遠景
土俵際に強く、多彩な技を駆使して相手を投げ倒す力士という擬人化は、利根山光人さんによって形成された私の中の版画作品のイメージである。
各作品に宿る奔放な細部の神はカラフルな衣装で踊り、プリミティブな原初に立ち返る作品では、何食わぬ顔をして言語化の細身な姿を暴く。闘牛を取り扱う作品では、他の色を飲み込む黒色の強さと彫りの勢いを駆使して、うねる血潮を見る者に叩きつける。
技術的な難しさから画面の大きさを絵画のようには求められない版画作品は、描く世界の完成度で勝負する。濃縮された果物ジュースに触れた舌は、その味の存在感で記憶の余白を浸す。気安く近付いて圧倒される予想外な展開は、巧みな版画作品の醍醐味である。こっ酷く振られ、忘れられなくなった対象にこそ「恋」が燃えるというのなら、版画の顔をしたこの感情の根は深い。
吉田博さんの版画作品は、私にとって二度目の版画作品の鑑賞になった。しかも、利根山光人さんの後に見る作品である。各作品の良さがあると思っているし、吉田博さんの展示を見ようと決めたのも、東京都美術館のホームページを見て、その素晴らしい「光」を目にしたいと思ったからである。利根山光人さんの作品と比べてやろうなんて大それた動機は抱いていなかった。と、意識的には言える。しかし何処かで利根山光人さんの作品を目にしたとき程の衝撃はないだろう、と結論付けていなかったとは言えない。否定に否定を重ねてでも、正直に言っておくべき私の最初の本音である。
が、版画作品はいつも私をこっ酷く振ってくれるのである。
吉田博さんの版画作品について述べる前に言及すべきは、自然描写の凄みである。山の地肌や合間の雲の動き、激流と地形が生む水飛沫は再現性の高い技術に乗せられ、ダイレクトな質感を訴えてくる。
また、その景色は実に的確に人の情緒を擽る。人を配した景色になれば、月の中心から放射される輝きに照らされた女性たちの姿が、小高い丘に生きて垂れる桜との共演により、とても色めく具合である。観ている者の視点で描く世界が、観ている者が求めるところに帰着する。出会いにズレがない。
解説によれば、吉田博さんの版画作品はアメリカの市場で売られるのを意識していたという。観る側、買う側の視点に立ち、高い技術で自身の絵を描き切る。作り手が理想とする一つの形を体現していたのが吉田博という画家だった、と感じて止まなかった。これは、吉田博さんが描いた西洋画に対する感想である。この良さは、版画作品にも表れる。
展示を構成する各作品の多くは吉田博さんが実際に足を運び、目にした国内、国外の風景である。その中でも、遠景の作品はその良さが際立つ。映画やアニメーションでいうところのカメラ位置が遠景を描くにも重要であるだろうと思うのは、絵を描くに際して画家が立った場所から見えるもの、見える角度が遠景として描かれる各要素及び構図の全てを決める。そのために、どこから描くが遠景の生命線になるといえるからである。
満ちる水面に波紋を残す風を感じ、かつての大地の動きとして聳え立つ山が動かぬままに地肌を露わにし、植物という衣を纏い、落葉の寂しさを経て、ときに雲が泳ぐ標高に保たれた雪を被って白く佇む。その全てに降り注ぐ太陽光は、その瞬間だけの明暗を決め、これらの関係が見事な版画作品として仕上がっている。
若い頃に絵の鬼と言われた吉田博さんは、訪れた先の異国の風景の中でこれと決めたものがあれば、日が上り、暮れるまでそれを描き続けたというエピソードが紹介されていた。その瞬間を見逃さない集中力と、良いものが訪れるまで待ち続ける根気強さ、その土壌となる描くことへの強い思いが作品を通じて伝わってくる。切れ目のない光景は、届かない憧れとなって見る者の心を温かく揺さぶる。
届かない憧れ、これが吉田博さんの版画作品の本質にあると私は思う。
憧れは、知り得ない、なり得ない対象に抱く感情である。感情としての憧れを抱けば、対象に豊かな余剰が生まれる。この余剰が、憧れの眼差しを向ける側が対象に付加している幻想であると考えても、余剰の豊かさは損なわれない。学ぶ意欲を持つ者が師と仰いだ人物の一挙手一投足から真理に通じる教えを勝手に見出すように、憧れる者は、憧れる対象から心躍る広大な原野を見出し、樹々が伸び伸びと過ごせる上空の下で歩み、走れる意思と力を思い出す。それが無知という脆い足場に支えられていたとしても、「始まり」はそれでいい。対象に向かい、対象を知り、その姿形が明瞭になっていくに連れ、幻想が霧散する結果になった場合でも、憧れという雛形は力を生む源泉となって人の内に残る。雛形にぴたりと触れ又は雛形を超える現実はない、と予め断言できる者はいない。雛形を手がかりに、人は対象を何度でも知ろうとすることができる。見なければ始まらない憧れの、きっかけとして働くパワーである。
当然のことながら、対象と離れて見なければならない遠景は、触れることができない対象として憧れの感情を生む。この憧れの感情を絵にし、彫り進め、ときに九十回を超える色の塗り重ねで完成させる吉田博さんの版画作品は、だから心に残る場面となる。
雷鳥の雛が歩く近景の作品もある。雛たちが小走りで下る地に生え、色を咲かせる花々の可愛らしさが微笑みを誘う版画作品である。文字としても紹介されていた好ましさ、その身近さが良いと感じた。ただ、穿った見方かもしれないが、その地面のっぺりとした描かれた方に着目すれば、近過ぎる憧れに浮いているように見えた雛鳥たちの、止まらない無邪気さにハラハラしてしまった。
また、吹雪く山を登る登山者たちの姿を描いた版画作品では、踏破すべき道としての山をぼやけさせ、薄く消していく風力がその存在をとてつもないものに高めて見せていた。辿り着くべきその遠さは、動く登山者たちこそ身近に感じられることだろうと思えた。
このように、信仰の対象にもなる山岳を遠景として描く吉田博さんの版画作品である。信仰が内包する崇拝や畏敬の念、その神と自身との間にある絶対的な隔たり、憧れがないと言い切れない関係、そのために、日常の場面で降り立つ神秘性に人の心は惹かれる。
訪れた先のインドを描いた作品がある。部屋の中、中心にいる男性が膝を立て、一心に見つめ続けている姿が側面から描かれる。それは信仰の一環としての行為だと感じる。その対象は描かれていない。代わりに、というよりはそれ以上に男性から見て左側、絵の奥の窓枠及びそこから室内に入り込む光がこの世の輪郭を滲ませ、道行く人々の着衣の色味を取り込み、絵の手前、黙考する暗がりと拮抗して定着する。そして場面が静止する。見えない存在、語りかける存在、そこに立ち会う第三者の憧れが昇華され、何者かになったその印象が決して忘れられない。
その光景が本当に目の前にあったかは分からない。後から振り返れば、訝しむ気持ちも生まれる。しかし、その第一印象が恐ろしい程に拭えない。神秘の二字を撤回できない。そんなことをしたくないと叫ぶ、私の感情を裏切れない。
良い作品が並ぶ中で数度、同じ体験をしてしまう版画作品が吉田博さんの展示にはある。似た構図、似た景色に慣れてしまい、足早に過ぎてしまう点は否定し難いが、その良さに翳りがないことを考えれば、その作風は吉田博さんが手にし、最後まで失わなかった確信を示す。晩年に描いた作品の日常の奥、人が出入りするために作られた家屋の一部から覗く景色はあった。その憧れは、やはり光を伴っている。私が憧れた、吉田博さんの輝きである。
微笑むダイアナ妃の写真。飾られる版画作品が渡った旅路の一つ。現場主義と言われる吉田博さんの歩みを追える、充実した内容であった。
遠景