海原
海原
夜が明けるたびに光をもたらすあの太陽に対して、苦虫を噛んだような顔をする海原の男に悪気はない。晴天であればある程、照り返しはキツくなり、暑さに参る。体力を奪われる状況が日がな一日続くのを予見し、立てられる策の少なさと効果の低さに補給できる水分の残量、あの暑さに耐える時間を思えば両眉を揃えて顰めたくもなる。男の歳を思えば、より同情心は湧くだろう。男が命を預ける小型の船を走らせる動力部分から聞こえる不安定なリズムは、海を知らない者を怯えさせる。または海を知っている者でも男にこう尋ねるだろう。
「なんでわざわざそんなことをするんだ、あんたは?」
海原で航走機能をいつ失うか知れない船の上に身を預けるということは、「そういうこと」だと海を知る男たちがいう。そして、男から帰って来る答えが「そうなる」だろうと男たちは勝手に想像する。
海原を走る男も、海のことを知っている。日に焼けた肌に皺の形をした厳しさが似合っている。身に纏っている雰囲気もそうだ。何だったら、朝昼晩の三食に男が食べ尽くす立派なお頭付きの骨たちが不運にも男に出会い、柔い竿で見事に釣られることになったのか、逐一説明をした方がいいだろうか。船上で行う必要な作業を必要な分、必要な時間をかけて終わらせるその姿に無駄はない。水面をじっと見て動かない姿も様になっている。吸い尽くした煙草をそこにひょいっと捨てられないのは、また違った男のポリシーなのかも知れないが、男が海を知っていることに結び付けても失敗にはならないだろう。オイル塗れになり、身を預ける船の動力部分を直す姿を離岸してからこれまでの間にもう、何度も見てきたのだから。
しかし、男たちの勝手な想像は的外れとも言えないか。男が海とともに生き、海の上で終えようとする覚悟を決めているのは恐らく正しい。
男は、大事な別れを二つ済ませてきた。一つは愛に満ち溢れたもの。もう一つは主に憎しみと、そして過ごした時間で蘇った愛がごちゃ混ぜになった別れだった。蘇った、のではなく、歳とともに身に付けた諦念と死を突き放したその姿への同情心から新たに抱いた愛のようなもの、と男は言うかもしれない。その言葉の数と理屈っぽい説明は、確かに幼さを失くした一人の男の心情だ。それでも、愛情のようなものを示す必要は無かった、そういう選択もできたのだということに男は気付いていない。何だったら、あの子のスケッチブックに、あんな心象を書く必要も無かった。なぜ書いた?訊きたいのはそこだ。
「始まりを大切にしよう。では、彼女との最後をあそこで過ごすと誰が決めたのか。男か、それとも男のことをよく知る彼女か。
後者だと想像する。下手な理由は省こう。また彼女が愛する男と、そこに居る彼女のために最後の時をその島で過ごすと決めた、とまで思いもしない。男が彼女に何も話していないことが考えられる。したがって、似たような境遇の人たちと同じ選択をした可能性は高いだろう。でも、彼女の選択は「そういうこと」を導くということを男がよく知っていたはずだ。現に男はそうして救われた。出会って半年後のことだった。彼女がそう言っていた。彼女に向かって、彼女がそう言っていたのだ。大切な人はいないのか、という話題が「そういうこと」を引き寄せる。人柄、というよりはそういう人なのだろう。半ば自覚的、半ば本能的に行う関係という名の磁力。あの笑顔はそういうものだ。
別れを済ませた、という気は男にないかもしれない。もとより、彼女との別れを済ませるまでその古屋に留まることにしていた。それが済んだ。ただそれだけだ。
確かにそうだろう。たった一言、男は名前でなく、関係性で呼びかけた。それだけで断たれていたものが一気に進むほど簡単な関係じゃない。元に戻る、そう言える関係が男と彼女の間にはない。だから二人は繋がれた。彼女が最後を迎えるまで、彼女と男と、あの子の時間をあの島で新たな時間として過ごせた。」
『社会』という各自の脳で扱える情報を解きほぐせば、『関係』という最小単位がきっと残る。その『関係』をどう考えるかは各自の自由で、人はその『関係』という情報のフリクションを擦り合わせる必要がある。その作業を行うにあたり、ときに支障となるのが「人」が内心で抱く感情である。その「人」も世界を知るための身体の一部である脳の中の現象であり、彼女はその身体が朽ちる歩みを丸ごと止めた。
長い刻により網の目が小さくなれば、物事に対する感動が薄れる、のか。では、その網の目を大きくして取りこぼしてしまうものが増えれば人は様々な色味が差す、豊かな幸せを感じられるのか。そのために、人には終わりが必要なのか。
男に問えば、答えは返って来るだろう。
「男は既に知っているようだった。そうでなければ、あんな風に彼女のことを呼べない。あんな風に、彼女のことを思いやることなど出来やしない。終わりを迎えても不思議でない時間を男は生きた。そして今も生きている。」
「その目で見てもいないくせに、なぜそう言える?」
意地悪く、こう問う者に対する答えは簡単だ。そう思うように創られた手によって見る側に与えられた自由だから、だ。だからこちらも否定しない。
この自由を謳歌する一人として、「そんなふうに思う」ことを否定したりしない。
男は直して動かした。
だから寂しさは、埋めるものではないのだろう。糊代のように残しておくべきものなのだ。
男がそう言ったのではない。また、船で離岸した後、男がどうなったのかを消極的に知っている彼女が言ったことでもない。
男が居ない島の内側で彼女を囲む愛に対して、彼女は神話を語った。古臭い、と純粋な言葉で言われてしまった神話だ。選んで欲しくない、とハルの声して真摯に願われたことに真正面から反発する神話だ。その神話を選んだという彼女が抱きしめ、彼女に抱きしめられる姿には異なる個体として生まれ持った寂しさが埋まっている。そこに流れる血潮をかき消す波の音が、どこまでも広がっている。温かさはそうしてしか知れない。そういう人を容易く不幸とは言えない。
「私も人だ。」
逆説的にそう指摘できないか。そう投げかける、目の前に立つ、自転を終えた光を背負うために逆光が塗り潰された顔の見えない男が握る、力強い、そして痛みを知る少年としての殴り飛ばさない抑制を確かに存在させて、きっと男は何も言わない。何も言わない。あの手のように、これほど雄弁な肯定と続きを促す言葉はない。
海原を行く男は主役だった。もう一人の彼女のことだった。
彼女が付けたものなのか、いや彼女の選択からしてあり得ないと考える。しかし、呼ばれた名前を構成する音色は耳に心地よく、なかなか離れない。命を与えられた存在の括りに天上から降り注ぎ、染み渡るように消えていった波紋はリヒトという音の縁にぶつかって、また戻って来る。
彼女は共鳴したのか。いや分からない。彼女の選択の重みを知れる程に私たちは生きていない。
死につつある、と書いても同じことだ。表も裏も兼ね備えた私たち人の身体は巡る自然の側に属している。それに対する顔つきを選ぶ、私たちの決意が問われている。
海原