碧のシンフォニー
私、蒼乃祥子(あおのしょうこ)は28歳のフリーターである。正確には6年前音大の弦楽部を卒業してから、一度も就職することなく…もちろん学生の頃もバイト三昧で好き勝手に暮らしてきた。男勝りの性格と曲がったことが嫌いな真っすぐな性格もあって、どうしても型に嵌められることが我慢できない私は、せっかく心配して良い就職口の話を持って来てくれる恩師に、ことあるごとに断りの電話をかける始末で…。それがある日突然、”あいつ”が目の前に現れてから、私の生活は180度変わってしまった。”あいつ”のせいで私の安穏な人生が…どんどん浸食されていく。
”あいつ”のせいで私の安穏な人生が…どんどん浸食されていく。
第1章 蒼(あお)と碧(あお)
1
「祥子ちゃん、そろそろ先生を起こさなくてもいいのかい?」
そういってカウンターの中から声をかけてきたのはこのカフェ”シンフォニー”のオーナーの田崎さんだ。
「そうね、もうそんな時間?」
そう言って私は面倒くさそうに壁の時計を見上げた。時刻は10時30分を過ぎたところ…。
「あ…面倒臭い! 何で私があいつの面倒なんか見なきゃいけないのよ。天才かなんか知らないけど、顔が良いだけの単なるわがまま坊やじゃん」
さっきからそう息巻いている私の様子に田崎さんは苦笑いを浮かべながら、さっとカウンターのテーブルの上に一人分のモーニングセットを置く。
おいしそうに湯気を立てているトロトロの半熟オムレツにカリッと焼いたベーコン付きのプレートにはバターをたっぷり練りこんで焼いた自家製のクロワッサンサンドものっている。かわいらしい形のガラスボールにはきれいに盛られた新鮮野菜のサラダがあって、私はその横に田崎さんが淹れてくれた薫り高いコーヒーを小さなカップに注いで置いた。
「先生はヨーロピアンタイプの苦みを抑えた薫り高いコーヒーが好みだったね? ああ、ペリエも一緒に持っていくのを忘れないで…」
「はい、はい…」
私はさらに差し出された炭酸水の小瓶を受け取ってトレイの端にのせると、速足でカウンターの横にある小さなドアを開けた。このドアは店のバックヤードにつながっていて、その廊下の突き当りには上の階へとつながるエレベーターがあるのだ。
カフェ”シンフォニー”の入っているビルは3階建てになっていて、すべてはオーナーである田崎さんの持ち物で、二階が事務所兼オーナーの仕事場となっている。
田崎さんの本業は楽器の調律師で、実は日本の調律師の中で常にベストスリーに入っている凄業師だった。
日本中、いや世界中の一流の音楽家から引っ切り無しに調律を依頼された楽器が届けられるのだが、田崎さんはほとんど毎日といっていいくらい午前中はここシンフォニーに顔を出している。実際いつ寝てるのかわからないほど多忙な人なのだが、彼が言うにはこのカフェの雰囲気が好きなのだそうだ。カフェ経営はもはや趣味だと言って笑う田崎は、もう十年以上ここで店を開いている。
“シンフォニー”のあるこの街には、国立の音楽大学がある。この店のお客さんの大半はその音大の学生たちだ。
もちろん、わたしもその大学のOBで、10年前山梨の田舎から上京して以来ずっとここでバイトしている。
「あ…祥子ちゃん、きょう午後大学行って元(はじめ)のレッスン受けるんだろ? 今日はお客さんも少ないし…このあと二階のスタジオ使ってレッスンして構わないよ。まあ先生の都合がつけばいいんだけど…」
田崎さんはそう言って時々自分の仕事部屋でもある2階のフロアーをわたしのために開けてくれるのだ。
大学を卒業してもう6年も経つのに、未だここでバイト生活をしながら…半分学生もどきのような生活をしているのには訳があって…。
わたしが専攻していたのは、弦楽器のチェロだ。小学生の頃、たまたま母と母の友人に連れて行ってもらった当時世界的に有名なチェリストだった“ヨー・ヨーマ”のソロコンサートに連れて行ってもらって以来、大ファンになった私は、それからその音色に取り付かれたように夢中になった。
それからのわたしは、当時音楽には全く縁もゆかりもなかった田舎人である両親や祖父母に必死で拝み倒して、毎週末、片道1時間はかかる離れた町の音楽教室に6年間通い詰めたあと、現在の恩師、日本のチェリストとしては第一人者の『斎藤元(さいとうはじめ)が特別講師を勤めるA音楽大に進学したのだ。
大学時代はそれなりに充実した生活を送ったわたしは、卒業後は当然どこかのオーケストラに所属しながら大好きなチェロに関わる将来を夢見ていたのである。
それが…卒業を半年後にひかえた9月のある暑い日の午後…わたしの幸せな人生は一変した。
プロローグ1 蒼乃 祥子
「祥子、今日バイト入ってる?」
いつものように午後の講義とレッスンを終えたわたしが、大きな楽器ケースと楽譜の入ったショルダーバックを抱えて構内を移動していると、後ろから声をかけてきたのはピアノ科の同期で親友の理子(リコ)だった。
「今日は無いよ。 聡(サトシ)と約束あってこれから二葉園に行く予定なんだ」
「ああ…きょう聡の誕生日だったね? またみんなでお祝いなんだ」
「そう、子供たちが楽しみにしてるから行かないと…」
「はあ…? 楽しみなのは祥子の方でしょう? このところ聡も秋の留学の準備で忙しくって、あんたたちほとんど会えてなかったじゃん? しっかり甘えてきなよ。留学前に入籍するんでしょう? お祝いのパーティーには絶対呼んでね」
理子はそう言って私の空いている側の肩をポン!と叩いて去っていった。
この時期大概の卒業生は卒業後の予定は決まりつつあって、わたしは神奈川の地方都市にある市民オーケストラに就職することが決まっている。理子は音楽家の道は選ばず、ある大手の音楽系の出版社へと早々と自分の進路を決めていた。
そしてこれから会う約束をしている彼、波多野聡(ハタノサトシ)とは大学に入ってから知り合い、今では恋人関係にある。
聡は4歳の時に両親が事故で無くなり、頼れる親戚もいなかったことからある養護施設で育った。なんの後ろ盾もなく、
支援もなかった彼が、今では若き天才ピアニストといわれるまでになったのは、ひとえに持って生まれた才能と並々ならぬ努力があったせいだ。
彼の育った施設には、誰からか寄付された古ぼけたピアノがあって、それを聡は物心ついた時からずっと親友のように一緒に過ごしてきたのだ。
知り合ってから聞いたのだけれど、彼のなくなったお母さんはピアノの先生で、幼い彼をずっと膝の上にのせてピアノを弾いていたのだという。
その頃の記憶は朧気で、お母さんの面影もほとんど覚えていないんだ…そういって笑う聡の表情はひどく寂しそうだった。
待ち合わせの大学近くの交差点まで行くと、聡はすでに来ていて私の姿を見ると、日焼けした顔に真っ白な葉を見せて笑いかけてきた。決してイケメンというわけではなく、身長も168センチという女にしては長身のわたしと並ぶと目線も同じで、どちらかといえば真面目な好青年といったところだ。
大学にも奨学金をもらって進学したくらいで、昼間はレッスン、夜は深夜まで居酒屋でのバイトを掛け持ちしている至って普通の大学生なのだ。
けれど…ひとたびピアノの前に座れば、彼の指先から紡ぎだされる調べは聴く人すべての心を捉えるくらい素晴らしい音楽家なのだ。1年の時に推薦で参加した国内のコンクールで、聡は審査員特別賞を受賞してから、彼の名声は一気に高まり大学でも有名になった。
わたしが聡と仲良くなったのは、友人の理子を通じてだったけど、その時にはすでに聡は有名人。
自分とはまったく別世界の人だと思ってたから、最初はまったく無視してた。
けっこう不愛想だったにも関わらず、どこをどう気に入ったのか、聡はそれから猛アタックしてきて…。
しまいには私が根負けする形で付き合い始めたのは、1年の冬ごろだったのかな…?
「祥子はいつだって消極的すぎるんだよ。前から言ってるだろ、祥子はオケ(オーケストラ)よりソロの方が向いているんだよ」
「そんなこと言ったって、わたしは聡ほど才能があるわけじゃなし、実家の親からは、どっかのオケに拾ってもらえなかったら、さっさと田舎かえって就職しろって言われてるからさ」
わたしは無関心を装って大きな荷物を抱えながら、さっさと速足で歩きだす。
「待てよ、祥子。俺の話聞いてる?」
聡は慌てて私の後を追ってくる。小さなバックだけを抱えている聡は、無言で私のチェロを肩から奪い取ると、憮然とするわたしを追い抜いて行く。
聡が言いたいことはわかっているのだ。わたしのチェロは、ほかの学生たちが2,3歳のほんの子供の頃から学び始めるのに対して、わたしが始めたのは小学校の高学年から…。
実家が地方都市の片田舎だったこともあり、早々専門家の指導も受けられず、どちらかといえば独学に近い環境で学んできた私のチェロは、基本に忠実というよりはかなり独創的なのだ。
それを恩師の斎藤先生は、個性的でいい…と言ってくれるけど…。
「俺が二年の留学を終えて帰ってきたら、そん時は俺は祥子と一緒に音楽やりたい。俺のピアノと、祥子のチェロで日本中、いや世界中を演奏して回るんだ。俺たちにしか出来ない演奏をして、世界中の子供たちを元気にするんだ…!」
そう言って笑う、聡の少し下がり気味で切れ長の瞳はキラキラと輝いていた。
(何よ、のん気なこと言っちゃって…自分はさっさと海外に行っちゃうくせに…!)
その時のわたしは何故か素直になれなくて、何かにつけてはつい聡に対して反抗的な態度をとってしまう。
だけど聡はそんな私に対してもいつだってニコニコと笑いながら、ばかだなぁ…というようにわたしの頭を大きな手のひらでポンポンとはたくのだ。
そんな聡の態度にまたイライラして、聡のこと大好きなくせにまた憎まれ口をきいてしまう自分が嫌で…。
要するに、その頃のわたしは、自分だけひとりおいていかれるような寂しさを感じて、密かに聡に嫉妬していたのかもしれない。
だけどその頃のわたしは、そんな心のモヤモヤを直接聡にぶつけることが出来なくて、時々一緒に晩御飯を食べるという名目で理子を呼び出しては、居酒屋でグダグダと心の不満や不安を吐き出していたのだ。
「あ~もう! それを世間では惚気って言うのよ。馬鹿らしい…! 祥子、あんたねぇ知ってる? 聡毎日ピノのレッスンの合間に、アレンジの勉強しているんだよ。ほら、なんていったっけ? あんたの好きな曲、ほらアレクシアの…」
「幻夢…?」
理子が言っているのは、今世界で神の子ともてはやされている超が付くほどの天才バイオリニストで当時若干12歳の『ユーリ・アレクシア・レオン』が作曲したといわれる曲なのだ。
超難解な組曲で、オーケストラはおろか彼以外には演奏できないといわれている。
「はぁ~? なんでそれを聡が? 何のために?」
「馬鹿なの、あんた。祥子のためにきまってんでしょ? もう聡が哀れになってくるわ。わたしが何でピアノ辞めたかわかる?
聡見てると、自分の凡庸さと甘さに嫌気がさしちゃってさ…。自分みたいなのは、ちょっと斜めくらいから音楽にかかわったほうが幸せだって気が付いちゃったわけ。だからわたしは後方からあんたたちを支援しようって決意したんだから、観念しなさい…!」
理子の強引な物言いには思わず苦笑しちゃうけど、頑固なわたしはそうでも言ってもらわなければきっと、決心出来ないんだ。そう、自分でもよくわかってる。
そんな口の悪い悪友の理子に励まされて、それからわたしと聡の将来への第一歩は踏み出したわけで…。
だけど…そんな倖せは思わぬ形で終わりを告げることになる…。
プロローグ 2 もう一つの『碧』 ユーリの章 1
暗闇の中をずっと手探りで歩いていた。
ずっと昔…まだ幼い頃、いつも優しく語り掛け…抱きしめてくれたあの細い腕は、きっと朧げな記憶の中の母のものだろう…。
3歳で母を病気で亡くしてひとりぼっちになったおれは、母以外に身寄りはなく…当たり前のように施設へと送られた。
「まあ、ずいぶんと綺麗な顔した男の子ね? あら、この子の瞳は青いのね?」
「何でも父親は外国人だったって話ですよ。ずっと二人暮らしだったようですが…男に捨てられちゃったんですかね…?」
「まあ、いいわ。さっそく例の方に連絡入れなきゃ、きっとお喜びになるわ」
突然連れてこられた部屋の中で、無遠慮に向けられる視線に晒されながら…怯えたように“3歳のおれ”は震えていた。
18年後ー。
「ユーリ、ユーリ…! 起きて! また悪い夢でも見てたのね? 」
誰かに揺すり起されて、おれは重い瞼をゆっくりと開けた。
「ん…? ナンシー…?」
まだ意識のはっきりしない頭で、ぼんやりと自分を見下ろしている相手の顔を見つめる。
「まったく、また明け方まで 一人で飲んでたのね? この頃ずっとじゃない? 」
彼女は眉間にしわを寄せながら、ベッド脇のサイドテーブルに並ぶシャンパンの空き瓶やグラスに申し訳程度に残っているに気の抜けた液体を手早く傍らに置かれたワゴンへと移していく。
彼女は『ナンシー・クロムウェル』おれの所属する音楽レーベルの責任者でもあり、実家でもあるこの古城、オーストリアの首都ウィーンから少し離れた場所にある『レスター・アライン城」のホテル部門の責任者でもある。
年齢で言うなら40代前半、シャープな顔立ちにショートカットがよく似合う彼女は、きっちりとしたグレーのパンツスーツを粋に着こなすキャリアウーマンだ。
「ユーリ・アレクシアン・レオン。それで…あなたはいつまでそうやってここで隠遁生活をするつもり?」
「さあ…? このまま引退してもいいかな…って思ってるけど…?」
ボサボサになった髪をかき上げながら、おれがゆっくりとベッドから起き上がると、ナンシーははぁ~と盛大にまたため息を吐く。
「ユージンを失ってあなたがショックを受けた気持ちはよくわかるわ、でももう一年よ。いい加減前を向いてあなたの道を歩いてほしいの。いつまでもこんな風に過ごしてほしいなんて、ユージンは望んでない…!」
「そんなことわかっているさ…」
(わかっている…十分すぎるほどわかっているんだ…)
おれはワゴンの端にあったミネラルウォーターの瓶を取ってごくごくと飲み干した。
『ユージン・アレクシアン・レオン』 その名前を聞けば…おれの胸は苦しくなる。
ユージンは世紀の天才マエストロであり、おれの音楽の師であり…父親だった。
おれは3歳まで日本で暮らした。 母は日本人で名前は倉木小夜子。N響オーケストラの期待の若手バイオリニストだったらしい。
らしい…というのは父と母の共通の友人だった恩師『斉藤元(はじめ)』からそうきかされたからだ。
母は未婚でおれを生み、オーケストラを辞めて街のバイオリン教室をしながらおれを育てた。けれど無理がたたって、病に倒れ29歳という若さで亡くなった。
おれはそれから施設に送られ、半年後に斎藤先生に見つけられるまで、そこで暮らしたが、先生の話だとそこは養護施設とは名ばかりで、養子縁組と偽って容姿の美しい子供を海外の資産家に高値で売り渡す人身売買をしていた。
当時先生は3年間ニューヨークに住んでいて、日本に帰国するまで母が一人で子供を産んだことも知らなかった。先生が記憶を頼りに訪ねた以前の住まいの近所の住人にそのことを聞いて、必死におれのことを探してくれたのだ。
それからのことはもう感謝しかないのだが…父と母がどうやって知り合って愛し合い、おれが生まれたのか…それも先生の口から教えてもらった。
母と先生は音大の同期で、入学当初からの友人であり、京都の旧家出身のお嬢様
だった母は、大人しい性格に似合わないほど意志のはっきりした女性だったと、先生は何故か悲しげな…どこか懐かしいような表情で話してくれたのだが、大人になった今ならわかる。
きっと先生は母のことが好きだったのではないかと…。
父のユージンとは音大の卒業後、留学したウィーンの音楽学院で知り合ったそうだ。当時のユージンはすでに音楽家としての頭角を現しており、才能だけではなくビジュアル的にも優れた容姿をした彼はどこに行っても目立っていて、留学してすぐにそんな彼に声をかけられてひどく驚いたと先生は言っていた。
ユージンは音楽の才能だけではなく、ウィーン社交界屈指の旧家であるレオン家の跡継ぎでもあった。
そんなユージンは先生のチェロを気に入って、何かと小さな音楽界に誘い出しては自分と同じステージに立つことを強要したのだそうだ。
最初は戸惑っていた先生もそんな気さくなユージンの性格が気に入って、それからは気の置けない親友同士として過ごした3年間は素晴らしいものだったと、誇らしげに先生は言った。
ユージンが母と出会ったのは、先生が留学を終えて日本に戻った半年後、すでに若き天才マエストロとして世界中で活躍していた彼が、初の日本公演として選んだのがN響で、当然先生を通じて二人は会い…一気にその距離は近くなる。
二人が恋人になるにはそれほど時間はかからなかっただろう。そんな二人の姿を先生はどんな気持ちで見ていたのだろう。
多忙なユージンと母がどんな方法で連絡を取り合っていたのかはわからないけれど、きっと先生が二人のために自分の時間を削ってでも動いていたのは簡単に想像できる。
はじめ先生…どこまで人が良いんだか…。
( ユージンは本気で小夜子を自分のそばに置きたがっていたよ…。
日本で保護されたおれは、1年間先生のもとで過ごした。その間に先生は、理不尽な大人たちに傷つけられたおれの心を少しでも癒そうとしてくれたに違いない…。)
母の記億はおぼろげだったけれど、優しい声と眼差し…子供心にもとても美しい人だったことはどこか覚えている。
母の奏でる美しいバイオリンの音色と…やっと動き始めた小さなおれの手を取りながら、バイオリンの指使いを何度も繰り返し教えてくれたことを忘れていなかった。
ある日、おれは先生に聞いてみた。
『ぼくのお父さんは先生なの?』
その時の先生の悲しげな顔は今でも忘れない。
「僕は君のお父さんじゃない。君のお父さんは君のことを知らないんだ。お母さんが亡くなってしまったこともね…。だからもうしばらく待ってくれないかな? 僕が必ず君をお父さんのところへ連れていくからね…」
ユージンは当時母と結婚の約束をしていたのだろう。
近いうちに母をウィーンに連れていくつもりで独自に準備を進めていたのに、彼の父親である当時のレオン家の当主は現侯爵であり、息子が音楽家であることは許しても、外国人の花嫁を迎えることは許さなかった。
そして京都の旧家族の出身である母も一人娘であったことから、父親からその結婚を酷く反対された。
当時の母は25歳…味方は先生しかおらず、一度は何もかも捨ててユージンの元に行く覚悟をしたけれど…。その時のユージンは28歳。華々しく活躍する、世界の音楽界の寵児としてもてはやされる存在で…。
決して今の自分の存在がユージンのためにならないと判断した母は、ひとり身を隠し、ユージンとも先生とも連絡を絶ったのだという。
そうその時、すでに母はおれを身籠っていた。
ちょうどその時先生は、ニューヨークに1か月の演奏公演に出かけていて、そのことを今でも悔やんでいると先生は言っていた。
自分がそばにいればこんなことにはならなかった。だから、君を放っておけないのだと先生は言ってくれたけれど…違うよ先生。それは先生のせいじゃない。
先生は十分すぎるほど、おれたちを助けてくれた…。
そして今だって…。
17年前、 ウィーンに渡ったおれはユージンの元を訪ねた。
初めて会う父親に、かすかな希望を抱いていたのは嘘じゃない…。
だってはじめ先生と過ごした10か月はとても穏やかで温かい日々だったから…血の繋がった父親ならもっと愛情を向けてくれる…当時4歳のおれは、どこか心の中でそんな期待を抱いていたのかもしれない。
だけど実際のその人は…ユージン・アレクシアレオンは、おれの音楽の師にはなっても、決して父親にはなってくれなかった。
ユージンという人間は、音楽に対してはストイックで決して妥協を許さない、自他ともに厳しい人間だった。
言葉も通じない…誰も心許せる相手のいない幼い子供にとって、音楽だけがユージンとつながる唯一の方法だったから…。
どんなに厳しくても手放すことはできなかった。それがなければ…生きていくことが出来ないほどに…。
そして…1年前、ユージンの死とともにその絆は失われてしまった…。
ベッドから起き上がって、まぶしい朝の陽ざしに思いっきり伸びをすると、おれはサイドテーブルの引き出しを開けて一通の手紙を取り出した。
「ナンシー、おれは日本へ…先生に会いに行こうと思う…。
あいつがやってきた。 1 祥子 side
『カフェ・シンフォニー』 午後3時を回った頃。
にぎわっていたランチタイムも落ち着いてきて、そろそろ夕方のシフトのメンバーが出勤してくる時間。
やっと一息ついたわたしは、いつものようにカウンターに座りながらマスターの入れてくれたコーヒーを啜っていた。
「あ~! 今日は忙しかったですね? こんなことならシンちゃんにもう1時間早いヘルプ頼んどきゃよかった。」
「ハハ…どうやら午前中の講義が1件休講になったって誰か言っていたから、その分みんなこっちに流れちゃったのかな?」
半分ぐったりしているわたしを見て、田崎さんはニコッと笑いかける。
シンフォニーはA音大のすぐ側にあるから、お客さんのほとんどは音大の学生たちだ。
フロアーは1階と2階へと分かれていて、1階にはテラス席とゆったりしたテーブル席があって、もちろん小さいけどカウンター席もある。
そして1階の一番奥には小さいけれど、ステージも作られていて、時々貸し切りで学生たちのミニコンサートも行われるのだ。
当然2階席からもステージが覗ける造になっていて、窓も大きく全体的に明るい。
そこは田崎さんの亡くなった奥さんのこだわりが、そこかしこに現れていて、さすが1流の設計士でインテリアデザイナーだっただけはある。
なんでもある有名なホテルの迎賓館も、彼女のデザインなのだと自慢げに語る田崎さんの表情はとても幸せそうで、今でもすごく奥さんの事を愛しているんだなぁ…と周りの人をほっこりさせるのだ。
「あれっ? 祥子ちゃん、今日なんか用事あるって言ってなかった?」
さっきからへばっているわたしを横目に、田崎さんはいつもの笑顔で話しかけてくる。
「うん、今日、園長先生の誕生日で夕方チェロを弾きに行く約束しているの」
「ああ…聡くんの…?」
「うん、毎月1回は行くようにしてるんだ。たまたま今日は先生の誕生日と重なったから…」
学生時代も聡と一緒に何度も足を運んだ場所だった。
聡がお世話になった場所というだけではなくて、今は70歳を越してまだ頑張っている園長先生を応援したくて、わたしはひとりでもずっと通っているのだ。
30代で最愛のご主人を病気で亡くした愛子先生は、ご主人が愛したこの古い施設を離れたくないからと、いつ行っても優しい笑顔を向けてくれる。
「今日も一人で行くの?」
「ううん、今日はスペシャルだから、理子の応援も頼んでるんだ。ああ見えて一応この音大の卒業生だからね」
そこでテーブルに置いたスマホがブルブルと震えだした。
画面をのぞけば理子の名前がある。
「もし、もし…理子?」
「ああ、祥子? ごめん、急ぐから用件だけ言うね! 」
理子はいきなりまくしたてるように自分の言いたいことだけ言って電話を切る。
昔から理子はこうと思ったら突っ走る質で、そうなったらもう誰にも止められない。
それがわかっているから、突然予定をキャンセルされてもわたしは笑うしかない…。
「どうしたの…?」
「ハハ…なんか前から理子が追ってる天才音楽家が、午後の便で日本に来るらしくて、今成田にいるんだって…」
呆れてそうわたしがつぶやけば、田崎さんはニコリと笑う。
「ああ、知ってる。12歳でウィーンのコンクールで金賞とった天才バイオリニスト、ユーリ・アレクシアン・レオンだろう? ユージンの秘蔵っ子でヴァイオリンだけじゃなくて作曲家としてもこのところ有名だからね」
「そうなんだ…ユージンはよく知ってるよ。日本でのコンサート何回か聞きに行ったから…」
ユージンは、言わずと知れた天才マエストロだ。彼がタクトを振るだけでどんなオーケストラでも満席になる。理子に言わせると、音楽だけでなく、彼の容姿も芸術的なのだそうだ。
「ユーリってそのユージンの息子なんでしょ? 似てんのかなあ? それなら理子が騒ぐはずだわ。昔から超がつくほどの面食いだから」
「さあ、どうなんだろうね? だけど彼の顔写真は一枚も無くて、誰も最近の素顔は知らないって話だからな…?」
12歳で賞を取ってから、ユージンは彼を一度も表舞台には立たせず、もっぱらCDとかの音源のみでみんながその存在を知っているだけで…。
だからこそ余計にその神秘性に惹かれるんだといつか理子が言っていたことを思い出す。
「あれ…? 彼のことなら元(はじめ)の方がよく知ってると思うよ。ユージンとも昔仲良かったはずだから…」
ええ~! はじめ先生そんなすごい人とも友達だったの!? ちょっとビックリだけど。よく考えたら、わたしの恩師、斎藤元先生は日本を代表するチェリストなのだ。
とっくに卒業したはずの出来の悪い生徒の面倒を、いまだに見てくれている先生に
本当に申し訳なくて…。
はぁ~! また今日何度目かのため息が漏れるわたしだった。
「お疲れで~す!」
そうしているうちに午後の交代時間になったシンちゃんが店に入ってくる。
「祥子ちゃん、そんなにゆっくりしてて大丈夫なのかい? 園までは乗り継ぎもあって結構時間が掛かるって言ってなかった?」
「え…? あ、大変…!?」
壁の時計を見れば、針はもう午後4時を指している。
あわてて立ち上がったわたしは、外したエプロンを掴んでバックヤードへとダッシュする。
「ああ、祥子ちゃん、チェロは調弦しといたから、上の事務所に置いてあるよ」
「サンキュー、マスター!」
ボーっとしていたせいでこのままでは遅刻するかも!
急いで2階に上がって相棒のチェロを抱えると、そのまま外階段から飛び出していった。
あいつがやって来た。 2 ユーリside
午後2時45分。
予定の到着時間を大幅に遅れて、おれの乗った飛行機は空港に降り立った。
本来ならヨーロッパからの直行便を利用するところを、ナンシーはわざわざ中東を経由して48時間近くかけて東京に着く便を手配した。
なんでもどこからかユーリ・アレクシアン・レオンが日本に行くという情報が漏れたらしくて、マスコミの連中が騒いでいるからと、普段なら絶対に利用しない空路を行くことになった。
だけど…どんな理由があるにせよ、これはひどかった。
この便には偶然なのか、ファーストクラスは無くて良くてビジネスクラス、下手すれば中東から日本に出稼ぎにやってくるエコノミーたちで埋め尽くされていた。
(あ~! マジでやばい、)
周りの席は、ほとんどがアラブ人という状態で、おまけにどう考えてもまともな連中とは思えない野郎どもで、中継地であるヨルダンを過ぎたあたりからこちらの様子をちらちらと伺ってくる。
おれはわざと無視して、新聞を読むふりしながら決して目を合わさない。
身長が6フィート(180)以上あるとはいえ、どちらかといえば細身のおれは、連中から見ればガキ同然で…。
昔から見た目の繊細さからその筋の人間からは常に標的にされてきた。
だから嫌でもわかってしまう。奴らの目的を…。
(チッ…! 勘弁しろよ…! )
連中からしたら、こんな連れもいない細身のどう見ても“少年…?”な、おれは日本の首都・東京に出稼ぎにでも行く男妾に見えるのだろう。
それでもナンシーの気遣いで、前後左右の列の席は買い占めてあるせいで、とりあえず隣に並んでくる奴はいないが、それでもかなり居心地の悪さは否めない。
濃い目のサングラスに黒いキャップを目深に被り、白いTシャツの上に着たフード付きカジュアルコートの襟を立てる。
それでも油断していつの間にか居眠りをしていたらしい。
いつの間にか髭面の男が隣に来て、そろそろとおれの膝を撫でていた。
「 ……!」
嫌悪感から慌ててそいつを突き飛ばす。
そいつは一瞬怯んだ後、またニヤリと笑ってこちらに向かってきた。
「逃げんなよ、東京に着いたら…」
その言葉を最後まで聞く前に俺は席を立つ。
こんな奴のそばには一刻たりとも居たくない。すぐにでもこの飛行機を降りたいところだが、ここは空の上…。逃げる場所は限られている。
おれは迷わず少し離れた場所で、心配そうに見つめているキャビンアテンダントの側へと歩み寄る。
幸いなことにこの機の乗務員は女性だけではなく、男性も数人いるらしい。
急いで彼らの元へ行くと、小声で事態の説明をする。
するとすぐさまさっきの男の元に行くと、その腕を掴んで元の席に連れて行った。
それだけでは不安なので、おれはめったに見せない最大限の笑顔を駆使して、彼女たちのいるスペースに一番近い席を確保してもらった。
「Thanks You ! 」
サングラスを少しずらして、にっこり彼女たちに微笑めば…性別にかかわらず皆頬を赤らめて硬直する。
もの心着いた頃から、何度も体験した場面だったけれど、幼い頃はそれがどういうことかわからなかったが…。
どうやら一般的に自分の容姿がかなり人目を引くらしい…ということにある日気が付いた。
だが同時にそれは恐怖となり、幼いおれの心の奥深くを傷つけた。
今ではこんな風に時々はうまく利用するまでに受け入れられるようになったけれど…。
やはり顔を晒して音楽活動をするのには抵抗がある。
数時間後―。
そんなこんなでおれの乗った飛行機は、無事に成田に到着した。
あいつがやって来た。 3 理子 成田で
ヨーロッパ在住の仕事仲間から、早朝4時前に電話がかかってきたと思ったら、何と数年前から追っていた“幻の天才クン” がついに動き出したんだって…!
もうびっくりして、眠気なんて一発で吹き飛んじゃった。
彼の名前は、“ユーリ・アレクシアン・レオン” 名前からして美しい!!
噂では絶世の美少年だっていうから…前から生でその“ご尊顔” を拝めることを夢にまで見たほど…。
親友の祥子は馬鹿にするけど、ヴァイオリンの腕も天才的な上に、超が付くほどの美少年なら誰も放っておかないよね?
おまけにお父さんはあの”ユージン”で…。
祥子との約束も拝み倒して断って、今日は徹夜明けだっていうカメラマンの健ちゃんを無理やりたたき起こして連れてきたけど…!?
ん…ん…ん…!?
もう午前から3時間近く、国際線のゲートで張ってるっていうのに、一向にそれらしい人物に出会わない。何で…!?
「ちょっと理子さん、ほんとにその情報合ってますぅ…?」
さっきから健ちゃんは、少し垂れ気味の目に涙を浮かべながら大あくびをしている。
「確かにウィーンの空港から飛行機に乗ったって聞いたんだよ」
「それホントにアレクシアなんですか? 見間違いじゃあないんですか? それに行き先が日本とは限りませんよ?」
「いや、絶対来るって…!」
と…強気で言ってはみたものの…現在到着済のランプのついている便はヨーロッパ便ではなくて、中東はドバイからのもの…。
はあ~!
思わずため息が漏れる中…目の前を行くある背の高い少年(?)の姿に目が留まる。
濃いグレーのフード付きコートを着て、黒いキャップに濃いサングラスを身に着けてちょっとうつむきがちに歩く姿に何故か目を奪われる。
両手はコートのポケットに差し込まれたまま、特に荷物も持たずに足早に歩く姿は、旅行者というには身軽すぎる気がした。
一瞬顔を上げて壁の表示板を見た彼の横顔がとても繊細で、鼻筋から唇…細い顎のラインが美しく、思わず見とれてしまう。
「ちょ…ちょっと、健ちゃん。あの子撮って…!」
「え…!? いくら美形だからって盗撮はダメですって、…!」
その彼は自分の方にカメラが向いていると気が付いたとたん、帽子のつばで顔を隠すようにして足早に去ってしまった。
「ああ残念!? せめてちゃんと顔をみたかったなあ~!」
あたしは本気で悔しかった。このところ、拝めないくらいの美形だったのに…。
「もう理子さんの美形好みはもう病気ですからね。そのうち訴えられるんじゃないかってマジで心配です」
呆れる健ちゃんの背中をバシン!と勢いよく叩く。
「あたしに意見するなんて、10年早いわ!」
「もう~こっちは徹夜明けなんですからね。後でご飯でも奢ってくださいね!」
「はっ! あんたはあたしの奴隷で十分…!」
「そんなぁ~!」
思わずカメラマンの健ちゃんに八つ当たりしちゃったけど、それくらいあたしは今日の“一瞬の出会い”にかけてたんだけどな…?
だけどその時のあたしは、どうしてもさっきの“美形クン”が妙に気になって仕方なかったんだ。
あいつがやって来た。 4 斉藤 元(さいとう はじめ)
生涯の親友と言ってはばからなかったユージンがこの世を去り、小夜子もいない今、僕の心には後悔しかない…。
会えば絶対に惹かれるとわかっていて小夜子をユージンに会わせたくせに、彼女の…小夜子の口から語られるユージンの名前を聞きたくない僕は、彼らの前から逃げ出したんだ。
小夜子とは音大の1年の時…偶然通りかかった練習用スタジオの前で出会った。
誰かたぶん数人のヴァイオリン科の先輩たちにつかまって何か言い寄られていた
のだと思う。
小夜子は華奢で小柄な…おっとりした優し気な女の子で、上品な顔立ちも相まって一見お嬢様に見えたのだが、実際はずいぶんと違っていた。
彼女たちの表情から、決して穏やかな話の内容ではないなと感じた僕は、とにかくその状況を止めなければという思いで近づいて行った。
ところが近づいて実際、彼女たちの話し声が聞こえてくると、その僕の目論見は大きく外れることになる。
「何よ、生意気ね。ちょっとだけ貸してって言ってるだけじゃない? 」
「申し訳ありません。大事なものなので、他の人に貸すわけにはいかないんです…」
小夜子の前に立つ二人の上級生は、小柄な小夜子を見下ろすように鋭い視線を向けながら、どうやら彼女の愛器であるヴァイオリンを借りたいと言っているようだった。
「これは大切な人から送られたものなんです。どんなに頼まれても貸すわけにはいきません」
こちらに背を向けている小夜子の表情はわからないが、その声は凛としていて、強い意志が感じられる。
「何よ、1年のくせにグァルネリ(グァルネリアスの略称、名器ストラディバリウスと並ぶ3大名器のうちの一つ)を持ってるなんて生意気! どうせ本物じゃないんでしょ?」
「どう思われてもかまいません。貸せないものは貸せないんです!」
おそらくしっかりと胸にそのグァルネリを抱えているのだろう。
抱きしめるようにケースを持つ両肩が小刻みにブルブル震えているのが遠目にもわかる。
そうしているうちに上級生のうちの一人が、歪んだ笑みを浮かべながら、さっと片手を振り上げたのを見て、慌てて僕は駆け出した。
「何してるんですか…!?」
とっさに出た言葉だったけれど、二人には効果があったようで、
二人は一瞬 ”やばい“ というような表情をした後で、さっと踵を返してどこかへ走り去った。
「君、大丈夫?」
「は…はい…ありがとう…ございました」
そう言って僕を見上げる小夜子の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいて…その小さな声は、安堵からか小刻みに震えていた。
「とりあえず、どこか座ろう…」
僕は彼女をいったん落ち着かせるために、少し離れた渡り廊下の奥のベンチに誘う。
大人しく後をついてきた小夜子は、遠慮がちに腰を下ろしてから、大きく一つ息を吐いてから静かに話し始めた。
「さっきの人たちなんですが、同じヴァイオリン科の先輩なんです。入学当時から優しく声をかけてくれて…」
そこで小夜子の表情が暗くなる。
「それまではそんなこと一言もいわなかったのに、少し前から…このグァルネリを貸してほしいと言われてて…大切なものだからお断りしたんですけど、聞いてくれなくて…」
「そうなんだ…。でも君は正しいよ。そのグァルネリは君の相棒だろう? 大事な相棒をいくら世話になっている先輩だろうと任せられるわけないじゃないか。それが理解できない先輩たちの方が悪いのさ」
僕がそう言うとやっと小夜子はにっこりと微笑んだ。
それからなんだ。僕の中で小夜子の存在が特別なものになったのは…。
それからの数年を僕たちは仲のいい友人として過ごし、卒業まであと一年という時に僕のウィーンへの留学が決まった。
その頃にはもう小夜子を傷つけようとする先輩たちもいなかったし、留学といっても短期だったから、離れていても何も心配はしていなかった。
なによりその頃の僕は、小夜子に対する自分の気持ちを、本当の意味でわかっていなかったんだ…。
「すごいね? はじめ君、帰ってきたらもう隣に居られないくらい凄い人になっているんじゃない?」
「まさか? 僕が選ばれたのは偶然だよ。君だって卒業後のこと、考えているんだろう?」
「うん…」
そう言った小夜子の顔に浮かんだ一瞬の戸惑いに、僕は気づくことなく…その時の僕は、自分のことしか考えていなかった。
小夜子の実家は京都の旧家で、彼女はその一人娘だということ。
母親は彼女が10歳の時に亡くなって、当時父親は仕事で家にいないことも多くて、小夜子はほとんどお手伝いさんに育てられたんだと、前に寂し気に笑っていたっけ…。
彼女の音楽人生は5歳から始まった。
身体が弱く病気がちの母親が音楽好きで、たまたま目にしたヴァイオリンに興味を持った小夜子のために、グァルネリは、そんな妻にに請われた父親が、手に入れてくれたものなのだそうだ。
たった10歳の子供に、ゼロが6桁以上つくような高価な楽器を買い与えるなんて…。
まったく平凡な家庭に生まれた僕には想像もつかないけれど…?
(はぁ~!)
それを最初に聞いた時には、ため息しかなかった。
自分にはわからない世界があるんだなぁ~と漠然と思ったくらいで。
だけど、キャンパスで会う小夜子はまったく普通の女の子で、屈託なく笑う姿にいつしか僕の視線は、いつでも彼女の姿を追っていた。
もちろん僕はすぐ小夜子に連絡して、大学近くのカフェで待ち合わせをする。
「はじめ君、何か雰囲気変わったね? もう一人前のソリストになったみたい」
小夜子は変わらず屈託ない笑みを浮かべながら、キラキラした瞳を向けてくる。
そんな眼差しを向けられて…僕は忘れていた1年前の想いを一瞬で思い出した。
僕の後悔 (はじめの気持ち)1
小夜子への想いは少しずつ…前と同じ日常を過ごすうちに、自分でも気づかないうちに形作られていった。
本当に少しずつ…彼女の穏やかな話し声や楽し気な笑い声を聞くたびに、僕の心は小夜子の笑顔に引き寄せられていく。
「へえ、はじめ君、ユージンと友達になったの!? すごい!! いいなあ? ずっと憧れだったの…」
ほほを赤く染めながら、はにかんだように笑う小夜子の様子に、僕の胸はズキン! と鋭い痛みを覚えた。
「うん、ウィーンの音楽院で彼から声をかけてくれたんだよ! ビックリだろう?」
本当はユージンの話なんてしたくなかったのに、輝くような小夜子の笑顔をもっと見たくて、僕は聞かれてもいないのに一生懸命にユージンのことを彼女に語っていた。
いかに彼の音楽が素晴らしくて、見かけだけではなく人間的にも尊敬できる素晴らしい人物だと…。
だから、一人になると後悔ばかりが先に立つ。
(斎藤はじめ、お前はどこまでお人よしの大バカ者なんだ…。小夜子が好きでたまらないくせに、なんで他の奴を褒めているんだ…。)
そう心の中で呟きながら同時に、自分なんかがあのユージンにかなうわけがないともわかっていた。
そんな中、急なユージンの日本公演の決定の知らせが届いた。
「小夜子、一緒に行くかい? あとでユージンを紹介するよ」
「本当!? うれしい…!!」
満面の笑みを浮かべて大喜びする小夜子を横目でみながら、僕は内心大きなため息を吐く。
きっと小夜子はユージンに会えば、彼に惹かれずにはいられない…。
そしてユージンだって…。
それが分かっていて、何か予言めいたものを感じていた僕は、それでも二人をあわせない…という選択は出来なかった。
小心者の僕は、友人としての“ふたり”を失うことが怖かったんだ。
数か月後―。
すでに世界で名の知れていたユージン・アレクシアン・レオンの来日は、日本でも一台センセーションを巻き起こして、その合間をぬって僕らは再会を果たした。
そして…当然のようにユージンと小夜子は恋に落ち…僕はそれをただ見守る事しかできなかったんだ…。
僕の後悔 (はじめの気持ち) 2
それからの小夜子の口からは、ユージンの名前をよく聞くようになった。
もちろん、その頃の僕は、N響(Nオーケストラ)の若手チェロ奏者のひとりとして活動し始めたばかりだったし、小夜子も横浜のシティオーケストラに所属していて、お互いそれほど自由な時間はなかったんだけど…。
「ユージンは今超売れっ子で、忙しいはずなのにどんな時でも必ず毎日メールをくれるの…」
嬉しそうにそう言って微笑む小夜子の顔を見るたびに、僕の胸はギュっと締め付けられるように痛む。
僕もこの数か月はリハーサル等々で本当はかなり忙しい。
今日は小夜子の方から誘ってきて、横浜のビル街の一角にある最近若者に有名なイタリアンに来ていたけど、この自由時間のかわりに、きっと明日は一日中スタジオに缶詰だな…。
本当は断るべきなんだ。僕はユージンの代わりじゃない…。
判っているのに言葉に出来ない僕は、やっぱり弱いんだな。
それからも何事もなく時間は流れる。
だけど…そんな中で変化は突然に訪れた。
僕のニューヨーク・フィル(フィルハーモニー交響楽団)への移籍が決まったんだ。
実は前に、ダメもとで移籍を打診していた。
以前お世話になった恩師が向こうに居て、海外で活動してみたいと言っていたのは、もう何年も前のことだったのに…。
今頃…?
でも今の僕にとってはまるで救いの船にも感じられた。
そう…僕は、今の状況(ユージンと小夜子の共通の友人という立場)から逃げ出したかったんだ。
この半年の間にユージンと小夜子の関係はさらに深くなって、二人は恋人同士になっていた。
世界中にファンのいるユージンは文字通り世界中を飛び回り、忙しい合間をぬって何度も極秘で日本を訪れている。
もちろん小夜子に会うために…。
そのたびに煩いマスコミをかわすため、僕は協力してきたけど…。
正直辛い…。 逃げ出したかった。 小夜子の笑顔を見るためとはいえ、二人の間に立って連絡を取り合ったり、フォローするのは友人としては当然の姿なのかもしれないけど…。
そして…僕はニューヨークに逃げた。
正式には移籍で…。
ユージンは移籍を喜んでくれた。音楽家としては栄転ということだから。
そして、僕にこう言ったんだ。
“今まで、自分たちのことにまきこんでしまって申し訳なかったと…。”
そうユージンは良いやつなんだ。だから、これからも友人でいることは止められない。
そのとなりに小夜子の姿を見ることになっても…。
最初移籍のことを告げた時、小夜子は少し寂し気に微笑んで俯いた。
「あなたも遠くに行ってしまうのね…? 」
片方の頬から伝うひとすじの涙を見た時、僕の胸はザワザワとしたけれど、ぐっとその想いを抑え込んだ。
「ごめん、ずっと見守ってあげられなくて…」
「いいの…。はじめ君はずっとそばにいてくれた。私が甘えすぎていただけ…これからは自分で何とかしなければいけないの。だから、はじめ君はこれからは自分のことだけを考えて頑張って…」
涙を拭いて微笑む小夜子の顔から、しばらく僕は目を離すことが出来なかった。
それからの数年―。
僕たちの間に起ったことー。
特に小夜子に関しては、もう僕には後悔しかない…。
小夜子からは僕がニューヨークに居た4年の間、2回だけ手紙が届いただけだった。
それも最初の1年の間に…。
手紙の始まりはいつも、
“ 体調は大丈夫…? ちゃんとご飯は食べてる?” そして…。
“ 終わりは、“ わたしは今、しあわせです ”
そう締めくくられていた。
もちろん、僕を心配させないためにそう書いているのだと、心のどこかで分かっていた。
ユージンからは、お互いの家族から結婚を反対されていると聞いていたから…。
( だからって、ニューヨークにいる僕に何が出来るっていうんだ…? )
それからの2年間、小夜子からの連絡がないことを言い訳に、僕は彼女の状況を確かめもしなかったことを、一生後悔することになってしまった。
せめてあの時、たとえ1週間でも時間をとって、彼女に会いに行っていたら…小夜子が命を落とすことはなかったかもしれない…。
その前に、僕がニューヨークに行かずに小夜子の側でユージンとのことをもっとフォロー出来ていれば、もっと違う未来があったのでは…?
繰り返し何度でも浮かんでくる想いに僕は苦しめられた。
はぁ~! 本当に今の僕には後悔しかない。
あの時からずいぶんと時が流れて…僕の音楽人生も終盤に差し掛かっている。
今の僕に出来ること…。
もうすぐこの東京に “あの子” が帰ってくる。
小夜子とユージンの息子。
( わかっているよ。小夜子。君がユージンに内緒にしてまであの子を生んだのは、彼の名声を汚したくなかったからだろう…? でも酷過ぎるよ。僕にだけは話して欲しかった。
君の望みは、彼を…あの子を、ユージンを超える音楽家に育てることだったの…?
そのためにユージンは…。
いや…そのユージンも、もういないんだ…。あっちの世界で、君たちは会えたのかい? )
ユージン…小夜子。
あの子のことは僕にまかせてほしい…。
ユージンの息子…ユーり・アレクシアン・レオン。
それはウィーンに渡ってからの彼の名前だ。
小夜子が付けた名前は “碧(あお)”だ。
碧くん。君をもう一度音楽の舞台に立たせることが、今の僕に出来る唯一の贖罪だと信じて…。
僕はここで君を待っている…。
第2章 1 出会いは衝撃的ー。祥子side
余裕をもって出かけるつもりが、気が付けばぎりぎりになってしまったわたしは、慌ててシンフォニーを飛び出した。
片手には譜面の入ったバッグ。右肩には愛器のチェロケースをかけて駅までの道を急ぐ。
本当なら途中で友人の理子と待ち合わせをするつもりだったけど、その理子には1時間前に予定をキャンセルされたばかりだし…。
(あ~あ、ひとりなら旋律変えなきゃなぁ~。)
そんなことをブツブツ言いながら、何本か電車を乗り継いで目的地に近い最寄り駅まであと乗り継ぎが1本といいところで、出口を間違えたことに気づいた。
「あ~、もう! 何でよ!」
毎度のことながら自分のうかつさには腹が立つ!
今まで何度も通った道なのに、2回に1回は出口を間違えて、8車線はある大通りの向こう側にある地下鉄の入り口まで走る羽目になるのだ。
どうせならもう一度戻って、そこからやり直せば…? と思うところだけれど、この荷物を抱えてまた人通りの多い階段を降りる気にはどうしてもならない。
それなら少し離れた横断歩道を渡った方が早道と思い立ったわたしは、ちょうどその歩行者用の信号が青になったタイミングで走り出した。
横断歩道まであともう少し…というところで青信号が点滅を始める。
焦ったわたしは、前をよく見ずに横断歩道に突っ込もうとした瞬間、目の前にそびえたつ“何か”に頭からぶつかった。
ゴン…!
激しい衝撃音とともに、ガチャン…! と何かが吹き飛ぶ音がして、わたしも目の前が真っ暗になったと思ったら瞼の裏にチカチカと星が散っている。
(う~! 痛い…! 何が起こってるんだ?)
自分でもわけがわからないまま…頭とお尻の痛みに唸っていると、すぐ側から聞こえた別の声に思わず頭を上げる。
「クゥ~…!」
見ればしりもちをついた自分のすぐそばで、信号機の支柱に片手をついた状態で、唸り声を上げている一人の男性の姿が…。
もう片の手は頭に添えられていて、頭を打ったのか痛そうに俯いたまま、その場にたたずんでいた。
一瞬何が起こったのかわからずに呆然としていたわたしは、やっと横断歩道の手前でその男性とぶつかってしまったことを悟った。
「あ、あの…!!」
何か声をかけなければ、と慌てて口を開きかけた時、不意にその人物が振り向く。
その顔を見た瞬間、わたしの息が止まった。
(ウっ…! 何? この人…!?)
長い前髪の間からこちらを覗き見る目の目力が半端ない…! おまけに綺麗なアーモンド形の二重の周りには女子顔負けの長いまつげが…。
いや、まつげだけじゃない…! 完璧な形の鼻に女の子みたいに柔らかそうなちょっと薄めの唇は超絶色っぽい…。
こんな美形はテレビの中くらいでしか見たことないなぁ~なんて数秒無言で見つめてしまった。
おまけに相手が瞬きをした瞬間、彼の瞳が深い青色から碧色に変わるのを見ると、心臓がドクンと跳ねる。
あ…外国人かも…?
そう思ったわたしの口から出たのはなんとも変なイントネーションの英語だった。
「AH…S、Sorry…!」
「……!?」
次の瞬間、相手は無言で目を見開く。
「あ~、痛ってぇ~なもう! どこ見て歩いてんだよ!馬鹿…!」
そのあと普通に日本語で怒鳴られたわたしは、思わず呆気にとられる。
「はぁ~!? あんたこそ、信号変わってんのに、いつまでもそこに突っ立ってるのが悪いんでしょ!? 邪魔だっつうの!」
「ぶつかって来たのはそっちだろうが…! あ~! これ、イタリア製の特注品で3000$(ドル)はするんだけど…」
そいつは足元に転がっているフレームの歪んだサングラスを拾い上げて、わたしの鼻先に突き付けてきた。
(えっ…! マジ!? 3000$って…はぁ? 45万…!?)
そいつはこうして正面に立つと、見上げるほど背が高い。私だって167,8はあるんだからそれより10センチ以上高いってことか…。
っていうか、45万!?
そいつは現実離れした見かけとは全く違って、態度も口も最低なやつで。
気が付けば、目の前の歩行者用信号機は、それから何度目かの青信号に変わったところだった。
行きかう人々も、横断歩道の手前で声高にやり合っている私たちを、興味深そうにちらちら横目で見ていく。
やつは文字通り上から目線で、不機嫌そうにこっちを睨みつけてくるし、とりあえずは落ち着こうと、あたりを見回したところで、大切な相棒であるチェロのケースが、道路横の植え込みの中に突っ込んでいるのに気が付いた。
「うわぁ~! 大変だぁ!!」
思わず駆け寄って、植え込みの中からケースを救出すると、中身の無事を確認するべくその場でロックを外してケースの蓋を開けてみた。
チェロは弦楽器の中でも大型の方だ。当然収納ケースも大きく作られていて、多少の衝撃には耐えられるようにはなっているけれど…。
わたしは恐る恐る自分の愛器の状態を確認する。
(良かった…。)
傷はないことを確認して、ほっと一息ついたものの、4本ある弦のうち数本のペグ(弦の糸巻き)が緩んでいることに気が付いた。
普段から忙しい田崎さんが時間を作って調整してくれたのに…。
こんな不注意で台無しにしてしまったことが悔しい…。
さっきまであんなに憤っていたことなんかすっかり忘れて、目の前のことに意気消沈していたわたしは、すぐ隣から発せられた絶対零度の一言で我に返る。
「自分の楽器も丁寧に扱えないなんて、音楽やる資格ないな…」
さっきの超口の悪い超絶美形が、冷たい目をしてこちらを見下ろしている。
(はぁ!? 何よ! いちいち腹立つやつ…!!)
「ちょっと、あんた、何よ…!」
私が食って掛かると、そいつはひょいと片手でチェロのヘッドの部分を持ち上げる。
「なんだ、ペグが緩んでるだけじゃん、さっさと自分で直せば…?」
「わかってるわよ…! うるさいわね…!」
そういいながらでもわたしの手は動かない。そうこう見えてわたしは超が付くほどの不器用で…大体の調弦は出来るけど、肝心のところで完璧といえるほどの自信がない。
これは聡にもずいぶん笑われたんだけど…。
こんなところで他人にまで馬鹿にされるなんて…。まあ、いいか…。いまさら戻る時間もないし、とりあえずは先に園に行ってから調整しよう…。
そう思っていたところで、いきなりまた別の手が出てきたと思ったら、きれいな長い指がするすると動いて、あっという間にチェロのペグは元の位置に戻っていく。
唖然とするわたしの目の前で、そいつはまた何でもないように平然として言った。
「あんた、ホントにプロのチェリスト? どう見ても学生には見えないけど? 自分の相棒もチューンナップ出来ないプロなんて初めて見た」
(はあ? あたしプロ何て一言もいってないンだけど…!?)
その時、内心かなり怒りまくっていたわたしは、行きかう人たちからかなりの注目を集めていたことに気が付かなかった。
ふと目を上げると、近くで足を止めてそいつのことを、じっと見つめながら何やら囁き合っている二人組の大学生らしい女の子がいた。
その子たちだけじゃなく、10人中8人までが、ハッとしたように振り返って二度見していくのだ。
そりゃ、これだけの美形で尋常じゃないオーラを放っていれば、誰だって振り返るか…?
「これ、あんたの…?」
そいつがいきなり目の前に一枚の譜面を差し出してきた。
わたしが慌てて取り戻そうとすると、さっと引かれて思わず相手を睨みつける。
「返してよ…!」
「教えてくれたら返す」
わざと手の届かないところに構えながら、そいつは人間離れした綺麗に整った目に意地悪そうな眼差しを浮かべて見下ろしている。
そいつが持っているのはあの『幻夢』の譜面だ。それもアレンジ済みのやつ。
「私のだけど…だから、返して…!」
「このアレンジは誰が…? まさか、あんたじゃないよな?」
「違うよ、あたしじゃない、それは…」
『幻夢』の譜面は一般的にはオリジナルのみで、アレンジは公表されていない。本来ならオリジナルの勝手な変更は認められていないからだ。
ただこれは私的な演奏で、個人的なものだったから今までは誰にも知られなかったけど…。
「へぇ~? これをアレクシアが知ったら驚くだろうな? 」
「このアレンジは私的なものだから、営利の絡む演奏会で使うことはないわ」
「どうしてそう言える?」
「一般的なコンサートホールで演奏したことは一度もないの。今日だってこれから…」
そう言いかけてわたしは口をつぐむ。
(何で初めて会ったこんな態度の悪いやつにいちいち説明しなきゃならないンだろ…。おまけにこんなに注目されてヤダ…! もう面倒くさいな…)
「はぁ~。どうでもいいけど…個人的なものだって言ったな。このアレンジした人物はどこに居んの? 」
周りが騒ぎ始めているのに気が付いているはずなのに、なぜかやつは譜面のことだけ妙に気になるみたいで、ずいぶんと食いつき気味に聞いてくるけど、答えられるわけがなかった。
だって、これを書いたのは聡だもの…。聡が…わたしのために書いてくれたもの。
その聡は…もういないから…。
「ねえ、あんたなんか楽器とか詳しそうだけど、ピアノとか弾けないの?」
気まずさと早くその場を収めたくて、急いで散らばった譜面を拾い集めながら、側に立って尚も仁王立ちしているそいつに話しかけた。
大して深く考えもせず行動をしてしまうところは、いつも理子や聡に諫められることも多いけど、もう性分だからいまさら治らないと思う。
「はあ? まあ、少しなら…」
そいつは戸惑い気味に答える。
その顔には何で…? と書いてある。
ああそう、その時のわたしは何かこいつをそのまま返しちゃいけないような気がしたンだ。
どうしてだろう…? 深く考えることもなく、そう感じたままにわたしは動いていた。
ちょうど目の前にやって来たタクシーに手をあげて止めると、先に開いたトランクルームに自分の荷物を積み込む。
「一緒に来て!どうせ暇でしょ? こんなところに突っ立っていたンだから、ほら一緒に乗って…!」
それはもう有無を言わせない勢いだったと思う。本当にどうしてなのか、わからないんだけど…。本当にそうしなくちゃって、その時に想ったンだ…。
第2章 2 出会いは衝撃的ー。 碧(ユーリ)side
とてつもなく苦痛だった長時間のフライトから解放されて、ゲートから通路に出た瞬間に大きなため息が漏れる。
(本当に酷いフライトだったな。ホテルに着いたら絶対にナンシーに文句を言ってやる)
荷物は別便で先にホテルに送ってあるため、身軽なおれはさっさとゲートをくぐって出口へと向かう。
気軽な旅行者を装っているため、細身の黒いジーンズにスニーカー、長めのフード付きコートの下にはTシャツという至って簡単な服装だけど、素顔を晒したくないおれは濃い色のサングラスとツバの広いキャップを深めに被って俯きながら歩く。
それでも昔から何故か人の目を引くようで、行き交う人はちらちらと此方を伺っていく。
子供の頃から他人の視線が苦手で、出来れば一生誰ともかかわらないで生きていきたいところだけれど、実際にはそうはいかない…。
それを避けるように右手でキャップのツバを引いてさらに顔を隠し、左手はコートのポケットに突っ込む。
するとポケットの中で、スマホがブルブルと震え出した。
あたりをキョロキョロと見回した後、通路の端にトイレを見つけてその中に入ってから通話ボタンを押した。
「もし、もし…?」
「あっ、ユーリ? 無事東京に着いたかしら…?」
向こうから聞こえてきたのは、能天気に明るいナンシーの声だった。
「ナンシー、いくらトラブル回避のためとはいえ、あのフライトは無いよ。」
「ああ、そう? でも無事に着いたンでしょう? それよりマスコミの連中は大丈夫?
うちの情報網からだと、あなたの顔は知れてなくても、日本にも根強いファンがいるらしくて、何とかその素顔を撮ろうと待ち構えている連中がいるらしいから気を付けてね」
「分かってるよ、気を付ける」
「でも、いい加減顔出しちゃった方が楽じゃない…? 君の顔はホントに羨ましいくらい芸術的だもん…」
「絶対にヤダ!」
「はあ~! わかったわ。まあせいぜい頑張って。これから元(はじめ)に会うんでしょ? よろしく伝えておいてね。来月になったら、マイケルもそっちに行くって言っていたから…」
「わかった…」
ナンシーは用件だけ早口で伝えると電話を切った。もともとはユージンの幼馴染だったという彼女は、唯一おれに好き勝手言える異性の相手だ。
マイケルというのは彼女のパートナーで、おれの音楽活動のマネージャーでもある。
ナンシーとの電話を終えてトイレを出たところで、数人の若い女性のグループと出くわした。
彼女たちはハッとしたようにおれの方を見て一瞬固まった後、ざわざわと何かつぶやき合っている。
その中の一人が何か口を開きそうになったところで、おれはサッと速足でそばを通り過ぎる。
とにかく、誰とも関わらないのが一番だとよく知っているから、さらにその先の人波
の中にカメラを抱えた人物の姿を捉えた瞬間、一気に緊張感が増していく。
(まずいな…今見つかるわけにはいかない…)
目の前を行く旅行の団体客に紛れるようにして、おれは空港の出口へと急いだ。
空港からタクシーに乗ってある地点まで移動する。
17年ぶりの東京には、なんの感慨も浮かばなかった。
東京を離れたのは17年前。4歳の誕生日を目前にした時だった。
当時の記憶は曖昧で…3歳で母が亡くなった後、数か月を施設で過ごし…そのあと、これから会う約束をしている斎藤元先生に拾われた。
それからはじめ先生と過ごした数か月間…先生は記憶も定まらない3歳のおれに優しくいろんなことを教えてくれた。
今おれが持っているその頃の記憶は、ほとんど先生から聞かされたことがすべてだ。
今となっては、母の記憶もほとんどない…。時々、夢の中で感じる優しく、碧…? そう名前を呼ぶ声を感じるのみで…。
夕方6時の先生との約束まではまだ数時間ある。
しばらく界隈をぶらぶらしようと思っていた時、その事件(アクシデント)は起きた。
空港でもそうだったが、どこに居ても少しでも立ち止まれば、その場にいる誰かに声を掛けられる。
それは…全く意図せずともおれの容姿は人の目を惹くらしい。幼い頃からそれは顕著で、それもあってユージンの元ではずっと引き籠りがちに過ごした。
もちろん音楽活動もそれなりに行っていたけれど、今までは周りの配慮もあって、素顔を晒すことなく続けられたのだ。
3月とはいえ、午後の遅い時間になれば気温もぐっと下がってくる。
そこでおれは散策をあきらめて、早めに予約したホテルにチェックインしようと、道路の向こう側にある地下鉄の入り口に向かうべく、目の前にある横断歩道を渡ろうとしていた。
目の前の歩行者用の信号が青に変わるのを、端に立ってじっと待つ。
とにかく目立ちたくないおれは、コートの襟を立てて黒いキャップを深めに被る。
車道側の信号機が赤に変わり、数秒後に歩行者用の信号も青に変わる。
それを見て、瞬時に歩き出そうとしたおれの、すぐ目の前にいた老婦人の持っていた手提げが足元に落ちて、無意識に拾って渡したあと、彼女は丁寧に礼を言って歩き出す。
それを何とはなく見送って、またおれが歩き出そうとした時、不意に後ろから ドン! と激しい衝撃を受けておれはよろめく。
よろめいたはずみで、すぐ横にあった信号機の支柱に、おれは額の左側を嫌というほど打ち付けた。
( ……!?)
一瞬何が起こったのかわからなかった。
瞼に星が散るとはまさにそのことで、チカチカとした光の束を見たあと、おれは支柱に片手をついたまま…顔を上げることもできなかった。
「くぅ~!」
痛みに呻くおれの直ぐ側で誰かの声がする。
「AH…S、Sorry…!」
たどたどしい英語で話しかけてきた相手の方を、おれは振り返って見た。
その時のおれは、相手の顔を確認する余裕などなかった。
かなり痛かったのと、不意打ちを食らったことで、それまでのおれの中に溜まっていたイライラが爆発する。
「あ~、痛ってぇ~なもう! どこ見て歩いてんだよ!馬鹿…!」
とっさに無意識で飛び出したのは日本語だった。
自分でも驚いたが、相手もびっくりしたように大きな目を開けておれの顔をガン見してくる。
そこにはシンプルだけど、清潔感のある装いの女の子が居て、最初はびっくりした表情をしていたが、おれの言葉を聞いたとたんに態度が豹変する。
「はぁ~!? あんたこそ、信号変わってんのに、いつまでもそこに突っ立ってるのが悪いんでしょうが!? 邪魔だっつうの!」
「ぶつかって来たのはそっちだろ…! あ~! これ、イタリア製の特注品で3000$(ドル)はするンだけど…」
彼女のまん丸い瞳が半眼になったかと思えば、とがった唇から次々に発せられる辛辣な言葉に、おれもついつい言い返す。
別にサングラスなんてどうでもよかった。
自分で選んだわけでもないし、代わりはいくらでもあるのに…。
何でだろうな…? 目の前の彼女を改めて上から下まで冷静な目で見つめる。
身長は女の子にしては高い方だろう…。
こじんまりとして、どちらかといえば清楚な感じの整った綺麗な顔立ちだが、まっすぐな眉とキッと引き結ばれた唇は、ずいぶんと気の強そうだ。
全体に細身な印象だけど、両足を踏ん張りながら両腕を組んで、おれを下から睨みつける様子はなかなか…。
今までこんな風におれを意識せずに真っすぐ相対してくる女の子にナンシー以外会ったことなかったおれは、その時なんか不思議な気持ちで彼女のことを見ていた。
しばらくバチバチ無言でやり合っていたおれたちの様子を行き交う人たちがちらちらと興味深げに覗いていく。
またしても人目を引いてしまっていたことにヤバいな…と感じ始めていた時、目の前の彼女が急に大声を上げた。
「うわぁ~! 大変だぁ!!」
急に焦りだす方向を見れば、彼女のものだろうと思われる楽器のケースが近くの植え込みの中にある。
(この大きさはチェロだな…?)
そう思いながら黙って様子を伺っていると、彼女はケースを慌てて引っ張り出して中身を確認している。
どうやら衝撃で弦を張っているペグが緩んでいるらしい。切れているわけでもないし、この程度なら簡単に直るはずなのに…。
彼女は困ったように躊躇していた。
他人の楽器がどうなろうとおれには関係ないと、そのまま見過ごそうとしたのだが…。
一応音楽家の端くれとしては、この程度のアクシデントなど、どうということはないのだが…。
最初は傍観していたものの…見ていたらだんだんイライラしてきた。
「自分の楽器も丁寧に扱えないなんて、音楽やる資格ないな…」
「ちょっと、あんた、何よ…!」
「なんだ、ペグが緩んでるだけじゃん、さっさと自分で直せば…?」
「わかってるわよ…! うるさいわね…!」
瞬時に彼女は言い返してくるが、彼女の楽器を見ればそれなりに大事に手入れされているのが分かる。
プロの音楽家なら自分で出来るはずだから、案外アマチュアレベルなのかもしれないが…。
そんなことを思いながら、無意識に手が出ていたのには、自分でも呆れた。
「あんた、ホントにプロのチェリスト? どう見ても学生には見えないけど? 自分の相棒もチューンナップ出来ないプロなんて初めて見た」
おれの言葉に彼女はまたムッとしたように唇をとがらせたが、それよりもおれは足元に落ちていたものに気を取られていた。
(こ…これは、『幻夢』…!?)
驚いた…。おれの足元にあったのは一枚の譜面で、そのタイトルは、おれが12の時に書いた自分の曲だったから…。
「これ、あんたの…?」
とっさに言葉が出ていた。
一目見ればすぐわかる。明らかに原曲とは違う、誰かの手が加えられたものだ。
「え…? ああ、それは…」
明らかに歯切れの悪い答えに、おれは彼女の顔をじっと見る。
「返してよ…!」
「教えてくれたら返す」
慌ててその譜面を取り戻そうと伸ばした彼女の手をおれはわざと交わす。
「私のだけど…だから、返して…!」
「このアレンジは誰が…? まさか、あんたじゃないよな?」
「違うよ、あたしじゃない、それは…」
言い淀む様子にイラついたおれの口調は、ついつい皮肉っぽくなる。
「へぇ~? これをアレクシアが知ったら驚くだろうな? 」
「このアレンジは私的なものだから、営利の絡む演奏会で使うことはないわ」
「どうしてそう言える?」
「一般的なコンサートホールで演奏したことは一度もないの。今日だってこれから…」
そこで彼女は何かを思い出したのか、言葉を切る。
彼女の視線をたどれば、おれたち二人を遠巻きに見つめながら何かを囁き合っている人の群れに気が付いた。
(はぁ~勘弁しろよ…)
おれは心の中で盛大にため息を吐く。
どこへ行っても、注目を集めてしまう…そんな自分の容姿に今は嫌悪感しかなかった。
「はぁ~。どうでもいいけど…これは個人的なものだって言ったな。このアレンジした人物はどこに居んの? 」
オリジナルの作者としては、偶然見つけた“偽物”をほうっておくわけにはいかない。
さらに食いつくおれの言葉に、困ったように眉を寄せた彼女は、不意に話題を変えてきた。
「ねえ、あんたなんか楽器とか詳しそうだけど、ピアノとか弾けないの?」
「はあ? まあ、少しなら…」
ちょっと面食らったおれは、反応が遅れてしまう。
彼女は素早く周りに散らばっている譜面をかき集めると、サッと片手を上げてちょうどやって来たタクシーを止める。
「一緒に来て!どうせ暇でしょ? こんなところに突っ立っていたンだから、ほら一緒に乗って…!」
彼女の動向をボーっと見るともなしに見ていたおれは、いきなり片手を掴まれて、そのタクシーの後部座席に押し込まれる。
(えぇ~!! ちょっと、待て…! )
新手の拉致か…!?
おれは内心かなり焦っていた。10代の頃から何度か誘拐未遂を経験している身としては、冷静ではいられないが…。
隣に座っているその張本人の女性は、あっけらかんとした様子で、これから行くのは都内の児童養護施設で、そこの園長先生のためにこれから個人的なミニコンサートを開くのだと語った。
誘拐を企てる人間がこれほど、呑気でいられるはずがない。
単なる物怖じしない性格なのか、ともかくその勢いに負けた感じは否めない。
実際にははじめ先生との待ち合わせにはまだ時間の余裕もあるし、その時のおれは、なぜか目の前で熱く語る彼女から目を離せなかった。
うぬぼれるわけじゃないけど、今まで自分を目の前にして、こうも平然としていられる相手をおれは知らない…。
異性同性にかかわらず、常に意識され、特別視されることにそれまで不快感しかなかったおれは、目の前の相手に清々しいまでの印象を抱いた。
そしてそれは目的地であるその施設に到着して、さらに納得させられることになる。
こじんまりした古い木造の建物の前で、子供たちの手を引きながらたたずむ老婦人の穏やかで、優し気な笑顔を見て、
ああ…彼女の言葉に嘘はないな…と納得したのだった。
あの『幻夢』の譜面も、彼女が言う通り個人的な演奏でしか使われていないと納得できるほど…なぜかその時のおれは無条件にそう思えたンだ。
作者より
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
「碧のシンフォニー」を書き始めたのはもう15年以上前でして…。
イメージは出来上がって、ストーリーも妄想の中では完結しているものの、なかなか文字に起こせず、今に至ってしまいました。
時代も平成から令和に変わってしまい、認識もなかなかに変わっておりまして…。
おまけに音楽家というシチュエーションにも関わらず、まったく音楽的知識は皆無という、その筋の方からするとなんじゃこれ…! という場面もあるのではないかと、思っております。そこはなんとかご都合よく解釈いただきまして、楽しんでいただけたらと思います。
出来るだけタイムリーに更新していきますので、最後までよろしくお願いいたします。 佐伯 彩里
シンパシー(共鳴)
タクシーは少し人通りの少ない裏通りを進んでいくと、やがて住宅街の外れにある古ぼけた木造の建物の側で止まる。
建物をぐるりと取り囲むように桜の木が植わっており、少し膨らんだつぼみは、もうすぐそこまで来ている春の訪れを告げていた。
「着いたわよ、降りて」
先にタクシーを降りたわたしは、トランクからチェロを下ろして肩に掛ける。
いつもの癖でつい暴走してしまったことを十分わかっているから、タクシーの中でもいつも以上に饒舌になって語ってしまったけど…。
無理やりに連れてきてしまったことを、“彼”は怒るでもなく、なぜか黙って聞いていた。
(ああ、もう…こうなったら、どうとでもなれよ…!)
照れ隠しもあって、わたしはタクシーをさっさと降りて、建物の方へと歩いていく。
少し歩いて振り返れば、彼もゆっくりと降りてあたりを見回している。
(はあ、先生に何て言おうかな…)
勢いとはいえ、見ず知らずの人間を一緒に連れて来てしまったことを、先生に何と伝えようかとあれこれ考えていたのに、二葉園の玄関前に立っている愛子先生の姿を見た瞬間、そんな想いはすっかりどこかに飛んで行ってしまう。
「まあ、久しぶりね。祥子ちゃん。1か月振りかしら…?」
愛子先生は両脇にいる小さな子供たちの手を引きながらにこやかに迎えてくれる。
「はい、来週は先生のお誕生日でしょう? 今年も先生に私のチェロを聞いてもらおうと思って」
「ありがとう。聡君が居なくなってもう5年も経つのに、今もこうしてここを訪れてくれて、本当にありがとう」
先生はうっすらと目に涙と浮かべていた。
そう、わたしは恋人の聡を亡くした後も、こうして時々この園を、愛子先生に会うために訪れているのだ。
ここに来れば聡とずっと繋がっていられると思っていたから…。
「あら? 今日はひとりじゃないのね? 」
先生は少し離れた場所に立っている彼の姿に気が付いて、不思議そうにこちらを見る。
「あ…え、と…彼は…」
先生に彼を紹介しようとして思わず口ごもる。
そこでわたしはハッとして気が付いた。
あそこで出会ってここまで引っ張って来たものの、彼の名前すら聞いていなかったことに。
「碧(あお)です。倉木 碧(くらき あお)と言います」
その時彼が自分の名前を名乗った。
わたしはびっくりして、彼の方をじっと見つめる。
さっきまで無表情であまり感情を表に出さなかった彼は、今愛子先生ににっこりと微笑んでいる。
( …… !?)
超絶美形で、まるで人形のように整った顔から発せられる微笑みのオーラの威力は絶大だ。
もう70代に上がっている愛子先生ですらうっすらほほを染めているのだから。
「お兄ちゃん、イケメンだね? 祥子姉ちゃんの彼氏なの?」
そこで先生の横から数人の小学校低学年くらいの子供たちが飛び出してきて、あっという間に彼の周りを取り囲んだ。
「な…!?」
私が絶句していると、子供たちは無邪気に笑いながら、碧と名乗った彼を興味深々でキラキラした瞳を輝かせながら見上げている。
碧のシンフォニー
初めまして。佐伯彩里です。今からずいぶん前にふとしたきっかけから書き始めた物語です。主人公は大人の女性でありながら、それを拒否して生きてきた真っすぐな女の子。もう一人の主人公は非凡な才能を世界的に認められた超、超天才音楽家だけれど、かなり偏屈的な世界観を持っている若干21歳の少年の面影を持つ青年です。何一つかみ合うことのない二人が、唯一音楽を通してだけ互いを理解できる…。
そんなある日、あることをきっかけにしてどんどん二人の距離は近づいていきます。お互いをかけがえのない存在だと認めた時…魂のシンパシーが始まります。切なさとワクワクするような高揚感を感じていただけたなら幸いです。