フェノールフタレインとメチルオレンジ
ニュートンが人を避け自宅の研究室に閉じこもっているという噂を聞き、彼の友人が心配して研究室を訪れた。何度もドアをノックしてやっと出てきたニュートンは、目の下に大きな隈をつくり、ひどくやつれていた。
「用がなければ帰ってくれ。私は忙しいんだ」
親切な友人を締め出し、彼は奇怪なガラス器具が並ぶ研究室に戻る。それらには毒々しい色をした液体を満たされ、あるものは沸騰し、あるものは白い煙を上げている。万有引力を発見した偉大な科学者は、錬金術に取り憑かれているのだ。
子供のころ読んだ学研の学習漫画にそんなシーンがあって、私の化学に対するイメージは「やつれたニュートン」と「錬金術」で固まってしまった。おかげで学生時代の化学の成績は良くなかった。まあ、他の教科も良くはなかったけど。
だから、新しい私の派遣先がS石灰工業の試験課で、石灰の化学成分試験をするのだと聞いたとき、私にそんな仕事が勤まるのだろうかと思った。
ここは人材派遣会社の小さなミーティング室。私は担当の丸井さんに呼び出され、派遣先の説明を受けていた。丸井さんは小太りで、名前の通り顔が丸く性格も丸い。彼は毎日いろんな企業を回っているので、スーツ以外を着ているのを私は見たことがない。
「私、化学なんてぜんぜん分かりませんよ」
「先方の希望は、『できれば女性で、中途半端な化学の知識があるよりは仕事を覚えるのが早い人がいい』ってことだったんだ。だから真理さんにしたんだよ」
私は、姓の「小早川」が長ったらしいので、だいたい下の名で呼ばれる。仕事の覚えが早いと認められているのは、ちょっと嬉しい。
「派遣期間は、七月から翌年二月までですか。八ヶ月きっかりです?」
「試験係が産休で休むから、その間、真理さんが代わりに試験係を務めるわけ。だから、契約期間の延長は無し」
長く勤めて正社員に上げてもらう期待は、今回も望みがなさそうだ。もう二十五歳だし、そろそろ真剣に正社員の口を探さなくてはならない。私が残念そうな顔をすると、丸井さんも申し訳なさそうにしている。自分が悪いわけでもないのに、いい人だ。
「明後日、顔合わせがあるから、準備していてね。八時に事務所に集合。私と一緒に車で工場に向かいます」
“顔合わせ”か。これは、平たく言えば面接だ。派遣社員を面接することは法律で禁じられているのだが、実際には“顔合わせ”とか、“会社見学”といった名目で簡単な面接が行われることは多い。私は顔合わせがあろうが無かろうが、どっちでもいいという考えだ。無難なスーツを着てハキハキと受け答えすれば、悪い印象を持たれることはない。
私は渡されたS石灰工業のパンフレットをめくった。灰色の背の高い工場の写真が載っていて、青い空をバックに煙突から勢いよく煙を吐いている。石灰工場としては中規模なのだそうだが、私にはとても大きく見える。
企業案内のパンフレットは、お見合い写真に似ていると思う。どちらもよそ行きのおめかしをして澄ましており、本来の姿からはかけ離れていることが多い。仕事はきつくないだろうか、人間関係でギクシャクすることはないだろうか、そんな、私が本当に欲しい情報を、パンフレットは何も教えてくれない。
顔合わせの日、午前九時。駐車場に車を止めて、私と丸井さんはS石灰工場の建物を見上げた。パンフレットの写真よりは古びているが、煙突から吐き出される多量の煙はそのままだった。せわしなく走り回る重機と、工場の機械が発するノイズが、辺りに満ちている。
受付の女性に声をかけると、二階の小さな会議室に通された。丸井さんと二人並んで腰掛ける。
「今日は、どなたと会うんですか?」
「製造部の藤原部長と、管理部の沖課長。管理部は部長が今日ご不在だから、代わりに沖課長が会うことになってる」
ほどなくして、荒々しくドアを開けて年配の男性が入ってきた。私と丸井さんは立ち上がって挨拶する。丸井さんが「こちら、製造部の藤原部長です」と私に紹介した。作業服の藤原部長は、挨拶もそこそこにどっかとパイプ椅子に座る。
「この子、うちに来るのは?」
手に持ったファイルを扇代わりにあおぎながら、藤原部長は私の方をじろりと見た。イノシシみたいな顔だ。身体もがっちりとして大きい。「この子」などと呼ばれるのは好きではないが、私はそんなことには構わず、礼儀正しく自己紹介した。
「初めまして、○○派遣会社から参りました、小早川真理と申します。よろしくお願いいたします」
「お二人とも暑い中ご苦労さんだね。まあ、座って。沖課長ももうすぐ来るから」
促されて椅子に座る。藤原部長がファイルから私の履歴書を取り出し、指に唾をつけてめくる。
「履歴書は一応事前に見たけど、二、三確認させてもらうから。最終学歴は、○○商業。ふーん」
私の出身校は、優等生が通うような進学校ではない。「ふーん」にどんな意味が含まれているかは、だいたい分かる。
「結婚はしていないんだよね。どこかに書いてあったっけ?」
「していません」
「当然子供もいないと。彼氏くらいはいるのかね? 聞いちゃいかんか。ワハハ」
聞いてはいけないと分かっているなら聞かなければいい。私は聞き流して愛想笑いを浮かべた。丸井さんが心配そうな目を向ける。
「健康状態は“良好”とあるけど、何か持病とかない? 低血圧とか、貧血とか」
「ありません。健康が一番の取り柄ですから」
藤原部長の言葉は端々に気に障るところがあるのだが、私はそんなことは顔に出さず、冗談までサービスした。
「それならいいけど。女の子はね、雇ってみたらしょっちゅう体調不良で休むのがたまにいるんだ。毎月周期的に休むのもいるからね」
生理休暇のことを言っているのだと分かって、痴漢に触られたような嫌悪感で背筋がぞっとした。さっきからセクシャルハラスメントの連発だが、これがとどめだった。二の句が継げないでいる私を、丸井さんがフォローする。
「彼女は小柄ですが、健康面は申し分ないですよ。前の派遣先でも病休はありませんでしたし。私が保証します」
変な雰囲気になりかけたとき、ノックの音がしてもう一人の男性が入ってきた。四十歳くらいだろうか、知的な顔立ちをしている。細身で背が高い。遅れてすみません、そう言って椅子に座る。私はまた立って自己紹介した。
「小早川と申します。よろしくお願いいたします」
「管理部試験課長の沖です。どうぞ、座ってください」
丸井さんが、「小早川さんの勤務は試験課ですから、沖課長が直属の上司になられると思ってよろしいですか?」と聞いた。沖課長がそうですと答える。私は藤原部長が上司でないと分かって、思わず安堵の溜息をつきそうになった。
沖課長は真面目で几帳面な人だという印象だった。きっちりと分けられた髪、シンプルなデザインの金縁眼鏡。ピシッと隅々までアイロンが掛けられた作業服。藤原部長の作業服の下はTシャツだが、沖課長はワイシャツで、ネクタイの結び目も完璧だ。テーブルの上に広げたシステム手帳には、活字のように端正な字が並ぶ。
それはともかく、私は沖課長が憮然とした顔をしているのが気になった。普段の表情は知らないが、眉間に皺をよせ、何かに腹を立てているよう見える。原因は何だろう、私だろうか。彼が知らないうちに、化学のカの字も分からない女が派遣されてきたことを怒っているのだろうか。
沖課長は一言も喋らず、藤原部長ばかりが私に質問した。これまで派遣先でどんな仕事をしてきたのかとか、学生時代にスポーツをしていたかといった内容で、今度はセクハラ発言は飛び出さず、私は適切に質問に答えた。藤原部長は特に問題はないと判断したようで、後半は和やかな世間話になった。
「私の方からはもう質問はありません。沖課長、何か聞いておくことはありますか?」
藤原部長がまとめに入る。沖課長は特にありませんと言った。
「じゃあ、本日の顔合わせはこの辺で。ところで、念のために言っておきますけど」
ここで言葉を区切って、藤原部長は声のトーンを落とした。
「重々承知でしょうけど、本来、派遣社員の面接は禁止だからね。これはあくまで、そちらが挨拶に来ただけということで、いいですね?」
いちいちそんなこと釘を刺さなくても分かっているのだが、私たちがうなずこうとすると、沖課長が似つかわしくない怒声を上げた。
「それを言うと、彼女に違法行為の片棒を担がせることになるでしょう! そんなことを念押しする必要があるくらいなら、初めから面接などしなければいいんです! 私は前から反対していたでしょう!」
その言葉で、私は沖課長の怒りの矛先が藤原部長に向けられていたことを理解した。誠実な彼は面接の実施に反対していたにもかかわらず、管理部長の代理で同席させられたことを不愉快に思っていたのだろう。私は自分が原因でないことに安心しただけでなく、沖課長が私を庇ってくれたことに、ちょっと感動した。
藤原部長はそんな怒りを意に介さず、
「こういうことは、ちゃんとしといた方がいいんだよ」
と、意味の通らない返事をした。沖課長はあきれて黙ってしまう。
「その件はこちらも承知していますので。それでは、小早川の出勤は予定通り七月一日からでよろしいでしょうか。それから、本日社長様がおられるようでしたら、ぜひご挨拶を――」
丸井さんがその場をとりなす。藤原部長は沖課長に社長室へ案内するよう指示して出て行った。
「内輪もめを見せてしまいましたね。すみませんでした。では、社長室へご案内します」
沖課長はもう平静を取り戻している。彼に連れられて私たちは社長に挨拶し、それから事務所で専務にもご挨拶した。その日の用事はそれで終わりだ。玄関まで見送ってくれた沖課長にお礼を言って、私たちは駐車場へ向かった。来たときよりも太陽が高く上っていて、陽射しがまぶしい。煙突は相変わらずもくもくと勢いよく煙を吐き出し、青い空に入道雲を作ろうとしているようだった。
七月一日、私が初出社すると、受付の女性が試験室に案内した。試験室では、沖課長とお腹の大きな女性が朝のミーティングをしていた。私が中に入っていいのか躊躇していると、私に気付いた沖課長が手招きした。課長が、私と女性を交互に紹介する。
「今度うちに来てくれた小早川真理さんです。こちらは、試験業務を担当している西野主任。見ての通りお腹が大きくて、三週間後から、八ヶ月間の産休に入ります。試験課は私と西野主任の二人だけの小さな所帯です」
西野主任がよろしく、と言って微笑む。
「聞いていると思うけど、小早川さんにはうちの石灰製品の試験業務をしてもらいます。これからの三週間で、機器分析の操作と、パソコンでのデータ入力方法を覚えてください。今日は午前中私が安全教育と就業規則の説明をして、終わったら工場を見学します。昼食は西野主任と二階の食堂で取ってください。午後は主任が試験室を案内します」
午後の内容を西野主任が補足する。
「試験室の方は、今日は簡単な説明と、注意事項だけね。後は私が試験をやってるところを見てもらいながら、情報交換しましょう」
西野主任は喋り方が歯切れ良く、体育会系の匂いがした。寛容でも締まりがない人よりは、厳しくても西野主任のようにきりっとしたタイプの方が、私は相性がいい。派遣先での人間関係にたびたび悩まされていた私は、二人ともいい人そうなのでホッとした。
沖課長は資料を見せながら就業規則その他もろもろを丁寧に説明してくれた。ちょっと細かすぎるのではないかと思うほどだ。私の初印象どおり、沖課長は非常に真面目な性格だった。
「じゃあ、これから工場を見学しますので、これを着けてください」
沖課長はそう言って、用意してあった見学者用のヘルメットと上っ張りとマスクと軍手と保護眼鏡を私に渡した。すべてを身に着けると、原子炉の放射能漏れ調査員みたいな姿になった。絶対に大げさだ。その証拠に沖課長は保護眼鏡も軍手もつけていない。
「履物が汚れるといけないので、安全靴も履いたほうがいいのですが、あいにく今、一番小さいので二十六センチしかなくて……。履きますか?」
「結構です。ありがとうございます」
私はあわてて辞退した。私の足は二十二センチなのだ。
沖課長の後について、原料の石灰石置場から石灰製造プラント、倉庫まで一通り工場を見学する。プラントでは狭くて急な階段を何度も上り下りした。小学校の社会学習みたいで楽しかったが、高所恐怖症なのと、漂う石灰の粉で髪がバサバサになるので、一回きりでいいと思った。でも、派遣社員にここまで案内してくれるなんて、ありがたいと思わなくちゃならない。
午後、西野主任に工場見学の話をしたら笑われた。
「沖課長、女の子をそんな所まで連れて行ったの。親切すぎるのよね。炉のてっぺんなんて、私も行ったことないわよ」
試験室は、二台の分析機器と実験台でほとんどのスペースを占められていて、壁に薬品棚はあるものの、ビーカーや試験管といったガラス器具はほんの少しかなかった。
「あんまり、実験室って感じじゃないですね」
「昔はところ狭しとガラス器具が並んで、いかにも実験室って感じだったそうよ。今は分析器があるから、試料を調整して機械に放り込めば結果が出るのよね。味気ないと言えば味気ないかも」
「私、錬金術みたいのを想像してたんですよ」
西野主任はまた笑った。
「そうね、化学って、錬金術士が築いたようなものだからね」
「そうなんですか」
「金は金からしかできないって分かるまで、多くの人が錬金術におぼれて人生を棒に振ってしまったけれど、よく使われる塩酸とか硫酸といった薬品の作り方とか、実験器具とか、今の化学の基礎は錬金術士たちの功績が大きいのよ。万有引力を発見したニュートンも相当はまり込んでたんだって」
へえ、錬金術もバカにならないな。それにしても、ニュートンの錬金術はそんなに有名なのか。
西野主任は二台の分析器の説明をしてくれた。一つは、赤外吸収式炭素分析計で、CO2を分析する。CO2とは二酸化炭素のことで、例の、地球を温暖化させる気体だ。もう一つが、蛍光X線分析装置。石灰の主成分であるカルシウムと、微量な不純物を分析する。
主任の説明を私は熱心にメモに取った。私が社会人になる時、父は「とにかく何でもメモを取れ、メモを取っていれば優秀に見える」と助言した。この言葉は、商業高校を卒業後、事務職で入社した会社が二年で倒産し、以後派遣社員となって企業を転々とするようになってからも大いに役立っている。私の仕事の覚えが早いのは、詳細なメモによるのだ。
「字がきれいなのね。絵が描ける人は、字もきれいなのかな」
机の上に広げた私のノートを見て西野主任が言った。事前に提出した履歴書の趣味の欄には、「絵を描くこと」と書いた。主任はそれを見たのだろう。
高校では美術部に入っていた。顧問の先生に習って、私は油絵と彫刻を覚えた。履歴書には通りがよいので「絵を描くこと」と書いたが、本当に好きなのは彫刻のほうだ。それも、抽象的なもの。顧問は良き理解者で、私の作る作品を大いに賞賛してくれた。
調子に乗った私は両親に「美大に行って彫刻家になる」と宣言した。両親は「彫刻で飯が食えるか」と猛反対し、私も意地になって主張を曲げなかった。
結局、地元の美大の志願倍率が非常に高いことを知った両親から、そこを受けて落ちたら彫刻家はあきらめること、という条件が出て折り合いがついた。結果はみごと不合格で、高校を卒業した私は普通に就職した。
年を経るにしたがって、両親が言うとおり私には彫刻で生計を立てていけるほどの才能がないことが分かってきた。顧問が「褒めて伸ばす」タイプの教育者であっただけのようで、おだてられた私は人生の分岐点で危うく誤った道を進むところだった。反対してくれた両親に今は感謝している。
そんなことはあったが、今でも趣味で創作活動は続けている。暇があると金属でも石でも木でもプラスチックでも、何でもくっ付けてかなり前衛的なオブジェをこしらえる。部屋の棚には、人が全く理解してくれない芸術品が並んでいる。大抵は見飽きると捨ててしまうが、中には何年も棚に居座っている作品も幾つかある。一度気に入ってしまうと、捨てるに捨てられなくなってしまうのだ。大掃除のときなどは、積もった埃を掃ってやる。そうするとますます愛着が湧いて、いつまでも棚を占拠することになってしまう。
「ちょうど二週間に一回の、炭素分析計の乾燥剤を交換する日だから、やり方を教えるね」
業務カレンダーの印に気付いた西野主任が私に言った。炭素分析計は立方体の小型冷蔵庫みたいな形の機械で、正面中央にサンプルを入れる小さな窓が付いている。横に乾燥剤が入ったガラス管が二つあって、西野主任は慣れた手つきでネジを回し、それを外した。
「この機械すごく古いから、二ヶ月に一回くらい故障するのよね。二十年近く使ってるのよ、これ」
中身の乾燥剤を交換しながら、主任は言った。
「電源が入らなかったり、データが転送できなかったり、チョコチョコした故障だからだいたいは二、三日で直るんだけど、メーカーの人もどこが壊れるか予想できないから、対処のしようもないの」
「修理の間、試験はどうするんですか?」
「操業状況を見るための工程試験は停止して、製品の最終検査だけ手分析でやるの。手分析は私もできるけど、たまにしかやらないから、上手に教えきれないの。沖課長は分析計を入れる前の時代に長年やってたから、手分析のやり方は沖課長が教えることになってるわ。楽しみにしてなさいね」
西野主任は意味ありげに微笑み、新しい乾燥剤が入ったガラス管を分析計に戻した。
「乾燥剤が飽和しちゃうと、水分でセンサがやられちゃうの。センサを交換するとなると、二、三日じゃとてもすまないし、修理費も恐ろしく高いから、乾燥剤の交換は絶対忘れちゃダメよ。古いからこそ、大切にしなくちゃね」
私は大きくうなずいて、メモにアンダーラインを引いた。
一週間で、私は炭素分析計と蛍光X線分析装置の使い方と、消耗品の取り替え方などを覚えた。測定原理は説明を聞いてもさっぱり分からないが、使い方は難しくない。
炭素分析計の操作は、瀬戸物の容器に小さじ一杯分の試料を入れ、分析計の窓を開けて容器を鉄棒で押し込む。一分後に測定結果がレシートみたいな紙に印字されて出てくる。容器を取り出す。その間、燃焼用酸素を入れたり切ったり。CO2分析はその繰り返しだ。単調なようだが、正確な分析をするための細かな注意がたくさんある。目玉焼きを調理するのは簡単だが、半熟加減と形を毎回同じようにするにはコツが要るのと同じだ。手早く数をこなすには、体に覚え込まさなくてはならない。
蛍光X線分析装置の方は、サンプルの前処理が必要だ。石灰のサンプルに融剤という粉を混ぜ、ガラスビード作製機にセットする。中には電気炉が入っていて、サンプルを千度以上に加熱し、小さなガラスの円盤を焼き上げる。これがガラスビードだ。それを蛍光X線分析装置にかけると、マグネシウムやケイ素やアルミニウムなど、不純物をすべて計測することができる。これを手分析でやると二、三日かかるのだそうだ。便利なものだ。
初出社から二週間ほどが過ぎた。その日はサンプルの数が多く、私が炭素分析計、西野主任が蛍光X線と、分担して試験をしていた。
沖課長と営業部の木谷課長が試験室に来ていて、おしゃべりをしている。木谷課長は明るく話し上手で、営業の鑑のような人だ。沖課長と同期で、二人は中がよい。
沖課長は私の後ろに立っていて、背中に視線を感じながら、若干緊張気味に私は試験をしていた。
「本当は、化学を専攻した学卒に来てほしかったんだけど」
沖課長が私に話しかける。
「時期的にも厳しいし、短期間なのでなかなか応募がないから派遣会社に頼んだんだ。真理さんみたいに仕事ができる人に来てもらえて良かったよ」
合格点がもらえたらしく、私はホッとした。私の呼び方もいつの間にか「真理さん」になっている。
「ありがとうございます。今日は、サンプルが多いですね」
木谷課長が、「この間、鳥インフルエンザの騒ぎがあったでしょ」と答える。それは私も知っている。隣県で鶏が発病し、その養鶏場の鶏を全てを処分したと、新聞やテレビニュースで大きく報道されていた。
「近隣の養鶏場がみんな、消毒のため鶏舎の周りに石灰を撒いてるんだ。それで今週は出荷が倍増。サンプルが増えてるのはそのせいだよ。西野主任、お腹も大きいのに、苦労かけてすまないね」
鳥インフルエンザと石灰に関わりがあるとは知らなかった。大きいお腹でくるくると歩き回っている主任は、「まったく、真理さんがいなかったら倒れてるわよ」と言った。西野主任はいたって元気で、倒れそうな様子など微塵もない。
「N養鶏場からも注文がたくさん来てて、おととい情報収集を兼ねて様子を見に行ってきたんだけど、事務の女の子がオードリー・ヘプバーンみたいで、すごく可愛いかったんだよ。また逢いたいなあ」
「例えが古いな。逢いたいからって、鳥インフルエンザばら撒いたりするんじゃないぞ」
「まさか、八百屋お七じゃあるまいし」
二人が笑う。私は小声で西野主任に八百屋お七ってなんですかと聞いたが、主任も知らなかったので素直に沖課長に聞いた。
「八百屋お七は、お芝居の話。江戸時代に八百屋の娘でお七っていうのがいて、大火事のとき避難した寺で、小姓の男に一目ぼれした。お七はもう一度その男に逢いたくて、また大火事が起こればめぐり合えるではないかと思い、恋しさのあまり放火をしてしまう。当時、放火は天下の大罪で、お七は火あぶりの刑にされてしまう。そういう話。実話が元になっているらしい」
「へえ、そうなんですか」
沖課長は色んなことを知っているので感心する。
沖課長と木谷課長が出て行った後も私たちは黙々と試験を続けたが、その日は定時に帰れそうになかった。西野主任は午後になるとさすがにきつそうだったので、デスクワークをやってもらい、後は私が六時まで残業して試験を終えた。
西野主任に試験結果を確認してもらっていると、沖課長が缶ジュースを二本持って来て、私たちをねぎらってくれた。私には甘さひかえめのアップルティー350ミリリットル、西野主任にはピーチネクターの250ミリリットル。ちょうど甘いものが飲みたくなったころだったので、私はとても嬉しかった。沖課長はご苦労様と言って、デスクに戻った。
「真理さん、こんなの飲みたかったんじゃない?」西野主任が聞く。
「はい、さすがに今日は疲れたんで、甘いのが飲みたかったんです。ジャストタイミングですね」
「これね、沖課長の得意技」
「得意技?」
西野主任がネクターのプルトップを開ける。
「時々、飲み物をおごってくれるんだけど、いつも何がいいか聞かないで買って来るのよ。お茶が飲みたいときにコーラ買って来られたら嫌じゃない? でも、課長は外れたことがないの」
アップルティーを飲みながら、私は西野主任の話を聞いていた。ほのかな甘さが疲れた身体に染み渡る。
「真理さんは、疲れて喉が渇いたから、350ミリリットルの甘いの。でも、カロリーが気になるから甘さひかえめと、そんな感じかしら?」
「その通りです。西野主任は?」
「お腹の子が、カロリーを要求してるのよ」
私たちは笑った。それからしばらくおしゃべりをして、帰るころには七時を過ぎていた。駐車場に向かいながら宵の空を見上げると、くっきりとした夏の満月が浮かんでいた。
私が入ってから三週間が過ぎ、西野主任は「真理さんはもう一人で大丈夫です。私が太鼓判を押します」と言って産休に入った。
鳥インフルエンザ騒ぎは一段落して、サンプルの数は減っているが、試験からデータ入力まで全部一人でやるとなると、それなりに忙しい。それでも、頼りにされている充実感があるので、私はこの仕事を楽しんでやっていた。
ある日、沖課長が試験室にやってきて、明日はサンプルが減るから、CO2の手分析を教えると言った。
「炭素分析計が壊れてからじゃ遅いからね。機器分析とは勝手が違うと思うけど、なるべく一回で覚えるように」
ハイと返事をして、「炭素分析計が修理がきかないくらいに壊れちゃったら、どうなるんですか?」と、私は疑問に思っていたことを聞いた。
「完全に壊れる前に設備更新しなくちゃね。前から予算申請を出しているんだけど、一千万円くらいする機械だから、簡単には稟議が通らなくてね」
「そんなにするんですか!」
せいぜいファミリーカーくらいの値段だろうと思っていた私はびっくりした。
「でも、今年はやっと稟議が通って、次年度に新しい炭素分析計を購入するよう、予算が取られているんだ」
四月には私の契約期間は切れている。残念だが、その機械を私は見られない。この会社の任期が終わったら、また別の会社へ。私は羽を休めているだけの渡り鳥だ。ちょっとさびしい気がした。
翌日、私は午前中で分析業務を終えた。午後には約束通り沖課長が試験室にやってきた。
「一度私が通しで試験をするから、見ていてください」
沖課長が薬品棚から必要な薬品の瓶を取り出し、実験台の上に並べる。それから試験室の奥へ歩いて行き、背丈ほどの高さの棚の前に立った。この棚を私は開けたことがない。スライド式の扉を開けると、埃よけのビニールを被せられたプラスチック製の大きな四角い籠があった。半透明のビニール越しに、ガラス器具らしきものがごちゃごちゃと入っているのが見える。籠を実験台へ運ぶと、課長はおもむろにビニールの覆いを取った。
入っていたのはやはりガラス器具だったが、それらは、ビーカーや試験管のような単純な形状のものではなく、子供の頃から思い描いていた錬金術の道具そのものだった。科学者たちが工夫を重ねてたどり着いたと思われる複雑な造形は、挫折した彫刻家である私の感性を直撃した。思わず、わあ、と声が出る。
「この中にはCO2分析用のガラス器具が三セット入っています。今からその一組を組み立てながら、試験をして見せます」
沖課長がガラス器具の一つを籠から取り出し、実験台の上に立てる。高さ三十センチほどで、大まかな形状を一言で言うとガラスのてるてる坊主だ。三角フラスコの上に、リンゴくらいの大きさの丸いガラスの球体がのっかっている。それは蛍光灯の光を浴びて、氷の彫刻のようにきらめいていた。
球体の中は空洞で、中にコルク抜きを大きくしたような螺旋状のガラス管が入っている。螺旋管の両端は真っ直ぐになっているのだが、驚いたことに、その一端は、ガラスの殻を突き抜けて斜め上に三センチほど飛び出し、もう一方の端は、下の三角フラスコに向かって、殻を突き抜けている。ガラスの球体はよく見るとわずかに楕円にゆがんでいて、手仕事で作られたことが分かる。どうやったら硬いガラスでこんな形が作れるのか、私には想像もできない。合理性の追求の上に完成した形状であろうが、同時に芸術的でもある。私は感心して溜息を漏らした。
てるてる坊主の頭には、螺旋管が飛び出したものとは別に、もう一本ガラス管が付いている。それらはマカロニくらいの長さで、二本の角が生えているように見える。私は可愛いらしい角にちなんで、てるてる坊主を改め、「クリオネ」と呼ぶことにした。球体と三角フラスコの継ぎ目には、二つが外れてしまわないようにスプリングを引っ掛ける突起が付いていて、これがクリオネの翼のようにも見えるのだ。
「三角フラスコの中に、水酸化ナトリウムをホールピペットで量り取って入れます」
密かに感動している私に構わず、課長は試験操作を始めた。クリオネの頭の部分を外して、転がらないように丸いコルクの枕に置く。
ホールピペットは少量の液体を正確に量り取るための器具だ。先のすぼまったガラスのストローのような形で、液を溜めるために真ん中がぽっこりと膨らんでいる。卵を飲んだ蛇みたいだ。
「水酸化ナトリウムを入れたら、塩化バリウム溶液を三百ミリリットル加えます」
ポリ容器に入った無色透明のバリウム溶液を、三角フラスコに注ぐ。すると不思議なことに、一瞬で溶液がブーゲンビリアのような鮮やかな赤紫色に変わる。手品みたいだ。バリウム溶液にあらかじめ入れてある、フェノールフタレインという指示薬の色だと課長は言い、フラスコを私の前で軽く振って見せた。たぷんたぷんと、透明な紫色がフラスコの中で揺れる。
続いて課長は籠から小さな丸底フラスコを取り出した。丸い部分が手のひらに収まるくらいのサイズで、マラカスみたいな形をしている。クリオネよりだいぶ小柄で、可愛いらしい。首の部分にS字に曲がった枝管がついている。それが音符の旗のように見えたので、「八分音符♪」と私は名付けた。
電子天秤で正確に量り取った小さじ一杯分の石灰と、長さ一センチほどのとても細いガラス管を八分音符に入れ、蒸留水を少し注ぐ。細いガラス管を入れておくと、あとで加熱したとき沸騰が穏やかになるそうだ。それから香水瓶のようなスポイトの付き容器で、メチルオレンジという指示薬を二、三滴たらす。八分音符の中の液はゴージャスな黄金色に変わる。口に含めばとろりと甘い味がしそうだ。ほんとは苦いか酸っぱいか、ひどい味がするのだろうけど。
それにしても、フェノールフタレインもメチルオレンジも、語呂が良くてかっこいい名前だ。指示薬の名前はそういうのが多いのだろうか。
八分音符を、支柱に取り付けたクランプで挟み、クリオネの横に固定する。八分音符の旗とクリオネの角をシリコンチューブでつなぐ。そうすると何だか、クリオネと八分音符は仲が良さそうに見える。
次に沖課長は塩酸瓶を取り出した。塩酸瓶は特大ウインナー型の容器に、長いガラス管が付いた形をしている。これの名前は即座に「フランクフルト」に決まった。
フランクフルトの串に当たるガラス管を、ぶつけないように注意深く八分音符に挿し、すり合わせをキュッと結合して固定する。すべてを組み立てるとなかなか壮観だ。なんだか、ノーベル賞を取るような研究をしている気になる。
フランクフルトのコックを開いて、少量の塩酸を八分音符に入れる。ペーハーの変化で、メチルオレンジはロゼワインのようなちょっと妖しげなピンク色に変わる。
弱火のガスバーナーで八分音符を加熱する。加熱すると石灰が溶けて徐々にペーハーが変わるので、メチルオレンジはゴールドとピンクの美しいグラデーションをつくる。私は前の彼と一緒にバーで飲んだカクテルを思い出す。あれはその店のオリジナルだったのだろうか。オレンジとピンクが夕暮れのように溶けあい、幻想的な色のハーモニーを奏でていた。
しばらく加熱していると、穏やかに沸騰が始まる。ポコリ、ポコリと水蒸気の泡がはじけ、フラスコの底で水溜りの泥のように淀んでいた石灰が踊りだす。その動きはミニチュアの火山のようだ。直径数センチの火口で、白い溶岩が踊るように噴き出している。
八分音符で発生したCO2と蒸気は、チューブを通ってクリオネの三角フラスコに導かれる。ブーゲンビリア色の液体は圧に押されてガラス管を上りクリオネの頭を満たしていく。コーヒーサイフォンと同じ原理だ。
十五分くらい加熱したら、バーナーの火を止めチューブを外し、クリオネをシェーカーにセットする。シェーカーはガラス器具を振り混ぜる機械で、箱型の筐体に台座と固定用のフックが付いている。これに取り付けたクリオネはなんだか遊園地のジェットコースターに乗せられたみたいだ。身に迫る恐怖におびえ、強張っている。
カクテルを作る金属カップと同じ名前を冠せられたこの機械は、バーテンがシェイクするようにクリオネを激しく上下に揺さぶる。五分間撹拌して、フラフラになったクリオネをジェットコースターから助け出す。
首の部分を緩めると、頭の中の液はすべて三角フラスコに落ちる。次は滴定だ。頭を外し、ビュレットという器具でフラスコに一滴一滴、塩酸を加える。反応が終わりに近づくと、鮮やかな赤紫が桜の花のような淡いピンク色になる。そして最後の一滴で、潔く完全な無色になる。
「手分析の手順は、これで終了。塩酸の使用量から、CO2の含有量を計算で求めます。どう? できそうかな?」
美しい色の変化を半分夢心地で見ていた私は、沖課長の声で我に返った。
「あ、はい、大丈夫です。ええと、計算はどうやるんですか」
呆けた顔をしていなかった心配になったが、沖課長は特に怪訝な顔もせず、私のノートに計算式を書いてくれた。愛用のキティちゃんの電卓を叩いて、結果をはじき出す。
「うん、炭素分析計の結果と同じだ。じゃあ次は、真理さんがお願いします。実際の試験をするときのやり方でしますから、器具を三セット組み立てて、一つはブランク、残りは生石灰と消石灰を入れて、三つ同時に試験してください。分からないところは聞いてください」
私はメモを見ながら、課長の手本通り試験を進めた。三つ同時だと結構忙しい。分からないところは質問しながら、ノーミスで試験を終えた。再び電卓を叩く。さっきと同じ値が出た。
「素晴らしい! 一回でここまで覚えきれる人は、なかなか居ないよ」
沖課長が手を叩いて誉める。大げさだと思ったが、やっぱり嬉しかった。
手分析の手順を習ってから二週間後に炭素分析計は故障した。私は再びクリオネ達に会える喜びを顔に出さないようにしながら、沖課長に故障を報告した。
課長が機械を診たりメーカーに電話している間に、私は手分析の準備を進める。今日中には直りそうにない雰囲気だ。
私がクリオネ達を組み立てていると、営業の木谷課長が来て大変だねと声をかけてくれた。そんなことないですと私は応えた。本当に、私にとっては子供に戻って、摘んできた花をつぶして色水遊びをしているようなものだ。大変なことなど何もない。
飛んできたメーカーのエンジニアと沖課長が炭素分析計の前にかがみ込んで難しい話をしているそばで、私はメチルオレンジのグラデーションに見とれたり、クリオネのサイフォンにコーヒーが好きだった母を思い出したりして、不謹慎に実験を楽しんでいた。
沸騰中の八分音符の中で繰り広げられる石灰のダンスは、とても楽しそうだ。ゴールドとピンクのグラデーションをバックに、石灰がピョコピョコと飛び跳ねている。舞い落ちる石灰はスノードームの雪のように幻想的だ。
沸騰が進むにつれ、クリオネの顔は鮮やかな紫色の液体で満たされていく。恋をしたクリオネが、顔を赤く染めているようだ。その様子を見ていたら、私はクリオネにマジックで顔を描いてやりたくなった。長いまつげの目を描いてあげたら、きっとお人形のように愛らしい姿になるだろう。
その日の夜、そろそろ寝ようかという時刻に西野主任からメールが届いた。元気な男の子が産まれたという報告だった。写真も付いていて、ぷくぷくとした可愛らしい顔をしていた。私は長いお祝いのメールを返した。
炭素分析計はそれからも時々故障した。その間隔は最初ひと月半程度だったのがだんだん短くなってきて、今日は前回修理してから三週間で壊れた。
私が手分析していると、沖課長や藤原部長が頻繁に試験室に顔を出した。私の試験が終わらないと出荷ができないのだ。最近工場の運転がうまくいっていないのか、時々CO2がいつもより高めの値で出てくる。そんなときに炭素分析計が故障すると出荷が大幅に遅れるので、みんなピリピリするのだ。特に藤原部長は、遠慮無しに言葉をぶつけてくる。
「まだ試験終わらないの? あんたのところで出荷が止まってるんだよ。チンタラやってないで、さっさと終わらせてくれ」
出荷が止まっているのは私のせいではないし、試験には手順というものがあって、早めることもできないのだ。「もう少しで終わります」と、さっきから何べんも言っている答えを返す。あせってミスでもしたら水の泡だ。私は部長のことはなるべく無視するように努力して、いつも通りに試験を進めた。
実は、今度手分析をやるときはクリオネに顔を描いてやろうと計画していたので、密かにマジックペンを用意して人がいなくなる隙を狙っていたのだが、今日はとてもそれどころではなかった。ガラスに付いたマジックは、アセトンをティッシュに湿して拭えば一瞬で消えるのだが、この雰囲気の中、藤原部長にそんなのんきなことをしているところを見られたら、何を言われるか知れたものじゃない。
最後の滴定の操作になると、藤原部長は私の横に立ち、腕組みして足を踏み鳴らしながら結果を待っていた。部長はやたらと咳払いをする癖があって、それがますます私の気を散らした。
最後の一滴の塩酸を滴下すると、私は急いで電卓を叩いた。キティちゃんの電卓も変にバツが悪い。
「消石灰のCO2、3.0パーセントです」
「3.0!」
藤原部長が鬼のような顔をして叫んだ。私はあわてて言い直す。
「すみません、間違えました。0.3です」
「はあ? 一桁間違ったのか! おどかしやがって、まったく、真面目に仕事してくれよ!」
部長は私を怒鳴りつけてから、どかどかと安全靴を踏み鳴らして試験室を出て行った。
言い間違えたのは私が悪いが、藤原部長が気を散らすのがいけないのだ。「真面目に仕事しろ」とはどういうことだ。私はいつだって真剣に仕事をしている。クリオネに顔を描こうと企んだりはするけれど。
イライラしながら片付けをしていたら、フランクフルトを八分音符から外すとき、ガラス管の先を折ってしまった。沖課長から「塩酸瓶のガラス管は先端がフックのように曲がっているので、外すときによく引っ掛けて折ってしまいます。注意してください」と言われていたところだ。私は思いっきり落ち込んだ。
私は折れたフランクフルトを持って事務所へ行き、沖課長に報告した。
「すみません。不注意で折ってしまいました」
深々と頭を下げる。沖課長は怒るでもなく、それらを手に取り、折れた箇所を合わせたりしていた。
「高い器具なのに、すみません」
「形あるものは壊れるからね、気にしないでいい。この折れ方なら、細いシリコンチューブでつなげばまだ使える」
「そうですか」
「ひびも入っていないな。これなら、くっつけた方が長持ちしていいかもしれない。キャピラリーも作りながら、久し振りにやってみるか」
途中から意味不明のことを沖課長は言い、フランクフルトを持って試験室に歩き出した。私は訳も分からずついて行った。
実験台の下の戸棚から、沖課長はバーナーを取り出した。CO2分析のときに使うものとは違う、SF映画に出てくるレーザー砲みたいにかっこいいバーナーだ。ガラス細工用バーナーだという。慣れた手付きで、ガスと酸素の配管をつなぐ。心なしか課長は楽しげだ。男の人はどうしてこういうこちゃこちゃした機械が好きなのだろう。
ライターで火を点け、ダイヤルを回して調整すると、わずかに青く見える鋭い炎が、ゴーっと小さい音を立てて吹き出した。
「まずは肩慣らしで、キャピラリーを作ります」
直径六ミリほどのガラス管を取り出し、真ん中あたりをバーナーの炎であぶる。透明なガラスは熱をもってオレンジ色の光を放ち、硬さを失い水飴のような柔らかさを見せる。
ころあいを見て、沖課長がガラス管の両端をぐいーっと引っ張ると、とろけたガラスはガムのように細長く引き伸ばされる。それは一瞬で冷えて固まり、そうめんより細い長さ一メートルほどのガラス管ができ上がる。
「わあ、すごい!」
思わず素直な声が出てしまう。
「これが“キャピラリー”ですか」
「そう、毛細管という意味。真理さん、そこにヤスリがあるから、キャピラリーを一センチくらいずつ切ってください。傷をつけて曲げてやれば、簡単に折れます。軍手をつけて、手を切らないように」
「これ、ひょっとして、八分――じゃなくて、分解瓶に入れるガラス管ですか? こうやって作るんですね!」
私は言われたとおりキャピラリーにヤスリで傷をつけ、ポキンポキンと折っていった。なかなか楽しい作業だ。
「よし、次は塩酸瓶の修理、と。パイレックスは難しいんだよな」
ガラス器具は、大半がパイレックスという耐熱ガラスでできていて、これは細工が難しいのだそうだ。沖課長は左手にフランクフルト、右手に折れたガラス管をペンチで挟み持ち、慎重に熱を加える。急激に膨張して割れてしまわないように、最初は炎の遠くの方からゆっくりと。真剣な表情でガラスの色の変化を観察し、徐々に炎の先端に近づけていく。折れたところの鋭いギザギザが、次第に丸みを帯びていく。ガラスがオレンジ色に輝き、とろりとしはじめた瞬間、課長は折れた箇所をピタっと合わせた。そのままの状態を保ってしばらく焙り、癒着したところで炎から離す。熱が冷めるにつれて、ガラスは元の無色透明に戻る。私が折ったフランクフルトは、見事に接合されていた。
「沖課長、すごいです!」
手を叩いて喜ぶ私に、大したことじゃない、と沖課長は謙遜して言った。
「年配の人たちは、ピペットやT字管とか簡単なものは自分たちで作っていたそうだからね。もう定年された方で、ガラスでひょうたんや一輪挿しを作る人がいたよ。こんなに小さいのを」
と言って課長が指で示した大きさは、わずか三センチほどだった。
「そんなに小さいのをですか。器用ですね」
「そう。昔の人に比べたら、私なんか、まだまだ」
私はガラス器具を作る職人に思いをはせた。職人達は、溶けたガラスを巧みに操り、球体やガラス管を自在につなぎ合わせ、クリオネや八分音符を作り上げていくのだろう。それも、とろけたガラスがオレンジ色に輝くわずかの間に、息を吹いて膨らましたり、曲げたり、つなぎ合わせたり、それらの作業をすばやく行うのだ。きっとそれは、見る者が感嘆の溜息をつかずにはいられない、すばらしい職人芸だろう。
その日は六時半ごろに仕事が終わった。最近は陽が落ちるのが早くなり、この時刻にはもう外は薄暗くなっている。肌寒い風が、遮るもののない駐車場を吹き渡る。私は急いで自分の車に乗り込み、帰路に着いた。
携帯電話を忘れたのに気付いたのは十五分ほど車を走らせた後だった。私は「携帯なしでは生きていけない」というタイプではなく、お腹も空いていたので会社に戻ろうかどうしようか迷った。迷いつつ車を走らせていると、以前から気になっていた「生パスタ」の看板を掲げたイタリアンカフェが目に留まり、そこで晩御飯を食べてから戻ることにした。
新鮮なトマトソースのボンゴレでお腹いっぱいになった私が会社に着いたのは、八時少し前だった。正門で守衛のおじさんに一声かけ、試験室に向かう。
事務所はまだ一部に電気が点いていて、誰かが残っているようだった。窓から中をのぞくと、沖課長の後ろ姿が見えた。姿勢良くパソコンに向かい、キーボードを叩いている。
西野主任が抱えていた仕事は、試験業務だけではない。いくら私が要領よく試験ができるといっても、他の部署と連携した業務や、中長期を見据えた経営計画の推進といった仕事までできるわけではない。そういった仕事は、すべて沖課長が主任の分までこなしているのだ。
ニンニク臭い息で話しかけるわけにもいかないので、私は課長に声はかけずにそっと試験室に入り、携帯電話を取って車に戻った。帰り道、課長の後ろ姿が、繰り返し頭に浮かんだ。
「もっと、頑張らなくっちゃ」
私は小さくつぶやいた。
年の瀬も押しせまってきたある日、会議を終えた沖課長が試験室に入ってきた。白熱した議論の後なのだろうか、疲れたけど清々した、といった顔をしている。
「炭素分析計を更新することが決まった」
と課長は言った。私は動揺を顔に出さないように努めなくてはならなかった。
「更新は次年度じゃなかったんですか」
「今年度に予定していた製造部の設備更新を後回しにして、分析計を先にしてもらったんだ。分析計の故障が頻発していることを説明して、このままでは品質保証体制が維持できないと訴えたら、藤原部長が折れたんだ。営業部も味方に付いてくれたしね。メーカーに連絡したら、一ヶ月で納品できると言うんだ。もう、突然の故障で悩まされることはなくなるよ」
はあ、そうなんですか、良かったですね。私は棒読みにならないように気をつけながら、そう相づちを打った。一ヶ月。私の契約期間はあと二ヶ月と少しだ。フランクフルトを折って以後、炭素分析計はなぜか調子が良く、あれ以来私は手分析をしていない。どうも、神様は私とクリオネ達の仲を引き裂こうとしているようだ。
結局一ヶ月は何事もなく過ぎた。廃車にすると決めた車が急に調子が良くなることがあるように、旧型の炭素分析計は今までの不安定さが嘘のようによく働いた。
とうとう納品の日がやってきて、使いなれた分析計の隣に、洗練されたデザインの新しい炭素分析計が据え付けられた。沖課長と工務課の社員とメーカーのエンジニアが、忙しそうに酸素の配管や電源やネットワークをつないでいる。旧型の方は予備機として、そのままいつでも使えるように新型の隣に置かれることになる。とはいえ新型が早々に故障はしないだろうから、旧型の出番は当分ないだろう。
午前中に作業は終了し、午後からメーカー立ち会いで作動テストをした。使い方は旧型よりずっと簡単になっており、試験結果が出るのも早く、データはパソコンに自動で転送される。便利なことこの上ないが、新しい分析計はツンとすました美人みたいで、全然可愛いくなかった。私の評価はどこかずれているのかもしれないが。
沖課長は「これで肩の荷がおりた」と、晴れやかな表情をしていた。
午前中試験ができなかった分、私は新型を使って忙しく試験をした。可愛いくはないが仕事はできる機械だ。旧型が恨めしそうに見つめている気がしたが、私は気にしないようにして分析を続けた。
「それが新しい分析計? さすがに立派だな」
後ろから声をかけたのは藤原部長だった。石灰で真っ白な安全靴で試験室に入るのはやめてほしいのだが、部長はいつもお構いなしだ。
「こいつのおかげで、破砕機の更新が後回しになったんだから、大事に使ってくれよ」
はい、とっても高性能ですよ。と心にもない世辞で私は答えた。
「そういえば、手分析用のガラス器具はどうした」
「棚にありますよ」
「もう捨てたらどうだ。旧型が予備機であるんだから、必要ないだろ。予備機の故障まで考慮していたらキリがないよ」
予想もしていなかった言葉に頭を殴られたような気がした。私のクリオネ達を捨てる? 邪魔だから? どこをひねったらそんな言葉が出てくるのかと怒りすら湧いてきたが、言っても絶対に理解してもらえないので、私は沈黙するしかなかった。すると、どこにしまってあるんだよ、と言って部長が手当たり次第に棚の戸を開け始めた。私は慌ててクリオネ達が入った棚を背中で庇うように立ちふさがり、言い訳を探した。
「べ、別に、捨てる必要はないんじゃないですか。かさ張るものでもないですし」
「邪魔にならならなきゃいいってもんじゃないんだよ。あればあったで、帳簿上管理しないといけないだろ。沖課長にも言っておくから、要らないものはとっとと処分してくれ」
棚の奥でクリオネ達が怯えている気がしたが、どうしたらいいのか分からない。私は途方にくれた。
「分析器具は捨てませんよ」
沖課長がつかつかと試験室に入ってきて、私の横に立つ。ナイトのような現れ方だ。
「酸素系や電源が落ちたら、両方使えなくなります。手分析の準備は今後も必要です」
「予備の予備なんか置いとくから、油断して管理がおろそかになるんだ」
「管理がおろそかな機械が二十年近くも持ちますか」
二人の議論を私はおろおろしながら見守ることしかできなかった。軍配は沖課長に上がり、藤原部長はぶつぶつ言いながら部屋を出て行った。部長の背中に向かって、「安全靴で試験室に入るのは控えてください」と課長は言い放った。溜息をついて、私の方に向き直る。
「君じゃ、判断のつかないことだろう。僕が通りがかってよかった」
「……ありがとうございます。助かりました」
「部長は合理主義者だから、ちょっとでも無駄と思えるものを置いとくのが嫌なんだよ。予算を試験課に取られたのが面白くないのもあるだろうけどね」
課長のおっしゃっていることが正しいと思います。と、私は答えた。沈んだ表情を悟られないよう、私は試験の続きをやるため分析計に向かった。
ひどい脱力感を感じながらも、私は気力で今日の分の試験を終えた。クリオネ達の運命を左右する議論が繰り広げられているのに、私は傍聴席に座ったまま何もできなかった。それが悔しいやら情けないやらで、自分に無性に腹が立った。無生物を相手にこんなに感情が昂ぶるなんて馬鹿らしい、と思おうとしても、なんだか涙までにじんでくる。
急に、無性に手分析がやりたくなってきた。沖課長はこれから社外に出て直帰だそうだし、勝手に器具を出してやろうかと思ったが、炭素分析計が二台もあるのに手分析をやってるところを誰かに見られたら、頭がおかしくなったと思われてしまう。
私はもう、クリオネ達と遊ぶことはできないのだろうか。複雑な形状にガラス職人の技を想像したり、美しい色彩の変化を子供のように見つめる楽しみは、いつの間に奪われてしまったのだろう。
新型の炭素分析計は、我関せずといった様子ですましている。こいつが来たからいけないんだと思うと、憎たらしくなった。ボタンやレバーの操作がついつい乱暴になってしまう。
ふと、アクリルパネルに納まっている乾燥剤のガラス管が目に入った。新型も測定原理は同じなので、センサ用の乾燥剤が付いている。白い粒状の乾燥剤が、ガラス管の中に隙間なく納まっている。
この乾燥剤を抜いて試験したら、どうなるだろうか。いや、それだけじゃなくて、ガラス管に少しだけ水を入れてみたら――。
八百屋お七の話が頭に浮かぶ。西野主任はセンサは水分にとても弱いと言っていた。乾燥剤が必要なくらいだから、直接水が当ればセンサはきっと壊れてしまうだろう。
どのくらいの故障になるのだろうか。センサは分析器の心臓部だ。二、三日では直らないだろう。一週間か、一ヶ月か。センサは修理がきくのだろうか、新しいものに取替えるなら、また多額の費用がかかるだろう。
分析計が壊れたら、私は疑われるだろうか。疑われないような気がする。誰も私の動機を理解することはできないだろうから。面倒な手分析をやるために、今日来たばかりの分析計をわざと壊す者がいるなどと、誰が考えるだろう。
頭がボーっとして考えがまとまらないのに、手だけが勝手に動く。私は新型の分析計の横にあるアクリルパネルをそっと外した。乾燥剤の入ったガラス管が二つ、行儀よく並んでいる。私はそのひとつを取り外し、ゆっくりとキャップを回した。静かな試験室に、金属とガラスが擦れ合うキュル、キュルという音が、やけに大きく響いた。
翌日の朝、出勤した私は、事務所の駐車場の奥に植えられている大きな樹が桜であることに気付いた。幹が太く枝振りも良いので、春にはさぞ見ごたえのある花を咲かせることだろう。任期中に見られないのが残念だ。
昨日、結局私は八百屋お七にはなれなかった。あの時、ガラス管のキャップを回していると、夜遅く一人事務所に残っていた沖課長の後ろ姿を思い出した。あんなに真面目に仕事をしている人を困らせるようなことをしていけない。そう思って、私は乾燥剤を元に戻し、大きく深呼吸をした。もう、心は落ち着いていた。
契約期間の残りの一ヶ月は瞬く間に過ぎ、今日は、最後の一日だ。西野主任は一週間前から職場に復帰している。主任は新しい炭素分析計にいたく感動していた。
時刻はもう四時だ。西野主任は親戚の法事があるため、今日はやむなく休んでいる。主任も参加できるようにと、私の送別会は昨日ですんでいる。試験も終わっているので、あと一時間何もすることがない。自分の部屋のように慣れ親しんだ試験室も、今日が最後。五時になったら、社長と専務に挨拶をして、S石灰工業ともお別れだ。居心地の良かった会社を去るときは、卒業式のようなさびしさを感じてしまう。
忙しいはずの沖課長が、缶ジュースを持って私をねぎらいに来てくれた。私にはカルピスウォーター、普段ブラックコーヒーしか飲まない沖課長も、私に合わせたのか、100%果汁のアップルジュースだった。
「うちに来てくれたのが真理さんで良かったよ。君は、本当に良く働いてくれた」
「そんなことないです。いたらない事ばかりで」
「いや、君はよく気が付くし、ずいぶん助けられたよ。お礼を言わなくちゃならない」
暖かい言葉が、縮こまっていた心に染み入るようだ。
それから課長は、ちょっと来て、と言って、試験室の隅の開けたことのない棚の前に私を連れて行った。
課長は棚から大きな段ボール箱を取り出し、実験台の上に置いた。蓋の上にうっすらと積もった埃をペーパータオルで掃う。開封された形跡のないガムテープをべりべりと剥がし、蓋を開ける。中に入っていたのは、発泡スチロールの緩衝材に埋まった、光り輝く新品のクリオネだった。八分音符とフランクフルトもいた。
「真理さん、これ持っていくかい?」
私は気が動転しながらも、蛍光灯の光を反射して輝く、傷一つないクリオネの美しさに目を奪われた。
「どうして……、これ、高いんでしょう」
「君、これ、好きでしょ」
ばれてた。恥ずかしさで顔が熱くなる。分析計を壊さなくて本当によかった。
「器具が破損したときの予備に置いていたんだけど、藤原部長が言ってたとおり、めったに使うものじゃないしね。帳簿上は、ワンセット割ったことにすればいい。形あるものは壊れるんだから」
「……ありがとうございます。本当に、うれしいです。あ、フランク――じゃなくて、塩酸瓶は、課長が直したものを持ってっていいですか?」
「いいけど、新しい方がいいんじゃない?」
「いいんです、記念ですから。それから、もう一つ、お願いがあるんですけど……」
八百屋お七になりかけたことを課長が知らないのをいいことに、私はずうずうしくも薬品をいただけませんか、と頼んだ。
沖課長は「塩酸や水酸化ナトリウムは劇薬だからあげられないけど、指示薬は分けてあげる」と言って、フェノールフタレインとメチルオレンジを小瓶に入れてくれた。
課長は気前よく、ガスバーナー代わりのアルコールランプと、古くて錆びたスタンドとクランプもくれた。それから、塩酸や水酸化ナトリウムの代わりに何を使ったらいいかを教えてくれた。色の変化を見るだけなら、家庭にあるものでできるという。カルピスを飲みながら、私は課長の説明を丁寧にメモした。
S石灰工業での最後の一時間は、私にとってとても幸せなひとときだった。
でも、あれほど熱を上げていた私だが、さすがに自宅で目的もない分析を何度もやるほどの物好きではなかったようで、その後自宅で実験をしたのは一回きりだった。
フェノールフタレインとメチルオレンジは、ふくらし粉やお酢を使ったデタラメな化学実験のときも、騙されているとも知らず健気に色を変えて私を楽しませてくれた。
今、クリオネ達は手製のクッションにちょこんと座って、私の彫刻と一緒に部屋の棚に並んでいる。クリオネにはカラフルなマジックでドレスと顔が描かれている。表情は、微笑を浮かべた穏やかな寝顔にした。クリオネはやすらかな眠りの中で、錬金術の夢を見ているのだ。
おわり
フェノールフタレインとメチルオレンジ