気付かせる
一
映像作品、『アンチミュージアム:アンチギャラリー』は芸術のあり方を巡る。美術館で展示されることが、一方で展示されない作品に対する芸術への判断を生み、それが公的に正しいとされる可能性。また、絵画などの芸術作品が市場で取引されることにより、売れる作品が素晴らしいとフィードバックされる可能性。または、それらが間違っていると指摘する際に採用されている「芸術」に対する普遍的な定義ないし評価への懐疑の眼差し。ならばとばかりに「芸術」という言葉が区切る不自由を打ち壊すために全てのものを「芸術」とする認識の意味、全てが芸術になるのならそれはもう芸術の全否定にしかならないのでは?という矛盾。そもそも、人は作品を見て何に感動し、その感動から何を見出しているのか、何を後世に残していくべきと判断しているのかという根本的な問いに答えないと進みそうにない議論が映像の其処彼処に潜在していた。だから、筆者が何度か言及しているデュシャン氏の名前や声を観たとき、やはりとばかりに納得したのだった。
しかし、仮にこの根本的な問いに対する答えを出せたとして、それが本当にいい結果をもたらすのかと筆者は懸念する。なぜなら言葉は意味をもって対象を区切り、それ以外の可能性を奪う。そのために、鑑賞者に対して「こう見るべし」という原則のようなものを打ち立てることにならないか。この懸念の前提には、作品から得る感動は個々人の自由に任すべきだという価値判断がある。これを(やんわりとでも)否定するのも一つだろうな、と思いはする。芸術作品の精緻な見方を可能にするものであれば、その原則に従って鑑賞することが芸術的な表現に直に触れられる。ならば、そうするのが作品鑑賞を一番楽しめるといえるだろう。批評はこの一面を担うのでないか。批評によって進む豊かな表現の世界はあるだろう。
ここに鑑賞する自由を置けばフリクションは生じる。批評も鑑賞者が抱いた一つの感想という相対化は芸術に向けた基軸を希薄にしつつ、その内容の多様性を孕む。得られる表現の広大な大地。百八十度に向かって可能な旅立ち。そうして運動が霧散する。
広げ過ぎると無意味に等しくなる。それは記録として観ていて、当時の社会的状況を踏まえないと一時的なパフォーマンスにしか見えなかった作品を巡る主張に対して常に感じてしまう一面であった。
しかし個々人が好きに観ればいい、という主張は何かを楽しむという単純でありながら、半永続的に人を突き動かす動機に根差すだろう。憧れと記せる、勢い余っていい作品に「出会った」と言ってしまうあの感動の表面を覆うセンチメンタルさを磨けば、その地肌にあるかもしれない芸術という本質を夢見る心はそう簡単に捨てられない。表現手段、それを可能にする道具という技術の理屈をもって表現者は何を表現したかったのか。作品が生まれた動機に混じる心根に接近する理解から迸る、観る側の情動。「それ」を表現する側が見つめていないのか。経済活動にだって交換の心地よさがあるのだ。作品を前にした感情の交換、頭蓋の中で共に浮かべる脳内の共感を決して軽視できない理由がここにあると筆者は考える。
ここに至って、途方に暮れる現在があるように思う。この大地を染める光はあるのか。『アンチ』の名が付く作品はそのループをなぞり続ける。
二
単純な図形を把握する部分を組み合わせて認識する対象のフォルムに抱く「美しさ」は、それが整っていると思ったことに由来するか。幼少期に見た夕暮れに抱いた感動にあったのは、自分という存在を包み込む大きな世界の理に対する壮大さ、何よりその理の「変わらなさ」であったか。
あるべきものがそこにあり続けるという奇跡を当然視していた頃、であれば、慣れがそれを失わせたのか。知識がそこに至るのを阻むのか。全ては私という頭でっかちな言葉の編み物に因るのか。美しさを曇らせるのは、感動を見えなくさせるのは。
認識のスイッチは理屈っぽくて硬い。その切り替えに向けた『エキシビジョン・カッティングス』だと私は「理解した」。
その命は真ん中で育つケース内の植物たちが、持続音で繋がれるドローン・ミュージックという耳慣れないものが物理的に担う。その周囲に置かれた木造のベンチが観る側の興味と忍耐を落ち着かせる。耳障りと思ってしまうその奇妙な環境に身を置くことを可能とする。
我慢がいることを正直に言う。奇抜さだけが目立つために、意味不明瞭な表現を売りにするのものかと底意地悪く見ていた私を、デザインに優れたパンフレットで押さえつけていた。表現者の意図を文字で読んで、理解しようとしていた。慣れは、そういう時間を必要とする。
面白くなってきたのはドローン・ミュージックがもたらしてくれた。高低と長短が奏でようとするものの意図を辿々しく伝えてきた、と思えた。そのうちに辿々しいという形容が消えて、その伝え方を理解しようという意欲が湧き起こってきた。もう少しここに居よう、あの植物たちを撮ってみようと思い、行動した。高級ブランドの建物の中にある自然は区切られて不自然であり、久々に見た自然として懐かしく感じた。どんどんと居心地は良くなり、あるだけのベンチに座ってやろうと移動した。他の訪問者も居た。すぐに去ったりもした。カラフルな外観を内側から眺めたりした。曇りの日だった。だから、晴れ間に差した光がガラス張りの八階を照らし出した。部屋の中が様変わりした。当然明るくなった、そして植物たちの生育に働く機能を勝手に思い浮かべた。光合成を行える環境は整っている。自然に生きられる環境が整えられている。
美しさは、私の中の言葉の書き換えによってもたらされた。自然こそ理屈である。原理、原則に基づきその有り様が営まれている。そのことは人工的に切り取られて部屋の真ん中にある植物たちが体現している。ケースの中に必要な養分を含む土と供給される水、そして光が差し込めばいい。その理屈が意図して置かれるマチュウ・コプラン氏の作品は芸術的手法の伝統に挑んでいる。その中に身を置く私。私もこうして生きている。別の理屈に従っている。都市という理屈も外にある、その一部を構成する銀座メゾンエルメスというビル。ブランドイメージを体現するデザインには自社ビルとして果たせる機能が備わっている。同様の機能を有するビルの間を縫う道路、交通秩序を生み、維持するためのルール(法律)、歩道、地下鉄、それらを利用する人々。その繋がりと広がり。大地を離れて海まで。海運、いや航空も。繋がる地球。その存在もきちんと秩序だっている。宇宙を構成している。その謎も考えられている。理屈がないところはない。私という外にはない。じゃあ、この感動は?私を包むものと一体となっていると感じて止まないこの喜びは、どこから生まれている?
そうして探す。
そうして分かる。
芸術作品は。
漏れ落ちるものだ。相対化されて、ひとつ目の網の下に敷くふたつ目のズレた網の何処かに触れて、気付くまで。
ものにするために。
三
この結論すら。
いつか、真っ逆さまにするために。
気付かせる