髪
あの子が、髪を切った。教室の扉からひょっこりと出たあの子の小さな顔。こつこつとこちらに向かってくるローファーの控えめな足音と、小さな女生徒たちのざわめき。わたしは目を見開いた。
背中まであった艶のある絹糸のような髪をばっさりと切ってしまって、肩口で綺麗に切り揃えた君はわたしの目の前に来て、にこっとはにかむ。
「おはよう」
「……おはよ」
わたしはその変貌にあまりにも驚いたから、すぐに気の利いた褒め言葉を言えなかった。すると君はどこか恥ずかしそうに目を伏せて、左手の人差し指でボブの毛先を弄る。
その姿にはなんとも言えない可愛らしさや脆弱さがあって、わたしは初めて、君のなかにある女の子という生き物の儚さを直視してしまった気がした。
「……似合ってる。かわいい」
「ほ、ほんと…?!よかったあ」
それはわたしの心からの言葉だった。君はその言葉を素直に受け取って、喜ぶ様子を見せた。わたしはそのことが心から嬉しい。いたって普通の、女の子の間に混じり気のない純粋な言葉が飛び交うだけの景色。
それがどれだけうつくしいことか、女の子の日常的な言葉や作法にどれだけ本音や真心が含まれていないか、きっと君は知らない。いつまでも知らないでいてほしい。
「ほんとだよ」
「えへへ、ありがとう」
君は頬を緩めながら、わたしの前の席に鞄を置いて座った。そして座った君の周りには、すぐに他の女生徒が集まってくる。
「**さん髪切ったの?!かわい〜!」
「ほんと!似合う〜!!」
「ほ、ほんとに?ありがとう〜」
わたしは眉を下げて曖昧に微笑う君の顔を見て、ああ、嬉しくないんだな、とすぐにわかった。女生徒たちの安っぽい媚びたっぷりの褒め言葉に、心がどんどん冷めてゆくのがわかる。
しろいテーブルの上に佇む透明な硝子玉の瞳の人形みたいな、そんな穢れひとつ知らない君の顔に、べたべたと不躾に媚びてピンク色の絵の具を塗りたくる女生徒たち。
「あはは」
けらけらと笑う女生徒に合わせて、いつもと全然違う、ちっともかわいくない顔で笑う君。
君の硝子玉みたいに世界をきらきらと反射する瞳が、死んだ魚のように沈んでいくのがわかる。
ーーああ、やめて、君はそんな、穢れちゃ。
「行こう」
わたしは君のぶらりと垂れ下がった右手を引いて、勢いよく椅子から立ち上がった。周りの女生徒たちがどよめいたけど、そんなものはどうでもよかった。
「ま、まって、ねぇ」
君を巻き込んで勢いよく教室を飛び出す。繋いだ手の後ろから君の焦る声が聞こえたけど、その瞬間のわたしには君のことを思いやる余裕が無くなっていた。
教室を飛び出して屋上まで来たわたしたちは、落下防止の柵の前で立ち止まる。
「まって、まってよ!」
振り返れば、困惑したような顔の君と目が合った。
「……ごめん」
わたしが小さく謝罪を口にすれば、君は目を丸くしながら口をつぐんだ。わたしは小さく口を開いて息を吸って、吐く。
「……君が、変わっちゃう気がしたから」
君の硝子玉の瞳に、空の光が映っている。その澄んだみずいろの真ん中には、しろいセーラーを着たひどい顔のわたしがいた。
君は瞳をぱちぱちと瞬かせて、言う。
「私は、変わらないよ。ほかの子に変に褒められてたの、気にかけてくれたんだよね」
ありがとう。そう言って薄く微笑んだ君は、やっぱり奇麗だ。揺れるボブヘアーの毛先にすら穢れも汚れもない。そんな君の瞳に、真っ黒なわたしが映ることが、どうにも許せなくて。なのに君に触れたくて。
「……ごめんね」
「なんで謝るの。あなたに褒められたのが、一番嬉しかったんだよ?」
そう言ったあと、照れくさいな、と毛先に人差し指を絡ませた君のその純粋に、わたしはやっぱりずきりと胸が痛むのを感じた。目頭がじわじわ、うっすらと熱くなる。
これが恋なら、きっと失敗作だよ。
ーーキィーン…コォー…ン…カーン…コォ…ン。
「あ」
「やばっ、いこ」
始業のチャイムが鳴って、君と慌てて教室まで走りだす。
今日から君の純粋が、痛くて歪で愛おしい。
髪