映写
劇場の中でそのストーリーの中にどっぷりと浸かれる幸せな映画の時間は、本当にその話の登場人物であったならば決して見ることができない観客だけに与えられたカメラ位置によって生み出され、エンターテイメントとしての現実感を帯びる。例えばアクション一つとっても、第三者としてその全てを観ることができる視点だからこそ人間離れした見事さを味わえる。一方で、徹底して登場人物の目線だけで撮られたアクションシーンでは手足だけが激しく動いてバタバタと目の前の敵を倒しはするが、倒す側のアクションはいまいち伝わって来ない。身体全体の連綿とした運動を登場人物の目線が捉えられない。だから迫力がどこか欠ける。前者のアクションの見せ方を主と置いた場合に、一味違う場面の演出として後者の撮影方法が有用であるとは思う。けれど、撮影方法の本流となるだけの勢いが映像として伝わってくるとは、やはり言い難い。
そういう意味で、ストーリーを生きる登場人物が存在を感知しないカメラ位置は、監督を始めとする撮影スタッフの方々がその技術と感覚を駆使して産んだフィクションの源泉である。刺激も興奮も、涙も笑いも、観客としてその源に飛び込めるから「ホンモノ」としての向こうが現れる。また、その視点はそこに立っているという感覚を上映中に感じさせない。そのことにも言及すべきと考える。フィクションな要素を排除することがフィクションに最も必要という逆説めいた演出の妙がそこにあるようで、映画世界の面白さを感じる。嘘をつくことはこんなにも難しく、素晴らしい。良い作品に出会うたびに感じる満足感の下地には、そういう「嘘」が詰まっている。劇場のスクリーンはそこを素敵に隠している。限られた時を楽しく進めている。それこそが皆に愛されるエンターテイメントなのだろう。
では、そういうところを全部隠さない、むしろガタガタと揺さぶり表していく。そういう映像作品は果たして芸術性を感じる表現になるのだろうか。
映像表現における芸術的表現を追求し、作家性という評価軸を映画というジャンルに刻んだ『ヌーベルバーグ』の作品には、触れたといえる程度しか観ていない。うち一本は『勝手にしやがれ』で、もう一本は(申し訳ないことに)タイトルが思い出せない。ストーリーでタイトルを検索しようと思い、話の筋を思い出そうとしたが、そのストーリーも曖昧で確か少年と老人の交流を描いた、船が出てくる話というぼんやりとした概略だけしか出て来ず、タイトル不明のままにしておくのが妥当と考えて記すことにした。楽しかったか、そうでなかったかという感想も希薄で、弦楽器を鳴らすように水平に前髪を切っていく場面や、まるで舞台を観ているように登場人物を捉え続けた固定のカメラ位置の強い印象しか蘇って来ない。場面、場面の繋がりもぎこちなく、台詞も登場人物の内心の表現というより「台詞」という音が背景の舞台装置と等価の構成要素となっている感覚が強く残り、劇中の世界を半透明にする嘘臭さが皮肉めいて見える。
俳優陣についても「構成する」容姿、声色、手足の長さ、その動きと各部分をバラバラにして目で追ってしまう。言い回しが強くなってしまうが、私は何を観たんだろうという白々しさが記憶の背景を彩っている。冷えたコップを片付けている私の疑問と不完全燃焼が、記憶の底に沈澱している。
だから、サンプルもろくに取っていない、個人的な趣味趣向に基づく偏向的な意見として『ヌーベルバーグ』が苦手だと私は言う。エンターテイメントとして観たい映画として、私は『ヌーベルバーグ』が苦手である。
ただ、芸術作品として見ればまた違う側面が『ヌーベルバーグ』にはあると考える。映画としてのフィクション性を曝け出し、映像作品としてのぐらつき方を意図的に見せる『ヌーベルバーグ』の狙いは時間表現としての映画作品という形式を用いつつ、劇場という場所を利用した空間芸術としての問いである、という見方である。
観客を映画作品に導く乗り物の役目を、映画のストーリーが果たしてくれる。『ヌーベルバーグ』の作品はこのストーリー性を軽くし、観客を置いていくことを第一としている、と私には見える。これは何なんだろう、と作品を前に思考するという楽しみ方を美術館では楽しめるだろうが、さて『ここ』ではどうだろう。映画を楽しみたい私には非常に困る問いになる。なぜなら、私はここで楽しみたい。スクリーンで作品が上映される映画館という劇場で、私はエンターテイメントを味わいたいのである。美術鑑賞が好きなくせに、『そこ』では芸術を私は拒むのである。
だから私は『ヌーベルバーグ』を空間芸術とみなす。あれほど考えて、それなりに考えを言葉にできたと思っていた氏の表現が姿を現して、私をまたあの門の前に立たせるイメージに巻き込まれる。あのレディメイドが表現として成り立つ問いの射程は本当に長い。場所を巡る哲学的思索の道があちらこちらに繋がっていて、出口が見い出せない。哲学とはそういうものなどとの嘯く半可通な私がはあ、と溜め息をひとつ盛大に漏らして、果てしない表現の大地に寝転ぶのである。
いや、抵抗は試みよう。蜂のひと刺し程度にしかならなくとも。
映画の中で描かれた場面に詩的表現という言葉を掛けられる、いや誰に何を言われようと私がそう表現したいと思える作品は、と思い出すと一番に浮かぶのは『蜜蜂と遠雷』、あとは『ペタルダンス』かな、と思う。
後者は即興的な撮影方法の合間に入り込む言い足りなさとして生まれる余白が、前者は光や砂浜、表舞台とその裏、言葉と葛藤、そして運動という演奏方法が生む動きと音が率直に差し出されて残していく余韻が、考えたくなる余剰を生んでいる。錯覚する。
エンターテイメントの中の表現を、やっぱり芸術として表現したくない私の抵抗感は強く残る。ストーリーの内側に私はどっぷりと浸かっていたい。そうした満足感の底に、指の腹に触れる忘れられないメッセージと組み合わさった一場面があればいい。それを後から取り出して、鑑賞できればそれで良い。飾って、観直して、更新して、記憶の箱を取り出せればいい。
そういう意味で、私は『Arc』の公開を楽しみにしている。彼女の演技で動いていく、重みのある、果てしない歩みと時間のエンターテイメントを。
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