心残る
一
淡く、美しく、輝いている。
印象派、と聞くと頭に浮かんでいた筆者の中のイメージは、展示などの有り難い機会を得て、その名画を実際に目にすることが出来た後でも変わらない。ひとつ触れれば全体が見る間に崩れ落ちる砂のように、モネの作品に込められた光と色彩の均衡は勿論、冷めた触感を伝えてくる陶器のような「もの」らしさを備えつつ、滑らかに反射する美しさの現実に従い硬く教えてくるマネの作品にも、落下による喪失を予感させる儚さが対象に備わっているのを感じる。
宝石の煌めきに似て、一見して分かる良さは鑑賞する側に強いインパクトを残す。描かれた花が綺麗だった、という感想は抵抗なく受け入れられる印象であるからこそ、好評価の箱の中で活力をもたらす思い出になる。
第一印象という認識は、絵画においても侮れない。
二
見たままの外光を損ねることなく、風景とともに写実に描く印象派が「印象」派と名付けられた由来は、画面上の素早い筆触がそれまでに築かれてきた絵画の伝統としての決まり事を疎かにし、「画家が見た印象をそのまま描いている」という鑑賞する側が抱いた印象を揶揄したことによる。
しかしながら、その揶揄は専門的知識を持たない一般の鑑賞者が印象派と括られる各作品を見たときに抱いた感動を的確に表現していた。そのため、揶揄した側の意図に関わりなく、印象派という名称は市民権を得て、今もなお評価される絵画表現の一つとして機能している。
かかる印象派という評価に国境は関係ない。したがって、印象派の画家として南薫造氏は評価される。
不勉強な筆者は南薫造氏のことを知らずにその最終日、松濤美術館で開催されていた『南薫造 日々の美しきもの』を見に行った。
事前知識がないままに行う以上、その絵画鑑賞は自身の趣味趣向で心の赴くままに目の前の作品と向き合うことになる。要らぬ格好を付ければ、自分の内にどれだけの評価基準が出来上がっているのかを試す場だと記すこともできるだろう、がただの言い訳でしかないと十分に自覚する。知識があってこそ見えるものがあると考えるからであり、また実際に知識に助けられた経験が少なくない。
ただ、かかる格好付けの薄い衣が対外的な風に捲れて、たちまち不勉強な裸身を露わにしようとも、胸を張って言えるのは何も知らないまま行う鑑賞がもたらす感動は、知識の編み目が受け止めてくれるクッションがない分だけ、何者にも代え難い衝撃的な経験にもなるという点である。
展示された作品の中に、おかっぱの『少女』が描かれた水彩画があった。松濤美術館のホームページに載せられていて、後述する油絵の『西洋女性』とともに拝見し、筆者が足を向けようと決めた理由になった一枚である。
着物の上から前掛けのようなものを身に付けた少女は、ふっくらとした頬を見せながらうたた寝のときを過ごしているように見える。俯く顔にかかった陰影があり、光源が不明な明かりが少女の頭上に当たっていると分かる。光と影のコントラストは黒髪、赤味差す肌の色、前掛けのような衣服の白、差し色豊かな着物に、また少女の顔とは別に塗られた背景を彩るベージュにも表れている。
このコントラストを追いかけると絵の中にある、光と影の対照があらゆるものに逆説的に働いていると感じる。明確に描かれなかった分だけ潤沢に降り注ぐ光量を想像し、明暗を分ける自然な方向に誘われた少女の髪型や衣服といった物、また無形の背景や色といった絵を形作るものがそれぞれの言い分をもって、基調となる優しさに包まれた少女の存在を浮かび上がらせる。それが、手に届きそうな程に近く感じる。神聖化されない、生々しい人の体温が水彩に滲んでマイルドに和らぎ、鑑賞の目に触れてくる。
また、東京ステーションギャラリーにおいて開催中の『没後70年 南薫造』展の冒頭で目にすることができる、建物としての美術学校を描いた作品は主役である建物に当たる日光によって地面に落ちた影がある。どこか古びた美術学校と相まって、影という一般性なイメージが有する暗い印象が感じられてもおかしくないところを、ここでも逆説的に存在するその日の輝きがその日の暖かさを感じさせるのに一役買い、木陰の形と手を組んで、建物が纏った描かれない人々の気配を伝えてくる。
書かれた文字で書かれていないことを感じさせ、イメージを直に伝えるのが詩の本領、と筆者は考えている。
いま挙げた二作品は、だから詩に似ていると個人的に感じた。本当に描きたいものを描くために絵の中で描かれたものは、鑑賞者のイマジネーションを介するからこそ、より豊かに、そしてより生き生きと膨らむ。対偶を利用したと筆者が思った氏の描き方は、技法とはまた別の、画家が選ぶ表現方法として見る側に強い印象を残している。
一方で、フォービズムを思わせる色使いで描かれた油彩の作品の中に南薫造氏が描いた『おかっぱの娘』、そして『セーラー服』の少女があった。この二枚は筆触が大きい分、近付けば迫力すら感じる大胆な塗りが目立つ。彫刻刀で彫ったような角が所々にあり、詳細を敢えて気にしない氏の意図が見え隠れする。素人である筆者はそれを上手く読み取れない。だから、絵に対して距離を取った。そうして現れたモデルたちは現実の詳細なあり方を省かれ、人の形象の塊となって現れた。
単純な図形の組み合わせに全体的な意味を見出す人の心理が説かれるときとは違う、温かな試みに擽られる快感は色の荒々しさと無縁でない。力強く、そして必要かつ最小の要素で固められた描き手の心象は、誰にでも分かる言葉使いで物事の核を把握している。あの金子みすゞさんのこだまのように、目が覚める表現に出会えた驚きと喜びが両立する。
印象派の由来にあったかつての批評家の意図は、「何を描くか」にすべて注がれている氏の技術によってどこまでも昇華されている。
東京ステーションギャラリーの展示で見られる『六月の日』には点描画の技法も用いられ、写実画に近い描写であるにも関わらずに少年に重ねる心が強く呼び起こされ、作業の合間に注がれる水の冷たさと疲労の塩梅に照らされる一日を体感する。
静物画である『りんご』、または松濤美術館の展示で鑑賞できた『無花果』の絵に施された厚塗りは、その技法がもたらす立体的な存在感の表現以上に、周囲のものが宿す色と作り上げる物語が託される。
『無花果』を例にとれば、十は超える果実を収める器の側面に描かれた葉の青の印象と器の中に敷かれた布の眩しい白さは、無花果の深い紅に残る緑黄と呼応し、器から溢れた二個の無花果の存在を転がして、無花果が成っていた果樹を思い起こさせる。地上に根を張り、日差しを求めて地表に芽を出して始まった果樹の一生が、未来に向けて残した実。人の手に取られ、それを口にして人の命が繋がる。その間に流れる生命のやり取りは不可逆である。有り難く、または罪深く、と人の思いは瞬時に混じり、移り変わる。白かったはずのテーブルクロスに薄まった紅を思わせる慕情の色は、こうして布一面に広がる。キュビズムに影響を与えたといわれるセザンヌの作品に代表されるように、静物画は空間配置の妙で良さを伝える絵画表現であると理解しているが、無花果の存在と静物の配置の上に乗せられた南薫造氏の色は、画家の求める風景としての静物が心象としてあったことを示している。
三
人が描いたものに感動を覚えるという事実に装飾できる言葉を仕舞い、その場を去りたくない二本足で立ちながら受けた衝撃。ここまで書いてみても氏の作品に対する筆者の感想は、消化不良の重みを残す。しかし、それが心地良い。
題名どおりにたった一人、画面に描かれた『西洋女性』にある表情は内面に向けて、無言と静寂を並べる。ちらつくような全体の色味が時を経て、鑑賞する側が女性に投げかけられる言葉を慎重に選ばせる。紅の色が美しい。ふっくらとした上着に青のスカートが似合っている。ありきたりな表現しか出てこない、自身に辟易する。
彼女に適した言葉を求めて画面を探れば、同系色の髪に上着、背景を曖昧に分割する薄い水色とスカートの青の緩やかな対比に視線を縫い付けられる。フォーカスし過ぎるのも良くない、と画面全体に意識を移せば、写実の確かな重しを沈めてモデルの姿を描き切った誰かの視線に出会う。画家自身ものだと記すのが妥当である、と考えるのは人物画が描かれる状況を思い浮かべれば当然である。
しかしながら画家の目、と一口に記したところで、その視界がどこまでも個人的になるとは限らない。
詩情がある、と人がいう。詩情を感じた、と人がいう。ならば、人の数だけ正解があるのでないかと考えられる「詩情」という概念は、けれど詩情を語るときの言葉づかいに注目すれば、語り手の個人的な経験や実感を超えて、「誰かに通じる」という共通理解に向けた信頼のベクトルを強く感じる。誰かに語られるときの詩情は、独善的な意識を剥ぎ取る力に支えられている。詩情、という言葉が現れる文章を読んでいるとき、一読者として心に置く素直な感想である。
画家が言葉でなく、その絵筆で対象に感じるものを描いたとき、そこに表れるものが画家の個人的な印象を超えて伝わるものがないとはいえない。それが個々人の違いを超えたところ、意味認識の網の目によって形成される個々の「世界」の琴線に触れる可能性が生まれると想像する。
重ねられた数の分だけ大切に描かれた。野心に尖らない、向上心の幹を上ってそこを目指した。固有名詞の果てにある人のこと、対面したその人を含めたものを描き切った上向き加減を見せる顔、そこにある目が固定する。
詩情と同じくらい、心象という言葉に感じられない実体のことを忘れる瞬間。それを捉えられる機械的なシャッターがない表現にかける時間に尽くす思いは、対象となった彼女と過ごす中で幾度となく変化しただろう。その全てに付けられなかった名前の集積として、『西洋女性』は完成した。
その瞬間に立ち会えなかった鑑賞者としての喜びは、時代を超えてやってくる。主に視覚で得る情報に浮かび上がる絵画の詩情を、筆者はこうして信じる。
四
『すまり星』に『葡萄棚』、『ピアノの前の少女』や『パリの家』と思ったこと、感じたことを言葉にしてみたい南薫造氏の作品たち。
私事に引き寄せて、ひとりの画家のファンになる。
心残る