品詞



 植物は好きだ、と記しても私の気持ちは前に進まない。言葉が上手に運んでくれない。
 知識が乏しいのは確かといえる。勉強しようと思ったこともしょっちゅうだ。実行しなかったのは、それが問題の解決にならないと直観したから。植物の描写に揺れ動かない、私の言葉に動かない、書いた表現を読んでいる私の心の方を見つめた方がいいと判断したから。
 形容詞にその力を借りると、綺麗、という形容詞を用いるのに必要だなと思うのは自然な呼吸、ああ、これじゃダメ、まだ書かれたものがでしゃばってる。もっと私に引きつけて、もっと分かりやすくいうと、そうだな、納得感、だ。何で私はこう表現したのかなんて疑問を抱く瞬間すらなかったって、書いてから気付く、誇らしげに笑む、ああそんなことかって心で思って気に留めない、そんなぴったり感。
 本にだったら、いくらでもそう思える。本に書かれた物語や詩、短歌に俳句、エッセイに学問的知識。それに本の装丁、表紙、背表紙、重み、手触り、色味に匂い。いや、匂いは言い過ぎか。あれ、いや、ううん。ああ、うん。あれ?うーん、まあ、いいや。兎に角色々。書けるんだって、言える自信がある。あると思う。
 植物はそうじゃない。それが私の本題。
 植物は好きだ。それは本当だって書ける。ただ、それは植物そのものが好き、というのではなくて、植物が他のものに関係している姿が好きなんだ、うん。そう思う。枝葉が風に揺れていたり、注がれる光を地表にこぼれ落としたり、休んだ鳥の鳴き声を響かせていたり、雨上がりの景色を見上げた人の顔に向けて、かつて雨だった冷たさを滴らせたり、最寄りの駅から美術館に続く歩道を畝らせる、人工的で、だから複雑な力強さを感じさせたりして、観ている私と関係している植物が好き。植物の姿かたちによって生まれるその関わり方に私のイメージが刺激される。つまりは、うん結局は、私の内側のことになってしまう事柄だけど、それでも見ていた植物を介して記すことで私自身が気付ける。それぞれが好き勝手に過ごした場面なのに、離れ難く触れ合っているあの連綿さが私を押し進める。この後押しをリズムよく表したい。偽るところのない、私の本心だ。
 でも、それは植物自体の記述じゃない。見た目だけじゃない、生態の観察や環境に与える影響、生存に向けたメカニズム、私とは別の命ある存在であることを正しく、温かく伝える文章じゃない。
 対象を見つめていないことに疾しさを抱いても、それはやっぱり私個人の感情でしかない。人である私は、人であることでしか関われないのだから、もう覚悟は決めている。人であることを限りなく薄めるのでなく、人としてできる限り、より良く関わっていきたい。他人でも、ものでも、世界でも。植物について書いてみたいと思う私はとても自分勝手に悩んでいる。それで良いのだと思う。言葉の上でも手痛いしっぺ返しを受けられるなら、私はまた歩める。植物のことを知ろうとすることで、私はまたそこに近付ける。
 だから、知識はその助けになるはず、なのに引っ掛かりを感じる私の側には何があるんだろう。怠け心?勿論、無いとは言わない。でもこう書いてみて、私は納得しない。興味?あると思う。こうして書いているぐらいなのだから。じゃあ、熱意?その字面に反して人を突き動かす熱心さは淡々としていて、尽きないものって考えている。飽き性な私は、かつて興味や熱意を抱いたものを片っ端から忘れる。何かあった痕跡だけが残っている。植物は、今もこうして見ているし、書いてみたいと思っている。だから、低温な私の熱意は消えていない。だから、熱意じゃない。
 熱意じゃない。そうだ、熱意だ。熱意が消えてほしく無い私は、熱意が消えることを恐れている。詳しく知ってしまうことで、熱意が私の体温になってしまうことで知ってしまう、可能になってしまう私と植物との機械的な接触を面白がれない予感を私は恐れている。そういう子供じみたロマンチックにしがみついている。そういうこと、と書いて落ち着く私に気付いた。
 知ることは好きだ。知りたいことは率先して知ろうとするし、大抵の場合、知った後でも対象に対する熱意は消えない。じゃあ、なぜ植物だけ?なぜ植物にだけあんな、変な恐れを抱くのか。
 梨木香歩さんの自然描写がとても好きだ。知識に偏るわけでなく、また主観的は判断や感情を加えるわけでもない。ご本人が少し思うこととともに在り続ける自戒のような規律と、いまも憧れ続ける眼差しを書かれた文章のあちこちに仄かに感じるからだ。
 憧れが邪魔をする?確かに私は梨木さんの文章に憧れる。でも、真似たいわけじゃないし、真似しようとしてもできない自信がある。そうじゃなくて、私は植物を形容したい。その有り様にぴったりと私という人の手を当ててみたいのだ。
 なら、形容詞。八つ当たりで形容詞。
 綺麗、と書いても嘘っぽく思える。華やか、と書いても空々しく感じる。よく聞く言葉で表現することを厭う私の天邪鬼がケラケラ笑いながらそういう言葉を蹴散らしてはしゃぎ回る。
 はしゃぎ回る。そういう比喩。
 だから比喩。比喩は、書きたい対象をぐるぐると回して、その存在感から巻き取れた世界の余剰を言葉で固めて表す。そういう贅沢なものというイメージが私の中にある。このイメージのせいで、村上春樹さんの『スプートニクの恋人』が読みにくくなった。あんなに大好きな一冊だったのに、消化不良になってしまって頁を閉じてしまう。濃い味噌ラーメンみたいに恋しくなって、読んでしまう付き合い方を歳月とともにしている。村上さんが音楽について書かれる文章にある比喩には全く感じないあの重さは、物語という形式にあるフィクションの要素が関係しているのか、と興味を抱いている。けど、これはこの詩の本題じゃない。
 植物についてが、私の本題。
 客観的に書いてみる努力をすると、まず私は植物に対してあてがうことができる形容詞が少ないと思う。知っているかどうかでなく、私の言葉として堂々と書けるかどうかという意味の形容詞が少ない。だから、すぐに比喩に頼る。比喩に頼るから、書きたい植物に余計なものが加わって夢みたいになる。ロマンチックに感じている。一方で、それを振り払う必要性を感じている。感じているけど、これを振り払えばそこにあるのは乏しい私と形容詞たち。私が私として関われない植物の姿かたち。ただの知識。私が関わりたい植物に出会えない。ああ、またこうして入り込む。この表現に命を与えるもの。比喩という運動。
 短歌の才能はない、と私はきちんと自覚している。植物に向ける形容詞と一緒で、短歌の形式に潜む広大な世界に投げ込める表現が私には乏しい。無理矢理考えてしまう。リズムだよりの、舌足らずになってしまう。だから、短歌を読むのが好きだ。私にできないことが読める喜びを、私は楽しんでいる。
 凸凹だけど噛み合っている。最近のテーマかもしれない。私の中の、植物とも関係しているかもしれない言及。
 要するに、私は植物に対する形容が苦手だ。読むのが、ではなくて自分で書くのがとても苦手だ、という意味で、私は植物を形容できない。詩的に生かす、と開き直って格好付けてもいい。
 植物は、私にとって「植物」だ。意味ありげでも、何でもいい。
 私にとって形容詞は、比喩よりも寄り添うものだ。私が感じたと思うことを対象に伝える。そういう直接的な手段だ。私の熱が向こうに伝わるのでも、植物にある熱がこちらに伝わるのでもどちらでもいい。確率論に腰掛けて、私は植物を形容したい。長い歳月の果てにどちらが先に尽きようとも、言葉にしたものはこうして残ると信じるから。
 これも、比喩だと判じるか。
 いいや、首を振る私を形容して「古くさい」と記してみたい。

品詞

品詞

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-02

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