映話



 予知に現世の手足を与えるため、われわれ人の身はある。その予知に人の息吹を教えるため、われわれという人格とその水準としての魂が結託した営みがありとあらゆる物質に観測され、影響を与え、非物質的な運動としての痕跡を残す。逆説的にみて、われわれという積み重ねは予知を導く環境だ。われわれは、予知を乗せてこの世を巡ることを可能にする器となる。



 「その人」という資格の中に人々を導く予知は命脈を保つ。「その人」だからこそ、その予知は下らない個人の妄想となる可能性が断ち切られ、また人々が至るべき未来の楔として信じられ、そして人々の間で語り継がれていく価値が認められる。
 かかる予知に救いという要素は欠かせないか。因果関係から解き放たれ、約束された未来を告げるのが予知であるなら、人々の滅びを告げる予知はあっていい。このままでは必ず滅んでしまう、だからその結末を変える努力を今から意識的に行うべきだという教えの形をとって、滅びの予知は世界の現状をよい方向へと変える可能性をこの世にもたらすだろう。あるいは、滅びの予知に耳を傾けなかった人々がその通りに滅んだ後、奇跡的に生き残った人々の間に予知を信じなかった者の末路を媒介物として予知を免れるために必要な規律の価値を教えることができる。こうして、逆説的ながら滅びの予知も人々の間に救いをもたらす。そう指摘できる。このように見れば、確かに予知は人々を救う。
 しかし、その救いは予知に欠かせない要素というよりは予知がもたらす結果でないか。こう考えるとき、人々に救いをもたらす「予知」の名を口にして感じ取れるイメージの柄は単なる未来告知に収まらない。
 気の遠くなるような長い年月が過ぎようと、人々の間で摩擦が生じない社会などおよそ考えられない。社会を構成するすべての構成員をその内面活動に至るまで画一的に教育するのでない限り、各構成員は一つのものを異なる角度で見て語れる個性を有する。その個性をもって関わり合う以上、異なる状況が社会の其処彼処に起こる。社会という観念に実体を与える個々人の関わり合いはこうしてズレて始まるのが当たり前なのだから、そのズレを減らす作業として摩擦が社会の内部で必然的に生じる。
 かかる摩擦の背景は様々であろうが、それが事態に対して常に正しく働くとはいえない。「正しさ」の相対的な一面を考えれば「正しく働く」と断言することはより困難となる。そのために、摩擦の当事者の一方が他方を虐げるという悲しき事態も人の世には起きてしまう。かかる事態が長期化し、悪化の一途を辿ることも同様である。
 しかし、虐げる側の言い分の当否を超えて虐げる行為そのものの不当性がどこまでも際立ち、明確で分かりやすい正義を実現すべき状況がいつしか生まれるのも人の世である。ここに「その人」と、「その人」を名指しする予知が出現すべき必然がもたらされる。すなわち、予知は社会状況を劇的に変える契機として人々から求められる。
 その予知は虐げられている人々の現況を根本的に変えるため、また人々を虐げる者を根底から滅ぼすものになるだろう。ここにおいて予知は一方を救い、他方を滅ぼす。そのために予知が名指しする「その人」は救世主となり、予知により滅ぼされる者にとって「その人」は厄災でしかなくなる。
 虐げられてきたという歴史を前にしても奪還という行為自体に向けられる批判はある。これに対して、虐げられる側が主張する正しさを根拠づける面が予知にはある。「その人」を名指しする予知が神の啓示を受けたという逸話は、人倫を超える天の理(ことわり)が地上に顕現させた存在という役割を「その人」に与える。利害関係や権勢などの諸事情を踏まえた理性的な指摘を予知が告げられることになった逸話がはね返す。虐げられる側が虐げる側から全てを取り戻す正当性は、予知が名指しする「その人」に従うことで確実に得られる。
 また、予知のかかる正当性は予知が実現した後でも機能する。例えば「その人」の超越的な存在感は抽象的な価値へと変わり、実際に取り戻せた後の正しい秩序の構築に寄与する。二度と奪われてはならないという主張を、人々は他の人々に対して行える。
 あるいは「その人」によって導かれる事実が明日も力強く生きる希望となるとも考えられる。予知が名指しする「その人」と共に歩む先にあるのは未だ起きていない未来だ。その未来が何もせずして実現することはないと伝えられるなら「その人」と共に、そして自分たちのために人々が行動しない理由を探すことが難しいだろう。実現が約束された未来の希望は神聖化された「その人」の存在のよってもたらされる。これもまた「その人」を名指しする予知がもつ救いの一面といえる。
 救われる期間にも着目すべきだろう。予知が名指しする「その人」に救われた人々の間ではかかる予知と共に「その人」の名が未来永劫、きっと語り継がれる。救われた人々の感謝と祈りが込められたその語りは「その人」に救われたことなどない人々の子孫の心に住まい、その循環が汲み尽くされることのない無形の力になる。



 ここまで記した予知の救済は、しかし「その人」を救済対象に含めていない。なぜなら人を超える存在によって告げられる予知、その予知が名指しする「その人」はさきの存在に代わる者として人々を導く。この図式の中で人を超える存在の代理人たる「その人」は予知により救済する必要がない。したがって、「その人」が予知により救済されるには「その人」が一人の人間として人を超える存在と対峙することで前記した図式から抜け出す必要がある。
 ウォシャウスキー姉妹が監督として制作した『マトリックス』シリーズは正にこの点を描いた救世主の物語といえる。地球上を支配する機械の電力を得るための電池として生育される人類を救う者として現れることが予知される救世主は、それこそ実に機械的なルーティンの中に組み込まれ、人類を永久に「予知」の内側に閉じ込める。キアヌ・リーブス氏が演じるネオはこのルーティンを破壊し、マトリックスの秩序の中で機械と人類が共存可能な未来を築ける変化をもたらす。
 その過程でネオは二度、選択をする。一つ目は自らが預言者により告げられた救世主であると自覚するか否か、二つ目はその「救世主」であり続けるか否か。後者の選択は創造主との対決を意味し、ネオはマトリックス内部における「THE ONE」としての役割を放棄する。さきの図式でいえば、ネオは予知により名指しされた「その人」としての神聖を捨て去る。
 元々『マトリックス』はいわばパソコン上で走るプログラムとしての非現実をもって超人的な展開を現実的に描いていた。にもかかわらず、救世主を放棄したネオはここから本当の意味で人間を超え始める。ここにネオと表裏一体の存在としてマトリックス内で躍動するエージェントスミスが、プログラムという存在を超えて実体を得るようになっていくというクロスオーバーが生じることでマトリックスが崩壊する亀裂が内外から生じ、その裂け目がラストに向けて急速に走っていく。
 救世主を放棄したはずのネオが『マトリックス』の社会状況を劇的に変えていくその展開は「THE ONE」を入れ替えた「ネオ」という新たな名の下で、あのラストで締められる救世主の物語へと収斂する。何度見返しても見事である。
 予知を告げる存在と予知により名指しされる「その人」が対峙する構図において、予知は「その人」の意思そのものになる。再び『マトリックス』シリーズに言及すればネオは必ず立ち上がったし、『マトリックス レボリューション』でエージェントスミスがネオに投げかける疑問、そしてこれに答えるネオの言葉が全てであった。選択された意思が貫かれるとき、予知はこの世で現実のものとなる資格を得る。「その人」が全てを成し遂げる必要はない。自ら歩み出した「その人」の足跡を追う人々が必ず現れる。ここにおいて、人々を導く予知は「その人」という存在自体に命脈を保つ。そして、ここにおいても予知は人々を救っている。
 では、予知は如何にして「その人」を救うのか。この問いに肉薄するには、個人的に余り好きではない運命の二字を持ち出すほかないだろう。それに翻弄されるにも、それを受け入れるにも選び得る可能性を束として纏め上げ、全てを賭して歩むに値するものか否か。「その人」自身がそれを見極めなければならない。その篩の役割をきっと予知が果たしてくれる。このことを、ここまで語り継がれてきた数々の伝説や物語が担保している。
 超越を失い、この世の地に触れても尚、予知は人々を救う。それゆえに、予知は現実における人々のあり様を間違いなく決定する。だから、科学的視点がとことん根付いた現在においても予知は人を魅了する。その予知と、予知により名指しされた「その人」を巡る物語は作られる。『DUNE 砂の惑星』しかり、『マトリックス』シリーズしかり。
 後者の『マトリックス』は今冬に復活する。それを嬉しく思うより、とても不安に思うのは前述したとおり、前作のシリーズが文句のつけようがないぐらいに終わったからだ。
 ネオが復活する意味は?
 あの歩みは無駄に終わったのか?
 あのアクションをより洗練された映像で観られる楽しみより、その物語を注視したい。そのために予知の周囲を彷徨くこの思考遊びな文章をどこまでも個人的に綴る。

映話

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-21

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