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 本当にバラバラにしても本の面白さは分からない。だから、頭の中で分解してみる。
 と見つけてしまうのは「音」。本を読むという行為について話そうとするにも関わらず目には見えない空気の振動。
 なぜなのか。「頭の中の、あの一冊」とアブラカタブラみたいに唱えてしまえば、「私の頭の中で動き出している」と記す言葉の各文字の表記と発音の違いの間で生じたリズムが神経回路の「私」を刺激して、音に興味を持たせるからだと思う。そうして「興味を持たせる」と記した私の言葉を、そう思った私が主体としてきちんと引き受ければ、
「私は音に興味を持った。」
 と過去を語ることになり、意思を持った声帯の響きを事実だといまの「私」が実感する。と、ただの言葉遊びの様相を呈してきた。当初の目的、話したいことを話すために、私は私の言葉を続けて、綴る。
 本を選ぶとき、私はリズムで選んでいると思う。小説では特に。表紙を捲って冒頭から読み始め、その滑り出しが心地良いと感じたら「仮に」購入決定。そこに書かれている内容(出来事でも、心理描写でも)が奇妙な響きを持っていたら「ほぼ」購入決定。あとは気の向くままに立ち読みなどをして、その日の予算とご相談の上、最も買いたい一冊(といいながらときに数冊)を購入して本屋を後にする。
「あの続きはどうなるんだろう、前の物語に感じられたあの気持ち良さを、この物語からも感じられるだろうか、それとももっと又はまた違った読後感に浸れるんだろうか、そういや前の、さらに前の物語はこうだったな、読み終えたとき、あの部分は納得しなかったけど、いま思い返すと、あれはあれでいいんだよなぁ、違っちゃ駄目なんだよなぁと思える、だって」
 ああだから、こうだから、と思いながら歩道を歩くことが楽しい。手を動かす度にかさかさと鳴る、袋の中の適度な重みとセットになった好きな趣味の記憶である。この記憶がなにものにも代え難いから、電子書籍とはまた別に、私は物としての『本』を買いに行く。
 と、見事に脱線。本の中にある「音」の話をしたいのだった。
 ラップを例にとれば、母音と子音の連なりをフレーズとして振るい、対面の相手や人の世の不条理を粘着なく、乗れるリズムな音楽として切り刻む格好良さ(をクールと評すると理解している)は、言葉による表現行為なら、どれにでも見て取れる一面だと思う。短歌を嗜むお嬢様がラップに挑む『Change!』は、その辺りをとても面白く描いている。
「表面的な罵り合いから窺えるそれぞれの主義主張は、それを見る者、聞く者の共感を呼ぶ言葉な『音』として代弁される。そこに加えて、用いる言葉がその内に宿す意味の対比の華麗さが果たす役割を忘れてはいけないだろう。ステージの上で、二項対立から始まる世界の割れ方が言葉の強さをクリアに見せつける。外部から刺激された頭の中で、スポットライトを展開させる。」
 本を読むときも同じ、目を覚ます程に刺激的な言葉の味は文字を追う読者自身の「声」によって与えられる、と思っている。
 さらに小説の場合、このリズムが物語のうねりとなって押し寄せるところがまた面白い。平易な言葉で書かれていて、場面描写が日常的で、そこに表れる心理描写が人間臭くない、そんなドラマチックに無縁な一文、一文も気持ち良く乗れる波のようなリズムがあると、その物語の内部にどんどんと「巻き込まれていく」。ノリに乗ってそのまま読み進めていくうちに、リズムの波から波へと乗り移るときの一拍の合間に聞こえてくる、比喩の生温かい呼吸が癖になる。そうしてたどり着いた最後が答えのないオープンエンドであっても、振り返ると続いている旅路の先、と記すのは流石に打ち込む「文字の勢い」に過ぎるとしても、乗せられたのか、乗ったのか分からない果てに迎えた物語の終わりが洗い立ての洗濯物のようなさっぱりとした読後感として感じられて、「とても悪くない」。
 テーマに真正面から取り組んだ小説も良い。そう思っている。けれど、また読み返そうと思い易いのはテーマ性が薄い(言い換えれば、多様な)小説の方と私個人が思う理由には読書に対する次のイメージがある。つまり、読書は行間を含めて多様な意味が漂うテキストに対して自らが歯車のように回り込み、その内部から、そのときの「私」で巻き込める「意味のあるもの」を見つける楽しみを味わう体験型の娯楽の一つである。だから、歯車である自身が変化すれば、同じテキストから見つけられる意味内容もまた変わる。
 読書をこのようにイメージするから、そのイメージが固着し易い私個人の変化の遅さと合わさって、テーマが打ち立てられた小説から二度、三度と別の意味を見出そうと思うことがどうしても少なくなってしまう(最初の読みに「とても満足してしまう」)。と、いま書いてみて気付いたことは、テーマ性が薄い小説に私はある意味で満足していないのかもしれない。独断と偏見をフル活用しても「読み切った」と胸を張って言えない、と思わせる蒟蒻めいた「相手」の手応えの無さ、ある種の得体の知れなさが気になって仕方ない。そういうことなのかも知れない。
 そういうことなのかも知れない。
「この一文を声にして頭の中に浮かべてみれば直に感じる宙ぶらりんな状態は、全体的な物語、読点で終わるバラバラな個々の一文のうねりに合わせてリズムを刻む。振り子のように揺れる。その状態が脳という身体に残される記憶に施された書き手の魔術であり、健康的な中毒性を読み手にもたらす。」
 続けて、推敲する他人になり切ろうとしてなり切れず、ふらふらと最後に語れる「思い」を探して手に取る小説や評論、手放す気はない短歌集の中にあればいいなと思い、目を動かし、内なる喉を動かし、耳にも届かせ、本を読む私。
 何を感じているのか。
「思い付くままにつらつらと綴っていくと、文章を構成する各文から認められる「声」の主に抱く好ましさ。この好ましさとは?と掘り下げれば「声」の主の内側から持ち込まれ、テキストの中の文字となって発散されつつある気持ちと体温。ざらつきを残す思考の痕。どんな痕?外に屈しない内心の圧又は外形を失わせかねない内圧を調整する弁にかけた、その手の動きのような、絞りをかける肝を知っているような。手段としてのユーモア、内容に必要なだけの知識、伝えたいだけの結末、それらを徹底的に貫いた姿勢、あるいは」。
 これらのことを、実感を込めて纏められる言葉は「声の主」が「語り部」として「しっかりしている」辺りになるか、とひとまず結論しようと思う。
 何せ、ここからまた浮かぶ疑問がまだまだある。個人的な趣味の話だからこそ、簡単に片付けるのが勿体ない。何故勿体無いと思うか、とここでもまた知りたがりの疑問符が言葉を借りて、意思を持つかのように「暴れ出す」。知らないこと、知り得ないことの豊穣さを忘れてはいけない、と言い聞かせる。古い呪い。くわばら、くわばら。
 自戒の意味を込めて「音」にする。
「行間を含めて多様な意味が漂うテキスト」
 と、そこに浮かぶ地の文と会話たち。意味に限られるからこそ、また意味同士がそれぞれの意味を説明し合えるからこそ、無限に広がる言葉の海の底。足の先から沈めていく慎重さとは無関係に広がる、この世の空。
 その間にある私個人のものとして、好きなもので埋めてしまおう、鍋に蓋するごった煮のように。そう決めたなら、適度な味付けをするために必要な知識を得るための時間は有り難い。胡麻に油と必要な調味料の背後に広がるヒストリーを語る一冊にまでは手が届かないけれども、「料理」について美味しく話してくれる「声」には出会う。
 例えば、香ばしい匂いに鼻とお腹を鳴らして、パスタと飲み込むビールが冷たい。あるいは、雪を愛する珊瑚が作った、あの総菜を咀嚼したり。そういう幸せな、触れられる出会いたち。

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-28

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