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一
広告で伝えたいことは一から十まで説明できることが望ましい。ヴィジュアルを用いた表現はその内容を効果的に、かつ印象強く伝えられるものを選択したい。そのために、その表現方法を選択した思考過程も第三者に合理的に説明できるものであるべきだろう。広告する主体としての説明責任は広告が打たれる商業活動に関して求められる。また非営利の社会的活動に関するものでも、活動の意義を広範囲にかつ半永久的に伝えようとするには広告するに至った経緯を説明できる背景をきちんと整理しておいた方が有効でないかと考える。なぜならその広告は社会的活動を支える思想、信条を知るために入口になるため、その本質を分かりやすく、そして共感できるように取り出しておく必要があり、そのための作業こそ広告がなすべき仕事の領分だと思うからだ。
表現方法が増えれば増えるほどにその方法を一つに限る必要はなく、複合的に行う意味はあるし、その話題性や見る側に与えるインパクトも強い。問題解決方法としての広告の強みはここにあるのでないかと考える。
半可通の知識を恥ずかしげもなく振るえば、「絵画の死」という美術史上の評価を経た後で行われる表現活動も複合的に行う意味は十分にある。例えば絵画のように置かれた一つの作品があったとして、そのヴィジュアルそれ自体を観てもその真価を上手く捉えられないことは否定できない。その作品が作られるに至った動機、社会的背景、思考過程を統合したパフォーマンスとして観た上で、言語でも説明可能なバックボーンの意義に焦点を当てる必要がある。特に現代アートと呼ばれる作品にはこの点が顕著であると考える。
いわばプレゼンテーション可能な作品、言語の要素が重要な意味を持つ。この点で、かかる表現には広告的手法を用いる余地が生まれるのでないかと推測する。
画面に描かれたモチーフ同士の関係や美術史を彩る名画又は画家の作風のオマージュ、現代社会への批判などの様々なメッセージを絵として描くことができる。それをまた言葉で説明することができる。それらを込みで公的に発表することができる。どういう作品かを評価できる基準が明確であることは、かかる作品の美術史上の位置付けや重要な問題提起を行う社会的メッセージとしての内容を吟味し易い。それは可能な限りの議論を通じた客観的な評価を可能とすることを意味すると考える。市場における絵画の価値を高める面もあるかもしれない。そうであれば、広告的手法は表現方法として決して貶められるものとはいえない。主観的な評価になり易い芸術作品へのアプローチとしてみれば、その有効性に目を背けることは易々と行えない。
以上のように見れば、表に現れる作品とそれを支える言語表現(すなわち論理)とが組み合わされた「構造」具合が「広告的手法」と筆者が勝手に仮定する表現の肝であり、心象風景に代表されるような言語化困難な、そして実に個人的な部分から始まったような表現には認められない大事な評価要素となっているのでないかと指摘できる。
ところで、素晴らしい作品を鑑賞できる機会に恵まれたお陰で大分見方が変わったとはいえ、現代アートに対する苦手意識を未だに抱くことがあるのを筆者は隠さない。嫌悪感ではなく苦手と感じるのは変だと思い、何故かと考えたくて現代アートを観ることを心掛けてきた。
何が苦手か。
上記した広告的手法の特徴と筆者が考える内容に助けを借りれば、まず現代アートの肝となる「構造」の距離感、すなわちその背景にある主張とその主張を象徴するべき作品との一体感に対する筆者の偏った基準で下した判断がある。
「何故、あの主張に対してこの形でなければいけなかったのだろう」
という疑問形の判断である。この疑問から自然と目を向ける作品に添えられた説明は学芸員の方々の懇切丁寧な配慮に基づき、コンパクトかつ丁寧に書かれている。したがって、その内容を読めば「この形でなければならなかった」という「構造」の必然性に対する理解は必ず得られる。そうして再び見る作品に対して、けれど筆者はワクワクしていない。評論文を読んでいるときのように理解に集中した結果としての冷静さに頼って、その作品を「読んでいる」。この「読んでいる」という感覚が実に苦手なのだ。
俗っぽく言えば鑑賞から読書へと意識のスイッチが切り替わっているため、言葉足らずの評論文を読んでいるような気持ちを抱いてしまい目の前の作品が物足りなくなる。いや読書ではないと思い直し、意識を再度切り替えようと努力はするが、ここが上手くいかない。中途半端に作品を鑑賞して、中途半端に見える評論文を読んでいる読書の気持ちを引き摺ってしまい、困ってしまってそそくさと作品を後にする。そして思ってしまう
「苦手だなー。」
という感想が妙な根っこを心中に残す。これが今も残っている。だから現代アートを斜めに見てしまうところがある。良くないと思って努力をしている。その努力をしている最中である。
これが筆者の現代アートに対する接し方になってしまった。
このことにやっと気付けたのは照屋勇賢さんが手掛けた作品を鑑賞できたことによる。東京都現代美術館で開催中の『MOTコレクション』では照屋さんの「NOTICE―FOREST」が展示されている。真っ白い空間に光が灯るスペースは広いとはいえない。アクリルケースの中に入った有名ファーストフードの紙袋が低く並ぶ展示ぶりであった。そのために筆者は身構えた。それまでの各展示に対して抱いた起伏のある現代アートへの思いがあったため、自棄(やけ)になっていたかもしれない。各作品を真上からざっと見て、さっさと説明文を読んだ。朧げな記憶を辿れば、
「その実には樹の命が宿っている」
という趣旨のアリストテレスの言葉もアクリルケースに貼られていた。かつて木だったその紙袋、という発想からは自然と人工、ひいては環境問題に対する意識を感じた。資本主義社会への批判的表現、というテーマもチラついた。そういう作品と勝手に決め付けてその中身を覗いたのだ。
だから、その感動もひとしおだった。
切り絵の技法で紙袋の内側に還された樹はたった一本で、展示ブースの光に包まれていた。神々しいというより親しいその様がミニチュアサイズの都市生活の片隅に現れて、意識と名付けられた世界の肩を自然に揺さぶって、こちらの寝起きを誘っていた。
日々見落とされがちな事柄に着目するその表現方法に差し挟まれた確かな批判は、しかし見事に作品だった。作品だったからその主張を言葉より先に知った。いや先に記した自棄になった自身の行動と辻褄を合わせれば、作品から受けた感銘の勢いで頭の中にあった説明的な言葉がかき混ぜられて、洗い流された。理屈抜きで、腑に落ちた。こう記した方が正しいと思う。現代アートに対する筆者の偏向がまた変わったように感じた。許された撮影の結果である写真を一枚ずつ見直して、今も「実感している」。書いていて嬉しい言葉である。
主張と表現、両方が作り出す構造。そこに入り込む鑑賞者の好みないし偏見。その間で展開される広範な現代アートという総合的な表現活動に対する個人的な見方。公に向けられた主張。これらの要素の様々なやり取りがその時々の社会状況や個々人の境遇などの事情で移り変わる。こう表現できる程に筆者の中の現代アートへのイメージは動いている。そりゃ苦手意識も生まれるし、惹かれるしで気になってしょうがないよな、と開き直れる。
仮定した広告的手法で切り開いた自身の感想をじっくりと腑分けして、また一歩、そこに近付くことができたら。
そう夢想するのである。
二
横尾忠則さんは先に記した広告的手法で様々な絵画を明確な主張ないしヴィジョンとともに巧みに描けると筆者は思う。歴史や社会、セクシャリティなどの要素をもって、絵画史に名を残す先人たちの技法をしっかりと受け継ぎ、自己のものとして表現できる度量を理性とともに兼ね備えている。異なる空間を重ね合わせることで、キャンバスという一つの空間に詰め込まれるキュビズムの特徴を上書きするような対比を浮かび上がらせると感じた『多元宇宙空間』にある各作品の他、『GENKYO』を構成する数々の作品がこの点を存分に物語ると筆者は考える。
しかしながら、
「ああ、幽霊を生き生きと描かれるな」
という感想を「ロンドンの四日間」を観たときに抱いた。今にして思えば頓珍漢とも思えるそれを、今も持ち続けている。無数の骨やひび割れたもの、電飾として輝くものを用いた各作品が浮遊感をもって地上を踏めなくさせる『神話の森へ』の世界を形作っていた中、心象風景と思える世界で筆を振るわれた「戦士の夢」の真っ直ぐでシンプルな作品にあるうねりがとても良かった。
好きなものばかりを並べた記憶から推察するに、筆者は「先ずは個人的なもの」と感じられる作品に惹かれるのだと思う。観るこちら側を無視した表現に心打たれるのだと思う。さきの「戦士の夢」が真実、横尾さんの個人的な作品かは分からない。分からないけれど、筆者はそう思った。この感想を簡単に手放すのは勿体無いと信じる。
表現者の作風の変化は表現者自身のとても大事な部分に端を発していると想像するから、観る側として言えることはないし、言うべきでもないと考える。趣味で芸術鑑賞をするだけの素人な筆者は尚のこと、余計に自律的な判断をすべきである。だからここから先の記述は「私の感想」、素晴らしい作品に触れたことで得られたものに捏ねくり回した言葉を置き、自分自身を一つでも深く彫り進められたらと願う実験である。
『Y字路にて』で観ることができた「魂と肉体の交差」は雨上がりのY字路を目の前のアパートを中心にして描く点で普通の絵、といえるのだろうと思った。すっかり陽が落ちた夜の時間、濡れた路面に蛍光灯や信号の灯りが滲んで反射するその風景は誰もが一度は見たことのある現実と確かに繋がっている。しかし、見れば見るほど浮かび上がるのはその絵の妙な生命力であり、暗がりに潜む可能性という名の奇譚であると筆者は感じた。描きたかったから描いたと再び勝手に想像する描き手の動機、そこにある命と蠢き。それだけでいいと筆者は満足してしまった。
だから、筆者の中で横尾忠則さんという画家はその出発点に居て欲しいのにずっと遠くまで飛び去ってしまうロケットのような存在として定着してしまった。筆者の身体能力及び手持ちの装備ではあそこまで追いかけられない。息がもたない。そうして途方に暮れる筆者は所々で目に触れる「私にたわむれる」や「君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの Ⅰ」、また「奇想の系譜」の目の前で立ち止まり、そこには居ない画家の足跡に感じ入ることしかできない。そうすることで、現在する「その場所」を見上げるしかないのである。
『横尾忠則』という現況、幻境、原郷。転がり続ける変換のように今も止まらない存在がとても高く、強く瞬き続けている。
三
起承転結で纏められ既に印刷された一冊の本には出来ないことが、存在する「本」でなら出来るだろう。それを物語るために必要な文字に意味、その意味が連なる文章に代わる作品が置かれる場所、置かれ方、その欠け方がキューブ型の高く、広い展示空間で幾らでも選択できる。そういう意味での豊穣さも備えていることを見せてくれるマーク・マンダース氏の表現技法。通り過ぎる度に揺れて鳴るあの導線が再びもたらしてくれる時間をも味方につけて、『保管と展示』は有り難い二度目の体験となる。今度は少し角度をつけて。あの子の姿を見つけることで。
監視に立たれる方の指示には必ず従うべきことをここに記す理由は作品の保全のためである。とそれを承知で、実は「その展示を存分に楽しむためにある」と書いてみる。縦に長い空間で認められるお互いの姿は前の展示には無かった緊張感を生んでいると感じた。モノローグで進んだ前回と違って物語は会話の気配を孕む。見知らぬもの同士、嫌でも目が合う状況はもう少し内側に鑑賞者の立ち位置を用意している。「僕たち、私たちはどうしてしまおうか」。そういう戸惑いをあちこちに潜めている。いつでも好きに読むことができた読者の自由が、今度は少しばかり取り上げられている。
あの子を正面から見ても、同じように背後から見ても漂う寂しさは氏の手によって意図的に届けられたものかもしれない。欠けているからこそ埋められるものを氏はとても大事にしているように前回も感じた。だからこそ今回も穿って見てみる。
見えない文脈を作る自由は私たち鑑賞者という存在と等価だから、氏は手出しできない。この点で対等に立つ私たちの見るところに、氏の表現が二度現れ出る。
幅広さという強靭な筋。パースペクティブという舞台の確かさ。
ずっとそこにあって欲しいと思う我儘に蓋をして、マーク・マンダース氏と東京都現代美術館の方々に深い感謝の意をここに表します。
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