なのよね。」
「般若心経は、ドラマでコンビニ店長の人がよんでいたから知っているよ!」
「そう、それ!」
「般若波羅蜜多時。でしょ。」
「そのお経を、全部で五個くらいある般若の部分を受けにして、やっぱり五個くらいある三文字のお経、舎利子とか一切顛とかの龍にあたる経文を攻めにして、受けと攻めにそれぞれの言葉を代入して読むと、明鏡止水の守りのお経になったり、電撃の攻撃のお経になったりするの。龍虎攻めで明鏡止水の心を守るお経が作れて、虎龍受けで攻撃のお経が作れるわ。攻撃のお経は虎龍のお経といって、作ると心が苦しくなるから、一つだけお経を作って、そのお経を愛用してお経を育てて使うの。でんでんりゅう。」
「面白いね。明鏡止水のお経もやっぱり、一つだけ作って育ててずっと使うのかな?」
美夢はティーカップから上品に濃い珈琲を飲んだ。珈琲はミルクを入れて美しいブラウンのコーヒーカラーをしている。液体はまだ熱く、飲むと頭が落ち着いた。
「明鏡止水のお経は八連のお経なの。だから全部読むのに一回一五分はかかるのよ。」
「長くて大変なんだね。八個のお経を繋げて読むんだね。」龍多は言う。
「心経簡林のお経の表記の、文字違いを探して明鏡止水のお経の手がかりを探すのだけれども、お経のつなぎ目も心経簡林のどこかにあるわ。インターネット画像検索で今は探せるのよ。」
「へぇ。」
明鏡止水は氷のお経なの。あらゆるものを凍らせて、あらゆるものが砕け散って、それらがみんな光に照らされてジャムになって、ジャムが強くなっていくと鋼のようになる。そして、鋼の氷は時間が経つと溶け、美しい青い氷になって流れ出す。だから善の光の八連のお経と呼ばれているわ。」美夢は言った。
「美夢は心の世界のことを丁寧に語れるんだね。それだけ心の世界が美しく夢みたいなのは、お経で宗教かもしれないけれども、心が豊かなことですごいね。
「ありがとう。優しいのね。」
「とりあえず明鏡止水は光のお経なんだね。心を守るから善のお経なのかな。お経の組み換えはパズルみたいで大変そうだけれども、一旦作れたら一生役に立つだろうね。」龍多はうなずいた。
「野球も目には見えない心の世界で色んな心の戦いとか葛藤があるけれども、野球選手は宗教家じゃないから、心の中の技については何も語らないんだ。そういう目には見えない技みたいなものは野球の世界にもあって、球場の応援ソングの、ムードとテンションみたいに語られないけど確かにあるんだ。だから美夢の話もそういうフィールドのものだと思うよ。」
「そうなのね。野球も精神の戦いなのね。気迫とかオーラとかフローとか。まぁ宗教というのはお経でも何でも、心の世界のあれこれを全部表に出して語って世界を言葉で変えるところに起源があるのだけれども、野球の小技と精神戦みたいに目に見えない世界は日常生活では語らないのが現代日本ね。宗教とか文学とか芸術の世界は心を表現するもので非日常なのだけれども。」
「なるほど。」龍多は相槌を打った。
「もし明渠止水のお経を自分なりに作るのであれば、受けと攻めだけではなく、お経の繋ぎ目を見つけたり、無限の目から酒饅頭を出したり、馨香味触法と無受想行識を無限の目に従って入れ替えたりするお経研究が必要になるの。お経のパーツ読解は経文研究で長いわ。あと始めの魔訶を取ったり、ムーケーガイを無くしたり、明鏡止水のお経を完成させるまでには、色々な試行錯誤があったわ。本当にパズルみたいね。」美夢が言う。
「そうなんだね。大変だね。よく頑張ったね。」
「お経は読み方が重要で、シンムーケーガイとかのお経の繋ぎ目の読み方は、漢字辞典を調べて読み方を調べないと出てこない。でもその読み方調べにも罠があって、香港のお経スポットの心経簡林の字体に沿ってやたらめったら読み方を変えると、お経で首を切られてしまうのよ。雁滑のお経は危なくて、鳥と蛇が死神として首を切りに来てしまう。あと宇宙の容のお経は、一か所に人々の心を集めて、明鏡止水ではない雑念の混沌になってしまう。だからお経の組み換えはやり過ぎず適切なところで止めるのよ。」
「塩梅を見るんだね。」龍多は言った。
「そうなの。それに明鏡止水のお経を使うのは毎日ではなくて時々でいいのよ。分厚く張ったお経の氷は溶かして水にしないといけないわ。青い透明なとうみつの湯にね。」
珈琲を飲みながら二人はチューリップのようなすりガラスのランプシェードに照らされて、少し暖色の灯りに照らされて、とても寛いでいるように見えた。
「星、石、花」
熱い野球の試合というのは、大接戦で、一点差の奪い返しだったり、2ランホームランや一気に3点が入って大逆転の挽回をしたり、客席に一気に応援グッズの花が咲き、球場がクライマックスの頂点に達しフィーバーするあの感動と興奮の体感である。スーパープレーの連続できっちり抑えて投げ切る投手もかっこいいし、ここぞという求められる局面で、クールにホームランを決めて、ベースにダッシュで滑り込んで点を取るバッターも最高だ。
ラビットズのファンの手作り応援タオルに選手の面白い愛のある似顔絵がプリントされ翻り、やはり手作りの応援パラソルが綺麗な透明な水色で天に向かって一斉に突き上げられるのを見ると、やっぱり野球っていいなと思う。
ドラマチックな野球の試合のエピソードにはストーリーラインがあり、白熱した点の取り合いのはらはらする手に汗握る試合には、試合の書き手がいるかのようだ。延長試合に突入した時の耐久戦は精神力が勝負だし、試合の中を生きるには持久力とスタミナが命綱だ。
龍多がピッチャーとしてマウンドに立って投げる時間は、ステージの上に立ち注目を浴びる巨人化した自分のスポットライトの当たる舞台だ。龍多が白い野球ボールを握りしめて、キャッチャーミットの穴を真剣に見据えて、一球入魂のピッチングを繰り広げる。堅実に力強く踏み込んで、キャッチャーミットまでの幅広く長い空間を、高速の玉のピッチングで、確実に届かせ玉を響かせる。踏みしめたマウンドで土ぼこりが舞い、球場に来てくれた観客が固唾を飲んで、ピッチャーとしての龍多の投球を目で追っているのが伝わってくる。野球の試合はその後ベンチで試合を見守る時間も、全力で野球の試合の中を生き、視線を使って球を追い共に戦うエネルギーが必要だ。ベンチにいる時の龍多はどの観客よりも近い距離で、バッターボックスを見つめられるので、玉がバットに当たる時の、衝撃と感情の動きの戦いの生々しい体感がある。ピッチングでかいた汗をぬぐい、青いスポーツドリンクを飲みながら試合を見守る龍多の目はまだ戦っていて、チーム全員で試合の空気を作るのだ。ラビットズがバッターの側の回が回ってきて、龍多はこの回で点を取れないと今回の試合で勝てないと焦り、必死でバッターが何とか打ってくれることを祈り、バッターの気持ちでラビットズのために戦う。龍多の心の中では、龍多がバットを握りしめ、マウンドのピッチャーの剛速球を素早く目で捉え、青空に向かってバットで球を捉え高々と打ち上げる。でも現実には中々点が入ってくれない。ベンチでじりじりする。でも運よくあたりが出て味方のバッターが球を高く打ち上げる。当たりが爽快だ。でもエラーであり、ちょっと玉が右に逸れている。飛距離のある良い当たりなのにもったいない。もっと飛ばせ!
回が回って、チアガールの応援のターンになった。応援歌も歌い球場に華が咲く。ラビットズには、女の子アイドルのチアダンスグループがついている。ラビットガールズと言う彼女たち応援アイドルは、ラビットズの球場の華だ。ラビットガールズはチアガールから始まっているアイドルで、球場でのチアリーディングや応援歌の歌唱・ダンス以外にも、大手音楽レーベルから沢山オリジナルラビットズソングを沢山リリースしている。龍多はラビットズガールズの曲をスマートフォンの音楽配信アプリで、連続自動再生して聴くのが好きだ。ラビットズガールズの曲は、ちょっとダンスミュージックっぽいけれども、今どきでハイセンスで、テレビで見るようなグループアイドルの曲みたいにきらきらしていてカッコよくて、カラオケでも歌える今どきのメロディーだ。ラビットズガールズには野球のうさ耳を刺激するある種の音域があり、球場の応援ラッパのように特殊なジャンルの耳の良い音楽だ。ラビットズガールズの最新の音楽動画は、「ドライ」というセクシーで過激な曲で、野球選手にはちょっと刺激が強い。「ドライ」のミュージックビデオでは赤いメタリックの、ボディラインが際立つぴちぴちの衣装で、激しいアダルトなダンスが見られる。ラビットズガールズのダンスは良いし、透明感のある声は星の声だ。龍多は「ドライ」の洋楽のような曲調の、リズミカルで踊れるような感じが気に入って何度もYoutubeの「ドライ」の動画を観たし、「ドライ」のちょっとエスニックでビビットな世界観も好きだ。龍多の推しのラビットズガールはMAFUという囲い目のぱっちりとした煌めく目の娘だ。MAFUは肌が剥き卵のようで、産毛立つように新品の美肌をしていてかわいい。MAFUは二回ブリーチをかけた感じの手入れされた金髪の娘で、ディオールのテラコッタ色のルージュの唇がぷっくりとかわいい。下まつげが長く、眼差しが蠱惑的だ。MAFUたちは日頃ラビットズのユニフォームを着て、短いスカートを身に着け、球場の緑の芝生の上で、白いユニフォームとスカート姿の彼女たちは踊る。緑のグラウンドの上を爽やかに駆けて、ラビットズガールズはラビットズのテーマソングの応援歌を歌う。龍多はファームの選手で二軍だから、MAFUと握手できないけれども、龍多の妄想の中では「ラビットズの一軍ならMAFUたちとお茶したり、楽しく会話したりできるんじゃないかな。うらやましいね!」
龍多がトレーニングをしていて、悔し涙が流れそうな時には、ラビットズガールズの「ドライ」の歌詞を思い出す。「Stand up! キモチ上がれ。Stand up! 声の枯れるまで 歌い続けて。チャンスは掴めるから 風に乗って 走り続けて。」ラビットズガールズのポジティブな音楽は、心が折れそうな時に龍多に音楽の力をくれる。坂の下に転がって壁にぶち当たってダメになりそうな時に、MAFUたちのかっこいい音楽は、龍多に再起の力と翼を授けてくれるのだ。MAFUのへそ出しルックまた見たい。きらきら光る夢のようなラビットズガールズのチアリーディングパフォーマンスは、いつも野球の試合中見るだけで元気になれる、魔法のダンスだ。
その月は龍多と美夢は前衛ダンスのイベントとレストランに食事に行った。照明を落とした広いホールのダンサーにスポットライトが当てられ、前衛音楽に合わせて女性ダンサーが身体表現で、空間を使った伸びやかな緊張感あるダンスを踊り、時空間は涼やかに凍り、時はダンス表現で伸びたり縮んだりした。その日のデートは、高価なシャンパンと窯焼きピザが美味しい店で、生ハム原木から、高度な技術で美しく薄く皿に生ハムを削いでもらって、美味しく食べた。生ハムとメロンとクリームチーズのお洒落な料理も出てきて、シャンパンと一緒に楽しんだ。シャンパングラスの水晶のような輝きに、氷の人工結晶のような光沢のある微細な泡がぷつぷつと弾け、はちみつの黄金色のシャンパンの薔薇の花のような芳香が鼻孔をくすぐる。見事に美しい神秘的でもある細身のグラスに口を付ける美夢は優雅で、白人のように白い肌をしている。日本人だけれどもお化粧のパウダーでで外国人よりも白く見えている。龍多の心の恋の炎はそういう美しいものに自然と燃えるのだ。移ろいゆく宝石細工のようなレストランの情景の印象は、まぶしいほどで、奇跡のように光るような夜だ。美夢はその日の会話では星と石と花のことを話した。
「前にお経の明鏡止水について話したけれども、星、石、花の明鏡止水もあって、惑星の運行を並べ替える、7つの清めのお香の意図があるの。死に際の心理が取れて楽になれるわ。」美夢は肉のピザを食べながら言った。こんがりと焼けたチーズは程よく伸びている。
「惑星の運行って何?」龍多は尋ねる。
「曜日よ。月火水木金土日の。曜日を組み替えたり惑星を増やしたりして整えて、お経みたいに明鏡止水の順番を並べると心を守れるのよ。」
「うん。スケジュール帳とか、日月火水木金土に並んでいるよね。」龍多は考えた。龍多もこんがりチーズピザを美味しそうに食べている。御馳走系では龍多はピザが一番好きだ。お祝いの味なのだ。
「そうね。ただ私の惑星の明鏡止水の順は、インドのスパイスを参考にして、対応する惑星を反対にして並べるものなの。惑星の順には燃えて爆発するホンホンの順番と、凍って明鏡止水になるコンコンの順があるのよ。太陽と月は普段は明鏡止水ではないので除いて、代わりに天王星と海王星を入れるの。」
「日曜日と月曜日、お休みで体力あって良い曜日なのに。」龍多が首をかしげる。
「月火水木金土日天海を対応する惑星の逆のもので組み換えて、太陽と月を外して並べると、水火土金木海天となり、凍った明鏡止水になるのよ。」美夢が説明する。
「対応するって何?」龍多が尋ねる。龍多はまたちょっとシャンパングラスの液体に口を付けた。舌の上で微細な泡が弾ける。
「水星と火星が反対の性質で対応し、木星と太陽が対応し、金星と土星が対応し、海王星と天王星が対応する、五行説の自然の力、エネルギーの力関係みたいなものなの。冥王星も明鏡止水ではないので7つの清めのお香の七曜星には入れないわ。惑星の明鏡止水の性質は、」水星は心を守り死に際を取る、火星はヒステリーの性器の痙攣の精神異常を抑える、土星は敵を攪乱して心を守る、金星は運が良くなり幸せになれる、木星は全身を蘇生し身体を守り身体の心を守る、海王星は心の中の存在全てを砕いて無音にする、天王星は産み直しで年齢を若返らせる、みたいな心を守る種類と性質があるわ。」
「でもなんで惑星を使うの? 星は一杯あるのに。」龍多が質問する。龍多は野球のお守りのチェーンを首にかけている。ちょっとお高いシルバーなのだ。
「88星座を細かく見ていくと、それぞれの惑星の明鏡止水を象徴する星があって、それを探すのが宝探しになるの。だから基本の明鏡止水の性質の干支は惑星の水晶球にあるのよ。紫水晶、ローズクォーツ、水晶みたいに惑星を石に例えるの。」美夢もグラスに口をつける。
「一等星や、高山植物やマントルの石は、性質が分かれば明鏡止水の惑星の順に並べ替えて心を守ることができるわ。火星にあたる88星座はエリダヌス座のアケルナルがあって、小惑星イトカワに似た白くて横に潰れた感じの星なの。アケルナルの傍にはラーンという黒い太陽みたいな天体もあり、黒の星と白の星のつがいなのよ。」美夢は続けた。
「ずいぶんマニアックな星だね。他の星はどんなの。」龍多は聞く。
「アルゴー座には水星のミアプラキドゥスとアヴィオールがあり、ミアプラキドゥスはかわいい竜骨の龍なのよ。恐竜の化石ね。大熊座には火星のアルカイドとアルコルがあり、軍人マーズの戦争の星よ。子熊座と大熊座のポラリスとミザールは土星でこちらは戦争と平和の平和の星で、新興宗教的意味合いがあるの。少女座と牡牛座のスピカ、アルデバランは金星で、お料理の上手い母と父みたいな神話作家の星。少女座というのは、トレミーの星座名で、一般的には乙女座のスピカね。獅子座のレグルス、デネボラは木星で、鷲と鷹でうなぎとなまずのお料理を教えてくれる。双子座のカストル、ポルックスは海王星で、死んで天に昇って星になったカストルとポルックス兄弟は、金平糖とラムネとしてつがいの双子の星の象徴なのよ。鳥座、鷲座のデネブ、アルタイルは天王星で、七夕の神話の織姫と彦星のベガとアルタイルではなくて、白鳥と鷲の鳥のつがいにしてあるのね。高山植物の明鏡止水やマントルの石の明鏡止水と関連付けると、もっと星の理解が植物のメタファーなどで深まるわ。」美夢が星の話をする。
「すごいね。もの知りだね。ありがとう。星空を観たくなったよ。」龍多がびっくりして言う。
「どういたしまして。今度一緒に星を観に行きましょうか。」
「うん! 行こう!」龍多と美夢はその後は野球と会社の仕事の話をした。
「セフィロトの実」
龍多は自分の所属しているラビットズの球団のユニフォームが全チームで一番格好良いと思っている。マウンドを踏みしめる黒のスパイクはグラウンドを走り込んだ土ぼこりにまみれている。上は黒いユニフォームで、シャープなラインがくっきりとナンバーをふちどっている。
龍多の背番号は22番で、大学時代の野球のドラフト会議で選ばれた選手だ。下のズボンは白で、細いラインの入った、黒と白の対比の際立つデザインだ。ぴったりとした黒のシャツの上のユニフォームは龍多にジャストサイズで、龍多の背番号の22番が輝かしく背中に光っていてよく似合っている。チームのロゴマークは胸元で誇り高く主張し、ちょっとアッシュに自分で染めた短い髪をすっぽり収めた、黒のメッシュのキャップはりりしく、キューモなどの協賛企業の広告も付けている。龍多の手の赤い革のグローブは、よく手に馴染んだ長年の相棒だ。
日々負けられない試合が目の前にある。龍多のまゆげが吊り上がり、振りかぶって投げた。すっぽりとキャッチャーミットに白い投球が収まる。その一球一球の永遠のの繰り返しが続く。応援のメロディが場内に独特な抑揚を持って響く。初心忘るべからず。一球一球に思いと、願いと努力と血の滲んだ練習時間を込めて、プロ根性で力の限りに投げる。白いボールの動きに誘われ、風にはばたき、あの大好きな空の青さと一体になるようにして、彼方のキャッチャーミットに届ける情熱の一球。
それでも、野球の試合に勝てない、負ける日も少なからずある。野球の試合に負けた時には深い悲しみがある。ミスプレーの一つ一つの責任が全部自分一人の肩の上に重くのしかかり、潰れそうになってしまう。奈落の底のような絶望感が打ち寄せてくる。そんな日には本当に辛くて嫌になってしまう。試合に出してもらえず練習の日々も多い。そんな落ち込みやすい龍多の傷つきやすい心にとって、時々週末に会える美夢の存在は救いだった。
巨人と小人