竹取の物語
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
夏は暑いものだ。暑さに頭が少しやられそうになりながら、青年は歩いていた。人ごみの多い通りを離れ、手狭な高架下のトンネルを目的地まで歩いている。中を照らす唯一の明かりは、5メートル置き位に並んでいる頼りない光を放つ照明灯だけだった。地面はうっすらと濡れ、壁には苔が所狭しとくっついている。数少ない壁の隙間には、夜の世界を跳梁跋扈する愚か者によって良くわからない絵が描かれている。緑色の苔に彩られたキャンバスに描かれた、奇妙な猫の姿は、まさに悪魔そのものだ。雰囲気がいいだけに、霊験あらたかである。唯一の明かりの弱々しさが、この空間の恐怖を煽っているようにも見えた。
わざわざこんな不便な道を通っているのは、近道をしたかったということと、日陰を歩けるために涼しいからという理由だけだった。
青年は、ただ前を見据えて、歩き続けていた。つい、先ほどまでは。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
つい先ほどまで、青年は一人で歩いていた。表情なく、口を真一文字に閉じたまま、目的地に着くことだけを目的にしていた。
が、青年の思考がふと止まったとき、いやだからこそ思考が止まったのか。何故か、足音が一人分多かった。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
それは純粋な何かの気配である。人以外である可能性もあるが、二足動物の足音にほぼ間違いない。二本足で立って歩けるような野生動物など、もし居たとしたらとっくに動物園で見世物にされて死んでいる。と、するとどう考えてもこの足音は人のものだ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
だが、青年は振り返ろうとはしなかった。元々寡黙で内向的な性格ではあるが、それ以上にこんな場所で遭遇した奇妙な人物に、顔を確認するだけという小さな干渉さえしたくないと思っていた。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
だが、明らかに後ろの人物は自分の歩に合わせてついてきている。内心はあまりよく思っていない。人の歩に合わせる、というのは人の無意識の行動のひとつだといわれている。だが、このように足音の響き渡る空間で、たった二人しか居ない人間の足音に合わせるというのは、口笛を吹いている人間の隣で、突然それを吹き始めるほど失礼だ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
だが、後ろをついてくる人物は、お構いなしで他人の足音に合わせている。自然に合うだけならまだよい。だが、背後の誰かは、意図的に歩を合わせてくる。
こちらが微妙にテンポを変えれば、向こうもつられて変わってくる。こちらが、歩を早めれば、向こうも早く歩いてくる。
スタッタタンスタッタタン。
トテットトテットトテット。
際どいリズムにも平気でついてくる。
青年は、ついに根負けした。と、言っても、本人の趣味思考の問題で振り向かなかっただけで、こういった場所で背後に人が現れた場合、それに反応するのは特別なことではない。向こうも、それは承知しているはずである。
青年が背後を振り返る。と、同時に多少面食らったような表情を浮かべた。一体どんな礼儀知らずだと思い込んでいたが、ついてきていたのは小さな女の子だったのだ。
チラッとだけ顔を見て、青年は再び視線を前へと戻した。そして、先ほどまでの自分の考えを戒めた。
確かに、この薄暗い環境の中、小さな女の子が一人でここを歩くのは酷な話である。前にいた自分に合わせることで、多少なりと恐怖を紛らわそうとした、子どもなりの自衛反応だったということだ。それを責める権利は自分には無い。青年は、小さなため息を漏らして、足を緩めて歩くことにした。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
このトンネルは意外なほどに長い。ここに線路が出来るために作られた通り道のはずであった。しかし、その出口付近にバイパスを作ることになってしまった。そこで、一度出口を塞ぎ、バイパスの途中に出るための階段と、さらに先へと進んで行く道とに分けた。ところが、バイパスを横断しきった場所には山があったのだ。そこで、その山もついでにくりぬき、市民が頻繁に利用する地方スーパーまでつなげてしまったのだ。
そのため、非常に長く、また使い勝手が悪い上に、地方自治体の管理も事実上放棄されたようなものであるため、誰もがここの存在を忘れようとしていた。
だが、子どもの好奇心ならば、あるいはここを通ってみたいという欲求があるのかもしれない。それに、多くの人が使わなくとも、自分のように極めて稀に使われては居るのである。夜更かしの一団は夜だからこそここに現れるわけだ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
二つの足音が交わる。壁に音と音が反射して不協和音を奏でている。そこに調和など無いが、規則的に並んだ二つの音は、不快感を生み出しはしなかった。いわゆるBGMである。聞くことを目的としたものではないが、あることによって何かしらの情報を人に伝えてくる。この場合、その場に自分以外の人間が居るという事実によって安息観が得られるといったところだろう。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
歩を緩めれば、聞こえる音は遅くなる。青年は、心なしか先ほどよりも近い場所で音がしているような気がした。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
響き渡る靴音に混じって、自分の服がこすれあう音も聞こえてくる。そして、その音も二つ聞こえ始めた。もうすぐ後ろまで少女はやってきたようだ。歩を遅くしたことで、少女が自分に追いついてしまったのだろうと、青年は思った。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
しかし、それまで近づいてきた速さが、自分の後ろについた時点で、完全に自分と同じ速さになった。足音、歩幅、服のこすれる音がハミングしている。もしかすると、呼吸さえも重なっているのではないかと、青年は思った。
ぴったりと自分についてくる少女を、青年はもう一度振り返った。すでに首を横に向ければ見える場所まで近づいてきていた。そして、青年が振り向く前からこっちを見ていたのか、振り向きざまに目が合い、そのまま離せなくなってしまった。
青年の身長は、170cm前後。高架下ということもあり、低めに作られたトンネルに圧迫感を覚える程度の高さである。少女の顔は、その青年のちょうど腹辺りにあった。年齢で言うならば、5・6才といったところだろうか。
少女の顔は、頬に肉が残り、頭の大きさの割りに体が小さいという、いわゆる幼児体系というものだった。ストレートの髪は、首筋辺りで綺麗に切りそろえられ、丸みを帯びた小さめの顔と、顔のパーツの割りに大きい目が印象的だった。
不思議なことに、少女は青年と目が合ったまま視線を逸らそうとはしなかった。彼女たちから見れば、これだけ大きな知らない人に、多少なりと恐怖感を覚えるものである。
青年も、何故か視線を逸らそうと思わなかった。18才とある程度精神が成長している彼らならば、見知らぬ人と目が合ったことによる気まずさを覚えるはずである。その、特徴的な目が、闇に近いこの空間で、薄暗い光よりも強く輝いているように見える目から、逃れることが出来なかった。
二人は、良くわからないが目を合わせたまま、同じように歩を進めていった。
数秒もしたころ、青年たちの前方から突然光が見えた。青年は光に気を取られ、前を振り向いた。青年が少女を視界に納めていた最後の瞬間になっても、少女は青年を見ていた。
青年は自らの住処へと辿り着いた。5階建ての、良くあるアパートである。高校を卒業し、すぐに働きにでた青年にとっては、ようやく得られた自らの場所ともいえる家である。学歴社会の境地に辿り着いたこの時代になって、高校を卒業してすぐに働きに出るというのは珍しい。一般的にはせめて1年か2年専門学校へ通った後に就職するものである。もちろん、それは普通という定義が当てはまる家庭だけである。あいまいすぎる普通という境界を何処に定めるかは難しいが、よくある父母兄弟がいて、それなりの収入のある家ならばそういった道を選ぶだろう。もしかすると、無理をしてでも大学を目指すかもしれない。
普通、をそう定義するならば青年は間違いなく普通ではない。高校を卒業する瞬間までは、彼は普通の家庭に生きていた人間である。しかし、高校を卒業し、ひとり立ちの一歩を踏み出そうとしたその時、彼は走り抜けた。卒業式が終わると同時に、彼は荷物を纏めて家から少ない荷物を持ち出して家出したのである。
内定したと両親に報告していた会社には、なんと彼本人から断りの電話が入っていた。もちろん、学校側も全くそれに気がつきはしなかった。普通高校の進路担当にとって、就職というのは極めて稀な例で、また忌むべきものに近い存在である。そのため、他の学生ほども管理されていなかったために、内定案内などが届かないことに気がつかなかった。
彼は住所を偽り、名前を偽って、元いた場所から遠く離れた土地で静かに暮らしていた。高校にいるときにひそかに受けていた会社に就職し、与えられたアパートでほっそりと生きていたのである。
もちろん、両親は警察に捜索願を出し、学校側もそれに協力していた。しかし、学校のどの教員も、彼を知る全ての人物も、彼の行き先に心当たりはなく、皆一様に驚くばかりであった。
荷物の中に彼が貯蓄していた通帳も持ち出されており、また居なくなった日の昼ごろ、近くの銀行でそのお金を全額引き出していることから、青年はどこかへ逃げなければならなかった事情があったと判断された。しかし、持ち出された荷物の中には、服、財布などの最低限のものであること、その屋敷で彼が使っていた携帯可能な範囲の家具も無くなっていたことから、どこか別の場所で生活しようとし、かつある程度余裕があるもの判断され、それほど慎重に探されることは無かった。
そんな彼がそこに住むようになって以来、会社の人たち以外の人間がそこに現れるのは稀な彼の家の前に、青年と少女が2人、立っていた。
青年は悩んでいた。袖触れ合うのも多少の縁とは言うが、まさか自分の家に辿り着くまでついてくるとは思っていなかった。歩いてる中で、同じ方向に目的があるのかとも思い続けていたが、彼の住んでいる場所は会社の独身者が入る施設である。独身だとしても、誰かと同居するならば社宅へと移されるのだから、そこにこんな小さな女の子が居るはずは無かった。寮の管理人の子どもかと疑ったが、管理者は複数人いて、その誰もがここに住んでいるわけではない。
次に、青年はこの寮に住んでいる誰かの知り合いかとも思ったが、建物内に入り、階段を上り、自分の部屋のドアを開け、中に入ろうとしたときに、自分についてくる少女を見て、その線も消えた。少女は、完全に自分を目当てについてきたようだった。
確かに、一時的に預かるだけならば怒られることも無いだろうが、そもそも面識の無い少女を自らの家に入れるわけには行かない。ともすれば、誘拐ともとられかねないからだ。
仕方なく青年は、家に入るのをやめ、たった今ただいまを告げた部屋のドアに鍵を掛け、アパートを離れることにした。
当然のように、彼の後ろをついてくる少女を見て、青年の頭はさらに悩むこととなった。
青年は、アパート近くの公園のベンチに腰掛けていた。手には、愛飲の缶コーヒーが握られている。隣には、普通に座っている少女の姿がある。両手で、冷たいリンゴジュースをつかんでいる。
小さくため息をつき、コーヒーを一口飲む。少女も、それにならって同じ動作をする。青年は、少女が自分のまねをして遊んでいるのかと思った。が、ふと奇妙なことに気がついた。もう一度、コーヒーを一口飲む。少女も釣られて缶に口をつける。ゴクリ、と青年が喉を鳴らすと、少女の喉も同じような動きを見せた。
しかし、それは不自然な動きなのである。少女の缶は、開けられていなかった。
青年が片手で缶を持ってみると、少女また同じ握り方をする。青年がさらにコーヒーを飲めば、少女もまた開けていない缶に口付ける。ぬれた唇を軽くぬぐえば、同じ仕草を返してくる。
不思議そうに少女を見る青年を、同じく不思議そうに見つめる少女。青年が首をかしげると、少女もまた首をかしげる。それが鏡合わせの動作でないことも、さらに少年を悩ませた。
とりあえず、折角買ってあげた冷たいジュースが、少女の体温で温くなってしまわないように、青年は缶を開けてあげようと手を伸ばした。
少女がその差し出された手に缶を乗せる。カシュッと、小さな悲鳴を上げて缶の中身が空気に触れる。それを少女に返してやり、そしてコーヒーに口をつける。それまで同様、青年と全く同じを見せる少女。しかし、今回はしっかりと唇もぬれているし、喉を鳴らす音も自然だった。口を拭うと、少女も同じように口を拭った。
そして、青年はさらに混乱した。缶を開ける前まで、歩幅さえも真似した少女。そして、缶を開けてあげると、また同じ様に自分の真似をする少女。青年は、少女が自分のコピーロボットか何かのように思えて楽しんでいたのに。青年が何も言わずに差し出した手に、少女は缶を置いたのだ。
言葉を交わさなければ同じ動作をしていた子どもが、缶を開けようと差し出した手の意味に気がつくのだろうか。椅子に座って前かがみになり、両手を組みながら缶コーヒーを握って考えをめぐらせる少年と、全く同じポーズで隣に座っている少女。
青年は、とにかく不思議だった。
直に日が暮れようとしていた。結局、青年と少女は何も喋らないまま、2時間近く同じ仕草、同じ格好をしていた。その中で、青年はいくつか気になった点を見つけた。
まず、少女は確かに自分の真似をしているということ。例えば貧乏ゆすりを始めれば、同じようにはじめる。そのテンポさえ真似てくる。空っぽになった缶に口をつけても、同じ事を始める。また、石を蹴ってみると、少女も同じように足を動かすが、石が無くても同じ事をしていた。
次に、自分の真似をするときと、しない時の動作をするときの違いにも気がついた。少女が真似をするのは、あくまでも青年が少女以外のものに対して行う動作だけ。青年が少女に対して何かしてあげようとすると、青年の意図した通りに動いてくれるようだった。例えば、髪についたゴミを取ってあげようとすると、そのゴミのある場所を自分のほうに向けてくる。極めつけは、何気なくその場に置いた振りをした手の上に、青年の頼みどおり空になった缶を置いたのである。青年は、自分の考えが読まれているのかとも思ってしまった。
ほかにもいくつかの実験的な事をしていたが、少女の方は結局何もリアクションを見せなかった。少年の頭を混乱させる結果だけを、少女は残し続けた。缶を捨てるためにベンチを立ち上がるとき、少女は何故か立ち上がらなかったのである。真似をし続けている少女が、期待を裏切ったのである。この動作は、少女に対して行われるものではないはずだった。
もしかすると、自分がただゴミを捨てに行っただけだと判っていたのかもしれない。エスパーじみた能力があるのではないかと、青年は疑った。
夕暮れも、そろそろ暗がりのほうが多くなり始めたころ。ついに少女が自ら立ち上がった。青年は、初めて見せる少女自身の動きを、興味津々と見つめていた。
少女は青年の前に立ち、目を見ていた。青年も、不思議に思いながら少女の目を見ていた。また数秒その状態で止まってしまったが、今度は少女のほうから視線を逸らし、そのまま歩いていってしまった。
声を掛けてとめようかとも思ったが、おそらく家に帰ったのだろうと思い、青年は去ってゆく少女を見送るだけに留める事にした。
真昼の月が昇る夏、青年は歩いていた。人ごみの多い通りを離れ、手狭な高架下のトンネルを目的地まで歩いている。中を照らす唯一の明かりは、5メートル置き位に並んでいる頼りない光を放つ照明灯だけだった。近道をしたかったということと、日陰を歩けるために涼しいからという理由のために、真昼の闇の中を青年は、ただ前を見据えて、歩き続けていた。つい、先ほどまでは。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
足音の多さが思考を中断させたのか、思考が中断したからこそ足音が聞こえたのか。その違いは特に問題にはならなかった。しかし、その音に既知感を覚えた。全く同じ事が、先日起きたはずであると、青年の脳が告げている。そして、心臓は、その感覚が正しいことを切に願っているように、小さく高鳴った。
青年は、打算することなく、素直に振り向いた。そして、そこにいたのは。いつぞやの不思議な少女に非常によく似た少女だった。
青年は、顔を見た瞬間、別人なのかと思った。しかし、もう一度良くその目を見てみると、確かに以前の少女に間違いないと感じだ。暗がりを照らす微弱な光より、強く輝いて見えるその目は、間違いなくあの時ここで見た少女そのものであった。
しかし、青年がすぐさま記憶の中の少女と、目の前の少女を合致させることが出来なかったのは、以前に比べて見た目が大きく異なっていたからだ。
少女の瞳の輝きをそのままに、しかし目と顔のバランスが取れており、肩や腰など、体の部位が、確実に成長していた。身長さえ、以前に比べると大きくなっていた。青年の記憶にあるのは、幼女という認識。しかし、目の前に居るのは間違いなく少女、であった。
極めて短い時間、たかが1週間程度の間に。5才の子が7才程度にまで成長することなど、ありえはしない。青年は、彼女に良く似た、おそらく姉であろうと推測した。
姉であるならば、彼との面識は無いはずである。知らない人に長く見つめられては、不審者だと思われても仕方が無い。青年は、幻影を振り払うように前に向き直り、再び歩を進めた。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
以前の感覚を呼び起こそうとしてるように、後ろの少女は青年の歩に合わせて歩いていた。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
布の摺れる音が二つ聞こえる。おそらくすぐ後ろにまで近づいてきているのだろう。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
首を横に向ければ見える所を、あの日より少し背の高くなった少女が歩いている。少女の背の高さは、青年のみぞおち辺り、といったところだろうか。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
先ほどまでの歩く早さならば、とっくに青年を追い越していても不思議ではない。しかし、青年のほんの少し後ろを、少女はずっと歩いていた。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
スタスタスタスタ。
トテトテトテトテ。
青年は、再び少女を見た。と、同時に青年と少女の視線は再び絡み合った。少女は、ずっと青年のことを見ていたようだった。
そこで青年は、彼女が間違いなく以前の少女であると思った。もしかしたら、よく似た姉妹の可能性もある。しかし、少女の目を見て、青年は、いつ自分が気がつくのだろうかと思っているのではないかと思った。
真昼の月は既に沈み、割と珍しい、太陽だけが空にある時間が短い時刻が始まった。青年はベンチに腰を下ろし、コーヒーを握っていた。その隣では、同じように座ってリンゴジュースを持っている少女。
青年はコーヒー党である。ブラックよりは、微糖の方が好きだ。少女のほうは、リンゴジュースが好きだったようだ。青年は、なんとなく少女はこのジュースが一番好きなのではないかと思い、買ったのは成功した。
以前は少女の表情まで見る余裕は無かったが、今回は以前の結果を踏まえて、もっといろんな部分を見てみたいと思った。その一つが表情である。一見すると無表情のように思える。が、よく見ると目が変わっている。意味もなく景色を見ているとき、ジュースを飲んだとき、青年を見ているとき。その時々で、目の輝きが微妙に違っているのではないかと、青年は気に掛かった。試しに、コーヒーを渡してみた所、目は濁り、つき帰してきてリンゴジュースに口をつけた。
相変わらず、青年の真似を良くするが、青年から少女に対する行動に関しては、青年がしてほしい態度をとってくれる。本当に、読心術が使えるのではないかと思えるほど、少女の行動は青年とマッチしていた。
今日は、青年の仕事は休みだ。当然、そうでなければこんなところで居られるわけが無い。そこで、たまの休みに出会った不思議な少女を、観察したい気持ち半分、打算なく遊んでみたい気持ち半分で、何か食べることにした。
時刻は既に昼を少し過ぎている。食堂などに彼女と行くのは少し問題がある。ただここで座っている分には、兄妹、従兄妹、親戚、知り合いなどなどで片付くし、たとえ両親が現れたとしても、何事もなく別れることが出来るだろう。
しかし、食堂などに居るとなると話は別だ。誰が見ても人攫いである。青年は、少し思案した後、少女にはここに残ってもらおうと思った。
立ち上がりコンビニへ行こうとする。少女は、それに習って立ち上がらなかった。本当に、不思議な少女であると思いながら、青年は少女を少し見て、その場を離れた。
散々迷ってようやく買った荷物を持って、青年は公園へと向かっていた。優柔不断な青年は、こういった適当な買い物というのが非常に苦手である。自分の分となると、特に難しい。何でも良いような、何も良くないような。そういう状態に追いやられてしまう。
しかし、少女の分については特に迷うことは無かった。先ほどから少女が自分の行動を読んでくれるように、自分もまた、わずかながらに少女の趣味思考が分かりつつあった。おそらくこれが好みだろうというのも、想像にたやすかった。
だが、コンビニから公園へと戻る途中、青年は不思議な少女についての考察を再び始めた。まず、彼女は一体何処から来たのかということだ。もしかするとこの辺りに住んでいるのかもしれないが、彼女と出会った場所は、意外と離れたところにある。もし、この近辺であったとしたならば、あのトンネルに居ることはそもそも不自然だ。あの位の年の子の行動範囲としては、広すぎる。
次に、なぜ自分についてきたのか、ということだ。初めてであったときなど、青年の家に入る勢いであった。ただ、意味もなくついてきているだけ、というわけではないはずだ。そして、今日の出会い方も。まさかではあるが、彼女はあの場所で出会うことを計算していたのではないだろうか。
最後に、一週間前と今の少女との体格差だ。あれが成長だとするならば、2年分以上の成長になる。そんな速さで成長できるのであれば、もはや人間ではない。病気で、人の何倍も早く老化していくという人も居るが、体格までも変わるようなものではない。そもそも、中学~高校の間に、成長速度が速すぎて骨が痛むということがある。もし、少女が本当に2年分成長したのだとしたら、痛みで冷静で居られるはずが無い。
考え続けても、答えが出ることは無かった。ただ、良くわからないが少女は青年の考えをある程度理解してくれ、青年もまた少女の思考が少しずつ分かるようになった。
公園へと足を踏み入れ、ベンチへと向かっていく。ベンチには、姿勢を正してキチッと座っている少女の姿があった。その少女の近くで、同じ年頃の少年少女がボールで遊んでいる。友達かと思ったが、遊んでいる子どもたちは少女に話しかけないし、少女もまた話しかける様子は無い。少年たちは、少女の事が視界に入らないかのようにはしゃいでいる。彼女もまた、少年たちを見ていない。ボーっと、定まらない視線のまま、青年を待っていた。
小さな子を置いて買い物に行ったのだから、もう少し急ぐべきだと、青年は反省した。そして、ゆっくりとベンチへと近づき、少女の隣に座った。こちらを見ていなかったのに、少女はその動作に驚くことなく、しかし青年を振り向いて再び目の輝きを変えた。青年は、それが待ち焦がれた人間の表情だと悟った。
遅い、と責められているような気がして、青年は頭をかきながら、少女のために用意したものをベンチの上に置き始めた。もちろん、自分の分も用意してある。食い盛りの青年にとっては、普段の食事時間から1時間ずれることさえ苦痛なのである。それを平気で我慢できたのは、少女との時間が退屈ではなかったから。
いつぞやのデジャブだろうか。夕焼けが空を焼き焦がし、光と闇の比率が逆転し始めたころ。少女は無言で立ち上がり、青年の前へと立った。青年は、以前と同じように、少女の目を見つめ続ける。しかし、決定的に違っているのは、青年が座っていても見下ろさねばならないほどの身長だった少女は、座っている限りは同じ高さに目があるまでに、少女が大きくなったということである。
焼き増しされたビデオの中のように、数秒の視線の交錯の後、少女は何処かへと走っていってしまった。後姿を見つめ、視界から少女がいなくなるまで青年は少女を見送り続けた。再び会うとき、少女はさらに大きくなっているのだろうと、確信を抱きながら。
爆音が鳴り響き続けている。一言で表すならば、そこは工場だった。パイプがあちらこちらに蛇のように絡み合い、もはやどの場所にどのパイプが絡んでいるか想像する事さえ難しい。
緩められた弁から突然蒸気が吹き上がり、側にいた人たちが悲鳴を上げながら必死で締め付けている。
頬は痩せこけ、先ほど浴びた蒸気によって火傷を負った左腕に、乱暴に包帯を巻きつけて弁を閉めている男がいる。歩いて15分程度で帰れる寮に戻ることも億劫になるほど残業を続け、朝も昼も仕事づめとなって、すでに2週間以上の日にちが経とうとしていた。
腕の火傷は、3日ほど前に寝ぼけて圧力弁の操作を誤ってしまったために噴出した、高温の蒸気圧をまともに浴びたせいでおきた怪我だ。怪我をしたその日だけは、医務室で治療後に安静とされたが、次の日には職場に復帰して、前線で活躍させられていた。
この数日の間、彼以外の誰もが同じような状態だった。次第に、怪我をしていない人間のほうが少なくなってしまう有様である。それでも、怪我が完治するまで療養させるだけの余裕が、会社にはなかった。
世はまさに、飽食・物余り時代の最先端である。そして、無駄な消費こそが、彼が勤めるような中小企業をこれまで生き残らせてきた重要な命綱である。たとえ、ライン交換の途中で、残っていたラインが故障したとしても、その復旧が終了するまで工場をとめてしまえば、たちまち経営は火の車どころか消し炭となり、少ないながらも大事な社員たちの首を飛ばさねばならない事態となってしまう。それを避けるためには、社員にしわ寄せが行くのは仕方のないことだった。
青年も、他の社員も、もはや話し合う余力さえも失われている。幽鬼のようになりながらでも、作業を進める手を止めはしない。そして、次の作業を頭脳で分析し、必要な行動を考えてゆく。もはや脳さえも、消費されるパーツのひとつでしかない。
今日でその苦労も終わりを告げるという希望だけが、彼らの唯一の支えだった。残っていたラインの修理と、新たなラインの導入が今日で完了し、稼動を開始する。新たなラインの生産量は、以前の倍の量だ。そして、それにかかる手間でいうならば半分より、少し多いといった程度。圧倒的なコストパフォーマンスである。もちろん、その恩恵の悪いところを受けた社員が、数名いたことは否めない。しかし、そうでもしなければ生き残れない場所で働いているのである。彼らは、そう思うことでしか、切り捨てられた人物たちに謝罪する方法が思いつかなかった。
もちろん、青年も今日の勤務終了を心待ちにしている一人である。先々週に出会った少女。最後、別れ際の彼女の目に、また会おうと送ったメッセージを、先週は自分のほうから破ってしまったのだから。明日、明後日と青年は休暇となっている。明日は怪我と体調を取り戻すことを優先したとしても、明後日は少女に会いに行かなければ。これまで出会った日と同じ、日曜日にあの高架下のトンネルで待っている、少女の下へと急がなければ。
そんなことを思い、わずか1秒でも早く仕事が終わるように、青年は働き続けた。
ぼろ雑巾が、部屋の中に投げ入れられた。ように見えた。正しくは、汚れた雑巾を洗うために、部屋へと置いたというべきか。青年は、疲れ果てて部屋にたどり着くことができなかった。不眠不休に近い作業、長い間工場という、存在するだけで体力を奪われる部屋に閉じ込められていたというストレス、それが職場から一歩外へ踏み出しただけで、一気に青年を襲ったのである。
汚れはて、使い物にならないほどぼろぼろになった雑巾は、道端に捨てられる寸前で、誰かに抱きかかえられるように受け止められた。青年は、はじめはそれが誰なのか分からなかった。170センチの自分を普通に受け止める体格のよさに、男なのかと思っていたが、受け止められたときの体の柔らかさは、間違いなく女性のそれだった。
消えかかる意識の中で、かろうじて青年の目が捉えたのは、無表情に涙を流し、自分を気遣いつつ、目を輝せた女性だった。
夢の中を彷徨っている、そんなあるのかどうかも不確かな感覚でしか形容できない状態。ただ眠るだけだというのに、眠ることに体力を奪われるほどに疲れた体。そんな粗大生ごみのようになった青年を見守る女性がいる。
かつてないほどまでに求め続けた安息の日々、その最中にて安息を、夢の中で見る夢の中で探し続けている青年。
彼らは、同じ場所にいながら、全く違う世界を生きている二人のように、すれ違っていた。起きて彼の看護をし、早く目覚めてほしいと願う女性。夢の中で、自らの最も幸せな瞬間を過ごし、目を覚ましたがらない青年。もしも、彼女が青年を見捨てたならば、青年は二度と目を覚まさず、永遠の夢の中へと旅立っていたかもしれない。
老人を思わせる様なくたびれた顔つきの男が一人、ベッドの上でお粥を食べている。綺麗な、しかし現代風の美しさではない美貌を持った女性が、ベッドのそばで男に食事を与えている。青年は、二日ほど眠り続け、ようやく意識を取り戻した。若さゆえに体力で押し切ることで仕事をこなしたが、若さゆえに手加減のできない一直線が仇になり、体力が限界を超えて消費されていた。工場側は、新たな生産ラインが軌道に乗り、青年には数日の休暇が与えられているが、それも半分を眠って過ごすという事態になってしまった。もちろん、彼女がいなければ、青年はその休暇全てを眠ってなお目を覚まさなかっただろう。
だからこそ、青年は彼女に感謝すると同時に、申しわけなさで一杯だった。本来なら、1週間前に会いに行っていたはずだった。そして、再び公園で意味もなく二人、景色を眺めていたはずである。それは、少女が望んだ約束であり、青年が交わした約束である。それを、会社に時間を忙殺されてしまい、挙句今、彼は本来外部の人を入れてはいけないはずの自分の部屋に、彼女を入れて、丸2日も、彼の世話をさせてしまっている。それが、青年には耐え難いほど重い罪のように、圧し掛かっていた。
と、目の前であがる湯気に、青年は驚いた。彼女が、体の自由の利かない自分のために、差し出してくれた粥だ。不安な表情を浮かべ、冷めてしまった粥を一度彼女の手にした土鍋に戻し、少し混ぜた後再び暖かい粥を、青年に差し出してきた。青年は、それをまた申し訳なさと共に飲み込む。
一見すると新婚夫婦のようにも見えるが、彼らの間柄は、その程度の言葉で片付くほども、単純なものではなかった。
青年は食事が済むと、再び体を横にした。むしろ、彼女に強制的に横にされたと言ってもいい。起き上がって、彼女との意思疎通を図ろうと無理をした青年を、強く上から押さえ込んで、ベッドに戻したのだ。言いたい事が山ほど、胸の中であふれ出しそうになっている青年は、どうしても、と彼女の手を掴んだ。途端、彼を押し付ける力がさらに強まった。そして、視界が真っ暗になる。青年は、パニックを起こしそうになった。自分の上にある、柔らかな重さが彼女のものだと気がつき、視界を覆っているのは彼女の髪だと知り、唇に触れている暖かなものが、彼女の唇だと、理解するまで。
心地よい重みが、青年の全身を覆っている。だが、青年より一回り小さい彼女さえも、受け止める体力を失っていた彼は、体の中からの悲鳴に耐え切れず、小さなうめき声を上げた。それに反応するように、ふわりと青年の上にあった重みが消え、視界が再び戻ってくる。青年を見下ろしながら彼女は、微笑を浮かべ、彼に布団を掛けて離れていった。
青年は、その笑みと彼女の目から、大人しくしてくれと懇願されているのだと知り、食事の片づけをしている彼女にこれ以上気を使わせないように、勤めてゆったりとした時間に身をおくことにした。
死体は動かない。動くということは生命活動の一種だ。だから、動くならば死んではいない。隣に人がいる温かみは、心に平穏をもたらす。魂の休息は、肉体の回復を促す。泥のように眠り続けた青年の体が、ようやく身動きの取れる段階にまで回復したのだ。仕事に復帰するのは早いものの、日常生活に支障が出ることはない。外を歩き回ることだって十分可能だった。
青年は、今街の中にいた。アパートから少し離れた場所にある、この町の中心に位置する場所。いわば、この町の心臓である。路線という血管があり、道路という神経が集中した、町中で最も発達した箇所。休日は家族連れ、カップル、旅行者と人であふれ返す場所である。が、それも平日となると、話は別だ。人通りは、それなりに多いものの、人の山などどこにもない。点々と、人が歩いているのを確認できる程度だろうか。
そんな中、その点の一つになっている二人組みが、駅前に到着した。といっても、駅から出てきたのではなく、これから駅に入っていく側の人間である。
青年は、一度彼女を見た。彼女は、完全に呆けていた。あごが外れたように口をポカーンと開け、瞬きを繰り返しながら、目新しいのであろう町の中心を見ている。と、いうわけではない。相変わらず、表情が有るか無いか分からない顔つきのままだが、青年には、分かった。その目は、建物の多さ、高さに驚いて困惑しているのだということが。
足を止め、じっとこの駅前で最も高い建物を見つめている少女の手を、青年はチャンスだとばかりに引いていき、駅の中へと進んでゆく。青年の、小さな勇気から出た行動である。彼女は、まだ調子を取り戻せてはいないものの、その引いてゆく大きな手に、流れを任せた。
そして、人ごみに紛れた二人を乗せて、電車は市街を離れ、開けた場所をひた走り、規則的に揺れ、出発と停止を繰り返し、人をおろし乗せて目的地へと進んでいった。もちろん、目的地があるのはこの列車に乗っている人間のほうである。電車そのものに、目的地など無い。ひたすらピストン運転を繰り返すだけなのだから。電車が動いていることに意味を与えているのは、電車を所有している会社ではなく、操作をしている運転手でもなく、そこに乗っている乗客全てである。だから、一人でも乗客がいる限り、その列車の存在意義は失われない。一人もそれを必要としなくなったとき、それが列車の寿命でありそれは天寿である。
ただ、しばらくは寿命の心配をする必要はなさそうである。少なくとも、彼と彼女はそう思った。
一旦平地へと出て、建物も疎らな街の外を通った後、再びコンクリートジャングルへと突入し、再び緑の見える景色が目の前に広がり始めた。電車に乗り始めてから、かれこれ1時間逆。青年は、もうすぐ着く目的地を心待ちにしていた。その隣で、少女はいつどこにたどり着くのか、楽しそうに外を見ながら待っていた。二人とも、言葉を交わすことなく。ただ、手だけを互いに離さないままに。
青年たちが与えた電車の目的は駅で彼らと一緒に外へとはじけ飛んでしまった。ただ、電車には彼らの数十倍近い人間が目的を持っている。電車がなくなってしまうことを気遣う必要性は無いようだ。
彼らが降り立った駅は無人駅だった。都会からそれなりに離れた証拠である。もちろん、離れる方向によってはあまり変わらないままということもあるが。少なくとも青年たちが向かった先に、コンクリートキャッスルはない。このまま線路沿いに数百キロ歩くならば話は別になってくるだろうが。
そこが青年が目指していた場所だった。周囲に建物は疎らだ。市街地と比較して勝っている所を上げるとするならば、景色の中に含まれる緑の色が圧倒的に多いということだろうか。目に入ってくる景色の中で、緑以外の色は珍しい。黄色や、青っぽいものもあるが、それらも色が違うだけで植物に分類されるものだ。
青年の隣で少女が深呼吸をした。市街地でずっといたためだろう。おそらく、彼女はこんな空気を吸ったことが無いはずだ。スモッグや、排気ガスが肺を犯す心配の無い空気を。もちろん、無いわけではない。人間がそこにいる限り、自然でないものは必ず発生する。それは、現代日本において、如何なる秘境であってもだ。先ほど、青年たちが乗っていた列車だってそうだ。あれの正確な名称は汽車である。ディーゼルエンジンで動く、電車と同じ形をした全くの別物である。現在では、あまりその言葉の意味の違いを取り上げることは無いのだが。
とにかく青年たちは目的地へとたどり着いた。
目的地、と言えば聞こえはいい。しかし、その場所へ行く目的というのは、実際のところ存在していない。行く場所に目的が無い場合、果たして目指している場所が目的地と呼ぶに相応しい価値を持つかどうかは疑問である。青年は、勢い込んでここまでやってきたものの、彼女がそれに対して何も感じることが無かったのならば、ここは全く無意味なド田舎だ。
ただ、彼女の反応を見る限り、立派な目的地として成り立ったようだ。目的が後からついてきたと、言うのだろう。彼女らは、この場所を散策してみたいと思ったのだから。彼女の目を見ながら、青年は小さな安堵の息を漏らした。おそらく、気に入ってくれるだろうという確信に近い思いはあった。彼女にとっては、今風の遊びなど適用されるはずが無い。もちろん、青年にも適用されない。店をはしごし、冷やかしながら一日街を練り歩くのも、もちろん悪いことではないだろうが。彼女にとっての当たりはこちらで正しかったようだ。青年は、安心と共に自身のペースを徐々に取り戻し、以前まで彼女と接してきたように、純粋に今を楽しむことができるようになってきた。
次は、この土地の散策である。
この場所は青年にとって特別な場所である。どこの田舎とも知らぬ所から全く目的もなしに現れた青年を拾ってくれた会社に勤め、数ヶ月がたったころ。いわゆる、社会の厳しさを身をもって思い知らされ、途方にくれながら電車に乗ってたどり着いた先のアヴァロン。理想郷がそこにあった。
理想といっても、ただ空虚感の漂わない無が、そこにはあっただけの話だが。
そして、その場所へ青年の特別な人を連れてきた。彼にとっては、生涯を掛けた大勝負だったというわけだ。
無人駅を出て、広がる畑を見ながら、二人は山のほうへと歩いていった。大きな木の塊が、彼らを見下ろし、彼らはそれを攻略しに行こうと意気揚々歩いていた。
意外なほどに、道は整備されていた。アスファルトで固められてはいないものの、農業用の自動車が何度も地面を踏み鳴らし、田んぼを流れる水にぬれ、人の足で踏まれ固まる。人がかかわってはいるものの、その流れは自然そのものだった。だから、歩きやすい道でも、地の冷たさも、照り返しの厳しさも感じることは無かった。
駅に続いていた道は、なぜか真っ直ぐに山へと続いていた。途中、何度か分岐はあったが、目を凝らして見る限り、どうやら畑や田んぼに続いていて行き止まりのようだ。
山に向かって、二人はそろそろ10分以上歩いているはずだった。しかし、なぜか見えている山の大きさが全く変わりはしない。続く道にも終わりが見えてこない。ずっとずっと先の方で山へとつながっているように見えるのに、駅から見たときとその景色は全く変わっていない。二人は顔を見合わせた。不思議な感覚にとらわれ、少しばかりの不安と、大きな好奇心が押し寄せてきて、どちらからとも無く手をつなぎあい、不安も消えてしまった。
大きな山だとばかり思っていた。少なくとも、駅からはそう見えた。しかし、それは若干違う。山であることには変わりなかった。しかし、30分歩き続けてようやくふもとと思わしき場所にたどり着いた彼らが見たのは、木陰の下に広がっている集落だった。道理でここまでの途中に家の一軒も無いはずだと、彼は納得した。
木漏れ日が家々を照らし出している。山の斜面に寄り添うように立てられた木造建築が立ち並び、その前に一本の広めの道が用意されている。並んだ家の上を見上げれば、木々の向こう側に同じような建物が見える。家の形は確かに似ているが、全くの同じものではない。しかし、この統一感。田舎ならではの連帯感、というよりも、徹底した利便性を追求した結果といいたくなる。
緩やかなカーブの先まで家が並んでいて、おそらくその先にも同じような家が並んでいるのだろう。途中で上の道にも繋がっていて、きっとずっとずっと上のほうまで同じように繋がっているのだろうと、容易に想像させてくれる。
二人は、上り坂を登っていた。集落にたどり着いて、二人は跳ねる様に互いに手をとりながら楽しんでいた。田舎景色に心がが溶け込んでいって、幻想風景画を見ているような映像刺激と、自分がその場所に立っているという感覚の差異が、二人を無性に楽しませた。そして、外から見たこの山村の、もっと上を見てみたくなって、二人は知らず知らずのうちに駆け出していた。
その姿は、まさに愛し合いされているカップルで、二人意識はしていなくても、二人の心は完全に繋がっていた。
次第に集落も無くなり、道だけがなぜか続いている。しかし、二人の心にもはや不安など無い。それは悟りの一つかもしれない。目的地などはどうでもいいのだ。ただ、二人で一緒に何かをするという口実さえあればいい。二人が生きていると思えるものならば、何でもいいのだ。手をつないでいなくても、言葉を交わしていなくても。
やがて、二人の前から道が唐突に消え去った。ある程度開けて、整備もされていたはずの空間から、何もかもから拒絶されているような世界に繋がっているように思えた。
二人は立ち止まって、その先を見ていた。光が差しているのに、何も見えていないと錯覚させてくる空気。彼らの前に現れたのは、苔が生え、黒ずみ、朽ち果てた入り口。外と中を区別するための結界で、結界の入り口。鳥居だった。
境界の向こう側を外から見ることは適わない。だから、暗いように思わされて、何があるのかと興味をそそられる。二人は今日何度目か分からないが、顔を見合わせ、手をつないで先へと進んでいった。
鳥居は中と外を区別する、日本神道が作り出した結界、その入り口である。内外を区別すればそれは全て結界であるから、家のドアももちろん結界といえるが、あれはどちらかというと境界である。境界というのは心に働きかける。無意識に人は境界を認識し、それにそった行動を取らざるを得なくなる。
しかし、結界というのは無意識どころでは済まさない。五感に働きかけ、人にその行動を強制させる。二人は、自ずから境内の中へと足を踏み入れていった。
鳥居を潜った瞬間に、背筋に小さな寒気を覚えた、という人間は居る。寺や教会とは違い、神社というのは人ならざる者を祭った聖地だ。人はそれを神と呼んでいるが、人間に味方をするとは誰も言ってはいない。神は相手を選ぶ。だから、小さくても悪寒を感じられたのならば、近づかないほうがいい。と、青年は教えられたことがある。それを今思い出した青年は、当然その悪寒を感じてしまった人間の一人である。嫌な予感、虫の知らせ、第六感、その他諸々の感覚が青年に警告を発している。ここから立ち去れ、と。
しかし、少女のほうはここに来て足取りが軽やかになった。つないだ手は知らない間に解かれ、気がつけばかなり遠くまで離れてしまっている。しかし、気分が高揚しているのか青年の事を気に止めることなく、先へ先へと進んでゆく。
青年は、戻ろうと思ったが、先に行ってしまった彼女を放って置く訳にはいかないという正義感と、自分を置いていってしまったという嫉妬心を半分ずつ抱えて、境内の奥へと足を進めた。
二人が、互いに心すれ違うままに行動した、初めての事だった。
森の中に近い道を通り抜け、ようやく青年が少女に追いついたころ、唐突に森が開けていた。といっても、木々は相変わらず深い。森の小部屋、といった感じに、ちょうど建物を避けるように平らな空間が広がっていた。
鈴のついた太い縄、賽銭箱に、よくある注連縄。その隣に窓のついた建物、社務所も広がっている。どうやらこれが本堂のようだった。森の緑から逸脱した、焼かれた木の色に染まった建物は、まさに異なる空間のようだった。
追いついた青年を、少女は思い出したように振り返り、申し訳なさそうな顔をした。今になって彼をおいてきたことを思い出したようである。青年は、文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、先ほど感じた不吉な感触と、神の前という謙虚な気持ちがそれを押しとどめ、小さく笑い再び彼女の手を握った。それに答えるように、寄り添ってくる少女の重みと、握り返してくる確かな力強さに、青年の心は幾分か平穏を取り戻した。
しかし、それでも。境内に足を踏み入れたときのあの嫌な感覚を拭い切れない。相当に根が深いのか、それとも単に気にしすぎているだけなのか、青年には分からなくなっていた。しかし、ここまで踏み込んでは来たものの、あの時感じた不安を再び感じることは無かった。だから、あまり気に留めないで、彼女の行きたいほうへと足を向けることにした。
財布の中から五円玉を二枚取り出し、青年は少女の手に一枚それを乗せると、残ったもう一枚を賽銭箱へと放り込んだ。少女は投げられた五円玉と、自分の手の上にあるそれと、青年の顔を何度か見比べた後、青年に習って箱の中へと投げ入れた。青年はそれを楽しそうに見届けた後、手を、パンパンと高らかに音を鳴り響かせながら、打った。合わせられた手を胸元へと下ろし、目を閉じて気持ちを落ち着かせながら、神殿に向かって礼をした。
少女は青年の行動を不思議そうに見つめていた。やがて、目を開いた青年は、少女に今時分がやったことをやってみな、と促す。少女は、ゆっくりと青年の行動を思い出しながら、パンパンと手を二回打った、そしてその手を胸元まで下げたところで、ピタッと動かなくなった。少しの間のあと、少女は青年を助けを求めるように見た。青年は、仕方が無いなと言いたげなため息と笑い顔を浮かべながら、彼女の後ろからゆっくりと手を取り、一緒になって礼をした。
恥ずかしそうに頭をかきながら、青年は目をそらすように神殿の裏側へと足を伸ばしていった。少女も後ろから走って追いつき、その手をしっかりと握りながら、青年の歩に合わせて先へと進んでいった。
先ほど歩いてきた、石畳は少なくとも道として作られたものである。しかし、今青年たちが歩いているのは、完全な獣道だった。しかし、なぜかそこは歩きやすく、前へと進んでいくことに、ためらいを感じることは無かった。
いくらも歩かないうちに、すぐに森は開け、轟々と何か巨大なものが動く音が聞こえた。それは、神殿に居たときから耳の端っこで聞こえていた唸り音で、その音に近づくうちに、音の正体が滝だということに気がついた。
目の前に広がった滝は、滝としてはかなり小さなものだった。のっぺりとした一枚岩の上から、表面を撫でる様に落ちてくる大量の水が、その下にあるごつごつとした沢山の岩たちにぶつかる音を、山が木霊して大きく聞こえていただけのようだった。
しかし、小さくとも、その流れる水の力強さは間違いなく滝そのもので。その真下から見上げている青年にとっては、今まで見た中で最も大きな滝であることは確かだった。
抜かるんだ土は、滝からの水しぶきを受け続けてきたのだろう。そして、二人が立っている場所からほんの少し先に、一つの岩がある。しぶきを受けて多少ぬれていたが、足場としては問題なさそうだった。そこで、青年は思い切ってその場所へと飛び移ってみた。少女が息を呑み、時が止まったような錯覚を覚えたが、何も起こることなく青年は岩に着地し、しっかりと二つの足を地に着けたまま少女のほうを向いた。そして、両手を少女のほうへと向た。
飛んでこいと、青年が言っているのは明白である。もちろん、少女も青年を追いかけたかったが、今青年が立っている場所と、少女が立っている場所との間には、簡単に飛び越えられるほどの距離だとは言っても、生と死とを分ける絶望の穴が広がっているわけである。運がよければ足の骨を折るだけで済むかもしれないが、頭を強く打って死ぬ確立のほうが高い、それだけの穴だ。恐怖するのは当然である。
しかし、青年が手を広げて待っている。少女の運動能力でなら飛び越えることは十分可能な幅だし、たとえわずかに届かなくても、青年がきっと受け止めてくれるという信頼もある。しかし、それでも少女には、その境界を踏み越えるだけの勇気が、出てこなかった。
足元を見て、こわごわとこちらを見ている少女を、青年は優しく微笑み、両手を差し出したまま見ていた。手助けに入る必要は無い、もしどうしても飛べないのならば、青年がそちらへ戻ればいいだけのことだ。ただ、こちらへ着てほしいと思ったのは、単なる遊び心。そして、少女とできるだけ近く一緒にいたいと思う、純粋な恋心からだ。
青年は、信じられないという顔のまま、すでに数十秒たっていた。まるで自分という存在は漫画の中の一人なのではないかとも疑ってしまいたくなるほど、その状況は信じがたかった。
青年の僅かな遊び心から生まれた奇跡。そして、青年と少女を分ける純然たる境界さえも、浮き彫りにした出来事。青年は、地に足がついていなかった。少女が、青年の腕を持ったまま、山のさらに高い、雲のほうが近い場所で、飛んでいたのだ。
少女は、勇気を振り絞った。隔てる死の境界も、障害としては極めて小さな石ころ程度のものだし、それに一緒にいたいと思っているのは青年だけではない。少し後ろへ下がった後、小走りでがけまで近づき、一気に踏み込もうとした。
だが、しかし、だった。境界は小さな石程度だったかもしれない。しかし、小さな石は大きな障害となった。飛ぶ直前、少女の足は、石ころに引っかかり、踏み切る事ができずに、しかし走って来た力だけを持って、谷底へと真っ逆さまに落ちていった。
青年には、その一連の動作がまるでビデオのコマ送りのように見えた。踏み切り、躓き、そして落下。紙芝居のように、光景が次々に流れてゆく。その中で、落下というページが開かれたとき、青年の中で何かがはじけた。青年は、落ちてゆく少女の方向へと踏み込んだ。
すでに足が地面から離れきった少女を空中で受け止める。胸の中に、少女が確かにいるという安心感。落下速度が速まってゆく現実。思考がクリアになり、その先の展開は死しかないと、冷静に受け止める頭脳。だが、少女だけは助けたいという一身で、青年は体をひねって自分の体が少女と地面の間に入るように落ちていった。
そこで、起こった大きな奇跡。青年と少女を全く別次元の領域で分け隔てた境界。背中を強く打ち、頭も打って死ぬだろうと思っていた青年を裏切った、浮遊感。
青年は、永遠に落ち続けているのかと錯覚した。しかし、それは違う。落下運動はとっくに終わっていた。それどころか、今度は地面から遠ざかる方向へと動き続けている。まさか、だと青年は思った。それが死ぬという感覚なのかとも思った。
だが、青年の腕を掴み、翼も無いままに飛んでいる少女を見たとき、青年の頭はパニックを起こした。空を歩いている自分が居る。空を歩かせている少女がいる。そんな現実だった。
駅から見上げた山を見下ろしていた。足をじたばたと動かしている様は、まさに、青年は空を歩いているといえる。そしてその隣で、楽しそうに青年のまねをして足をばたつかせている少女がいる。本当に無邪気な、今まで青年が見てきた中で一番楽しそうな笑顔。
困惑する青年の手をしっかりとつかんで、少女は更に高く高く、太陽を目指すように上を目指している。青年は、もはや不思議さを理解するのを諦める事にしていた。少なくとも落ちることは無いのである。少女といる限りは、青年もまた空を飛べるのである。大昔から、空を飛ぶことを一度は夢見る人間には、今の状態はまさに夢が叶った状態なのだ。青年も、少年だったころには空を歩くことを夢見たものである。
時期に雲に触れるか、といった高さまで飛んできたとき、少女が突然動きを止めた。青年は、次は何をしてくれるのかと、楽しみにして彼女の顔を覗き込んだ。しかし、真っ青に血の気が引けた顔を見て、青年はぞっとした。そして、彼女の視線の先を一緒になって見た。
そこには、現代という時間の流れを無視し、物理学という常識を無視した物体が浮いていた。青年は、漫画や時代劇でしか見たことが無かった、牛車。大河ドラマの撮影現場に迷い込んだような錯覚。
そこが中空でなければ、青年はそれで納得できたはずだった。
青年の腕を強く握り締め、牛車から目を逸らす様に彼の胸に顔を埋める少女。彼女は、あれが何なのかを知っている。そして、それが何を意味するのかも知っている。知っているから、少女は青年を強く抱きしめた。
青年は、彼女の変貌に驚きながら、体を震わせ涙を流している彼女をそっと抱きしめた。そして、牛車を睨み付けた。彼女を泣かせているのは間違いなく牛車なのだ。青年は、お前たちは何者だと、早くここを去れと言わんばかりに強く、それを睨み続けた。
だが、青年の意に反した動きを、牛車は見せた。戸が開く。そしてその中から出てきたのは、青年の腕の中にいる少女と少し雰囲気の似た、一人の女性だった。
聖徳太子が着ているような服、という形容がその女性の衣服を最も明確にできる。つまりはそういう格好なのだ。腕を前で組み、手は袖の中に隠した、よく資料などであるあの格好をして。牛車から出てきた女性が、姿勢を正したころ、青年にしがみついていた少女は、ゆっくりと顔を上げた。涙で目を真っ赤に晴らし、切なそうに、青年を見上げていた。
青年は、その目が何を言わんとしているのか、すぐに理解した。目を見ればお互いに意思疎通ができることが、これほど辛いものだとは、青年も少女もこれまで考えた事が無かった。
ゆっくりと、青年から体を離す少女を、青年は逃がさないように強く抱きしめた。素直に、少女が居なくなるい事を拒んだ。しかし、それは叶わぬ願いだと言うように、牛車から出てきた女性が動く。
行かなければいけないのは分かっているが、行きたくなく顔を伏せて青年の腕に包まれている少女の肩にそっと手を置き、女性は少女を促す。そして、青年の顔を見た。
その女性もまた、少女と同じように、目を見て相手の言いたい事が、青年には理解できた。これ以上は駄目なのだと、辛そうに青年に語りかける目だ。
何がどう駄目なのか分からない青年には、ただ強く少女を抱きしめる事しかできなかった。
夢から目覚めるように、青年は今自分が居る場所を認識した。そこは深い森の中、背筋が冷えたあの神社だ。青年は止める事ができなかった。同時に、大事な人をその手の中から離してしまった。
「お珍しい、参拝客の方ですか?」
と、唐突に青年の背後から声がした。答えるのも面倒だ、といわんばかりに無視を決め込んだ青年を知ってか知らずか。声をかけた神主と思しき格好をした男は話を続けた。
「この神社は昔から人が寄り付かないのですよ。縁が切れるという良くない風習といいますか、まぁカタカナで言えばジンクスですな。そういうものがありましてね」
青年は、それ以上喋るなと叫びたくなった。だが、相手は何も知らない人間なのだ。だから、彼はただ、自分の拳を握り締めることしかできなかった。
「竹取物語をご存知ですか?」
男が何気なく言った一言に、青年はまさに血の気が引いてゆくのを感じた。
「この神社の由来はそれでしてね。この地を去ったかぐや姫を憂いた時の天皇が建てた、という嘘か真か分からぬ話が残っているのです。それを調べる手立ては無いのですがね。よくお話で聞く、かぐや姫のお話では、姫は最後に愛する者達をおいて月に帰ってしまうでしょう?転じて、悲恋を遂げるという間違った認識が広まってしまいましてね。現代の方々には犬猿される場所となってしまいました」
嘘だと、叫びたかった。青年は、あの不思議な少女の事を、そんな昔話に重ねて『おしまい』にはしたくなかった。
「ですが、この神社が建てられた本当の理由は、二度と手の届かない場所に言ってしまった愛しい人を、思い続けるという誓いを立てる、という意味から」
男が神社の由来を話し終わる前に、青年は絞りだせるだけの力を込めて男を殴った。拳が砕けたかと思うほどの激痛が腕に走り、青年の視界には、男が出した血潮しか移らなかった。真っ赤に染まった視界のまま、青年はそこから走り去った。
「やれやれ、若者は切れやすい。そして、神もまた残酷だ」
殴られた神主は、その事に怒るどころか、青年を哀れんでいた。
「嘘か真か、月の民は極めて短い時間で輪廻転生する。ゆえに、時折かぐや姫が再び地上に降りてくる。時の天皇陛下はそのような戯言を残しておいでですが」
これまでに残っている資料を見ると、あながち嘘ではないのかも知れませんね。そう呟いて神主は血を流す自分の顔を治療するために、社務所へと戻っていった。
その後、青年は何かに取り付かれたように古い文献を読み続けた。竹取物語の現代語訳はもちろんの事、古語辞典を片手に、残されている最も原本に近いとされる本さえも。そこまでの知識など、持
ち得なかった彼が、学者の様にそれらを読み続けた。
いつの間にか図書館の住人のようになってしまっていた。まさに図書館に住んでいた。閉館時間になれば、図書館の敷地内に勝手に作られたホームレスの集団と共に暮らし、開館時間と同時に資料を開く生活。それまでやっていた仕事など、退職願も退寮届けも出さずに消えてしまっていた。再び彼は警察に捜される身分となっていた。ただ、数年前に彼の両親が出した捜索と、一致させようとは誰も考えなかった。名前が違っているだけで、人は人を識別できなくなるのだろう。
そんな生活の中、青年は頻繁に、あの日の夢を見て一晩中ないてしまう事があった。別れた事も辛いが、別れの際もまた。
肩に手をかけられて決心がついたのか、少女はくるりと青年の方を向いた。青年は、嫌だと首を横に振ったが、それでも、強い力で引き剥がされ、少女は遠ざかっていった。牛車に乗り込み、女性が青年に向かって頭を下げた。と、牛車に取り付けられた小さな窓から少女が顔を出した。もう行ってしまう、その最後の最後に、青年は叫んだ。少女もまた、何かを言おうと口を開いた。
「「・・・・ぁ!?」」
名前を呼びたかった、口にしたい思いがたくさんあったのに。彼も彼女も、お互いの名前すら知らなかった。お互いの思いを確かめるための、名前を口にするという基本的な愛情が、それまでの彼らには必要がなかった。無かったからこそ、その事実に気がついたときの、絶望感は。
「・・っぅ!!」
いつもその瞬間で目を覚ます。別れる最後の日、朝家を出るところから始まる夢は、必ずその声が出せない瞬間に終わりを告げる。
そして、言葉にならない声で、力の限り青年は空に向かって叫ぶ。それのせいで、何度と無く警察に職務質問を受けそうになったが、その都度彼は逃げてきた。
ただひたすらに、彼女の事を思い続け、青年は今日もまた「かぐや姫」の資料を読みふけった。
「人は、死を迎えればどこへ行くのだ?」
一人の老人が、布団に横たわっていた。その隣には、若い男の姿があった。男は神社の神主の姿をしていた。老人は、しわがれた顔に疲れた目をして、まさに生涯を生き抜いた、といった疲弊感を全身から出していた。
「星になるとか、地に還るとか、神の元に行くとか、色々あります。ですが、本当に行きたい所に、行けるのが死ではないかと、僕は思います」
老人の問いに、若い男は答えた。見た目の年齢で言えば、20歳前後。しかし、老人には劣るものの、男もまた疲れたような顔をしており、年の割には中身がしっかりし過ぎている、そんなイメージを持っていた。
「なるほど、それは良い。ならば私は―」
老人は、最後の言葉を口にする前に事切れた。その隣で、ただ悲しげに老人の姿を見取る男は、これまで老人が自分に聞かせてくれた物語を思い出していた。
「この神社は、若い人に嫌われる」
「竹取物語を知っているか?」
「私はかぐや姫と恋をした」
初めて男がここを訪れたのは、15歳のときだった。中学を卒業したすると同時に、両親が離婚し、どちらかの親についていかなければならない選択を迫られたとき、彼はどちらにもついていかないという道を選んだ。そして、ただ着の身着のままに飛びだし、空腹と疲労でもう駄目かと空を見上げて地面に倒れているところを、老人に拾われ、そのままこの神社で生活するようになった。
始めのころは、老人の胡散臭い話にここを逃げ出そうかと思っていたが、良く当ての無い彼にとっては、老人の話を聞く代わりにここで生活させてもらえるのだと自身を納得させるしかなかった。
―竹取物語から拾う事ができる時間の流れで計算すると、赤子が1ヶ月で成人の女性になるそうだ。
―詳しい話は書かれていないが、平均すると1週間で4年の歳月を過ごしている事になる。
老人は「かぐや姫」については学者かと思うほど博識だった。最も、古文に興味の無い男にとっては、それがどうしたとしか言えなかった。
―私はかぐや姫と恋をした。
男が神社に着てから2年ほどした頃、老人がいつもの竹取物語の話の後に、そんな事を口にした。男は、ついに呆けたのか、と思いいつもどおり聞き流そうと思った。
だが、その話は余りにも悲しく、具体的だった。思いつきで適当に物語を作っているとは考えられないほどリアルで、そしてこの神社に残る文献とも重なる部分の多い話だった。
―この話を信じるかどうかは君の好きにするといい。だが、他人に話すと笑われるぞ?この私のように。
最後にそういって豪快に笑っていた。だが、男は笑えなかった。いつも悲しそうに竹取物語の話をする老人が、そのとき初めて笑ったのだ。
それ以降、老人の話を真面目に聞くようになった。そして、聞けば聞くほど、老人の若かった頃の話がどれだけ辛い事か理解できるようになった。
彼が恋をするようになった時、その話はもはや与太話ではなくなった。そして、最愛の人と結婚したときには、老人が今でも深くかぐや姫を愛している事を痛感した。結婚相手にも、その話をし、お互いの幸せと、老人の青年時代の悲しさで、二人して夜泣き通したこともあった。
―言葉を交わさなくとも意思は通じる。以心伝心とはそういうものだ。
―テレパシーで繋がった二人であっても、言葉を使うことは非常に重要なのだ。
―名を交わすという儀式を怠ったものには、悲しみしか訪れない。
―たった一人の人間しか愛せなかった私には、君たちを祝福する言葉が思いつかない。
「師父様、貴方がもし今別の誰かを愛せていたならば、貴方の死を見取る人間がもう一人増えたでしょうに」
男は、山のとある場所に建てられた老人の墓に手を合わせながら、そう呟いた。
「ただ一人を、一生涯愛しぬいた貴方を見取るものが、私と妻だけ。その寂しさを、貴方は感じておられましたか?」
男は震えていた。自分自身は幸せになれたからこそ、納得がいかなかった。誰にも答えられる問ではない。答えがあるのかも定かではない。あって欲しいという希望だけを胸に、老人は眠りにつき、青年たちはこの世の旅を続ける。
「あなたはどこへ行きたかったのでしょうか…?」
いつの間にかあたりは暗くなり、夜が始まった。大地を照らす淡い光、その源たる月を見上げ、青年は呟く。
「かぐや姫は定期的に地に降りられる。ならば、あなたが過ごした数十年の間に」
「それ以上は…」
青年の悲痛なつぶやきに耐えかね、隣の女性が目を伏せて答える。月へ行ってもそこに姫は居ない。地に降りているとしても、そこに師父がいない。ほんの瞬きの間の時間のすれ違いを、何度繰り返した先で彼らが再び出会うのか。
その孤独な時間を思い、青年たちはただ立ち尽くし、涙をながすことしかできなかった。
竹取の物語