言及


言及



「言葉を知らない状態を無垢と名付けて、無垢であれば世界をそのまま知れるって思いたいけど、そうはならないのが人だろうね。
 人の筋肉とかって外面上は繋がっているのに、言葉ではあんなに分けられている。あれって身体に位置する各部位で筋肉が運動に果たす機能に基づく区別だよね。物体が持つ機能が意味を表している。ものとして存在する人の身体が機能=意味で分節されている。
 で、人が生きるには食べなければならない。生きるための栄養を外部から得なければならない。食べることから排泄するまでの過程で人の身体の機能が必要になるでしょう?食べられるか、食べられないかっていうところから人は機能=意味をもって世界と接するんだよ。そのときに、その人が言葉を操るかどうかは関係ない。生きるために必要な身体の機能を、情報としての言葉で理解できるかどうか、またその情報を言葉にして誰かに伝えられるかどうかは関係ない。言葉を知らない、けれど知覚で得る情報を統合する視点としての「私」が自分自身を言葉で捉えているかは関係がない。
 生きるために必要な身体の機能は意識で従わせることができない自然そのものだよ。なのに、その機能を人が機能=意味で把握してしまう、把握できてしまう。だから自分の外にある世界が分かれる。
 人は人として生まれた以上、その身体をもって世界を分節することを避けられない。きっと人以外の動植物も同じじゃないかな。
 それでさっきの言葉、無垢の意味をどう解釈するかにもよるんだろうけど(身体の機能で分節された世界に在ることを、人が可能な限りで達する「無垢」な状態と理解することもできるだろうから)、分節される前の世界にそのままで在るという、記述はできるけど一体どういう状態なのかは正直理解し難いこの状態に敢えて拘るのなら、人は無垢であることはできない。人という偏見をもって世界に触れることが、人の出発点だよ。そこから前はない。ここから先が私たちの道だよ。」



 夜半の空港は静かで寂しい。なのに、数少ない利用者が空いたスペースを使ってのびのびと旅程を確認したり、所々に設置されたテレビジョンで放送されるニュースやバラエティ、ドラマをのんびりと観たり、子供たちがパパやママから少し離れて誰もいないベンチや通路のスペースをはしゃいで走り回ったりで、または一日の終わりに満足して若しくは明日の希望に心を軽く弾ませてキャリーケースと共に歩く個々人の大人な姿がある。それらが充満し過ぎない、しっかりとした活気を生んで空港の体温を保っている。心なしか、搭乗口を抜けた先の施設内を灯す蛍光灯もそんな活気に励まされているように見える。今も空港内を利用している人たちが通るかもしれない可能性を信じて(何個かはロマンチックに又はシニカルに夢見て)、灯せる限りで辺りを照らす。その心意気を全ての蛍光灯が抱いている。もちろんトイレの中に設置されているあれらも、だ。
 辺りを照らす、という点では要所要所に設置されている自動販売機や売店、そこで働く従業員も同じだと言ってみよう。飲食物や雑誌、お土産などを買いたい人のために置いておく。買いたい人が買いたい物を、買いたい時に買えるように必要なやり取りを可能とする機能や状態を維持しておく。利益のため、そしてやり取りの満足を互いにもたらすため。この意味認識でそれらを眺めたとき、温かい空気をふんわりと描ける。想定されている歓待。もちろん一つの可能性として、だ。
 夜半の空港内に居て、そこら辺を見ている私は眼鏡をかけていて好きな小説を読んでいる。梨木香歩さんが書かれた『f植物園の巣穴』と、村上春樹さんが書かれた『アフターダーク』の二冊である。最近の私の読書は面白いと思った、気になると思った本を二冊同時に読むのを大事なルールにしていて、一方に満足したらもう一方に読み移ることをそれぞれの物語を読み終わるまで繰り返す。これが結構良くて、読み移る一冊を再び開くときに閉じたときの内容だけじゃなくて、頁を閉じた瞬間に感じていた印象をかなり新鮮に思い出せる。その勢いで物語を読み進められる。あの好きな場面、あの嫌な描写に浮かび上がる現実感が視界の大まかな所に重なり、いま見ている実際のあちこちに被さる。喜劇も悲劇も逃やしない。大事なのはその四隅には何も重ならないことで、そこで死守される絶対不可侵が物語を飽きず楽しむことを可能とする依代になる、と私はひとりごちる。依代という表現に込めるのは、読んでいる物語のフィクション性を確保するために欠かせないシールの捲りのイメージ。物語を剥がした後で見える現実の上に残る粘着に私の手の平を乗せ、そこから手を剥がしたときに私の身体で感じるもの。匂い。不快、力強さ、それを利用したあっちの世界とこっちの世界を繋ぐ作業と推敲。綺麗に嵌った快感も、全く噛み合わない不一致にも埋められない意味がある。突然口籠もるようで申し訳ないが、なんというか、どうしたって私そのものでは通用しない暗がりの触感がそこに秘められている。それを見つけたくて読んでいる、というようなところだ。今回の二冊がまた都会と自然という対比を超えて、妙に畝る物語のあちこちで交差する。どちらも同じようなものを語っていると個人的に思うからまた面白い。『f植物園の巣穴』の方が奇妙すぎて、その表現が強すぎて読む比重がそこに偏りがちになるが、どちらも巡って帰ってくる。私の身体から剥がされ、もう一度貼り直された私がいて、剥がされることなく潜り抜けたようなマリがいる。
 変わりつつあるのはその様子だ。彼女なら、「そう思った、そう感じたという私だ」と言うだろう。私は彼女でないからそうは言わない。私は、二人がそれぞれに変わりつつあると言う。
 私はまだ二冊の物語を読んでいる。だから私は容易く戻らない。私の始まりにはまだまだ戻らない。歩んで私は空港にいる。本当の意味で安心、安全に出発できるまで、私は夜半のここで過ごす。生まれている活気を見る。私から生まれている活気があればいいと願う。それらを閉じ込めて逃さないその施設の機能に意味を添えて、眼鏡を直すし散歩をする。
 出発を予告する電光掲示板を見上げて確認する、未定の全てをなぞるのだ。



 動く「もの」がある。
 夜半の空港内に居て、そこら辺を見ている私をここに登場させれば、私は眼鏡をかけていて好きな小説を読んでいる。
 伊藤園の抹茶ラテに感動した。
 と真実を吐き出せば、和菓子の色味を見せつけて浮世絵の味が思い浮かぶ。徹底した通俗性はその身体から離れない。寝転がって、寝そべって、私は雨の音を楽しむ。慌てて走る人たちの裸の足に変わらない変化を見出す。
 線はその目で見たものである。それを信じた者がいた。傘で支えてするお喋りのように無為で有意味な刻がある。こちこち、こちと指差せば化かす側と化かされる側の狐に出会えるだろう。どちらの味方をするのもいい。笑って生まれる道がある。
 大事なのは忘れないこと。その欠片が証明するのはもう失うことのない、それが存在していたという事実。
 私はそうして闘う。お魚を咥えたどら猫より逞しくて、ずる賢くて、ときに愛らしいそれ。
 智慧という名の飛び石は振り返ってこそ楽しめる、と記す直観を立て掛ける。坊主は屏風の影で眠らせる。心ゆくまで、と。



 

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  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-21

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